Into the Unknown
詩佳
プロローグ「再生」
堅苦しい書き方はあまり慣れていないので、あくまでメモのようなものとして残すにとどめる。
人生観、そんな大層なことを言うつもりは毛頭ない。語るに及ばない。ただ単純にこれまで吸収してきたものをそのまま吐き出してるだけにすぎない。簡単に言えば「考えの整理をする」のである。うまくいけばその後の生活を快適に過ごせるかもしれない。仮にこの場で何も得られずとも己が自身が「そんなこともあったな」と振り返る機会が設けられれば良い、それだけの話なのだ。
人並みの生活をするために専門的なものを叩き込まれ、生きるための術を得た身であれど、学ぶべきことは多い。誰もが幼少期から「何か」をあれこれ教わり、それを普段の生活の中で無意識に索引しながら生きている。そしてそれは歳を重ねていくにつれ人の数だけズレていき、学びを得られる機会や頻度は大きく変化していく。
例えば「読書」だ。幼少期は色んな本を読んできたが、成人して働くようになってからはその機会はとんと無くなった。もちろん学術的なもの、自己分析や資格など必要に迫られれば何度でもその参考書を買う機会はあるが、それは受動的に得られるものにすぎない。受動的に得た学びは歳を重ねるごとにあまり意味を持たないことは既知の事実だ。ここでいう読書とは自らすすんで学びを得ようとする行為、すなわち「好奇心」のことである。
学生時代にはよく親から「勉強をしろ」と言われた人もいただろう。私もそうだった。ここでいう勉強は国語算数理科社会、テストがあるから覚えさせられるものばかり。それによってある程度「人」としての役割を備えることができる。これが一般常識だったのだ。先ほどのような受動的な学びは若いうちであれば有効に働く。習い事をさせられた人もいただろう。あれもいわば受動的な学びであるが、それが身についたという人も多くいるはずだ(もちろん身につかずにやめた人もいるだろうが)。これは物事の良し悪しがまだ判別できていない、もしくは親や大人に委ねられていたからできたことなのだ。親が言うことは正しい、こうしていればうまくいくと本人の中でその全てを取り込もうとした結果が伴って得られたものだ。しかしこれが歳を重ねることで物事の良し悪しがわかるようになれば、受動的な学びは効果を得られにくくなる。
では大人になった今、この一般常識以上のことを勉強する必要はないのかと聞けば、これもおそらく大半の人は「そんなことはない」と否定する。では具体的に何を勉強し学ぶのか。それは人それぞれだと曖昧な答えが返ってくる。そんな曖昧さが本を読まない大人を増やす要因になっているのではないかとさえ思える。
「ねえ、しょーり」
目の前で借りてきた本を高々と持ち上げる悠(ゆう)は、心ここに在らずといった私の顔をじっと見上げている。彼女は私が口を尖らせて勉強しろと言わなくとも自ら率先して行動し学びとる、それはそれはできた娘である。しばらくここに滞在するからと言って居を構えた私に付き合ってくれ、最近では手に入れた住民票をフル活用し市の図書館で本を読み漁る毎日を過ごしている。
そう、彼女を見てこの歳でも何かを勉強してみるのも良いと思ったのだ。そのために考える場を設けていた。仮にもまだ三十の身だ。お迎えが来るまでもう二周ほどできるくらいの余裕はある。私も何か図書館で自分が勉強できるような本を探してみようか、いやそもそもこの時代で何を学べるのか・・・・・・
「昨日借りてきてくれたこの本、ボロボロで読みにくい」
「・・・・・・」
悠が白くすらっとした腕を持ち上げ、手に持っていた一冊の本をゆらゆらと動かす。確かにかなり傷んでいるとは思ったが読むには支障がないだろうと何も言わずに彼女に手渡していた。朝の騒がしい時間でのやり取りだったため、そんなことを気にしていられるほど時間的余裕がなかったと見える。
「・・・・・・タダで読めるのだからそれくらいは我慢しなさい」
「読む気なくなる。こことか見て、紙がよれよれ。雨に打たれながら読んだのかなってくらい歪んでる」
「水たまりに落としたのかもしれない」
「どっちでもいい」
私に訴えかけていたまっすぐな瞳は下を向いた。ため息をついて「返す」とくたびれた本を横へ置くと、言いたいことは全て言い終えたといった具合に自室へと戻っていく。そしてものの数分で扉が開く。
「晩御飯何にする?」
何かが得られると思って旅を始めたが、そんな殊勝な心掛けなど何もなく、やっていることはただの放浪者と同じだ。逆にいうとそれしか選択肢がなかったのである。頼りになるものが全て失われ、自分で生きていかねばならないとなったら同じ場所に留まっていても何も始まらない。ならば旅に出ようという、至極単純な思いつきだ。
聞こえはいいが無関係なものがこの光景を見れば私たちは「難民」として見られることになる。どこかの国に助けを求めても骨と皮しかない私の薄い身体では肉体労働などはもってのほか、なんの使い足しにもならないだろう。どう転んでも突き詰めればなんとも惨めな生活が待っているのは間違いない。
そして彼女、悠は孤児である。元々私と同じ国に住んでいて、同じ被害者。ただし同じ境遇に置かれている直接的な原因は少し違う。
「この娘を買って欲しい」
若いカップルはそう言って突然私の前に現れた。確かにその日は服を仕立てたばかりの比較的整った身なりではあった。しかしそれだけで裕福に見えたのならば見当違いも甚だしい。
初めて会った時、彼女はまだ子供でニコニコ愛嬌を振り撒いていた。小さな身なりで既に色々なことを会得してきたかのようなその大人しい雰囲気にえも言えぬ不気味さを感じさせた。聞くところによると難民キャンプで子供狩りにあったうちの一人なのだという。うちでは面倒を見きれないから裕福そうなものを手当たり次第に訪ね歩いているといっていた。
「読み書き算盤、文字通り何でもできます。顔もこのように整っていますから成長すれば美しい女性になるでしょう。きっと役に立ちます」
なんとも不快な気持ちになったのは言うまでもない。見かねた私が渋々金を払うと若い夫婦は大喜びして忽ち消えていった。厄介払いできたつもりなのだろうか。
整った顔立ちは彼らの言う通りではあるが、どうもアジア系の顔ではない。西洋系の血が流れているのではないかと思わせる肌の白さ、鼻の高さ、髪の色も黒から少し色素が抜けた茶色っぽいものである。
「おれんじ」
と、彼女は私に初めて言葉を発した。
「え?」
「私の名前。オレンジ」
なぜオレンジなのかピンと来なかったが、それまで空を覆っていた雲の切れ目から光が差し込んだ時に気がついた。日の光を浴びた彼女の髪がオレンジ色に輝いていたからだ。またさっきの愛嬌ある娘とは人が変わったかのように、その表情は大人びた、氷のように冷たいものになっていた。やはり演技だったらしい。
私はあまり目立ちたくなかった。この難民キャンプに身を置いているのも目立った行動を避けるためであった。しかし彼女のほうはこの難民キャンプ内で一際目立っていた。オレンジ色の髪や日本人離れした容貌はもちろんのこと、ボロボロの布を巻きつけただけのような、服装とも呼べるかどうかがよく分からない身なりをしていたのだから。この時の私はまだ知らなかったが都市部の方では私の住む地域以上のひどい空襲があったらしい。身なりを気にしていられるほど余裕はなかったのだろう。
しかし。
「ここに入ってる服、大きいだろうが好きなのを選んで着なさい」
彼女は私の黒い地味目な服を取り出して着替えだす。人目を気にしない性格なのだろうか、私がいてもお構いなしに体に巻き付けていた布を解き、新たな服に袖を通す。心なしか彼女の顔が綻んでいるように見えたが日の光が眩しくて見間違いかもしれなかった。
難民キャンプでの生活は困難ということもなかったが、気が抜けない日々であった。朝目が覚めてまずは所持品が盗まれていないかをチェックしなければならなかった。隣でオレンジが寝ていることを確認して、そこでようやく息をつく。この時の私はまだ完全に彼女のことを信用していなかったのだ。それはあの二人組といた時の彼女の所作によるものもそうだったが、それ以上に金品を盗んでこいと指示されての接近の可能性も大いに考えられたからだ。
しかし彼女は何も盗まなかったし何も要求してこなかった。ただ私と行動を共にするだけ。私が手伝って欲しい時は黙って従ってくれる、子供そのものだったのだ。
「言う通りについてきたらここよりマシな生活をさせられるって言われたからあの人達について行ったの」
ある日の晩、オレンジはそう言った。自身が子供狩りに誘拐され、檻かごに入れられていた時、私と会ったあの二人が解放を条件にそう提案してきたという。彼らは元々子供狩りのメンバーであったが、どうやら仲違いをしたのか裏切ったようで、それ以降はずっとあの二人だけと行動を共にしていたらしい。
「何故あの二人は私を解放したのかと思った。やっぱり子供狩りなんて良くないから足を洗おうとしたのか。でも私はそう思ってない」
二人は愛し合っていた。もちろん結婚して子供も欲しいと思っていただろう。そしてそうなると最初の障壁は自分たちが所属している組織だったのは間違いない。彼らから指図されない自由な生活を夢見て、二人は脱出を試みたのか。
「まさか攫った子供じゃなくて組織の人間が逃げ出すなんて思ってもなかった」
私は正直に思ったことを言った。オレンジは小さく頷く。
「今世界は大変なことになってるのに、グループから離れたらきっと野垂れ死んじゃうだけ。逃げても何も得することない」
しかしそれでも逃げ出したのなら、それはきっと愛故の行動なのは明らかであった。ではなぜ沢山いる子どもの中から彼女だけが解放されたのか。
この疑問にもオレンジは冷静に答えた。
「いくら愛に狂っていて心中する覚悟でもそれなりに生き延びれる命綱は欲しかったんだと思う。それで外国人の見た目で目立ってた私に目をつけて連れて行った」
「命綱?」
「私を売って生活資金の足しにするつもりだったのかも」
結果彼らは必要だった金を手に入れることができ、邪魔だった彼女を私に押し付けることができた、と。
「でもあの二人、多分破局すると思う」
オレンジはサラッと言った。私が「え?」と聞くと、彼女は今までで一番暗い目をしながら答えた。
「私に手を出したから、あのクズ」
彼女は自身のお腹をさすった。
台所から立ちこめた食欲を掻き立てる香りはリビングにまで届いていた。それは朝から何も食べていない私の腹の虫がみっともなく鳴き喚かせるには十分だった。
悠はこの前ホームセンターで買ったピンク色のミトンを付けて大きな土鍋を抱える。ゆっくりこぼさないよう慎重に動きながら、それを食卓テーブルに置いた。
「やあ、これは美味しそうだ」
その日、悠が作ってくれたのはすき焼きだった。食欲がそそる香りを放っていた正体はこの牛肉の焼けた匂いだったらしい。土鍋はテーブルのど真ん中に鎮座し、私たちに食べられるのを待っている。私たちはお互い向かい合わせに座り、手を合わせた。
「いただきます」
「いただきます」
五秒ほど目を閉じたあと合わせていた手を解き、その手で彼女は手際よく三つの小皿にすき焼きを取り分けた。なんともまあ手慣れたものだと感心していると。彼女は目を丸くさせて私の方を見る。
「どうしたの?」
「いんや何も。美味しそうだなって」
「うん・・・・・・」
彼女は立ち上がって取り分けた小皿の一枚を持ってリビングの一番奥にある仏壇に備えた。そしてさっきと同じように手を合わせて目を閉じる。仏壇に静かに手を合わせる悠の姿は、難民キャンプで食事する前に欠かさず手を合わせていたオレンジの面影があるように感じた。
悠はありとあらゆる学びを得て吸収した。そのうちの一つが料理である。その成長は目まぐるしく、一分一秒も惜しむ間もないほどであった。
「私も負けてられないな」
私は生きている。生き続けている限りオレンジの分まで、私はこの子と共に学び続けなければならない。人生という名の旅はまだまだ始まったばかりなのだ。
食卓に戻った悠は「ごめん」と謝った後、私の前にもう一つの小皿を差し出す。さっきまで白い湯気が立ち込めていた小皿はもうずいぶんとおとなしくなった。
お箸を使って口に運ぶ。食べてみるとまだずいぶん熱かった、むしろちょうどいい温かさだ。そして肝心の味は、ふむこれはいい味付けだ、美味しい。
作った本人の様子は・・・・・・少し顔が綻んでいるように見える。これには照明の光も、さっきまで立ち込めていた白い湯気も邪魔をしていない、確かなものだ。本人が満足しているのならそれは大成功である。「美味しいよ」と言うと、「そ、そう?」とどこかとぼけた声が返ってきた。
「昼間に言ってた本だけど」
「え?うん」
「買ってあげるよ、新しいの」
「えっ」
ずっと向かい合って食べていたはずなのに、その時に初めて私たちは目が合った。
「あれは今まで借りた人が大切にしてないことを怒っただけで、別にそこまでしてもらわなくても・・・・・・」
ごにょごにょと後半聞き取れない言葉を発しながらも、最終的に悠はぺこりと頭を下げた。
「ごめん、ありがとう」
「私も勉強するかな。悠ほど身につくことはないと思うけど」
そう言っているとポケットに入れていた自身の通信機が震え出した。食事中に通話はダメと言われていたのを思い出し、気づかなかったことにする。
そう、今は彼女とのすき焼きを愉しむ大事な時間なのだ。
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