第15話 数奇な事態は最初から

 前方に向って倒れた木鈴であったが、気を失っていた訳ではなかった。ただ、さより様の下敷きになっているその身体は、疲労のこともあり一切動かせなかった。

「ここは、大学か?」

「ええ、そしてここは恐らく、西沢さんの精神世界でしょう。数奇ですね。」

「数奇?」

「いえ、何でもないです。」

 ようやく少しは回復できたのか、さより様はゆっくりと木鈴から降りてそう言った。そして彼女は廊下に伏せた状態の木鈴をそっと撫でると、彼の身体に燻った疲労を全て取り払ってやった。すると木鈴は何事もなかったかの様に立ち上がれた。

「西沢って、あの公衆電話にいた幽霊か。」

「ええ、西沢さんはそこで亡くなられましたから。」

 地縛霊か?と木鈴は言いたくなったが、それは阻まれた。さより様が木鈴を置いて、廊下の先へと進んで行ってしまったのである。木鈴は慌ててそれに着いていこうとした。だが、さより様はそれを拒否した。

「すみませんが、木鈴さんはそこで待っていて貰えませんか?」

「何故だい?」

「西沢さんと、応用精神制御学について話したいことがあるので。」

「西沢さんと?」

 先程まで背負われていた奴の態度とは思えないぞ、と木鈴は言いそうになったが、木鈴はこれを何とか堪えた。さより様が、下唇を噛み締めているのである。それを見やると木鈴は、彼女を茶化す事が出来なくなった。

 世界は夜。廊下は蛍光灯の明かりが消えていて薄暗かったが、まだ幾つかの研究室の明かりが点いていた。そして廊下の一番奥にはあの公衆電話がある。公衆電話はまだ落書きもされておらず綺麗な状態だ。

 さより様は、明かりの漏れるドアのうち最も地味なものを選んでノックした。他の研究室のドア前には壊れた傘を集めるだけの傘立てやら、枯れた鉢植えやら、色あせたステッカーにまみれたロッカーなんかが配置されているのだが、そのドアだけは至ってシンプルで、もっとよく言えば一番清潔であった。そしてそのドアには、今は無き生命物理論研究室の看板があった。

 木鈴はこの研究室の看板を実際に見たことは今までなかったのだが、この研究室の存在は知っていた。かつて学園長の所属していた研究室なのである。現在学園長は学部を跨いだ異動で農学部生命システム科の教授を勤めているのだが、昔は木鈴と同じ理学部物理学科の人間だったのだ。

 だがさより様が三回のノックが響いた後、扉の向こうからは間延びした返事が返ってきた。流石に学園長の声ではない。そしてさより様は木鈴に一度頭を下げると、そのまま何も言わず扉の向こうへと行ってしまった。廊下には釈然としないままの木鈴が、ひとり取り残されていた。


 いきなり手持ち無沙汰になってしまった木鈴は、待てと言われたのにも関わらず、さより様の入って行った部屋の壁に近づいて会話を盗み聞こうとした。しかしながら木鈴がその壁に振れた瞬間、静電気五倍分の衝撃波が木鈴の指先を襲った。木鈴は反射で後じさって、痛んだ指先を軽くさすった。

 廊下に居る以上は会話らしい声が聞こえるものの、その内容までは聞き取れない状況である。木鈴は渋々その扉に踵を返すと西沢の部屋は諦めて、この時代の物質作用学室究所を覗きに行くことにした。何もしないでじっとしている事ほど、木鈴を苦しめるものは無かったのである。

 西沢が応用精神制御学に関与している以上、他の場所を散策することでも何かヒントを得ることが出来るかもしれない。ヒントどころか答えが見つかる可能性すらあるのだ。そして論文を書くのであれば、先人の参考文献は必須である。木鈴は気を取り直して廊下を歩いていた。


 この世界の物質作用学研究室前には、ロッカーの隣に旧式の角形交通信号機が置かれていた。これは物質作用学研究室の先々代教授が酔っ払った勢いで持ち帰ったとされるものだ。そして今もまだ現実世界の研究室前に放置されている。

そんな信号機の隣にはドードーの剥製が、ケースにも入れられずそのまま置かれていた。これは先代助手がアフリカのセレブに求婚された際に送られてきたものである。真贋判定は現在も済んでおらず、こちらも変わらない状態で現実世界の研究室前にも放置されている。

 そして現実世界の研究室前のロッカー上には観葉植物のパキラが置かれていた筈だが、これは見当たらなかった。そのパキラとは、かつて研究室に所属していた助教が毒物受け渡しの容疑で逮捕される寸前に一抹の望みをかけて放置したものである。これは現在、木鈴がたまに水をやっているので健やかに成長している。成長しすぎて、壁に貼ってある研究発表用ポスターを覆い隠しているくらいであった。

これらの事から推察されるのは、この精神世界は現在から四年から三十五前のものである、という事であった。先々代教授の角形交通信号機がいつからあるのかは不明なのだが、ドードーがやって来たのが約三十五年前の出来事で、助教が逮捕されたのが四年前であるからだ。

 木鈴は西沢という男をよく知らなかった。判明しているのは顔と体型と苗字と所属のみである。それ故、これ以上西暦予想範囲を狭めることは出来なかった。結局はこの世界が十九年代か二十年代かも分からなかった。木鈴は自分でも何か特別目立つ物を研究室前に置かなかったことを後悔していた。

 だがこの西暦分からない問題は、どこかには落ちてあるだろうカレンダーを見つければすぐに解決するものである。木鈴は気を取り直して、物質作用学研究室のドアノブに手をかけた。鍵は掛かっておらず、そのドアはあっさりと開かれた。


 驚くべき事に、ドアの先に研究室は無かった。そこには物質作用学研究所よりも大きな部屋が広がっていたのである。よく考えてみれば、同じ学部の所属であったとしても、相当仲が良くない限り他研究室を訪問する機会は少ない。ドアの先が物質作用学研究所ではないというのは、何ら不思議なことではなかった。

 しかしながら、木鈴は初めて見るはずのその部屋に、妙な見覚えを感じていた。部屋には本棚がいくつかと、厚みのあるテレビが一台、そして革張りのソファが二つ存在していた。だがそのソファは二つとも不自然なように壁端に並べてあり、どこか別の場所から移動させてきた様である。そして部屋の真ん中には何も無い空間があった。

 木鈴はそっと部屋の中に侵入すると、音を立てないようにしてドアを閉めた。他人の精神を覗き見ようとしている以上、やましいことをしている自覚はあったのである。だが止める気も無かった。

 部屋の中はしんとしている。木鈴はその部屋の真ん中まで移動すると、何も無いところで立ち止まって天井を見上げた。やはり、何も無い。しばらく木鈴はそうしていたが、何かが突然降ってくるなんて事も無かった。

 しかし、木鈴が諦めて首を戻したその時、丁度正面にあった窓に目が留まった。その窓には、鬱蒼とした森が木の葉を打ち付け合う様子が広がっていた。木鈴はこれを見たことがあった。あの時、学生会館の階段で死にかけた時に見た窓、そのものだったのである。

 木鈴は思わずその窓に駆け寄った。そして窓を開けてみようかと試みたが、それはびくともしなかった。木鈴は肘で体当たりをして硝子を割ってしまおうとしたが、これも失敗に終わった。しかしその時、不意に後ろから声が聞こえた。

 驚いて木鈴が振り返ると、そこには二人の男がいた。男達は木鈴と同じくらいの年の風貌であった。さらにそこには先程までには無かった筈の様々な機材が出現していた。

 部屋の真ん中には一つの大きな机があって、その上に真っ白なシーツが敷かれている。机の上には一つの黒いヘルメットのようなものが置かれていて、それには何本ものチューブが差し込んである。そのチューブは部屋の片隅に置かれた謎の大きな機械に繋がっていた。機械にはディスプレイがあるが何も表示されていない。ただそんな中で二人の男が、真っ白なテーブルを見下ろしているのであった。

 片方の男が口を開いた。

「信じられないよ。黒原君。何てことをしたんだ。」

 すると、もう片方の男が言った。

「何とでも言うがいい。だがな、西沢よ。君に僕を責める資格はないだろうよ。だって君は結局、彼女に触れることすらしなかったんだ。」

 どうやら、この二人の男は、若かりし頃の西沢と学園長である様であった。そして学園長もとい黒原の言う彼女こそ、さより様であるのだろうと木鈴は察した。

「ならば僕は客観的な意見を言わせて貰うよ、黒原君。君は、酷い奴だ。残酷な奴だ。」

「西沢、貴様が部外者な訳ないだろう!」

 そう言うと、黒原は手に握っていた茶色の小瓶を床に叩き付けた。半分以上の中身が残っていたそれは床で散り散りになり、破片は繊細そうな機械のチューブにまでもかかっていた。

「西沢、今後君だけが綺麗な顔をして笑うのを僕は許さない。君はずっと見ていたんだ。間違っていると知りながら、僕を止めなかったんだ。君の手は汚れていないだろうが、君はもう身体の芯が真っ黒なんだぞ。」

 そう言われた西沢は、途端に狼狽えて後退さった。だが彼は突然に表情を変えると、黒原の胸倉を掴み上げた。そしてそのまま肩を押して、西沢は黒原を窓際まで連れて行った。木鈴の姿は見えていない様である。だが木鈴は突如近づいてきた二人に驚いて、部屋の隅へと逃げた。

「ほら見ろ黒原。君が殺した彼女が埋められるんだ。君が、今さっき、ここで!」

「僕は殺していない。」

「嘘を付くな!」

「本当だ。僕は、致死量の半分しか彼女に毒を入れていない。脳電波は全部嘘だ。いま彼女は眠っているだけさ。彼女は、これからアイツらが殺す。」

 二人の後ろから木鈴がそっと窓を見やると、そこには、異様な光景が広がっていた。ざわめき立つ木々の下で、顔を白い布で覆い隠した幾人かの人々が、規則正しく並んで道を成していたのである。そして二列に並んだ人々の間を、一つの白い棺が担がれて通っているのであった。棺には蓋がなく、その中で目を閉じているさより様の顔が、はっきりと見て取れた。木鈴は思わず、あっと声を上げた。

「西沢よ、僕は彼女を本当に殺した訳じゃあないんだ。ただこれから死ぬのを知りながら、全てを黙っていただけだ。これが、君とどう違うって言うんだい?」

「黒原、君は卑怯だ。最低だ。」

「そうだ。僕達は卑怯で最低だ。」

 顔を隠した者達は棺が前を通ると同時に頭を下げ、両手を擦り合わせるようにして祈っている様であった。何やら、不気味な儀式が始まっていたのである。

 道の終わりに棺が到着すると、それはゆっくりと地面に降ろされた。棺の隣には大きな穴が掘られている。さより様が目を覚ます様子は無い。そして棺を担いでいた者が一礼して手提げ鐘を鳴らすと、道を成していた者達は一斉に頭を上げた。そして彼らはそろそろと歩き出し、さより様の棺を囲うようにして円を組んだ。

「でも、脳電波の測定データが全部嘘だって言うなら、この実験は一体どうするつもりなんだい?」

「この実験は打ち止めだ。」

「打ち止めだって⁉」

 さより様の棺が、穴の中に入れられていった。そして一人の男が桶で土を掬うと、それを穴の中に注いでいった。さより様の姿がどんどん埋まっていく。そしてついに穴が完全に塞がってしまうと、男はもう一度手提げ鐘を鳴らした。

「彼女は、もう死んでいるんだぞ⁉」

「ああそうさ、奴らが殺したからな。」

「彼女の幽霊はどうするんだ?」

「幽霊だぁ⁉君、まさかそれを真に受けているんじゃないだろうな。見てみろよ、あのカルト集団を、頭がおかしいとしか思えないだろう。」

 鐘が鳴ると同時に、円を成していた者達は一斉に円の中心へと駆け寄っていった。鐘は一定のリズムで鳴り続けている。そして彼らは鐘の音に合わせて、さより様を埋めた地の上で踊り狂っていた。

「この学生会館は適当な理由を付けて閉鎖する。幽霊なんて出ないだろうが、奴らに押しかけられても面倒だからな。西沢はこの脳波測定器をとっとと病院に返してこい。これでもう、僕はあのカルトとは一切の連絡を取らない。もし君が奴らに会ったら、そうとだけ伝えておいてくれ。」

「そんな!」

「もう良いだろう?君も僕も十分な金は手に入ったんだ。」

 黒原は西沢に足払いをかけると、体勢を崩した西沢を床に抑えつけて言った。

「賢明な判断をしてくれよ、西沢。まあ君に何か出来るとは思えないがな。」

 すると、黒原は西沢を突き放して早々に立ち去っていってしまった。ドアの先は研究棟の廊下ではなく学生会館の階段になっていて、黒原は振り返ることもなく降りていってしまったのである。西沢はしばらく床に手を着いたまま呆然としていた。だが西沢は腰を曲げてゆっくりと立ち上がると、割れた茶瓶の欠片の側まで歩いて行った。そして彼は屈み込むと、ハンカチ越しの長い指でそれを集め始めた。

 しばらく、硝子が打ち鳴る小さな音が響いていた。そして、あらかた破片が回収された頃になって西沢が再び立ち上がると、突然部屋にあったテレビに砂嵐が走った。西沢は驚いて硬直している様子であった。

「聞こえますか?西沢さん。」

 砂嵐が消えると、そこに表示されたのはさより様の顔であった。三角巾を被って、二つの三つ編みを肩に垂らしている。

「どうして、君がテレビに⁉」

 西沢は狼狽えた声でそう言った。

「私の幽体は、テレビの隣にあります。ですが西沢さんに幽霊である私は見えないようでしたので、このテレビに信号を送ってコンタクトを試みたんです。成功した様ですね。良かった!」

 テレビの中のさより様は、安堵の表情を浮かべてそう言った。

「さより君はそんな事も出来るんだね。」

「ええ、幽霊がよくやるラップ音とかの応用ですので。」

 そう言うと、さより様はにっこりと笑った。どうやらさより様は、先程までの黒原と西沢のやり取りは見ていなかった様である。

「それで、その……」

 さより様は言い淀んだ。だが少し顔を赤らめると、伏し目がちになって言った。

「健二さんは、今どちらに?」

 西沢の目が泳いだ。しかしながら彼はすぐさま取り繕った。

「あぁ、黒原君なら、そうだな、今、少し実験の段取りについて話し合いをしている所だよ。だから、」

 だから、と西沢は続けた。

「呼んで来るよ。ちょっと待っていてくれ。」

 そう言うと、彼は慌ててドアの方へ走っていってしまった。


 木鈴は西沢を追った。ドアが閉まる寸前に狐みたく身体を捻じ込ませて部屋の外へと出ていったのである。これでもう、どうやって元いた廊下に戻るのかは分からなくなってしまっていたが、木鈴はそれどころではなかった。木鈴は、西沢の背を目がけて走り出していたのであった。

 西沢に着いていって階段を降りた木鈴は、壺と掛け軸の前も通り過ぎて、一階の大スペースまでやって来た。ここらの風景は現実とさほど変わりがない。だがそんな中、西沢は苦しげに屈み込んでいた。西沢はそれ程の距離を走っていないにも関わらず、苦しげに息を乱して心臓を抑えつけていたのである。木鈴はそれを見やると足を緩めて西沢に近寄った。

 その時、学生会館の扉が開かれた。黒原が手にチェーンと南京鍵を持って、再び戻って来たのである。木鈴は咄嗟に身構えたが、どうすることも、どうされることもなかった。

 黒原は二階へと続く階段までにある開き扉にチェーンを巻き付けた。床で苦しげに呻いている西沢は、それを止めなかった。苦しさを言い訳にしているのかどうかは不明であったが、西沢は何も言わなかった。

 カチッと音がして、ダイヤル式南京錠がかけられた。ダイヤルにはまだ木鈴の当てた番号が残っている。そして黒原はその番号をシャッフルする前に、西沢の腕を取って南京錠の前まで引きずっていった。そして黒原は西沢に南京錠の番号を見せつけると、覚えたかどうかを確認してからダイヤルをランダムに回した。

「忘れるなよ。」

「忘れるもんか。だってそれは、僕の誕生日じゃないか。」

「ああ、こんな南京錠なんか気休めだ。君が此処に居たことを残したかっただけだ。」

 すると黒原は、南京錠のスペアキーを全て踏み潰して、その半数を西沢に無理矢理握らせた。西沢はもう顔面蒼白であった。そして黒原は追い打ちをかけるかのように、西沢の耳を引っ張って囁いた。木鈴は二人の間に滑り込むような体勢になり、頑張ってその内容を聞き取った。

「君がもしこのことを誰かにでも話したりしたら、僕は君を殺すことも厭わないからな。」

 腹の底から響くようなその声音に、木鈴は思わず身震いした。いつも叱られているときのものより、何十倍もの恐ろしい声であったのだ。西沢の方はもう放心状態であった。黒原はそんな西沢を見下ろすと、さっさと踵を返して学生会館を去ってしまった。

 西沢は、座り込んだまま動かなくなっている。木鈴も立ち上がって西沢を見下ろすと、もうこれ以上は何も無いだろうと判断して学生会館出口へ向った。木鈴は正直、西沢に同情する気は無かった。


 この時、木鈴は学園長の後を付けていくつもりであった。しかしながら学生会館の出口扉を開けたその先は、また違う見知らぬ部屋となっていた。

 ここは西沢の精神世界である。つまりは西沢の知らぬ事、例えばあの後学園長がどこへ行ったのか等は出てくる筈が無い。冷静に考えれば分かる事であったが、木鈴は少し面食らった。だが木鈴は気を取り直すと、その部屋の中へと侵入していった。今更ここで引き返す気など、無かったのである。

 その部屋は、一軒家のリビングの様な空間であった。よくある一般家庭の生活感が漂うその場所は、明るい日差しがよく入り込んでいた。木鈴は無遠慮にも固定電話の隣に積まれた封筒類を漁ると、この場所が西沢の家であることを推察した。

 リビングには、学生会館にあったものよりかは薄型のテレビが置かれている。そしてその目の前にあるソファには、赤いランドセルが置かれている。ここは西沢が家庭を持ってしばらくした後の世界なのだろうと木鈴は考えた。

 木鈴は土足であったが、少しも悪いとも思わずに部屋を見て回った。だがリビングもキッチンもダイニングも特に目立った点はなく、単に他人の家を覗き込んだけに終わった。そこで、木鈴は二階にまで上がり込んでいくことにした。

 手すりの付いた階段は上から見るとU字に曲がりくねっている。そして、壁には子供が書いたのであろうタンポポの絵が飾られていた。よくある幸福な家庭の家であった。木鈴はその階段を、何故だか慎重になりながら登っていった。土足である為、階段を上がる度にコツコツと音が鳴ったが、その音が嫌に耳に残っていた。

 階段を上りきると二階の廊下に出た。そして廊下の奥には、扉が半開きになったままの部屋があった。ドアの隙間からは、何かが動く音が漏れている。木鈴はそれにそっと近づくと、暴れる心臓を抑えつつ、部屋の中を覗き込んだ。

 だが木鈴がその部屋を覗き込もうとしたとき、扉は勝手に大きく開かれた。まるで誰かが急いで部屋の中に飛び込んできた時の開き方であった。そして木鈴は部屋の中に居た少女と、ばっちり目が合った。

 その部屋は、西沢の書斎である様だった。机にはパソコンと沢山のクリアファイルが積み重なっていて、本棚には専門書がきっしり詰まっている。そして少女はその本棚の前に佇んで居たのであった。

 その少女は目をまん丸に見開いて、木鈴のいる方を振り返っていた。そしてその手には黒色バインダーが握りしめられていた。少女は、どういう訳だか泣き始めていた。

 不思議なことに、この時から木鈴は西沢の視点になって世界を見ていたのである。木鈴の発する言葉、加えて行動は無意味になっていた。

「君は!あの時の!」

「お父さん、ごめんなさい。」

 少女は、せいぜい小学校四・五年生くらいの姿であった。そして驚くべき事に、永村の精神世界に居たあの女の子そのものであった。泣いているのは恐らく、父親である西沢に叱られてしまったからであろうと木鈴は推測した。

 つまりはこのバインダーの中の資料に、少女が死後世界・精神世界に没頭してしまうだけの応用精神制御学的事実が書かれているということであった。

木鈴はそのバインダーに書かれている内容を確認しようとして、少女が落としたそれに手を伸した。だが、結局木鈴はその中身を見ることは叶わなかった。木鈴がそのバインダーに触れた途端、それは炎に包まれてしまったのである。


 炎は、木鈴の袖にまでも飛び移った。そして瞬く間に木鈴の全身を包み、木鈴はその熱さに身悶えた。だが木鈴が暴れ回っていると次第にその勢いは弱まっていき、終いに木鈴は無傷の状態で倒れていた。

しかしながら、木鈴はもう西沢の書斎には居なかった。木鈴は大学構内にある焼却炉の前で無様に倒れ込んでいたのである。

 焼却炉は、煙をもくもくと上げて稼働していた。木鈴は、この焼却炉が実際に焼却炉として使われているのを初めて見た。今現在この焼却炉は建築デザインの連中によってピザ釜にリメイクされているのだ。木鈴はよろよろと立ち上がると、その焼却炉に近づいて蓋を開けようとした。

 木鈴がグローブをはめて熱い鉄の蓋を開くと、そこでは丁度いくつかの紙束が炎に包まれて燃えている所であった。流石にもう、内容までは見て取れない状況であった。木鈴は額に汗を浮かべながら乱雑に蓋を閉めると、溜息をついてグローブを元あった場所に投げ捨てた。おそらくはここで、さより様の研究に関する書類やデータは全て燃やされてしまったのだ。木鈴は汗を拭うと、天を見上げて次の行動に困った。

するとその時、木鈴は斜め左上の方から視線を感じた。焼却炉の左にあるのは農学部の研究室棟である。木鈴はおそるおそるその方向を見やると、そこには、案の定あの男がいた。学園長である。学園長もとい黒原が、焼却炉の前に佇む西沢を、じっと見ていたのであろう。蛇に見つめられた蛙とは正にこの事で、木鈴はその目に苛烈な殺意を感じたのであった。

 木鈴は、自身の心臓が急に激しく痛むのを感じた。そして派手に鼓動する心臓を抱えて、木鈴は走り出していた。一刻も早くあの男から逃げないと、殺される気がしていたのだ。そして木鈴は当てもなく逃げ惑い始めたのであった。

その間、木鈴の頭の中には様々な情報が流れていた。それは西沢の故郷、農園、両親、娘、妻、大学時代のあれやこれであって、つまりは西沢の走馬灯であった。

木鈴はそんな他人の走馬灯を見つめながら、ただ走ることに徹していた。息は早々に切れており、全身が張り裂けるような痛みを感じ、心臓はもはや燃え盛っていたが、己の意志だけでは立ち止まることが出来なかった。

 木鈴はもはや西沢の再現であった。そして木鈴は、西沢と同じラストを迎えようとしていた。

 気が付けば木鈴は、理学部の研究室棟に戻って来ていた。そして階段を駆け上がると、最初に足を踏み入れたあの廊下に辿り着いていた。廊下の奥には公衆電話があった。木鈴はその公衆電話に向って、全速力で走り始めていた。

 公衆電話までの距離は、無限にも感じられるものであった。結末を知っている木鈴であったからかもしれないが、それは酷く耐えがたい時間であった。視界が滲み、内臓は全て煮えたぎっていた。

 だがやはり、無限などは存在しない。木鈴はあともう少しで公衆電話に手が届くというところまでやって来た。木鈴はその時にはもう既に、自我というものを失いかけていた。そこに居るのはもう、かつての西沢であったのである。

しかしながら、彼の手は公衆電話に触れなかった。その寸前になって、誰かに腕を強く引き留められたのである。その手を取ったのは、西沢であった。ここで木鈴はようやく我に返った。

「……貴方は、西沢先生ですか?」

「ああ、そうです。私が西沢です。」

 正気に戻った木鈴は、それと同時に全身の痛みや苦しさから一気にから解放された。西沢の視点から、元の自分の視点に戻ったのである。心臓ももう正常に戻っていた。そして勢いを取り戻した木鈴は思わず西沢に詰め寄ろうとした。だが、その彼に手で口を覆われて防がれてしまった。

「静かに。まだ部屋にはさより君が居るんです。そっとしておいてあげて下さい。」

「彼女には全て話したんですか?」

「ええ、全て告白しましたよ。」

 西沢はすぐに木鈴から手を離すと、突然の無礼を紳士的に謝罪した。木鈴は軽く口を拭って、あの事件の時よりかは少しだけ老けている西沢の顔を、じっと見上げた。

「その様子ですと、貴方はもう既に全てを見てきたようですね。」

「はい。もうね、苦しくってたまりませんでしたよ。あのまま公衆電話を取っていたら死んでいる所でした。」

「すみませんね。私は心臓が弱くって、あんまり走れないんですよ。」

 木鈴は公衆電話を軽く叩いた。こつこつといい音が鳴る。

「今朝もお会いしましたよね。この公衆電話の前で。」

「ええ。そうですね。幽霊が見える人間は本当に稀ですし、私もいつもそこに居るわけではありませんでしたから、私と貴方が出会ってしまったのは……今になってみれば本当に運が悪かったとしか思えませんね。」

 それはどうなのだろうか、と木鈴は思った。西沢にとってみれば事の顛末がさより様にバレてしまったのが最悪の事態だったのかもしれないが正しいことはいずれ曝かれるものだ、と木鈴は考えていたのである。自分自身が危険に晒されたことに関しては特に気に留めていなかった。木鈴は、ちょっと西沢とは合わない気がしていた。

「あの時、黒原の事を忠告していましたよね?」

「ええ、そうです。あんまり彼のことを刺激しない方がよいでしょう。私利私欲のためなら手段を選ばない人ですから。」

 木鈴はこの時、生命物理論研究室の方を横目で見やった。そこの扉からは相変わらず光が漏れていたが、それ以外は特に何もなかった。すると、西沢が咳払いをした。木鈴は意識を西沢の方に戻した。

 西沢は、少し木鈴に顔を寄せて言った。

「実はこの話はまだ、さより君にはしていないのですが、」

 そして西沢は木鈴に耳を貸すように言った。そして差し出された木鈴の耳に囁くようにして言った。

「さより君の危惧している襲撃者なんですがね、あれは、私の娘なんです。」

「ああ、そういえばそんな話もありましたね。」

 木鈴はこの告白に、あまり驚かなかった。それより、この話をさより様にしていなかった事の方が驚きであった。自分の罪を隠したがる西沢に対する嫌悪が、確実に溜まってきていた。

「そこで貴方にお願いがあるのですが、」

「なんです?」

 木鈴は若干無愛想な声で返した。

「私の娘を止めて頂けませんか?あの子は多分、私の研究を断片的に覚えていて、それを探求しているだけなんでしょう。さより君と娘が鉢合わせないように私が誘導していますが、これ以上は難しいんです。」

 やっぱりかと、木鈴はそう思った。そんなところだろうとある程度予測していたのである。木鈴は勿論これを断ろうとした。だが先に、西沢が続けた。

「貴方は、私の娘のことをよく知っているでしょう。もう私よりも詳しいんじゃないでしょうかね。」

 これに関しては、木鈴は何が何だかさっぱり分からなかった。だが、木鈴がここで困惑するなど思ってもいなかったのであろう西沢は、そのまま何も気付かずに続けた。

「お願いします。あの子がもし真相に辿り着いてそれを世間に公表なんかしたら、黒原からどんな目にあるか分からないんです。」

 すると西沢は三歩ほど後ろに下がり、木鈴を手招きした。意図の読めない行動に木鈴は困惑した。だが木鈴は西沢が命じた通り、三歩ほど前に出た。

「そこです。そこで止まって下さい。」

 西沢はそう言うと、木鈴の真横に移動した。木鈴には質問権が与えられていない。そして横に付いた西沢は突然、木鈴の身体を激しく押し飛ばした。木鈴はあっと声を上げるまでもなく、公衆電話隣の壁に衝突した。

 その壁は、精神世界の端っこであった。しかも他精神への通り口ではなく、この死後世界からの脱出口であった。

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