第12話 小学校教員の重い話

 手を繋いだままであった木鈴とさより様は、二人して小学校の教室に倒れ込んだ。二人が教室に侵入したのは扉からでも窓からでもなく、天井からであったのである。木鈴は教壇に強打した頭蓋骨の右端を擦りつつ、ゆっくりと起き上がった。そして驚くことに木鈴は一滴も濡れておらず、すっかり元通りの状態であった。

 二人が通ったのは、残念ながら現実世界への脱出口ではなかった様である。今ここはまた別人の死後精神世界であった。そしてこの世界は小学校教室内の記憶によって構築されていた。

 教室には、子供の背丈に合わせて作られた低い椅子と机が並び、そのそれぞれにカラフルなズックが引っかけられていた。

世界は昼間である。子供達は校庭に遊びに行ってしまったのか、それとも今日は休みであったのか、教室は生徒の一人も居なかった。ただ端に、苦しむ大人の女性が転がっているのみであった。

 木鈴が頭部の衝撃に悶絶している間、さより様は颯爽と立ち上がっていた。そして教室の端で苦しげに喘いでいる女性に駆け寄ると、優しく何かを語りかけていた。すると、女性は激しく頷き始めた。そしてさより様は女性の背を強く叩くと、口から黒い物体を吐き出させた。

 女性の口から出てきたものは、コートに付いているような大きさの、一つのボタンであった。表面に錨の柄が刻まれてある、表面の滑らかなボタンであった。

「大丈夫ですか!」

「あ、はい。もう大丈夫そうです。」

 苦しげだった女性は口からボタンを出してしまうと、途端にスッキリした表情に変わった。しかし口から吐き出したボタンを見やると、不思議そうに眉を潜めた。そしていきなり現れた二人に対しても、懐疑的な姿勢になった。女性は宗教じみた三角巾のさより様を、じっと見上げている。そんな女性に対し、さより様は優しく背をさすりながら言った。

「初めまして。私はこの世界を旅して、苦しむ方達を解放するお手伝いをしている者です。後ろにいるのは木鈴さんです。」

 雑に紹介された木鈴は、床に座り込んだままの女性に軽く一礼した。そして興味を教室の方に戻すと、壁に貼られた自己紹介カードや給食メニュー表を観察する仕事に戻っていった。教室の壁には至る所に掲示物が貼られており、くすんだ色の表面をカラフルな紙が覆い隠していた。

「あの、私は一体、何故こんな所で倒れていたんでしょう?何も思い出せなくて、」

「恐らく、何かを喉に詰まらせて死んでしまったのでしょう。私が喉に詰まっていたものの記憶を消してしまったので、もう大丈夫ですよ。」

 そう言うとさより様は、この世界の仕組みや己の力について簡潔に説明した。女性はかなり驚いている様子であったが、やがて小さくゆっくりと頷いた。

「そうですか、本当に、死後世界なんてあるんですね。」

 どうやらこの女性も、死後世界の存在に驚いている様である。しかし女性はあまり狼狽えておらず、どこかぼんやりとした様子であった。そして手にボタンを握ったまま、黙り込んでしまっていた。

 その時、木鈴が不意に声を上げた。

「すみません。あの、えぇと、」

「あ、私、永村(ながむら)と申します。ここの小学校で教員をしておりました。」

「そうですか。永村さん。では一つお聞きしたいのですが、この世界は西暦何年でしょうか。」

 木鈴は永村の方を見ず、視線を壁に貼られた保健室便りに向けながらそう尋ねた。壁に貼られたプリントに書かれている西暦が、現実の十年前の数字なのである。そして戸惑いがちに永村が申告した数字も、十年前のものであった。永村が死亡してこの世界ができたのは、十年も前の出来事だったのである。十年前といえば、木鈴が大学院を修了する前の時代だ。木鈴が運良く助教になった後、不思議な力によって准教授の枠に空きができ、謎の現象によって採用されるよりも前の時代なのである。

 木鈴はさより様に近づくと、それとなく尋ねた。

「前の世界も四年前のものだったが、こっちの世界は十年も保たれているんだな。意外にも人間の精神っていうのは残り易いのか?」

 すると、さより様はあっさりと答えた。

「まあ、大抵の精神は二、三年で消えてしまいますね。でも、何か強く精神に刻まれているものがあれば、こんな風に十年も残る場合があります。」

 そう言ってしまってから、さより様は悔しそうに下唇を噛んだ。またうっかり木鈴に情報を漏らしてしまったのである。木鈴は内心ガッツポーズをしていたが、表には出さず澄まし顔で永村の方を見やっていた。そして今度は永村に尋ねた。

「と、言うことは永村さん。貴方には何か非情に刺激的な記憶があったんですよね、どうしても忘れられない何かが。おそらくは学校に関係しているんでしょうけど。」

「……ええ、そうですね。」

「ちょっと、木鈴さん!」

 さより様は、再び木鈴のネクタイを引っ張って顔を近づけた。そして木鈴に強く囁きかけた。

「なんでそんな踏み込んだこと聞くんですか⁉」

「論文を書くには、ちゃんと精神世界について調査しないと駄目じゃないか。それに君だって、死者を救うお手伝いとやらしているんだったら、もっと深いところまで精神の蟠りを解いてやらないと!ほら、君の本職なんだろう?」

 木鈴にそう言われてしまうとさより様は、色々と噛み潰して無理矢理飲み込んだ顔をした。そして渋々といった様子で木鈴のネクタイを手放した。ネクタイは多少よれてしまっている。だがようやく解放された木鈴はそれを特には気に留めず、またもや永村に向き直った。

「差し支えなければ、その記憶について教えて頂けないでしょうか。どちらにせよ、我々はこの世界から出る為にあちらこちらを散策しますので、何もかも秘密にするのは難しいと思いますよ。」

現実世界への生還を優先するのであれば、安全が保証されている前の世界に戻って、再度脱出チャレンジをしたいところである。だが、二つの世界の境界が教室の天井である以上、重力によって膜を突き抜けるのは困難である。木鈴とさより様はこの世界で新たに出口を探す必要があった。

すると、永村は言った。

「そうですか、では、私も途中までついていっていいでしょうか?」

 木鈴は思いも寄らぬ提案に少々驚いたが、勝手に精神内を探られるのが嫌な気持ちも納得した。そして特に拒む理由もなく、三人は永村の精神世界を散策し、出口を探す運びとなった。


 永村の精神世界の小学校は、どうやら大学の近所にある小学校がモデルになっているようであった。実を言うと木鈴は二年ほど前にその小学校に立ち入った事があったため、それがすぐに分かった。木鈴の事となると怪しげな立ち入りに聞こえるが、校内に立ち入る許可は取っており、合法ではあった。ただその時、木鈴はプールで感電事件を起したが為に、現在は出禁になっている。

 感電事件は二年前のものである為、木鈴と永村は初対面であった。だが早速、木鈴は永村からの信頼を失っていた。木鈴が教室内の机を勝手に覗いては触り、道具箱を勝手に開いては触るというのを繰り返していたからだ。散らかすなんて事はせず全てを元通りに戻してはいたが、生徒のものを勝手に物色する不審行為が、教員の目には頂けなく映っていたのだ。当たり前であった。

 だが木鈴は永村の不信など気にも留めず、ロッカーに並べられたランドセルを一つ一つ観察していた。そしてその時間があまりにも長いので、さより様がとうとう痺れを切らした。

「木鈴さん!そろそろ出口を探さないと不味いかもしれないんですからね!」

「でも君、意外とこういう所にヒントが隠されているかもしれないぞ。」

「そうかもしれませんけど!」

 木鈴がこうも細かく教室内の調査をしているのは、勿論精神世界の観察という意味があったが、永村の持っていた重要な記憶に関する鍵を探すためでもあった。永村はとある大きな記憶のせいでこうも長く留まっていた訳だが、流石に長い間窒息で苦しんでいたが為に、自力だけではそれを思い出せない状況であったのだ。

「ほら、早速収穫があったぞ。」

 そう言うと、木鈴はロッカーの中から一つのランドセルを引っ張ってきた。その赤いランドセルは、見た目は他のランドセルと大差の無いものであったが、重さが明らかに他と異なっていたのである。他のランドセルはロッカーから持ち上がらないほど重いのであったが、このランドセルだけは腕一本だけで持ち上げることが出来たのであった。

 木鈴はそのランドセルを机の上に置くと、金具を回して、遠慮無くかぶせを開いた。すると細部にハートの刺繍が施された、可愛らしい内部が明らかになった。小さなものであったがプチプラのダイヤも埋め込まれている。近年よくあるタイプの、ちょっとだけ可愛げなランドセルであった。小学校卒業間近になれば人気はブラウン色へと傾くが、幼稚園児ならピンクを諦めて妥協できるくらいの良いデザインではあった。

ランドセルは完全に開かれている。さより様と永村もその机に集まって、ランドセルの中身を覗いた。

「出席番号二十二番のランドセルだ。」

「中に何か入っていますね。」

 ランドセルには一冊の本が入っていた。さより様が取り出してみると、それは学校の図書室の本であることが判明した。側面に図書室の所有スタンプが押されていたのである。そして表紙には宇宙船のイラストを隠すようにして、貸し出し用バーコードが貼られていた。

その本のタイトルは『流星64号ドッカンドッカン』であった。おそらくは児童向けSF小説である。だが木鈴もさより様も、その小説は初見であった。本の表紙では銀色の宇宙船にマスタードとケチャップがかけられてあったが、二人はその小説の内容すら予測出来なかった。

しかしながら、永村はこの本を見た途端、目を見開いて硬直していた。どうやらこの小説に覚えがあるようである。だが残念なことに、この本は開かなかった。各ページに接着剤でも流し込んだ位に本は固く閉ざされており、投げても降っても逆に潰してみても開く様子がなかったのである。三人は息を切らしながら、傷一つ付いていない状態で床に転がっているSF小説を見下ろしていた。

 さより様が言った。

「永村さん。この本の内容は覚えていますか?」

「いえ、タイトルには覚えがあるんですが、内容まではまだ……」

「では、そのせいでしょうね。永村さんが思い出さない限りは記憶が無いのと同じ状態ですので。」

 ここで、木鈴は言った。

「仮に、このSF小説が生きているとするだろ。」

「とりあえず聞きますよ、その話。」

「そしたら、表紙を炙ったりしたら貝みたいに開いたりするんじゃないか?」

 気がおかしくなったのか、木鈴はそんな事を言っていた。そして呆れられてしまったのか、誰も木鈴の戯言には突っ込まなかった。木鈴も何故自分がこんなことを言ってしまったのかは分かっておらず、口にした瞬間から後悔していた。誰にとっても嬉しくない空気が漂った。

「とりあえず、この教室を出ましょう。もしかしたら他の場所にもっと決定的な何かが残っているかもしれませんから。」

 その場の全てを無視して、さより様はそう提案した。永村もそれに頷いた。すると二人は早速、教室の出口へと向っていった。ただ木鈴はまだどうしても諦めがつかなかったので、SF小説を拾い上げて、それから慌てて二人の後を追っていった。


教室の扉を開いた先は、当たり前だが廊下であった。しかしながら奇妙なことに廊下はしんとしていて、子供の嬌声ひとつすら響いていなかった。黒板にチョークを叩き付ける音もなく、授業中である様子もなかった。

「死亡時の状況は覚えていますか?」

 木鈴は小脇にSF小説を抱えて廊下を歩きながら、隣の永村にそう尋ねた。不意打ちの質問であった事もあり、永村は木鈴という人間に話すことを若干躊躇していた。だが、やがてポツポツと話し始めた。

「少しずつ思い出してきました。確か秋の十月?九月?くらいの頃だったと思います。給食に、こう、白くて大きくて噛みづらくて喉越しの不穏な感じの、」

「分かりました。もう大体分かったので大丈夫です。多分貴方の重大な記憶とは関係が無いと思います。」

 死亡理由を察知した木鈴は、さより様がせっかく消した記憶が戻るといけないのでこの会話を打ち止めにした。永村は腑に落ちていない顔をしているが、さより様がそれを宥めた。そして三人はそのまま廊下を歩いて行き、探索出来そうな部屋を探した。


 廊下に面している教室は幾つかあったが、それら全てに入れる訳ではなかった。扉の窓から見える限り教室では、丸に並べた机が燃え盛っていたり、甲冑を着た騎士がステゴロで戦っていたりしているのだが、それらの扉は頑なに開かないのであった。またある教室は扉の隙間から水が漏れていて、中ではサメらしき海獣が一頭泳いでいたのである。木鈴は喜々として入室を試みたが、幸い、ことごとく失敗に終わった。

「貴方の精神って本当に面白いですね。」

 褒め言葉のつもりで、木鈴は永村にそう言った。だが永村は苦笑する他無かった。

「永村さんは、この教室の中の光景に見覚えありますか?」

 さより様は後ろを歩きつつも、フェードアウトしていく永村の苦笑に耐えられなくなったのか、そう尋ねていた。永村は答えた。

「無いですね。まずこんなのって、普通体験しませんから。」

「そうですよね。」

 それで終わりだった。三人の間には微妙な気まずい距離が空いていた。

 その時三人は、廊下の一番端の教室の前までやって来ていた。隣には下の階に繋がる階段がある。どうやらこの階が最上階であるようで、上り階段の方には屋上進入禁止の看板と鎖が設置されていた。木鈴には小学生時代によく屋上で駆け回っていた記憶があるが、十年ほど前くらいからは転落防止のためどこの小学校も屋上進入禁止が推奨されていたのである。

 屋上に上がれないのは残念であったが、木鈴は気を取り直して最後の教室を覗いた。そして思わず、あ、と声を上げた。するとさより様と永村も、木鈴を押しのけて教室内を見やった。そしてさより様は木鈴の持っていたSF小説をひったくると、その表紙と教室の中を見比べた。

 その教室にあったのは、ランドセルの中にあったSF小説の表紙を飾る宇宙船と、全く同じであったのである。そして銀色の宇宙船には今まさに、マスタードとケチャップがかけられようとしている所であった。その側には大きな口を開けた緑色の体毛の生物がいて、五十六本の上歯と二本の下歯を剥き出しにしていた。そしてこの状況はCMか何かに使うのか、周囲には自立飛行型カメラも起動しており、大きなディスプレイに宇宙船が表示されていた。さらに教室の角には八本の腕を持つ謎の人物がいて、現場の状況に偉そうに指示を出しているのであった。

 その状況を見て、永村は言った。

「思い出した。全部思い出しました!」

 すると永村はさより様の手からSF本を奪った。だが表紙を開こうとした時に興奮から震えてしまったのか、本を取り落としてしまった。そして落下したSF小説は廊下に叩き付けられて、その拍子に一枚の紙が挟まれたページを開いた。SF小説の間に黄色い紙が一枚、折りたたまれて差し込まれていたのである。しかしながらそれは栞ではなく、一言のメッセージを抱えたカードであった。

 カードにはこう書かれていた。

「信じて」

 この一言だけであった。

 だが永村はこれを見やると、途端に顔を歪めて泣き崩れてしまった。大人がこうなるときには必ず深い理由がある。そして黄色のカードに触れることも出来ずに永村は、顔を手に埋めて座り込んでしまった。

「どうして忘れていたんでしょう、こんなにも大切なことを!」

「それで、それはどんなことだったんでしょうか。」

「ああ、どうして……」

「いや、まあ、時が来て忘れるのは当然ですし……」

 突然泣き出してしまった永村を前にして木鈴はかける言葉に迷っていた。しかしながら、この場にはさより様が居るので大丈夫であろうと彼は踏んでいた。だが木鈴の期待に反して、さより様も永村を前にして困惑している様子であった。

 木鈴は小声でさより様に声を掛けた。

「なぁ、君。こういうの得意なんじゃないのか?」

「いえ、実は私、繊細なコミュニケーションが本当は苦手なんですよ。いつも力業で解決しているので。多分、木鈴さんの方がいいこと言ってくれるんじゃないですか?」

 その後、木鈴とさより様は、どちらの方がコミュニケーション下手かをアピールし合い、コミュ障エピソードを語り合い、友人の数を申告し合った。そして最終的に、じゃんけんでどちらが永村に優しく声をかけるかを決定しようとした。

 しかしながら二人がじゃんけんをしようとしたその時、廊下から一斉に耳をつんざく派手な音が響いた。まるで本棚が倒壊した様な音である。

驚いて木鈴が顔を上げると、廊下に面した教室の扉が全て開いていた。なんだ、それだけかと思って木鈴はじゃんけんを再開しようとした。だが、自分の手が腕が、そして地面が細かく震えているのを見て、全身が一気に強ばるのを感じた。

「不味い!逃げろ!」

「遅いですよ木鈴さん!」

 気が付けば、さより様は永村に肩を貸して階段を降りている所であった。木鈴は慌てて廊下に落ちていたSF小説を拾い上げると、二人の後を追いかけていった。木鈴の背後では黒く濁った荒波が、教室の開いた扉から止めどなく溢れだしているところであったのだ。あのサメらしき海獣の咆哮が一つ、廊下の隅まで響き渡った。

「どこへ行く?下に逃げるのは不味かったんじゃないのか?」

「どっかですよ!」

「どっかって、どこなんだよ!」

 水の勢いは早く、そして衰える気配が無かった。そして背後からはずっとサメかなにかが唸りをあげる声が響いていた。とにかく大変危険なものが暴れているのは間違いなかった。

「教室にあったものは全て、永村さんが読んで印象に残った作品の一部なんでしょう。とにかく、現実的な常識が通用しない可能性は大きいです。」

「じゃあ、どうする。教室ごとにそんな怪物やら何やらがいるんだったら、この学校に逃げ場なんて無いぞ。」

 さより様は永村を担いだまま、それをものともせず階段を駆け下りていた。足下には黒い水が追いつきつつあったが、彼女の足は衰えなかった。そしてさより様は突然、妙案を思いついた顔をして言った。

「ここは永村さんの精神世界です。永村さんの思い入れが強い場所なら、他の要因から破壊される事はないはずです!」

「そうかじゃあ、」

 さより様は木鈴にウィンクをしていた。木鈴もそれを不器用に返した。

「図書室だな!」

 その時丁度、木鈴達の目の前に図書室案内の看板が現れた。図書室はあちら、と書かれた看板である。だがその看板に書かれた矢印は、教室の並ぶ廊下の奥にある曲がり道を左に進んだ先を示していた。

 木鈴達は進むしかなかった。廊下に面している教室の扉は開いていて何が飛び出るか分からない状態であったが、図書室に辿り着く道はこれだけであるのだ。水ももう既にくるぶしまでかかってきており足の動きも妨げられていたが、木鈴達は全力を出して図書室に向っていた。

 廊下に面している教室は、全部で五つである。一つ目の教室は、軍服の人々が忙しなく動き回る電話線だらけの司令室であった。彼らは迫り来る敵の情報収集と作戦会議で手一杯であり、教室のドアが開いたことにすら気が付いていない様子であった。木鈴達は難なく突破した。

二つ目の教室は、大量の水槽が積み上げられた空間であった。色とりどりの魚が一つの水槽にぶつかり合うくらいに入れられていて、美しいがとても窮屈そうな水槽であった。そして魚たちは人間と同じ言語を軽く習得しており、「解放」「自由」「もうすぐ」の計三単語を呟いているのであった。今後が心配であったが、とりあえず木鈴達はこれもクリアした。

第三の教室は、教室の中心に大きな振り子時計が一つ置かれているのみであった。だがこの教室に差し掛かったとき、水は既に木鈴の膝下までやって来ていた。木鈴より身長の低いさより様は更に動きにくそうであったが、彼女は懸命に前進していた。

永村はまだ泣いていて、周りの状況をまだよく理解出来ていない様である。木鈴は永村の腕の反対側をそっと支えてやると、さより様と二人体制で永村を前進させてやった。そして木鈴は、振り子時計からコッソリ伸びていた病的に細長い腕は無視した。

 第四の教室は、草原の上でウサギたちがニンジンを食べている空間であった。教室のウサギは全八頭。柄も色も全員違って全員一番。小さなお耳も垂れたお耳もよりどりみどり大天国。そんな空間だった。だった筈なのである。水さえ入り込んでいなければ。

 第四教室の惨状に少しばかり傷心した木鈴であったが、気をとり直して力強く一歩前進した。ここで少しでも止まってしまえば、黒い水によってどんどん動きが制限されていくのである。そして泳ぐことが出来る様になる頃には、いつあのサメらしき海獣が襲ってきてもおかしくないのである。して、木鈴達は休まずヘコたれず、最後の教室まで差し掛かった。

 最後の教室には、一人の女の子がいた。一人の女の子が死んだウサギを膝に抱えて、その閉じた瞼を指でこじ開けようとしていたのである。膝に置かれた茶色斑のウサギは濡れぼそったまま死んでいるので、勿論反応は無いようだ。そして女の子はウサギの腹を撫でたり抓ったりすると、不意に木鈴達の方を向いたのであった。

 女の子と目が合うと、永村は足を止めてしまった。木鈴とさより様は永村に声を掛けたり無理矢理先へと進ませようとしたが、永村は「行かない」の一点張りであった。

 そして、女の子は永村に向って言った。

「水風船みたいだよ。」

 すると、女の子は消えてしまった。だがその直前に、上履きを履いた無数の足が女の子の背後に一瞬だけ並んだのを、木鈴は確かに見た。

「ほら、もう行きますよ。この教室には何も無いじゃありませんか。」

 さより様は永村にそう訴えると、永村を引っ張って先へと誘導した。永村は一気に老け込んだ様子で、ほとんど力の無い状態であった。だが水がもう永村の胸部まで差し掛かっていたので、半ば浮かせる形で永村を運搬することが可能になっていた。黒く濁った水の中を、解放された魚たちがキラキラ光って泳いでいる。そんな水の中を永村は漂い、図書室へと向って行ったのであった。


 さより様の読み通り、図書室中は安全であった。扉を開けた後にも、黒の水一滴たりとも侵入しなかったのである。そして図書室内に入ると同時に全身の水も弾かれ、木鈴達は元の綺麗な状態に戻っていた。

 図書室は、至って普通の学校図書室であった。壁一面の本棚には辞書や図鑑や小説や児童書や絵本や教育漫画なんかが並べられていて、年季の入った本や人気の本には補修テープが何重にも巻かれている。年間別ギネスブックなんかはどの年代であっても表紙がボロボロであった。

 そして何と言っても香りが図書室なのであった。新品の紙ではなく、何年もの時間に晒されて醸し出された紙の、特徴的な香ばしい香りが充満していたのであった。木鈴は一先ず放心状態の永村を椅子に座らせると、その空気を深く吸って吐き出した。

 そしてその時ようやく、木鈴は自分が未だにあのSF小説を小脇に抱えていたことを思い出した。

その本はしっかり水に浸かってしまった筈であったのだが、すっかり全ページ無事な状態に戻っていた。一文字も滲んでおらず、紙も湯焼けていないのである。そして、あの黄色いカードもそこに挟まったままであった。

 木鈴はそのカードをこっそり抜き取って、資料として収集した。ジャケットのポケットに仕舞い込んでしまったのだ。無許可であったが、人の精神に大きく影響を与える貴重なものであり、本人にとっては悪影響であるものならば、勝手に取っても問題ないだろうという判断であったのだ。木鈴はこの時、さより様が記憶を消してしまうのと、何ら変わらない気分であった。

 そして木鈴は永村に声を掛けた。

「この本の方はどうしましょう。本棚に戻してしまいましょうか。」

 静寂の図書室の中、その声はよく響いた。だが永村は頭を垂れて座り込んだまま、返事をしなかった。さより様も何も言わなかった。もう誰もこの本に構っていられる場合では無いのである。

誰からも返事を受けなかった木鈴は、本の背表紙に貼られた整理タグを頼りに、本が元あった場所を探し始めた。本は誰の所有物でもなく図書室の物であるので、これだけはちゃんと戻した方がよいだろう、という考えに基づく行動であった。クッキー本を返却しそびれて司書に呆れられながら叱られた時の苦い記憶が、木鈴の中にこびり付いていたのである。

図書室はさほど大きくないため、その場所は簡単に見つかった。そして木鈴はSF小説を本棚の中にそっと戻した。

 すると、木鈴の背後から、突然幼い声が聞こえてきた。

「その本、まだ手続きしていませんよね。」

 その声に驚いたのは木鈴と、さより様と永村の全員であった。三人の視線は、突然現れた一人の女の子に集中した。そして誰もが声を失っていた。女の子が急に現れたことも驚きなのだが、その女の子は先程最後の教室でウサギの死体を触っていた女の子だったのである。ただその女の子はフリーズした木鈴など目に留めず、勝手に本棚に仕舞われたSF小説『流星64号ドッカンドッカン』を手に取ると、受付横の返却カウンターに本を置きに行ってしまった。

 女の子が受付横まで歩いて行くとき、女の子は永村のすぐ横を通った。だが、女の子は永村には一瞥もくれなかった。永村は随分と悲壮な顔をして女の子に手を伸ばしかけていたが、女の子はそれを全て無視していた。永村のことを意識していないのか、意識したうえで見ない振りをしているのかは分からない。ただ女の子が永村と目を合わせなかったのは確かであった。

 木鈴は足早にさより様に近づくと、小声でそっと尋ねた。

「あの女の子は永村さんの思い出から創られているだけで、別に死んでいる訳じゃないんだよな?」

「ええ、そうですね。人間味に差はありますが、先程の精神世界に居た加害者の方と同じです。」

 女の子は本を返却カウンターに戻してしまっていたが、そのカウンター前で何やら考えているような素振りを見せていた。すると女の子はやっぱりそのSF小説を手に取って、受付に座って読み始めた。

 癖であるのか、女の子は本の紙束の角を爪でガリガリ削っている。だがその顔はいたって真剣であった。木鈴達はその光景を黙って眺めていた。ただ女の子がページを捲るのを、少し離れた位置から見守っていたのであった。

 木鈴は、今度は永村に近づいて言った。

「あの子が心残りだったんですか?」

 女の子がページを捲る速さは一定である。だが女の子はまだまだ子供であるので、その速度は緩やかなものだ。そんな中、永村はゆっくりと頷いて過去の出来事を少しずつ話し始めた。

「真面目な子なんです。授業態度もよくて、勤勉な子でした。」

「大人ウケが良さそうですね。」

「ちょっと、木鈴さん!」

 さより様がすぐさま窘めたが、木鈴は別に反省する素振りは見せなかった。だが別に永村は木鈴の言動に関しては特別気にしていないようであった。

「教員が子供を贔屓するのは、よくないことだと分かってはいるんですけど、あの子とは特別仲が良かったんです。私の力不足で、私のクラスは問題児が暴走を起しがちで、クラスは崩壊していましたが、あの子だけはずっと心の底から好きでいられたんです。」

 教員とは言え人間である。全ての子供を無条件に愛するのは無理があると永村は言いたかったのであろう。木鈴はその考えに胸中で大きく同意していた。

「あの本はあの子のお気に入りですか。」

「ええ。SFだけじゃなくて色んな冒険奇譚が好きでしたね。でもあの子、急にオカルトとかにハマってしまって、ウサギの死体を埋めて踊ったりなんかして、それでイジメられてたんです。私は悔しかった。あの子本当は良い子なのに。」

「イジメはよくないですけど、ウサギの死体はちょっとやり過ぎだったのでは?」

「ええ、確かにそれはちゃんと指導しました!」

 この時、木鈴は己の小学生時代を思い出していた。ランドセルに蟻の巣を作ったりカルガモに芸を仕込ませたりはしていたが、流石にウサギの死体を弄る様なことはしていなかった。

「まあでも確かに、人間誰しも黒歴史といいますか、何かに触発されて変に格好付けちゃう時期はありますよね。」

「ええ、そうですね。」

「その子はどうしてそんな事をしていたのか知っていますか?」

「分かりません。ただ、死後の実験だとかは言っていましたけど。」

「素晴らしいですね。」

「冗談じゃありませんよ!」

 永村は声を荒げると、苛立たしげに前髪を握りしめた。瞳は充血して潤んでいる。

「私があの子を真っ当な人生に導いてあげなきゃいけなかったんです。こうも死んでしまう前に!」

 永村からは後悔の念がひしひしと漂っている。そんな風に眉を歪める永村の背を擦り、さより様は彼女を懸命に慰めていた。だが永村は一向に落ち着く様子がなかった。

 さより様が言った。

「そうでしたか。それは悔しい思いであったでしょうね。」

 よくある慰めの言葉である。だがさより様はそれ以上のことを言わなかった。言えなかったのだ。

 ここで、木鈴とさより様の緊急作戦会議タイムとなった。二人は嗚咽を漏らし続ける永村から最大限に距離を取った。あからさまな行動だ。そして二人は最小限の声量で囁き合ったのであった。

「まずい、まずいですよ木鈴さん。」

「君、本職にしては下手すぎないか?」

「聖職者とかじゃないので。」

「聖職者とかじゃないのか?」

 だが二人がどれだけ話し合おうとも何かが解決するわけでもなく、ただ時間が過ぎるのみであった。その間も永村は泣き続け、女の子はページを捲り続けていた。

「あの、もし駄目だったら、力尽くで記憶を消すしかありませんよね?」

「何で君はこうも早計なんだ。」

 木鈴はさより様が優しい人間なのかそうではないのかで迷い始めたが、すぐに「優しいが雑」という判定を下した。そして木鈴にはその雑さがそう簡単に許せなかった。なぜならこの世界は全て重要な研究対象なのだ。本来ならどんなものであれ繊細に扱わなければならないのである。

 しかしながらどんな状況であれ、木鈴達はさっさと前に進まなければならない。最終的に二人は小突き合い、言い争い、気合いを込めてじゃんけんをした。そして木鈴がチョキを出して負け、永村を優しく諭す役となった。木鈴は自分の手を呪ったが、さより様に全て消されてしまうよりかはマシかと捉えた。そしてどぎまぎしながら椅子を引き、永村の前の席に座った。

 誰しも、そんな嫌々慰められても気は休まらないだろう。しかしながら二人はそれに僅かに気が付きつつも、それを隠す器用なことは出来なかった。いい歳した大人であるのに、である。そういった技量は自然に身につくものではないのだ。適切な環境で適切なコミュニケーション経験を積んでおかないといけないのである。

それからしばらくして、木鈴は絞り出した様な声を上げた。

「永村さん。貴方が死亡してから、もう既に十年の月日が流れています。あの女の子も大学生かそこらになっているでしょう。」

 永村は無言であった。さより様はそっぽを向いていた。その視線の先には塗装の剥げた壁しかない。木鈴は苛立ちをぐっと堪えて、永村とのコミュニケーションに集中しようとした。

「ですからね、もう貴方は楽にした方が良いと思うんですよ。もうどうしようもないんですから。辛い過去があったとしても、それで苦しむ人は少ない方が良いんじゃないですかね。」

「慰めようとしているんですか。」

「そうです!」

 食い気味に木鈴は肯定した。本当にそうであったからだ。

「第三者が何言っているんだって感じでしょうけどね。お節介なツチノコが何か囁いていると思って下さい。」

 すると、木鈴はポケットからあの黄色いカードを取り出して永村の前に差し出していた。本当は手放したくなかったのであるが、もう既に次の手に困った状態であったので、咄嗟にそうしてしまったのである。木鈴は胸中で激しく後悔していたが、それをポーカーフェイスでぎりぎり隠していた。

「これ、読みましたか。」

「ええ」

「信じて、と書いてありますね。」

「そうですね。」

「恐らくあの子の言う死の研究だとかに関わる事なのでしょう。」

「ええ、そうです。」

 木鈴は拳を握りしめて言った。

「もう信じちゃいましょう!」

 この時、永村とさより様と、そして木鈴の胸中は一致していた。「急にどうした」である。提案者の木鈴でさえも己の発想について行けていなかった。木鈴は考えるよりも先に口を動かしている所があったのだ。

 永村が黙り込んでしまったので、ここでさより様が口を挟んだ。

「木鈴さん、それとこれはどう関係しているんでしょうか?」

「え、ああ、そうだな……」

 木鈴は頭をフル回転させていた。学会での質疑応答に負けず劣らずのレベルで脳を酷使していた。そして木鈴は永村にこう言っていた。

「永村さんは全然悪くないんですけどね。正直もう永村さんに出来る事ってないじゃないですか。」

「ちょっと木鈴さん!永村さんはそれでこんなにヘコんでいるんでしょうが!」

 するとすぐさま、さより様のツッコミと暴力が襲いかかってきたが、木鈴はそれを受け止めつつも口は閉じなかった。ここまでは想定内であったのである。

「だからもう、環境のせいにしましょう!永村さんは正しい人であったし、あの子の死後の研究だとかも、詳しくは知りませんが着眼点は素晴らしいですよ。実際、死後世界はあるわけですからね。」

 木鈴はズレた眼鏡をそっと直しつつ、永村の様子を窺った。そして彼女の顔が釈然としていないのを見ると、一度咳払いをして言い加えた。

「あの子の言っていたことは、完全な虚構とは言い切れないでしょう。そして何よりいけなかったのが、あの子を認めなかった環境なんですよ。」

 ここでようやく、さより様も加勢に入った。

「せめて永村さんが味方についてあげましょうよ。そうすれば届かなくても、あの子の力にはなれるかもしれませんから。」

「本当ですか?」

 ここで問題が起こった。詰めが甘いとは正にこの事である。永村にそう問われたさより様と木鈴は二人とも回答に自信を無くし、同時に顔を見合わせてしまったのだ。そして不適切な間を作ってしまったことをお互い瞬時に気が付くと、慌てて永村に向き直って下手な笑みを浮かべた。

「ええ、そうです!本当ですよねぇ、木鈴さん!」

「え、ああ、そうですよね永村さん⁉」

「私に聞くんですか⁉」

 何がいけなかったかといえば、木鈴とさより様が両者とも優しい嘘を付くのが下手であった事である。事実を正しく解釈するのが最善であると考える二人にとって、咄嗟に嘘を付くのは不可能であったのだ。木鈴はこの時になってようやくさより様が聖職者の人間でない事を納得した。

ただどういう訳か、不幸中の幸いで永村はもうすっかり泣き止んでいる。ここでうまく場を締めることが出来れば全て解決だと木鈴は踏んだ。

「とにかくですね、僕達は優しい心を持った貴方様が苦しむような世界は好ましくないんですよ。そうだろう、さより君。」

「それはそうですね。」

 さより様はすぐさま肯定の返事をして首を上下に激しく振り始めた。

「過去はどうしようもありません。ですが永村さんが今やるべき事は、もう自責ではないと思いますよ。」

 いかにもそれらしい言葉であるが、これはたった今即席で練られた言葉であって、発言者である木鈴自身もその出来栄えに驚いていた。自分によくこんな優しい言葉を言える能力があったと、家族や三竹や学園長が知ったら卒倒するのではないかと、そう思い浮かべていた。

 その後は円滑であった。

永村はまたもや啜り泣き始めていたが、前よりかは苦悶が少ないように見受けられる。そしてそのまま永村は女の子の側に寄ると、跪いてその肩に手をやり、そっと呟いたのであった。

「里緒ちゃん。疑ってごめんね。悲しかったよね。」

「永村さんも間違ってはいなかったと思いますよ。」

女の子はページを捲り続けるだけで返事はしなかった。この図書室に特別大きな変異が起こることもなかった。ただ、どの小学校にもあるような普遍的な空気が漂っている。それだけが延々と続く様であった。

木鈴とさより様はこっそり目を合わせると、頷き合ってその場を後にした。


図書室の外側の廊下の水は、いつの間にか干上がっていた。そして廊下では色とりどりの魚たちが、苦しげに飛び跳ねている状況であった。

そんな廊下を歩きつつ、さより様は言った。

「木鈴さんって、案外良いこと言ったり言わなかったりしますよね。」

「僕はただ、思った事を言ったり、言うのを我慢できたりしているだけだよ。」

「悪いことだけを言わないようにする努力は出来ないんですか。」

 君だって口の軽さを何とかした方がいいんじゃないかと、木鈴は言いかけて止めた。本当にそうされてしまえば木鈴は困るのである。そして口に出す前に、運良くそれに気が付けたのであった。

「でもなんか、木鈴さんがあんなこと言うのは意外でしたね。もっと他人には無関心だと思っていたんですけど。」

「僕は子供に優しいからな。」

「それ、本当ですか?」

「それより君の不器用さこそ意外だったぞ、やっぱりこの職業は向いていないんじゃないか?」

「うるさいですね。」

 その後、木鈴とさより様は子供の想像する世界について話したり、小学校時代の先生について話したり、魚の可食部について話したりした。それは死後世界には似つかわしくない、随分と穏やかな時間でもあった。

 木鈴は言った。

「だが今日という日によって僕は大きく変わるような気がするよ。こんなにも人に優しくしているのは初めてだからね。」

「そうなんですか?」

「勿論、隠された真実を知った学者としてのこともあるがな。」

「……」

しかしながら話の流れから、木鈴は不意に襲撃者のことを思い出してしまった。この死後世界にアクセスしようとしている不届き者のことである。

「なぁ君、あんなに小さい女の子でも案外真理に近づいたりするもんなんだ。」

「ええ、そうですね。」

「さより君が危惧している襲撃者も、うっかりこの死後世界を覗き込んじゃっただけかもしれないな。」

 すると、さより様は至って真面目な表情をして答えた。

「いえ、それは無いでしょう。」

「どうして?」

「手法が応用精神制御学会の定めたものとほとんど同じなんですよ。」

「誰か他に死んでいるのか?」

「いえ、死後世界をちょっと覗こうとするくらいなら別に死ななくても良いんですよ。でも、この手法に偶然行き着くとは思えませんね。」

 さより様は伏し目がちになっている。だが木鈴はそれに気遣わずに言った。

「じゃあもう犯人は応用精神制御学の関係者なんじゃないか、だったら問題ないじゃないか。」

「いいえ、関係者の仕事にしては荒さが目立ちすぎるので違うでしょう。あれは素人の仕業です。恐らくは情報がどこからか漏れてしまっているんです。」

「漏れたところに心当たりはあるのか?」

「分かりません。」

 情報がリークされていると言うことは、誰かがそれを強奪したか、身内に裏切り者がいるという訳である。いずれにしてもそれはあまり思わしくない状態であった。

 木鈴は苦心して頭を掻いた。論文のネタはもう他の連中も握っているという訳なのだ。しかも非正規の手段によってである。これには木鈴も悔しい思いであった。

だがその時、目の前に精神世界の端っこがようやく現れた。廊下に面した水道が実は天井から張られた膜に映されたスクリーン画像の様であって、全く奥行きが無かったのである。

 さより様は声音を変えて言った。

「よし、ようやく辿り着きましたね。」

 木鈴もそっちの方に気を移した。くよくよしていたら死にかねないのである。

「ああ、もう一回だな。」

「じゃあ行きますよ、準備はいいですか?」

 そう言うと、さより様は木鈴に手を差し出した。木鈴は結局、その手を躊躇いがちに握った。

「一、二の三で行きます!」

 さより様はそう言ったものの、カウントダウンはしなかった。こういうのは気分とノリの問題なのであり、十分に気合いが高まっている状態では不要なのである。

次の瞬間、木鈴は身体の芯を掴み上げられたような浮遊感に襲われ、驚いて目を開ける頃には、青い空の下を急速に落下していたのであった。木鈴は思わずさより様の手をきつく握り返してしまっていた。

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