3-6.絶望

『そなたの力はこんなものではないはずだ』


 紫の風がそよぐ中、黄泉津大神よもつおおかみはやてを見下ろす。颯は何とか立ち上がろうとするが、体が言うことを聞かなかった。


 蛇の腕による打撲だけではない。なぜか全身が痺れたように力が入らなかった。手放してこそいないものの、天之尾羽張もいつものサイズに戻っている。


 颯の胸中に、諦めに似た感情が生まれていた。


 これまで妹の生存を信じ、助けるために努力を重ねてきた。元の時代ではただの高校生でしかなかった颯は戦いとは無縁だったにもかかわらず、鬼や亡者を倒し、雷神とも言うべき存在を退けるまでになっていた。


 もちろん颯だけの力ではない。剣の師たる彦五瀬、破邪の秘術の師たる沙々羅と五十鈴媛、颯の心を支えようとしてくれた伽耶、颯のために殿しんがりを買って出た手力男たぢからおや高千穂の兵士たち。そんな彼ら、彼女らのおかげで、颯は戦う力を身に付け、ついには真菜の元まで辿り着いた。


 けれど、今、その前に立ち塞がる黄泉津大神に勝てるイメージが一切湧いてこなかった。死者の国を統べる紛うことなき“神”を相手に、これまでの道中で築き上げたささやかな自信は木っ端微塵に砕かれ、圧倒的な無力感が颯の心と体を支配していた。


 勝てない。真菜を救えない。このままではいずれ死んで――。颯の頭を絶望的な考えがぐるぐると巡る。そして、そんな弱気な心では黄泉国よもつくにに満ちる死のけがれをはらうことなどできはしなかった。


 颯は禍々しい紫の何かが自身の体と心に染み込んでいくような気がした。しかし。


にい、さん……」


 紫色の風に乗って白い声が届く。その声は颯の耳から入り込み、脳へ、そして全身へと渡っていった。痺れが僅かに治まる。


「真菜……!」


 仰向けに倒れ伏したままの颯が顔を持ち上げる。最初の一言を発して以降、気を失ったかのように項垂れていた真菜が顔を上げ、悲痛な表情で颯を見ていた。


「真菜!」


 颯は天之尾羽張を杖代わりに立ち上がる。けれど、それまで静観していた黄泉津大神が蛇の腕を伸ばすと、颯は再び地に転がった。


『まだ足りぬ』


 黄泉津大神がきびすを返す。颯に背を晒したまま、数歩、遠ざかった。


 気力を振り絞って立ち上がった颯の頭を、嫌な予感が襲った。その颯の直感が正しいと証明するかのように、蛇の腕が真菜へと伸びる。


「や、やめろ……」


 2匹の蛇が真菜を大柱に括り付けていた縄を食いちぎり、上半身から崩れ落ちそうになる少女の体を残りの2匹が捕らえた。すぐに先の2匹も合流し、4匹の蛇が少女の体に巻き付いた。


『力を見せよ。さもなくば――』


 蛇の腕による締め付けが強まり、真菜が苦悶の声を上げた。


「やめろ!」


 天之尾羽張が元の姿を取り戻し、根元から炎が噴き出す。颯は赤々とした炎をまとった神剣で無防備な背中に斬りかかるが、颯の剣も炎も、黒に限りなく近い紫の壁に遮られて届かない。


「やめろぉおおお!」


 颯が怒りに任せて何度も何度も全力で斬りつけても、結果は変わらなかった。どれだけ力いっぱい振り下ろそうと、荒ぶる炎が巻き上がろうと、黄泉津大神を守る紫の壁に、ひび一つ入れることができない。


『無駄だ。如何に神殺しの剣と言えど、死の穢れの障壁がある限り、その刃が届くことはない。そして――』


 黄泉津大神のエコーのかかったかのような声が颯の心に絶望を突き付ける。黄泉国に満ちる死の穢れ。それが存在する限り、死者の国を統べる神を守る壁がなくなることはないという。


 蛇の腕が徐々に締め付ける力を強め、真菜の悲鳴が辺りに木霊する。颯は焦燥に駆られながら剣を振るうが、状況は変わらなかった。いや、真菜の苦痛だけが増していき、やがて、ガクッと真菜の頭が重力に引かれて前方に倒れ込んだ。


「真菜ぁああ!」


 颯の絶叫がほとばしる。黄泉津大神が蛇の腕をほどき、真菜の体が放り出されて地に落ちた。


「そんな……」


 黄泉津大神が蛇の腕を引き戻して振り返り、絶望で膝から崩れ落ちた颯を見下ろす。


『これまでか……』


 虚しさを感じさせる声だった。黄泉津大神は4本の蛇の腕を颯に差し向ける。アルファベットのXのように大きく広がった4匹の蛇が颯の喉元に照準を合わせ、次なる命令を待つ。その一方で、颯は地面に転がる真菜を呆然と眺めるだけ。


 颯の命は、もはや風前の灯火だった。






「颯様、それではいけません」


 怒りに任せて天之尾羽張を振るう颯を、遠くから沙々羅が見ていた。遠めでもある程度状況は理解できていたが、どうすることもできない。


 未だ八雷神やくさのいかづちのかみに睨まれて動けない沙々羅と五十鈴媛は、そんな颯の孤独な戦いを見ていることしかできずにいた。


 沙々羅は生弓矢いくゆみやにぎりの部分を強く握りしめる。颯の怒りに呼応して天之尾羽張から湧き上がる炎が勢いを増しているが、それでは死の穢れの守りを突破できないことが沙々羅にはわかっていた。


“邪”と性質を同じくする死の穢れを祓うには破邪の力、即ち、正の感情から生まれる力が必要なのだ。“怒り”は戦う原動力にはなるが、破邪の力にはむしろ悪影響を及ぼしかねない。


 現に、今の颯は満足に破邪の秘術を扱えておらず、勾玉の白い光も、いつの間にか消えていた。


 沙々羅はこれまで雷神を退けてきた白い炎の輝きを思い出す。人の命の輝きを思わせるあの白い炎こそが黄泉津大神を倒し得る唯一の光だと、沙々羅は信じている。


 しかし、それを颯に伝えるすべがない。数百メートルは離れているため、声を張り上げても正しく伝わるとは思えなかった。


 助言も生弓矢での援護も叶わず、近くで颯の折れそうな心を支えることもできない。沙々羅はそんな状況に歯噛みする。


「沙々羅」


 呼ばれて声がした方を向くと、五十鈴媛と目が合った。その真剣な眼差しは、沙々羅に「颯のために、今できることを考えなさい」と告げていた。


 沙々羅は小さく頷き、必死で思考を働かせる。そんな時、ふと、沙々羅は誰かに呼ばれたような気がした。


 五十鈴媛ではない。沙々羅は首を回し、辺りを見回す。


『人の力を――解き放つのです――』


 沙々羅の視線が彼方で倒れ伏した一人の少女の姿を捉えた。


「まさか……」

「沙々羅?」


 小声で尋ねる五十鈴媛に、沙々羅はハッとして振り向く。沙々羅の脳裏に、祖母サルメから受け継いだ破邪の秘術の奥義とも言うべき技が浮かんでいた。


 沙々羅はゴクリと喉を鳴らし、五十鈴媛を真っ直ぐに見つめた。沙々羅が何かをしようとしていることを察した五十鈴媛が、大きく頷いた。


 沙々羅は手にしていた生弓矢と背負った矢筒を地面に置くと、目を瞑り、呼吸を整える。


 そして五十鈴媛の見守る中、沙々羅は静かに舞い始めた。

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