真新しい靴がステップ
夢月七海
第一部 とある春の日のこと
駄菓子屋のハト商店でコーラを買いに行こうと、家を出た。僕の家、
左の方は、北口のゲートだ。僕の家はことよ商店街の一番北の端にある。ハト商店は南側ゲート近くにあって商店街の大半を横断することになるけれど、僕はここを歩くのが好きだった。
その僕の家のすぐ隣り、何の建物もない狭い広場に、誰かがいるのが見えて、思わず足を止める。丸い台座の上に、僕と同じ十歳の女の子が座っていた。
その子は、時計屋の斜め前の
「何してるの?」
僕の声を聞いて、由々菜がこちらを見る。黒というよりも紺色に近い瞳は彼女のものなのに、なぜか、一瞬全然知らない人のように感じてしまった。
だけど、次に見せた笑顔は由々菜のもので、僕はすごくほっとする。
「お父さんが、靴を作っているの。ほら」
由々菜が、真正面に建つ自分の家を指さす。ガラスの窓の内側で、由裕菜のお父さんがほとんど完成した焦げ茶色の靴に紐を通していた。
常深靴屋は、色んなブランドの靴を売っているけれど、それ以上に靴職人の由々菜のお父さんが作る靴をセールスポイントにしていた。だから、お父さんの丁寧な仕事が見えるように、ショーウィンドウの場所に作業場が置かれている。
「あれ、私の靴なんだ」
「へえ。また足が大きくなったんだ」
「いいでしょ。身長はこれからだもん」
十歳の育ち盛りとはいえ、由々菜はよく靴を新調する。靴屋の娘に生まれたからでしょうかねぇと、由々菜のお母さんが井戸端会議で話していた。
僕のからかいに由々菜が頬をぷくっと膨らませていると、窓の内側のお父さんが、満面の笑みでこちらに手を振った。「出来た!」と由々菜が嬉しそうに立ち上がって、自分の家に駆けて込んでいく。
しばらくして、真新しい靴を履いた由々菜が、お父さんと一緒に店から出てきた。履いたままの靴の裏側まで見ようと、足首をあちこちに捻っている。由々菜のお父さんも、自分の仕事の出来栄えに満足そうだ。
焦げ茶色の柔らかそうな生地に、黒くて自由に曲がる靴底、靴紐を通す部分は臙脂色になっていて、靴全体のワンポイントになっている。良い靴だなぁと僕も褒めようとする前に、一歩、二歩と足を踏み出した由々菜は、少しずつ走り出した。
「お父さん! 私、この靴の履き心地、確かめてくる!」
「そうか! いってらっしゃい!」
この商店街は歩行者専用とはいえ、自転車は走っているし、お店の人が運転する軽トラとかも入ってくる。僕は彼女のことが心配になって、「ちょっと待って!」と追いかけ始めた。
振り返ってみると、由々菜のお父さんは、軽く手を振って、自分の店に戻っていった。娘の自由奔放さには慣れているみたいで、流石だなぁと感心してしまう。
四月の初め、春休みもそろそろ終わりの季節は、雪国でも暖かい。アーケードの無いことよ商店街にも、春の日差しがさんさんと降り注いで、クリーム色したブロックの地面も煌いている。
ぴょんぴょんと跳ねている由裕菜の気持ちもわかるなぁと思っていたら、彼女の行く先に、ふらふらで自転車を漕いでいる男の人の背中が見えた。
「ほ、ほら! 補助なしでも、漕げているぞ、俺は!」
「局長! だから、あなたは自転車を乗れなくてもいいんですよ!」
今年度から、あそこの郵便局に配属された新しい局長さんが自転車の練習をしていた。隣で、ベテラン局員の池端さんが、自分よりもずっと若い局長さんを止めようとしている。
最初は由々菜が危ないかも、と思ったけれど、あんなに遅い速度の自転車だったら、大丈夫だろうな。そんな風に眺めていたら、急に由々菜が局長さんの自転車の前に飛び出した。
「おわぁ!」
由々菜に進路を塞がれた局長さんは、変な声を上げながら自転車のブレーキを踏む。だけど、そのままつんのめって、びゅーんと空中に弧を描きながら飛んでいった。
「局長ーー!」と、叫ぶ池端さんの声を背景に、局長さんは、堀寝具店の前に止められた、軽トラの荷台に詰められた布団の上に着地する。運転席から、男性が、「何? 何?」と驚いた様子で出てきた。
あまりの出来事に、啞然とするが、由々菜はずっと進まないスキップみたいなものを踏んでいる。僕は、そんな由々菜のそばへ行って、彼女を注意した。
「ダメだよ、局長さんの前に飛び出したら」
「そうじゃないの。なぜか、靴が勝手に動いちゃって……」
楽しそうなステップを踏んでいるのに、由々菜は本当に困った顔をしていた。僕は、幼馴染なので、彼女が嘘をついていないことが分かった。
「勝手に靴が動くなんて、『赤い靴』みたいだね」
「そんな! 私、何も悪いことしていないのに――」
途中から、声が遠くなっていく。また、由々菜が走り出したからだ。布団の山から下りた局長さんの横を通り過ぎ、商店街の真ん中を横断して、左側へと向かう。
その先にあったのは、△△クリーニングだった。数年前に、別の星から引っ越してきたケ゜トーガャニ゛一家が営んでいる。二階のベランダで、八歳くらいの姉のキュルリャちゃんとまだ一歳くらいの弟のサウぺス君が、一緒に遊んでいる。と思っていたら、サウぺス君のオレンジ色の手が、ベランダのヘリに並んでいたチューリップの植木鉢を落としてしまった。
「あ! 危ない!」
植木鉢の落下地点には、由々菜がいる。——しかし、彼女は逆立ちして、両足を半回転することで、その植木鉢を粉々にした。……由々菜はカポエラを習ってもいないのに。
砕けた植木鉢の欠片は、誰にも当たらなかったけれど、由々菜の後ろにいた男の人の高そうな背広に、土がついてしまった。突然の出来事に、彼は「え?」と戸惑っている。
「大丈夫ですか!」
クリーニング屋から、店主のケ゜トーガャニ゛さんが出てきた。ぽかんとしている背広の人の泥を見て、彼の手を引っ張り出す。
「すみません。こちら、無料で綺麗にいたします」
「あ、でも、急いでいて……」
「いえいえ。私たちの星の技術で、通常よりもずっと早く綺麗に出来ますよ。さ、ささ」
「サウぺス! こっちは重力のかかり具合が違うから、物を落としたらダメでしょ!」
異星人らしいことを言っているケ゜トーガャニ゛さんと上から聞こえるキュルリャちゃんの言葉に戸惑いながらも、彼はクリーニング屋の中に入っていった。
このまま、ステップで進む由々菜は、喫茶店
「わ! 由々菜お姉ちゃん、すごい!」
「お姉ちゃん、サッカー得意なんだね!」
「足って、こんな動き出来るんだ!」
子供たちの歓声を浴びて、由々菜は分かりやすく得意な顔になっている。そして、最後に大きくボールを蹴り上げると、オーバヘッドキックを繰り出した。……結果、喫茶店の向かいにある中華屋さんの華華を乗り越えて、向こう側へ飛んでいった。
「ごめん、ごめんね!」と、謝る由々菜の声が聞こえているのかどうか、子供たちはわあああと、ボールの行く先を追いかけて行った。華華の横の路地を通り過ぎる子供たちを由々菜も追いかけるが、お店の前でぴったりと立ち止まった。
「どうしたの? さすがに疲れた?」
「そういうわけじゃないけれど、ここから動けなくなっちゃった」
申し訳なさそうな顔をしていた由々菜の右足は持ち上がり、右手で足先を掴んで、上半身は地面と水平になるように屈むと、左手はまっすぐ前に伸ばした。名前は分からないけれど、きっとヨガのポーズだ。
「お客さんの邪魔だよ」
「だよね……。後ろから押してくれる?」
華華の内側で、女性のお客さんが心配そうにこちらを窺っているので、僕は彼女が出られるように、由々菜の背中を押した。しかし、びくともしない。もっと力を入れてみても、木を押しているような感覚しなかった。
困ってしまったけれど、多分、由々菜とお店の出入り口の間に少し隙間があるので、大丈夫だろう。僕はそう思って、元々行こうと思っていたハト商店へ、由々菜に断りを入れてから向かった。
ハト商店から、コーラと由々菜の為のスポーツドリンクの缶を持って戻ってくると、まだ彼女はヨガのポーズで止まっていた。大体十分ぐらい経ったと思うけれど、由々菜は疲れた表情一つしていない。
でも、スポーツドリンクを飲んだ方がいいかもと、「由々菜」と声をかけて、それを渡そうとした。こっちを見た由々菜は、さっきまでの静止が嘘みたいに、全力疾走し始めた。
え? と戸惑う僕を通り過ぎて、由々菜は、ホームベースに滑り込んだ野球選手並みのスライディングを見せる。その左足が、
「ああああ、ごめんなさーい!」
「あらあら」「ありゃりゃ」
大きな声で謝りながらも、また大通りの反対側へ走っていってしまう由々菜だが、八百屋の工藤さん夫婦は、そんなことあるよね、くらいの反応で、リンゴを拾っている。
もちろん僕も、八百屋で買い物していたおばさんや近くにいたおじさんも、みんなでリンゴを拾う。工藤さんが、傷物になってしまったからと、リンゴをいくつか袋に入れて、持たせてくれた。
その間、由々菜は、
由々菜に説教しようと思っていた僕も、アップテンポなピアノの音色に調和する足音と華やかな踊りに、目を奪われてしまった。お姉さんが最後の一音を鳴らすと同時に、由々菜もピタッとダンスを辞めてポーズを決める。息ぴったりな二人に、自然と拍手が沸き上がった。
素敵な余韻に浸ることなく、また由々菜は走り出す。真ん中に本棚のモニュメントがある広場へ向かい、そこの自転車にひらりと飛び乗った。
あの自転車、誰のだろうと、心配する僕をよそに、由々菜は軽やかに自転車を漕ぐ。モニュメントの周りをグルグルと、ウィリーをしたり、ペダルの片側だけで漕いだりと、一通りの曲芸をした後に飛び降りて、それを見ていたお巡りさんに自転車を渡していった。
「門林くーん! これって、どういうことかなー?」
「すみません、持ち主、探してくれませんかー?」
由々菜を追いかける僕の背中に、戸惑ったお巡りさんの声が飛んでくるけれど、振り返って、そう言うしかなかった。
今度の由々菜は、体操選手並みのバク天やバク宙をしながら、また通路を横切る。彼女の向かう先には、空き店舗があって、一組の女性が向かい合う形で外に立っていた。一人は不動産屋さんみたいで、バインダーをもう一人に手渡そうとしている。
そのバインダーの上に、由々菜は着地する。バキン、と音がして、バインダーが真っ二つになった。
「うわ! すみません」
「……あ、大丈夫ですよ、本店の方に、予備の契約書がありますから」
スーツ姿の不動産屋さんは、青白い顔をしながらも、僕に微笑んだ。一方、白黒の服を着たお客さんの女性は、バク転しながら通り過ぎていく由々菜をじっと見て、「面白い子ねぇー」とのんびりした声で言っていた。
次に由々菜が着いたのは、魔法の道具が売っている雑貨屋のイモルグの前だった。そこから出てきた十二歳くらいの少年の手を取ると、勝手にワルツを踊りだす。
「ご、ごめんなさい! ごめんなさい!」
なぜか謝りだした少年を、由々菜は軽やかにリードする。泣きそうな顔をの少年をくるくる回した後、何事かと出てきた初老の店主のオサリバンさんへと、彼を引っ張っていく。
目が回っている少年を受け止めて、オサリバンさんは、紙に『大丈夫?』と浮かび上がらせて尋ねていた。一方、由々菜は、「準備中」の札が掛かった猫カフェ・カウダのドアノブを、思いっきり開けた。……靴が勝手に動いているんじゃなかったの?
もちろん、中から猫たちがわっと飛び出してきた。猫たちは自由に好き勝手走り回って、一組の女性が座っているベンチの上にものってくる。彼女たちは頭の上に「?」を浮かべていた。
この騒動を引き起こしたのに、また南口のゲートへと走っていく由々菜。彼女を横目に、僕は猫たちを集めなきゃと焦っていた。と、猫カフェの中から、男性の店長さんが出てきて、あちゃあと笑っている。
「すみません、すぐに集めますので……」
「いいよ。たまには外で遊ばせないとね。あとから、自分で帰ってくるよ」
店長は青い瞳でにこにこしている。本当に大丈夫かなぁと思っている僕の前に、ベンチにいた女性たちが、それぞれ猫を抱えて来てくれた。店長さんは、「ありがとねー、ちょっと飲んでいく?」と、二人をお店に誘っている。
猫たちは好き勝手に、通行人に甘えたり、餌をねだったりしているので、みんなが集めてくれるかもしれない。そう思って、由々菜の方を見ると、大型のホロ付きトラックの一番上に飛び乗って……そこをトランポリンのように弾みをつけると、南口ゲートの鉄骨の間に、突き刺さった。
「何であんなところに⁉」
「段ボールとか、箪笥とか、小さいものから階段上がるみたいに、上って行っちゃって……」
雪ヶ丘肉店のおかみさんが、そう言いながら、心配そうに由々菜を見上げている。さっき、おかみさんが指さした先には、リサイクルショップや家具屋さんが並んでいた。由々菜はその外に並んだ商品を踏んでいってしまったのだろう。
「由々菜、大丈夫なの!」
「あ、
僕が、由々菜のズボンをはいたおしりに向かって叫ぶと、意外と元気そうな声が聞こえてきた。怖がって暴れないことにほっとしつつ、このまま、ゲートからずり落ちてしまうんじゃないかと冷や冷やする。
商店街のみんなも集まって、心配そうに由々菜を見上げていたが、何もできないでいる。由々菜から一番近い珈琲屋・小黒の二階からでも、彼女には届かないだろうし、このまま、はしご車が来るまで待つしかないのだろうか……。
「あの、」
真後ろから、声が聞こえて振り返ると、華華の娘の朋華さんが、黄色と黒のロープを持って立っていた。
「これ、使えませんかね?」
「じゃあ、私が行きますよ」
名乗り出たのは、カウダの店長さんだった。RPGの勇者みたいに猫を引き連れてやってきて、朋華さんが渡したロープを腰に巻き、もう一本は腕に巻いた。そのまま重力がないみたいに、するするとゲートの骨組みを登っていく。
あっという間に、由々菜の上まで来た店長さんは、由々菜と同じように鉄骨に頭を入れて、腕に巻いたロープを由々菜の腰にしっかりと巻きつけた。その真下で、堀寝具店の前にあった布団がたくさん積んだ軽トラが準備していて、由々菜の巻いたロープの先を、商店街の男性陣が掴んでいるのを確認した店長さんは、由々菜の体をそっと、鉄骨の外へ押し出した。
鉄骨を軸にしたロープによって、するすると由々菜は降りていく。時々風が吹いて、彼女の体が揺れる度に、僕の心臓はドキドキしたけれど、肝心の由々菜の方は、「キャーキャー」と叫んでいる……それも、ジェットコースターを楽しんでいるような様子で。
由々菜が布団の上に着地して、商店街のみんなから安心した空気が流れた。僕は由々菜に駆けよって、その手を取り、トラックから降りるのを手伝った。
「怪我はない?」
「うん。平気。あれ? 明のその袋は?」
「八百屋さんのリンゴと、コーラと、って、そんなことしている場合じゃないよ」
もう勝手に靴が動き出さなくなった由々菜は、やっぱりのんびりしている。僕は、気を取り直して、彼女が通り過ぎて行った、商店街の全貌を眺めた。
一つのつむじ風が通り過ぎて言ったかのように、商店街はしっちゃかめっちゃかになっていた。猫たちはあちこち歩き回り、お店の人が箪笥の上を拭き掃除していたり、楽器屋の前のお姉さんはまたピアノを弾いているけれど、お巡りさんはうろうろしながら自転車の持ち主を探している。
「みんなに謝って、片付けの手伝いもしなくちゃ」
「そうだよねー、明も、心配かけてごめんね」
申し訳なさそうに、僕の方を見て、由々菜も言ってくれる。僕は、顔が赤くなるのを感じながらも、「僕のことはいいんだけど」と言い返した。これは本心でもあった。
それを聞いたのか分からないが、由々菜は北口側へと走り出した。また、靴が勝手に動き出したのかと思って、僕はぎょっとするけれど、由々菜は自分の意志で、くるりと振り返った。
「明! こっち!」
真新しい靴でステップを踏みながら、僕に両手を振る由々菜。
僕は苦笑しながら、彼女の方へと駆けだした。
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