第二幕

 34名の無気力な学生たちがわたしを凝視していた。彼等は盗掘された骸のように蒼白で皆一様に同じ顔をしている夾雑物。壇上ですべてを終えたわたしは教授の舌打ちを受けながら、自らの席に戻ることも出来ず、かと言ってこのまま立ち止まることも許されそうにない絶望的な宙ぶらりん状態で沈黙していた。誰もがまるで罠に捕らえられた鼠のようにひたすらこの部屋を包み込む静寂から逃れたがっているように思われた。わたしはすべてを諦めて真っすぐに部屋の奥を見つめた。わたしの隣に並べられた四脚の椅子には誰も座っていなかった。

「まず一つ君に聞きたい。答えてくれるかな?竹中優子君」

金魚のような瞳をぱちくりさせて、髪はライオンのように反り上がって猛々しいが、全身が痩せこけて寧ろ病毒持ちの老猿のような秦野教授は冷静さと憤怒の混じった生温かい声で言った。わたしは糾弾の恐怖に怯えながら彼の方に向き直る。彼の隣の院生は何か達観した風の澄ました顔でわたしが丹精したレジュメをぱらぱらとめくっている。

「君の班のメンバーはどこにいる?」

わたしにはわからなかった。彼等、わたしの班のメンバーがどこにいるのか。わたし達は仲違いしたのだった。わたしたちは演習講義の課題として班をつくって京都のある寺の調査を発表することになっていた。基本的に文学部ではどの大学もこのような課題が出される。それぞれが調査し、共同で一つのレポートに結実させる。誰かが欠けると儘ならないし、一人の無気力な学生が投げ槍な調査を行っただけで、班全員の評価は地を這うことになる。そしてわたしの班はわたし以外の全員が無気力な学生だった。わたしには焦りがあった。何としてでも結果を残さねばならないと躍起だった。別段わたしが真面目だったというわけではなく、ただ周囲はありふれた大学生という気怠い風に流されてそよぐ雑木林であり、わたしはそこにさえ届かぬ灰汁の強い筍だったのだ。





「もう優ちゃんも大人ね。一人暮らしするんだから」

入学式後、母親と祖母とで高田馬場のサイゼリヤに行った。関西で四年間大学生として過ごす心算が、気がつけば首都の大学で学びながら一人暮らしすることになっていたのを、母は驚きつつも嬉しかったらしく、しきりにわたしのことを「大人」を枕詞にして祖母と会話するのだった。祖母は皺だらけの顔をさらに皺だらけにして笑っていた。よく笑うのがわたしの家だった。男は寡黙で女は雄弁だった。

「うへえ。出来れば新幹線で大阪から通学したいよう」

半分冗談半分本当にわたしはそう思っていた。わたしは「大人」になりたくなかった。行きたい大学が偶々関東にあっただけで、もし関西に大学があれば、わたしは喜んで満員電車に揺られ吐き気を催しながら(わたしは酷く乗り物酔いするのだ)、二時間でも三時間でも実家から通っていただろう。わたしは「子供」のままが良かった。それは甘えられるからというのもあったけれど、わたしとしては大人の汚い部分をR大学に在籍していた頃に見すぎていたのが最たる原因だった。




はかっこいいものだと思っていた。事実、朝出勤する父親の寡黙な背中は広く、家事だけでなく、外国人労働者に日本語を教えるボランティアに従事している母親の優しさは深い。まさにわたしが思い描くだった。けれど、R大学で出会ったすべての「大人」たちが醜悪だった。わたしはこれ以上彼等に囲まれたら死んでしまうかもしれないとさえ思った。ちょうど四万十の魚たちが道頓堀の濁りに耐えきれないのと同じ原理だ。「大学生は大人か?」と聞かれればわたしはYesと答える。それは彼等が立派であるからではなく、彼等が既に醜さとはなにか、汚らわしいとは何かを知り、嬉々として実践している点でそうであった。彼等は両親のようでなく、寧ろ両親は「大人」という存在の中では珍しい部類に入るのだと理解した。だからいっそのこと子供のままで居たいと願ったのだった。




「きっと良い人たちに出逢えると思うわ、あたし。ねえ母さん(祖母は何度も頷いた)。それにあなたには素晴らしい先輩がいるんでしょう?あの、ほら」

ミラノ風ドリアを丁寧にスプーンで切り分けながら母は言った。彼女は小食なので、わたしがいつも半分食べることになっているのだが、、今日は大丈夫なようだ。

「佐々座先輩のこと?先輩は親身に相談にのってくださるだろうけど、彼は商学部よ?」

わたしはプチフォッカ(まだ巨大な一匹の豚みたいになってない頃の生地の食感が楽しい四っつ入りのやつ)にエスカルゴを詰めて、指に垂れたバジルソースを舐めようか舐めるまいか思案しながら言った。

「やーね、優子ったら。違うわ、あなたのさんのことよ」

「上田先輩?あの人は彼氏じゃないし大学も違うし忙しいはずよ、いろいろとね」

その時のわたしが一番幸福だったと思う。大学のがあって以降入試の直前期になるまでわたしたち親子は少々険悪な雰囲気で、こんな風に笑いあったのも、合格が決定してからここ十日くらいの話だった。まるで雨上がりの爽快感だったと同時に、嫌でも去年のR大学時代を想わずにはいられない、互いのがようやく癒える季節だった。





「バカめ、こんな稚拙な文章しか書けんのかい?え?竹中君」

知りませんと俯いて答えたわたしを大喝して教授は荒い息を吐いていた。それから机を二度厳粛に叩くと、院生からわたしのレジュメを剥ぎ取ってびりびりに破り棄てた。わたしの目が穢れた、愚弄だ、しきりに秦野教授はわめき散らした。わたしは発表前一週間の夜中、暗い部屋でひとり只管に研究し、襤褸雑巾みたいになったノートにまとめ、そしてレジュメを作成しているカーディガンを布団替わりに被った小さな背中を想いだしていた。教授の言っていることは本当だった。最善は尽くした。けれど、わたしは四人分の作業をひとりでカバーして尚且つ高尚に発表できるほど要領は良くなかった。だから悔いはなかった。悔いはなかったけれど、教授の度重なる罵倒に耐えられるほど、わたしの心は強く出来ていなかった。壇上に崩れるようにして倒れこんだわたしは嗚咽で過呼吸になりながら、みっともない姿を大人たちに晒した。それはちょうど蝸牛が葉先で立ち往生して角を伸ばしたりひっこめたりしているのに似ていた。






「どうしてそんなに無気力なの?なんでわたしがして欲しいっていったやつをしてくれないの?なんでわたしばっかりやらなきゃいけないの?協力できないくらい、あなた達は馬鹿なの?」

わたしは結果がすべてだった。R大学の入学式の日からわたしはぶり返す不快感のなかで生きていた。それは早くもわたしの前に立ち現れた無目的で無意味に生を食む大学生たちの一群に恐怖を感じてしまったからかもしれない。わたしはいずれ彼等のような、たいして誇れる学力も実績もなく、時代と世代の流行に乗り続けることが趣味だと勘違いしている、何も考えず苦悩も幸福も行動もしない自堕落でふしだらな生物として下等な存在になるのかもしれないと怖かった。結果を残さねばならない。誇れる大学ではない以上、首席で卒業しなければ意味がない。意味。意味。意味。意味。結果。結果。結果。結果。わたしはそして関係の陥穽に落ちてしまったのだった。わたしは自分の立ち位置が、鬱陶しく上から目線で批判してくる奴として白眼視されていたことに気がつかなかった。わたしは空気というやつが読めなかった。当たり前だ。だれも空気なんて読んでないのだから。

「俺らは同じ大学なんだし、馬鹿はお前もだよなあ。なに講義に熱くなってんの?おもんないよな、お前。何様のつもりなん?班のリーダーにお前を選んだのはお前が優秀だからじゃない。だからだよ。イキんな」

班の人間は選べない。クラスのなかには、この学部に入りたくて入ってきた人ばかりじゃない。文句があるのも理解できる。運が悪かっただけ、きっと良い人に出逢える、母はそう言った。けれど、わたしはたとえ誰が班のメンバーになったとて結果は変わらない気がした。

「もういい、ひとりでやるから」

彼等は肩をすくめてみせ、ワザと大声でわたしのことを誹謗中傷しながら、発表の打ち合わせをしていた会議ルーム308号室から退出した。わたしの為に残ってくれる人は一人もいなかった、一人も。わたしは伽藍堂になった白い部屋の無機質なプラスチックの長机に顔を突っ伏して泣いた。大学を辞めたかった。けれど、大学を辞めれば社会では生きていけない、未熟な大学で唯一の子供はそう考えていたのだった。わたしは両親のように立派な人間になりたかった。わたしは小説家になりたかった。両親はわたしの書いた未熟でカタチの定まっていないアモルフな小説もどきさえ褒めてくれたから。






「それにしても優子ちゃんはどうしてW大学を目指そうと思ったの?あたしは関東に疎くてねえ、関西の大学と関東の大学がどう違うかわからへんのよ。皇居なんて何時ぶりにみたかわからんけんど、吃驚したねえ。優子ちゃんもせやろう?わたしたちは大阪人とはいえ山のほうやからねえ」

祖母はそういって山羊みたくマルゲリータピザを食べた。わたしは至福を満喫するかのような溜息をはいてから、

「わたしは小説家になりたいと思ったの。村上春樹って知ってるでしょ、わたしは彼のファンなんだけど(厳密にいえば違うのだけれど)、彼の出身大学ってのが決め手かな。それから、父さん母さんみたいなの大学生が居る大学、それがW大学だったの。初めて大学を見学したとき、北門近くのベンチに腰掛けて一日中W大生を観察してた。みんな理智的で穏やかで、わたしはそんな人たちになりたいって憧れた。そんな大学あるんだなって思ったの。ここしかないって確信した。あらゆるものを犠牲にして努力した甲斐があったよ。それくらいに素晴らしい大学だよ、ここはね」

わたしはドリンクバーで入れてきたコカ・コーラを喉を鳴らしながら飲みほした。







 微かに口許にペペロンチーノの匂いを残して、わたしは明滅する虚ろな黄色い天井の照明を眺めた。母と祖母は新幹線で早々に帰阪し、わたしは新居の学生寮で膨れた腹に満足しながらひとりでベットに寝転んだ。わたしは1000円で腹が充実する、まあ安い腹であった。身長が低く体重も低いから効率だけはよかった。良くなければ困るが。だがわたしの身体には別のものも詰まっていたというのが幸福感を増幅させたのかもしれない。頭にあったのは立派なになりたいわたしと、穢れから隔絶した「子供」のままでいたいわたしという矛盾した思考回路だけだった。今や後者は物理的に不可能であり、前者のようになれるとは到底思えなかった。になるためにこの大学に来たんだろうと自分自身を鼓舞してみようとするが、子供であれた頃には愛らしくさえ思われた低身長がここで牙をむいて妨害してくるような気がした。わたしは低身長がコンプレックスだった。




矛盾、という状況がある瞬間(瞬間とは雖も一日でもいいし、一年でも百年でもいい。宇宙からみればどちらも瞬間である)にあっても良いんじゃないか?と思った。いずれ止揚される可能性をテーゼもアンチテーゼも含んでいるのではないだろうか。それとも、この時間が撹拌機なのかもしれない。わたしがすることもない怠惰かつ幸福な余暇を謳歌しているのは、実は不幸なわたしの回想のなかでのことかもしれない。本当のわたしはここでない場所で誰かと不幸を共有しているのかもしれない。問題は、幸福なときに不幸を回想するのかということだった。わたしはする。そういうことを思うとわたしはもう疲れはじめていた。




「ミラノ風ドリアです」

ミラノ風ドリア(税込300円)が上田の前に運ばれ、彼は大仰に二三頷いた。そして彼は店員が中年の女性であると認めると、

「あの、デカンタが来てないんですが」

と幾分語気を強めていった。高すぎる身長に相応しい太く逞しい指が少し震えていた。彼はやや酔いがまわると、痺れた鼠みたいに指をひくひくさせるのだった。

「いつでも大丈夫ですよ。この人は酔ってるんです。ちょっと休ませないと」

わたしは即座に、自分でも驚くほど冷淡な口調で言った。子供の皮が剥ぎ取られ、邪悪な、もっとも嫌悪すべき「大人」が姿を覗かせていることにこの時のわたしは気付いていなかった。彼はミラノ風ドリアからわたしに視線を向け、険しい表情をしてみせるが、酔っているためにわたしをまともに見据えられないのと、元来気性の穏やかな性格だからか、まったく怖くなかった。わたしが恐怖したのは、教授に糾弾されたあの日だけだ、、今のところ。

「ほーちゃん、わたしお水汲んでくるからね」

彼はこくりと頷いておし黙った。そのときの彼の顎の黒子が脂で鈍く光っているのをみてわたしは急激に恐懼と吐き気に襲われて、あわててテーブルを離れた。




わたしは「大人」になりつつある。そして上田穂一郎は救いようのない「大人」なのだ。




わたしは逃げてしまいたくなった。勘定もすべて彼に押しつけて一目散に自宅に戻って布団を被りたかった。彼は「大人」だから。悪寒と動悸が激しくなった。けれど逃げることは出来まい。彼は酔っているとはいえ、出口に向かうためには必ず彼の前をよぎらなければならなかった。わたしは彼のグラスに水を注ぎ、震える手を激励して、氷を掬った。ふと隣にあるドリンクバーをわたしは認めた。刹那的に目の前が白くなり、脳裏を閃光が駆け抜けたような気がした。なにか恐ろしく素晴らしい思いが身体を小刻みに震わせた。試みが成功するならば、、わたしは上田のグラスを静かに置いた。わたしは救われるかもしれない。真新しいプラスチック製のグラスをわたしはとった。闇雲にドリンクバーのボタンを押した。ウーロン茶、ファンタ、Qoo白ぶどう、コカ・コーラ。わたしは頬を紅潮させ、期待に入り混じった思いでみるみる濁流の色になっていくそれを眺めた。わたしはごくんと唾をのんだ。

 




「はい、ほーちゃん」

わたしは水の入った彼のグラスを差し出す。彼は相変わらずぐったりしていて、傷一つない、照明の光を曖昧に反射するありきたりな机を眺めていた。彼の瞳は緩慢に幸甚を貪る頽廃的な満足を示していた。この世界が断続的にみせる虚像を彼は本物だと信じ込んでいる様だった。騙される人間の恍惚ほど醜いものをわたしは知らない。

「ぬ、おいY、お前は何を飲んでいるんだ?」

彼はヴェールを被っているようなくぐもった言い方をした。わたしは試みが成功するだろうかとびくびくしたが、彼の恋人を信じ切る傲慢さを利用できることの蠱惑がわたしを揺り動かしてやまないのだ。

「うんとね、ドリンクバーにあるやつ、全部混ぜてきた」

彼は突然、決壊したダムのように呵呵大笑した。顎が外れているのではないかと思うほど彼は大口を開けて、瞳のみが嫌に澄んでいた。わたしはどんぐり隠しが人間にバレた栗鼠のように縮こまって事の成り行きを見守った。それは花火師が打ち上げた花火がどのように華咲くかを見守るのに似ていた。彼は仰向けに倒れそうになるほどまで笑ったあと、

「ああ、お前は本当に子供だ、正真正銘の子供だ!俺の彼女に相応しい愛らしさだ!それに底抜けに優しいよなあ。ああ可愛いなあ」

試みは成功した。わたしは子供になった、他ならぬ「大人」である彼がそれを承認したのだった。決別の証だった。わたしは幸福によろめいて深緑色の長椅子を見つめた。長椅子の端に見慣れたバジルソールが少しついていて、わたしは急激に幻滅した。憂い顔の彼がまるで聖ヨセフのように思われたほど、わたしは自分自身の虚飾に幻滅した。わたしは彼以上に愚かだった。彼は落とし穴に気づかずに猛進する猪であり、わたしは落とし穴に策を弄しながら無様に嵌った狸だった。どちらの方がより愚かであるかは明白だった。滅多に疼かない奥歯が、今日限りは沈鬱だが確かな、鈍い痛みを伴って痛み出した。それくらいわたしは不機嫌だった。暫くして壮健な男性定員からデカンタをすごすご受け取った彼は、グラスにワインを注ぐ前に器に口をつけてごくごく飲み始めた。






 屈辱的な発表のあと、わたしはクラス宛てのLINEに思いつく限りのひどい言葉を並べて決別した。それまでのわたしは「馬鹿」くらいしか罵詈雑言のレパートリーが無かったけれど、秦野教授との邂逅を経て様々な誹謗を会得したのだった。文字を打ち込むたび、不思議と爽快感が増していく。それは子供のような思い切りのよさに起因しているのかもしれない。ともかく「大人」の言葉を打ち込むたびに純粋で、無垢で、清らかに変貌していくわたしがそこにいた。速水御舟の『炎舞』の、焔へ飛び込む蝶のような破滅へ向かう夭折の儚さが散りばめられていた。すべてを終え、何もかもが崩壊する愉快に虚しい音を聴きながら、瑞々しく荒い息を吐いてわたしは天井を仰いだ。わたしは程なくしてクラスを追放され、居場所を完全に喪失した。




「よろしい、ならば地獄へ行かう」。大江健三郎の小説に出てきた文言がふと浮かんでくる。わたしはその言葉を何度も口ずさむ。わたしは自分自身に殉教したのだ。純化されゆく魂を胸中に抱いて、わたしは既読34とついたトーク画面だけがぼんやりと光る暗い部屋で微笑を決して欠かさなかった。

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