第11話 ハンバーガーもサンドイッチ

喫茶店の中には、どうやら店員は居ないようである。木鈴達も黙り込んでしまった今、大きな窓の向こうで車が走り抜ける音が聞こえるのみであった。外はいつの間にか雨が降っている。車のヘッドライトがやけに明るく、通過する度に店内を少し照らしていた。

 木鈴達は窓から一番遠い席に座っている。そして例の犯人とその被害者は、窓に面した席に腰掛けていた。木鈴とさより様は、今更話し出すのも気まずい状況であったので、二人して無言で犯人達を観察していた。

 犯人と被害者の間には、一皿のサンドイッチプレートが置かれている。それはどちらか一方の前に置かれているのでは無く、テーブルの丁度真ん中に位置していた。そしてそのプレートの上には、サンドイッチが一切れだけ残されていた。

 アスファルトの溝に溜まった雨をタイヤが弾く音だけが店内に響いている。木鈴は目の前の光景を、ドラマのワンシーンでも眺めるかのような気持ちで見ていた。二人がどんな関係であったのか、一体何があったのか、木鈴は何一つ知らない。ただ一つ覚えがあるのは、犯人は現在服役中であるという事だけであった。

 突如、店内の明かりが消えた。停電でも起こったか、それとも誰かが急にスイッチを切ったかの様に、全ての電球が一斉に消えたのであった。突然の暗闇に目の見えなくなった木鈴であったが、車のヘッドライトだけは絶えず続いていたが為に、例の二人組を見失うことは無かった。

 大きな音を立てて、皿が割れた。暗がりの中ヘッドライトが二人の悲壮な顔を映し出したと同時に、両者とも目の前のサンドイッチに手を伸したのである。サンドイッチは二つの手に掴まれてバラバラに崩れかけた。だがサンドイッチは二人の手にきつく握りしめられて、ぐちゃぐちゃに押しつぶされた形に留まった。そして二人は、たった一つのサンドイッチを奪い合い始めた。

 二人の男達が断続的なライトに照らされて、テーブルの上で揉み合っている。木鈴はそれを、思わず立ち上がって眺めていた。だがどうも、止める気にはなれなかった。木鈴はこれまで通り外野から、二人の行く末を静観していた。

遂にサンドイッチは、二つの手によって裂かれた。パンに染みついた赤いものが、トマトの汁か血液かは分からない。ただ二人は掴んだボロボロのサンドイッチを、それぞれ相手の口の中に押し込もうと奮闘していた。

二人はもはや床の上を転げ回っていた。互いに腕を脚を胴を蹴り合い、呻く声が双方から上がっている。しかしやがて、片方が相手の首を掴み、全体重をかけて床に張り付けた。上に乗っているのは、被害者の方であった。被害者が犯人の上に跨がって、サンドイッチを犯人の口に捻じ込もうとしているのであった。

「止めなさい!」

 その時、さより様が動いた。彼女が被害者の肩に突進し、被害者を無理矢理突き飛ばしたのである。鈍い音がして、被害者は喫茶店の壁に衝突した。その手からは、唾液に濡れたサンドイッチの残骸が零れ落ちた。

 被害者が言った。

「誰だ、あんたら。」

さより様が壁のスイッチを押すと、明かりはあっさりと付いて元の状態に戻った。木鈴は突然の光に目が眩んだが、それは被害者も、そしてさより様も同じであった。しばらく三人で顔を腕に埋めるだけの時間が続いた。そして誰も顔を上げないまま、最初にさより様が口を開いた。

「私はさよりと言う者です。隣に居るのは大学准教授の木鈴先生です。」

「木鈴先生⁉」

 被害者もまた大学の生徒であったのか、木鈴のことをちゃんと知っていた。そして驚いた拍子に思わず顔を上げて、電球の明るさに顔を顰めた。

「あ、俺、建築デザイン学科の岡(おか)取(とり)です。ええと、どうも、こんばんは。」

 木鈴は未だ顔を上げられない状況であったが、被害者が畏まって挨拶をしている気配を感じ取って、腕に顔を埋めたまま一先ず会釈をした。木鈴は一応犯人と形式上密接な関係のある人間であるので、常識的には何かしら一言だけでも述べるべきである。しかしながら、木鈴はこの事に関して特に何も言わなかった。

「あの、先生達は何でここに、といかそもそも僕は何故こんな所にいるんでしょうか。」

「それについては、隣のさより君が教えてくれるさ。なぁ、さより君。」

 木鈴は、まだ顔を上げずに言った。顔を上げていないのは、もう木鈴だけである。そんな木鈴に話を丸投げされたさより様であったが、彼女は嫌がるでも面倒くさがるでも無く、神妙な面持ちのまま、木鈴にも話したおおよそのことを岡取も言って聞かせた。

 岡取は、随分と驚いた様子であった。当然、死後世界というものがあるという点にも驚いていたが、それより先に、自分自身が既に死んでいたとは知らなかったのである。これにはさより様と木鈴も思わず顔を見合わせた。そしてこの時、木鈴はようやく腕から顔を上げたのであった。

「そうですか。このサンドイッチを食べたのは僕だったんですね。」

 犯人は、床に倒れたまま動かないでいる。目を開いたまま瞬きもしていないそれは、精巧な蝋人形のようであった。

 自身の死を知って力が抜けてしまったのか、被害者はよろよろと腰を曲げて犯人の上に座り込んだ。犯人は何も言わないし、動かない。木鈴は現実世界での犯人を知っているが為に、それが恐ろしく不気味であった。だが、被害者の方はあまり気にしていない様である。

 木鈴には、被害者の心境がよく分からなかった。毒が入っているサンドイッチを押し付け合うにも関わらず、側に居ることを厭わないというのが不思議であった。

「君達は、一体どういう関係性だったんだい?」

「それが、よく思い出せないんです。」

 どうやら、理解出来ていないのは本人も同じである様であった。

「最初はなんだか、怒りに任せてサンドイッチをコイツに食べさせようとしていた気がするんです。でももう今になっては、なんでこんなことしているのか自分でも分からないんです。何回やってもコイツにサンドイッチを食べさせられないから繰り返し試してはいるんですけど、この行為に意味があるのかはもうわからないんです。」

 木鈴は、さより様の方を向いた。彼女はその視線に気が付いたのか、すこし木鈴に頷いてから話し始めた。

「きっともう、貴方の精神が消えかかっているんでしょう。風がやがて消えて無くなるのと同じです。」

 いつの間にか、床に落ちていたサンドイッチも、犯人の手の中に潰れていたはずのサンドイッチも無くなっている。割れたはずの皿はその破片すら無くなっていた。そして代わりに、テーブルの上には一枚の皿と一切れのサンドイッチが、綺麗な状態で置かれていた。サンドイッチの具は、潰れたはずのものと全く同じである。またスタートに戻っているのであった。

「木鈴先生は何かご存じでしょうか。」

「そうだなぁ。」

 木鈴はこっそりとさより様の方を見やって、彼女が器用にウィンクをしているのを確認すると、迷わずすっとぼけた。

「知らないな。」

「そうですよね。何故でしょう、そういわれてもあまり不思議じゃ無いんです。木鈴先生は一体どんな先生だったんですかね。」

「僕はまだ死んでいないぞ。」

「変な人だってよく言われていましたよね。」

「そう、だったかもな。」

「二年生の建築模型を勝手に持ち出して河川の水害実験に使ったのって先生でしたよね。」

「君、本当はまだ結構記憶残っているんじゃ無いのか?」

 確かに、木鈴は数年前にそんな事をしでかしていた。老朽化により通常使われる事の無いひっそりした講義棟の廊下を歩いていたら、たまたま目の前に建築模型が並んでいて、OBOG達が置いていったものかと勘違いしたのである。ただこの件に関しては、連絡を怠った木鈴に十分な非があると言える。木鈴は今度こそ背筋を正して頭を下げた。

「ところで、俺が消えるって本当ですか。いまいち実感が湧かないんですけど。」

 岡取は木鈴を無視して、直接さより様にそう尋ねた。さより様は答えた。

「そうですね。多分、眠るような感じなんじゃないですかね。」

「そしたら、僕はどこに行くんですか?」

「どうでしょう。詳しいことはまだ私にも分かりませんから。お好きなように考えて下さい。」

 消えてお終いじゃ無いのか、と木鈴は思ったが、口にしないでおいた。さより様の目が、余計なことは言うなと訴えていたのだ。

「あと、どれぐらいですかね、終わりが来るのって。」

「ここには正確な時間の尺度はありませんから、なんとも言えませんね。でももう、すぐそこまで迫ってきているとは思います。」

 突然岡取は、下敷きにしていた犯人の顔を引っ叩いた。だがそれは恨みを込めた暴力では無く、ある種の気つけの様であった。

「俺達、あと何回繰り替えせばいいんだろうなぁ。お前もなんか言ってくれればいいのに。」

「嫌ですか。やっぱり。」

「そりゃそうですよ!好きでサンドイッチ押し付け合う奴なんて居ませんって!」

 ここで初めて、岡取は声を上げて笑った。くしゃっと目を細めて、えくぼを浮かべる笑い方であった。木鈴はその顔を、少しみつる君に似ていると思った。

「サンドイッチのことを忘れれば、止めることが出来るかもしれませんよ。」

 手を擦って、さより様はそう言った。岡取と木鈴は、驚きと疑問を同時に発生させた。

「どういう事ですか?」

「私は皆さんの精神を操ることが出来るんです。言い方を変えれば、記憶を消してしまったり、書き換えたり出来ちゃうんです。そうするとこの世界の状況も、貴方の知る自分自身をも変える事になります。」

 さより様は、座り込んだままの岡取に一歩近づいた。

「どうしますか?サンドイッチのこと、消してしまいますか?」

 岡取は迷っている様であった。だがしかし、それも一瞬であった。岡取は下敷きにしていた犯人をちょっと踏んで立ち上がると、さより様の手を取った。

「お願いします。もう俺は意味も分からずに争いたくないんです。」

 すると、さより様は腕を伸して、岡取の額を少し撫でてやった。それだけであった。特別綺麗な光線が出るでもなく、岡取が涙を流すでもなく、あっけなく終わった。これにて、岡取の中からサンドイッチは、その単語の意味ごと消えてしまったのであった。

「はい、終わりましたよ。お疲れ様でした。」

 さより様は岡取に向って一礼していた。それを見やると岡取も、慌てた様子で頭を下げた。当然ながら、岡取の顔からは喜びよりも困惑が滲んでいる。

「どうでしょう、木鈴先生。俺は何かから解放されたんでしょうか。」

 テーブルの上のサンドイッチは消えていて、代わりに三段重ねのホットケーキが出現していた。そして例の犯人は、いつの間にかホットケーキの正面に座ってフォークとナイフを握っていた。犯人の顔は、とても穏やかであった。木鈴はそんな表情の彼を初めて見たが為に、別人でも見ている心地であった。

「そうだな。少なくとも、君を苦しめていた要因は消えている様だぞ。」

 岡取はそう言われても疑心暗鬼な様子であったが、もう一度頭を深く下げて二人に礼を言った。木鈴はそれを、まんざらでもなく受け取った。

 これにてこの件は一件落着である。犯人はゆっくりとホットケーキにナイフを切り入れ、一口大になったそれに流れるバターを絡めていた。満足そうなその顔が、夜の窓にも反射して写っている。岡取はそんな彼を、眉をひそめて見下ろしていた。犯人に関しては覚えていることが少ないのかもしれない。木鈴は岡取が元の席に座って、神妙な面持ちで犯人を眺めているのを黙って見守ってやった。だが、しばらくしてもテーブルにサンドイッチが現れないのを確認すると、木鈴は岡取に別れを切り出した。

「それじゃあ、僕達はこれで。」

「あ、もう行ってしまうんですか。」

「ここに来たのは、別件だったからな。」

「私は今のが本職だったんですけどね。今はちょっと急いでいるのでこれで失礼します。それでは、さようなら。」

 木鈴は自身がこの現場にそぐわないことを自覚していた。その為、実は最初の方からこの場を立ち去りたくてたまらなかったのである。木鈴はさより様を半ば押す形で、彼女を喫茶店の出口に誘導していた。彼女は最初それに抵抗したが、木鈴を早く生き返らせる使命があった為、文句は言わなかった。

「あの、最後にいいですか。」

「なんだい、今更何か聞きたいことがあるのか?」

 木鈴はさより様と喫茶店のドア前に到着していたが、ドアノブに手を伸す前に岡取が声を掛けた。木鈴が渋々その声の方を振り返ると、そこでは岡取が立ち上がって木鈴達を見つめていた。その目はとても真剣で、まっすぐなものであった。

「あの、パンの間にサラダとか卵とかハムとかを挟んで一気に食べられるようにしたら、滅茶苦茶美味しいし、食べ易いと思いませんか?」

「ハンバーガーだな。」

「ハンバーガー?」

「あ、ちょっと!」

 この時、さより様が突然木鈴のネクタイを引っ張り、無理矢理耳元を近づけて囁いた。

「木鈴さん不味いですよ!ハンバーガーもサンドイッチの一種なので。」

「細かいな。」

さより様の行動は些か暴力的であったが、木鈴には全くもって問題では無かった。こういったことがよくある木鈴は、ネクタイを掴まれた瞬間に条件反射で首を下げていたが為に、ダメージにはならなかったのだ。木鈴は突然の暴力に慣れていたのである。

 一方で岡取は、二人が会話を始めてしまって気まずかったのか、少し首を傾げて何を言い出そうか迷っている様子であった。だがその前になって木鈴が、空気を読んでとりあえず岡取にこう言った。これは意識して言い始めたものでは無かったが、結局上手いこと締めのセリフにもなった。

「君は、そういった食べ物に凄い情熱をかけていたみたいだな。君が作った創作料理を是非食べてみたいよ。ただ、そういった発明はむやみやたらに人に話していいもんじゃないぞ。後々権利問題とか面倒になるからね。そこに居る友人君とは明日の天気だとか終末についてだとかを話していればいいだろう。それでは、さようなら。」

 一息にそう言い切ると、木鈴は勢いよく喫茶店のドアを開いた。その後ろで岡取が、大きな声で礼を叫んでいた。木鈴は軽く手を上げるだけでそれに応え、振り返りもせず喫茶店を出て行った。


 喫茶店の外側は、木鈴が丁度轢かれた道の先であった。喫茶店を出て東に真っ直ぐ進んでいけば病院があり、南西方向に移動すれば大学があるのだ。

 木鈴は一瞬だけ現実世界に戻って来た心地になったが、隣には異質な雰囲気を纏う女が居た為に、そう簡単にリラックスした気持ちにはならなかった。それに、状況は事故当時と同じく夜であったが、この場所では雨が降っていた。

慣れているからか、木鈴はこの程度の雨では傘が無くとも狼狽えない。さより様はどこからか取り出したのか赤い傘を差していたが、木鈴はそれを奪ったりしなかった。

 木鈴は先程までの出来事をぼんやり考えながら彼女に話しかけた。眼鏡のレンズには大量の水滴が付いていて、ワイパー無しでは前も見えない状況になっている。だが、木鈴は意地でも傘が欲しいとは言い出さなかった。木鈴は勝手に、自分自身相手に意固地になっていたのである。

「よく考えてみれば残酷だな。酷い死に方をした人がこうも死後世界に縛られるのは。」

「それを救うために私が居るんですよ。」

「そう言えば、ああいったのが本職だと言っていたな。」

 車道には相変わらず多くの車が通っていたが、自動車ばかりが一定の間隔を保って通り過ぎていくという点では現実世界と異なっていた。トラックが無いという事は木鈴にとってありがたかったが、こうも規則的な動きをされると不気味さも出てきていた。

 さより様の顔も、ライトに照らされて浮かび上がったり、その直後に闇に紛れたりしている。木鈴はそれを見ながら、自分が車道側を歩くべきかと迷ったが、今更スマートに立ち位置を変える方法も思いつかなかったので、そのままにしておいた。彼女の方が強そうである、という考えもあった。

 そんな中、さより様は言った。

「実は、応用精神制御学というのはごく少数の人間しかその存在を知り得ないものでして、進歩も遅い分野なのですが、その代わり、ほとんど全員の目的が一致しているんです。」

「へぇ、それはどんな?」

「死後の精神の安泰です。私達はずっと、その事だけを祈ってきました。」

 怪しい宗教じみた話だと、木鈴は直感でそう感じたが、実はそれがちゃんとした真実に基づいていると突きつけられてしまっていたが為に、何も言えなかった。ただこれが本当に立派な科学的学問であることに対する違和感は拭えないでいた。

「表沙汰には出来ませんでしたが、何人か正式な教授もついていて下さったんですよ。」

 そんな木鈴の疑念を察し付いたのか、さより様はそう呟いた。

「じゃあ、君はそんな教授の指導のもと、特殊な訓練を受けてこの世界にやって来たわけだな。」

「まぁ、そうですね。」

「極秘で。」

「極秘でしたね。」

「君はこれで良かったのかい?」

 木鈴はなんとなしに、素朴な疑問からそう言った。その直後になってようやく、変な質問であったかと後悔したが、言ってしまったものはもう取り返しが付かないものである。木鈴は全然成長していなかった。

「良かったとは、思いますよ。我々の悲願でしたからね。それに、少しでも誰かを救えるというのが、私には嬉しいんです。」

 さより様は、傘をくるくる回しながらそう言った。赤い傘の端から水滴がぱたぱたと流れて、勢いよく飛んでいっている。木鈴はその水滴がヘッドライトできらり輝いて、自分のジャケットを濡らしているのを見た。だが木鈴はもう既に全身が雨に濡れていた為に、文句は言わなかった。

「君は、そうだな、医者に向いている。」

 これは、木鈴なりの褒め言葉であった。木鈴が考えに考えて導き出した、貴重な褒め言葉であった。さより様にはいまいち通じていないようであったが、木鈴は彼女に敬意を表してそう言ったのであった。

「でも流石に、君一人だけじゃこの世界全員を救うことは出来ないだろう。何しろ数が多すぎる。」

「ええ、そうですね。ですが、」

 ですが、とまでは言ったさより様であったが、急に伏し目がちになって言い淀んでしまっていた。そして、遂には黙り込んでしまった。木鈴はさより様の言おうとしていた事が気になって仕方がなかったが、強引に聞き出す訳にもいかなかった。

「やっぱり、力を得るのは難しいのか?」

「ええ、そうですね。」

「死ななければならないのか?」

「まぁ、そうですね。」

「具体的にはどういう感じで?」

「それは言えませんよ。」

 その時、さより様が不意に傘を閉じた。木鈴は彼女を怒らせてしまったかと思い身を固めたが、そうではなかった。目の前に、精神世界の終わりがあったのである。遙か遠くの方まで道が続いているかのように見えていたが、それは実はだまし絵のようになっていて、いつの間にか天まで届く大きな膜が存在していたのだ。

「では行きましょうか、木鈴さん。」

「この先に別の精神世界が無ければ、」

「木鈴さんは現実世界に戻れます。」

「外れだったら、」

「また別の人の精神世界ですね。」

 さより様は赤い傘を丁寧に畳むと、電柱に立てかけて放置した。木鈴は眼鏡を外し、レンズに溜まった水滴を振り切った。

「いいですか、木鈴さん。次の世界に移ったら、一先ずはその場を逃げますよ。突然頭上から隕石が降ってきてもおかしくないんですからね。」

「ああ、分かった。」

 木鈴はジャケットで濡れた手を軽く拭くと、その手をさより様に差し出した。さより様は木鈴の意図が分からなかったのか、小首を傾げている。

「あぁ、そうか別に手を繋ぐ必要は無いのか。」

「まぁ、繋ぐに越したことはありませんけどね。」

「なら大丈夫だな。」

 咄嗟に手を引っ込めた木鈴は、恥ずかしさからか、足早に出口に向おうとした。だがその腕をさより様が掴んだ。さより様はすこし笑っている。

「私が木鈴さんを引っ張ります。だから木鈴さん、この手を離さないで下さいね。」

「いや別にその必要はないだろう。」

「死なれると困るので、ご協力お願いします。」

 さより様は口角を上げ、ふんぞり返った状態で木鈴に手を差し伸べていた。木鈴はその手を絶対に取りたくは無かったのだが、拒否する口実を思いつかなかった。結局木鈴は、さより様の手を取るほか無かった。

「じゃあ、行きますよ!木鈴さん!」

 そう言った時にはもう、彼女は一歩目を踏み出していた。木鈴も、それに引っ張られる形で進んで行った。相変わらず、さより様の力は強く、頼もしいものであった。

さより様の身体が膜を突き抜けていくと同時に、木鈴の指先にも生暖かな感触が走った。そして腕も向こうに入り込んでいって、次に顔にもその感触が走ると、木鈴は思わず目を瞑ってしまった。膨大な量の視覚情報が、一気に脳へ入ってきたのである。誰かの一生分の思考回路を全て図解されている気分であった。

だが、それも一瞬であった。眩しい光を感じて木鈴が目を開くと、そこは、小さな机の並ぶ教室であった。そしてその端っこで、一人の大人が苦しげに倒れている所であった。

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