第64話 辛い過去

 あとの片付けは自分がするからとルーシーに促され、クリストフ・ルフェーブルはレティシアをその腕に抱き馬車に乗り込む。


「すまない。私たちは先に帰らせてもらうが、ルーシーもほどほどにして、気をつけて帰ってくれ」


「はい、そうさせていただきます。クリストフ殿下、レティシア様をよろしくお願いします。きっと、ほっとして気が緩んだことで、一気に疲れが出たのだと思います」


 クリストフの膝を枕代わりに、レティシアはすやすやと寝息を立てていた。時折むにゃむにゃと何やら寝言まで言っている。


(「焦げる……」という言葉が聞き取れたから、多分パンを焼いている夢でも見ているのだろうな)


 呑気に寝入るレティシアに、クリストフは思わずため息が出る。

 突然意識を失うものだから、自分は心臓が止まるかと思うほど驚いたというのに。


「そうだろうな。このまま朝まで起きそうにないほど熟睡している。早くベッドで休ませてやらないと。では失礼するよ──出してくれ」


 御者に命じると、馬車のドアが閉められ動き出す。ルーシーはしばらく見送っていたが、片付けに取りかかるため店内に入っていった。


 ∞∞∞


 カーライル邸に着いたクリストフは、レティシアを抱きかかえたまま玄関の呼び鈴を鳴らした。


「はい、お待たせし──まあ、どうなさったのですか⁉」


 出て来たのは、メイド長のパメラだった。


「しっ、静かに。寝ているだけだから心配ない」


「そうでしたか。よほどお疲れになられたのですね。どうぞお入りください。お嬢様のお部屋はこちらです」


 パメラの案内で、二階にあるレティシアの部屋に向かう。


「ブルーノ、ちょうどいいところに。奥様にこのことをお伝えくださいませ」


 廊下で執事のブルーノに会い、パメラが伝言を言付けている。ブルーノもすぐに状況を理解したようで、クリストフに一礼したあと足早に去っていく。


 ちなみにこの二人は夫婦で、パメラのほうが二つ年上の姉さん女房だ。

 カーライル邸には、通常十人ほどの使用人がいるのだが、レティシアの性悪ぶりに耐えられず、これまで使用人の入れ替わりは日常茶飯事。そんな中、この二人は辞めずに勤め続けて来たつわ者だ。


「こちらです。申し訳ありません、殿下にこのようなことを──」

「いや、気にすることはない」


 ドアが開かれ、クリストフはレティシアをベッドにそっと降ろす。


(懐かしいな、この部屋──)


 上掛けをかけていると、幼いころのレティシアが思い出される。 


「クリストフ殿下、奥様のほうからご挨拶があるかと」


 退室を促され、一階の応接室に通される。

 そのまましばらく待っていると、レティシアの母親、サティア・カーライルがやって来た。


「クリストフ殿下、この度はレティシアがご面倒をおかけしまして、申し訳ありません」


 向かいのソファーに腰を下ろすなり、謝罪をされる。


「頭を上げてください。婚約者を気遣うのは、当然のことですから」


 そう言うと、サティアの顔が翳る。


「殿下、もし……もしも罪悪感からの婚約ならば、今すぐにでも──」


「カーライル夫人。婚約は私の願いです。この想いは、昔からずっと変わりません」


 サティアの言葉を遮り、クリストフは真摯に本心を伝える。


「ありがたきお言葉。もう何も申しません。──殿下、もしお時間が許すなら、先ほどジェイクも帰って来ましたし、ゆっくりしていかれてください」


 気持ちを切り替えたサティアは、ふわりと笑顔を見せる。


 彼女はとても物腰のやわらかな人で、隣国であるターナミル国の第二王女だったこともあり、所作に品の良さが感じられる。背中の中程まである長い髪は金髪で、目は淡い緑。少女のような一面を残す、可愛らしい女性だ。


「ありがとうございます。お言葉に甘えさせていただきます」


 クリストフには、ジェイクに話さなければならないことがあった。とても重要で、レティシアの今後に関わることだ。


「お茶はジェイクがお持ちしますから、もう少しだけお待ちくださいね」


 殿下の好みは、ジェイクのほうが詳しいだろうからと、サティアはころころと笑う。何せ二人は幼馴染み。かれこれ十年以上の付き合いだ。


「では私は、レティシアの様子を見て参りますので失礼いたします」


 部屋に一人になり、クリストフはジェイクに告げなければならないことに思いを巡らせる。


「今夜は、過去の話を蒸し返さなければならないのだな……」


 自分たちにとって、それはとても辛い記憶だ。


(運命をねじ曲げたことへの、審判が下される時が来たというのか──ダメだ、そんなことがあったら私は……)


 あのとき、レティシアの身体が傾いでいくのを見た瞬間、クリストフは目の前が真っ暗になった。レティシアの命の灯が、消えてしまったと思ったからだ。


「すまない、クリストフ。遅くなった」


 湯気の立つカップを手に、ジェイクが部屋に入って来る。


「いや、レティシアの様子はどうだ」


「心配ないよ、よく眠っている。まあ、これまで働いたことなどなかったんだから、無理もないさ。どうぞ、紅茶にしたがよかったか?」


 ジェイクがソファーの前にあるローテーブルにカップを置く。


「ああ、ありがとう。フルーティーないい香りだ」


 クリストフは気持ちを落ち着かせるために、カップに口をつける。


(どう切り出すべきか──やはり、あの老婆の話からするべきだろうな)


 黒魔術についてクリストフは、まだジェイクに伝えられていなかった。レティシアのパン屋が無事にオープンするまでは、心配事を口にしないほうがいいかと先延ばしにしていたからだ。


「ジェイク、十年前に出会った、星詠ほしよみの老婆のことを覚えているか」


 各地を転々と旅しているというその老婆は、水晶玉を使って人の運命を占うことを生業なりわいとしていた。


「もちろん覚えている。忘れられるはずないだろう」


 今になってその話しをするのはなぜかと、ジェイクの顔が曇る。


「あの嵐の夜、老婆の弟子だというから、私たちは黒マントの男を信じてレティシアに秘術をかけてもらった。だが、あの秘術は──黒魔術だったのではないかと思う」


「な──なんだって──黒……魔術」


 驚愕し、顔を強ばらせるジェイクに、クリストフの胸はきりきりと痛んだ。

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