第25話 怪しい男
「どう? ルーシー、今回も変装はうまくできているかしら」
以前ルバインに借りた服と似たものを、
「はい、お見事ですよ」
今日はこれから、ルーシーの家に行くことになっていて。
「迷惑でしょうけど、今日は台所を使わせてね」
「いいえ、迷惑だなんて。父も弟妹たちも、レティシア様に会えることを楽しみにしていると思います」
ルバインに挑戦状を叩きつけて(私はそう思っている)六日、酵母菌ちゃんも順調に育ち、予定通りパン作りに挑戦するということで。
「少し早いけど、行きましょうか」
まだ朝の九時くらいだけれど、材料を買うために、エセルの商会に立ち寄らねばならない。
「はい。あの……お持ちしましょうか?」
私が抱えているものに、ルーシーが手を伸ばしてくる。
「いいの、これは私が持っていたいから」
大事な酵母菌ちゃんが入っている木箱。
そっと蓋を開けると、ひんやりとした冷気が流れ出てくる。
凄いわ。まだ氷が溶けていないなんて。
噂に
「レティシア様、にこにこなさって、よほど大事なのですね」
「そ、そうなのよ。ほほ……ほほほ……」
私、笑ってたの? クリストフのことを考えながら? 違う違う、酵母菌ちゃんが無事なことが嬉しいのよ。
「馬車はもう来ているかしら」
ばつの悪いような思いを掻き消したくて、私はさっさと部屋を出るのだった。
∞∞∞
前回と同様、馬車を寮へ返してエセルの商会に向かっていると──
何? あの怪しい男。こそこそと店内を覗き見て。まさかエセルに気があるんじゃないでしょうね! ダメよダメ、エセルはお兄様と結ばれるんだから。
その男は帽子を被り、シャツの襟を立てていて、私にはあえて顔を隠しているように見えた。窓から店内を盗み見ている様子からも、明らかに不審者っぽい。
「ルーシー、これをお願い」
木箱を託し、私はツカツカと男に歩み寄る。
「ちょっとあなた、こんなところで何をしているの」
腕を組み、仁王立ちで声をかける。
「っ――!」
男は肩をびくりと跳ね上げ振り返った。
えーーー! ジェイクお兄様――
「失礼する――」
お兄様は帽子を深く被り直すと、何事もなかったかのように歩き出す。
「お待ちになって!」
そっとしておけばいいものを、逃げられると追いたくなるというのもで……
「な、何をする。私は何も悪いことはしていない」
追いつき手首を掴むと、役人にでも突き出されると思ったのか、お兄様が焦り出す。
そうよね、愛おしい人を見ていただけなのよね。
私は確信した。お兄様はまだ、エセルのことが好きで諦めきれないのだと。
公爵家の嫡男ともあろうお兄様が、好きな女性をこっそりと見ることしかできないなんて。これも私のせいなのよね。お詫びのしようもありません。それでも、今の私にできることをさせてもらわねば。
ルーシーは私の奇行にオロオロしているけれど、今は説明している暇はない。
「ちょっと来てくださる」
手を引き商会の入り口に向かおうとすると、お兄様の顔色が変わる。中に入りたくないのだろう。
「ちょっと君。私は何もしていないと言っているだろう。手を離してくれないか」
私から逃れようと、お兄様が腕を上下に振る。けれど女が相手だからか、それは優しいもので。
さすが、お兄様は紳士だわ!
「何を焦っていらっしゃるのかしら。私はただ、あなたの腕っ節が強そうだから、手を貸していただこうと思っただけよ。まさか断らないわよね、でないと──」
「わ、わかった、荷物持ちでもなんでもする」
泥棒だとでも騒ぎ出すと思ったのか、お兄様は抵抗するのをやめた。
妹だって気づかないなんて、お兄様ったら、よほど気が動転しているのね。
「では、参りましょうか」
さらに帽子を目深く被るお兄様と共に、私は商会へ足を踏み入れる。
そんなに俯かなくても……って、それだけエセルに合わせる顔がないってことなのよね、私のせいで……
「いらっしゃいませ。あ、いつぞやは、お買い上げいただきありがとうございました」
以前のことを覚えていてくれたようだ。
素晴らしいわ、エセル。商売人の鏡のような人ね。
「また小麦粉を買いに来たの。今日は持ち手がいるから、十キロいただこうかしら。あと、バターを五百グラムお願いね」
ちらりとお兄様に目をやると、口を一文字に引き締め頷いた。
後ろにいるルーシーにも視線を向けると、「よ ろ し い の で す か?」と口をぱくぱくさせている。私も「だ い じょ う ぶ」と、声を出さずに伝えた。
「実は、小麦粉の値がまた上がりまして、一キロ千六百ルフェになったのですが、十キロでよろしいですか」
あれから半月ほどしか経っていないのに、百ルフェも?
おのれ、ラーミス国。自分たちの利益のみを追い求めていると、いつか痛いしっぺ返しを食らうわよ。
「ええ、いいわ」
「では、少々お待ちください。十キロ入りの袋がありますので、お持ちします」
倉庫にでも行くのか、エセルがカウンターの後ろにあるドアに向かう。
「ちょっと、あなたも行って手を貸すのよ!」
お兄様の背中を押すと、躊躇いつつもすぐにエセルを追いかけていった。
「レティシア様、あの方をご存じなのですか?」
「しー。ルーシー、ここではレティシアの名は禁句よ」
口に人差し指を当て、そう前置きしてから、私が過去にエセルに嫌がらせしていたことを隠さず話した。そして捕まえた男がお兄様であることも。
ルーシーは相当に驚いていたけれど、罪滅ぼしをしたいのだと言えば、納得顔で静観していると言ってくれた。
「お待たせしました」
小麦粉の大袋を抱えたお兄様と、バターを手にしたエセルが戻ってくる。
「お気遣いまでしていただき、ありがとうございます」
エセルの視線が、隣に立つお兄様に向いた。
今だわ!
私は豪快に、手が塞がり抵抗できないお兄様の帽子を取るのだった。
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