アンビバレント・ヘル
落水 彩
第1話
蒼い満月が輝く夜。レンガでできた道や建物が並ぶ街にある人気のない裏路地には、ひたひたと足音を鳴らす小動物と、男が二人。
一人は怯えた様子で地面に腰を下ろし、向かい合うもう一人は顔が隠れるようにロングコートのフードを被り、大きな鎌を持っている。月明かりに照らされた鎌と、フードから突き出ている赤いツノが怪しく光った。
「約束したじゃあないか、何を怯えているんだい?」
「ひ、ひぃっ……。」
フードの青年は優しい口調で話しかける。対して、怯える中年男はひたいに汗を浮かべ、浅い呼吸をしている。
「願いは叶っただろう? そうしたら、ちゃんと魂も差し出すって。僕、言ったよね? 目的を達成したらすぐ死ぬことになるけどいいのって。僕みたいに前もって教えてあげる優しい悪魔、そうそういないと思うけど。」
ペラペラと話す悪魔の言葉は恐怖する男性には届かない。
「安心してよ、僕のクレイドルは痛みもなく、眠るように命を刈り取るから。」
悪魔が愛用の鎌であるクレイドルを掲げたところで、
「ま、待ってくれ、後少しなんだ。後少しで大金が手に入る。そしたら、お前にも分けてやる。」
裏返る声は、悪魔に必死の提案をする。が、
「別に僕、お金要らないし。」
男性の断末魔の叫びと共に鮮血がレンガに飛び散ると、小動物は用水路の隙間に隠れた。次第に大きくなる血溜まりを気にせず、一歩踏み出すと、悪魔はしゃがんで男性の胸部に右手を当てた。
すると小さな炎の塊が引き剥がされるように出てくる。
「黄色、か。自分とお金のことしか考えていないな。赤みがかっているのは、復讐……いや、怒りか? ふっ、濁っていて実に平凡でつまらない魂だ。」
悪魔は取り出した魂をギュッと握り、反対の手でコートの内ポケットからコルクのついた小瓶を取り出した。中には色とりどりの小さな宝石が瓶の半分を埋めている。
手を開くと、小さな宝石と化した魂を、慣れた手つきで小瓶にしまった。悪魔はそれを月にかざして、
「うん、まあ悪い輝きではないか。」
平凡でつまらない魂であろうと、コレクターとしては趣深いものがある。悪魔は満足したように小瓶をポケットにしまった。
大鎌を背負い路地裏を出ようと前を見ると、
「おや、」
一人の幼児が立っていた。グレーのセーターにミニスカート、そしてハイソックスを身につけた幼児は、その場でただ呆然と立ち尽くしている。しかし、目線ははっきりと悪魔を捉えていた。
「見えてるの?」
本来、悪魔は本人が姿を見せたいと思った人間しか見ることができない。悪魔がこの少女と出会うのは初めてだ。接点も何もない人間に見せる姿はない。そして相手は幼児だ。人生の経験が少なすぎると魂も未熟なため、刈り取ったところで大きな収穫にはならない。せっかくなら成長してから頂戴したい。そう悪魔が思っていると、
「わるいあくま?」
その声に覇気はなく、怯えた様子もなかった。ただ淡々と、感情のこもっていない話し方で質問をした。
「どうだろうね?」
悪魔は左手で前髪で隠れた左目を更に覆うと、瞬きをして右目を凝らした。幼児の胸の辺りに小さな火の玉がゆらゆらと揺れているのが透けて見えた。まるで蝋燭のような小さな灯りは、意外にも鈍色に輝いていた。
「いや、渋っ。君いくつだい? 人生何周目?」
水気を含んだコンクリートのような渋い色の魂と、人生を二、三度歩んでいるといっても納得してしまうくらい、落ち着き払った様子に悪魔は思わずツッコんだ。
「六才。」
この真顔は崩すことができないと踏んだ悪魔は優しく「子供は帰る時間だよ。パパとママも心配してるよ。」と、目線を合わせて声をかけた。
それでも一歩も引かない幼児はおもむろに口を開けて語り出す。
「私のお父さんとお母さんは、あくまにころされた。」
意外な一言に悪魔は言葉を返せないでいる。それでも少女は語り続ける。
「お父さんは目がつぶれて背中を何回も何回もさされてた。お母さんは首に包丁がささってた。」
「それは、気の毒だったね。」
悪魔であるにも関わらず、無責任な発言を申し訳ないと思っていると、それ以上気の利いた言葉が出てこなかった。少しの間沈黙が流れる。冷たい空気を吸い込んで、どうしたものかと辺りをキョロキョロ見回していると、
「……だから、しんで。」
ずっと背中に隠してあったのか、ナイフを取り出した幼児はしゃがんだ悪魔の胸部に勢いよく突きつけた。
「なっ。」
びっくりした悪魔は大きく目を見開いた。この一撃に全てをかけた幼児は、抵抗する様子のない悪魔に胸を撫で下ろしたが、
「……なんで?」
ナイフは胸を貫通することなく、服の上で小刻みをしていた。
「悪魔はそんなんじゃ殺せないよ。」
手を退けると、幼児は一瞬驚いた顔をしたが、またいつもの無愛想に戻って、今度は諦めたように下を向いた。
「それに、悪魔はそんな残忍な殺し方はしない。魂さえ刈ることができたら、他にすることはないからね。そんな悪魔がいたとしても、それは僕の美学に反する。まあ、犯人は人間なんじゃないかな。」
「じゃあ、いいあくま?」
「え、あ、いやそうはならないと思うんだけど。」
こんなことなら、さっさと去ってしまえばよかったと、だんだんめんどくさくなってきた悪魔は、離脱のタイミングを見計らっていた。
「おねがい、お父さんとお母さんをころしたはんにんをころして。」
「復讐代行かぁ。対価は魂だし、君みたいな幼い女の子には似合わないよ。」
幼児は「なんでもあげるから。」といってスカートのポケットからピンク色の紙に包まれた飴を差し出した。
子供らしい一面に、思わずフッと笑った悪魔は、余計に殺せないと感じた。
「いいかい、悪魔に魂を売ると生まれ変わることもできないし、お父さんやお母さんに会うこともできないんだよ? いいことなんてないからやめておいた方がいい。」
「それでも、やらなきゃいけないの。」
ここまで引き下がらないとは思っていなかった悪魔はだんだん気圧される。
「お母さん、言ってた。人の役に立てって。あくまはまちのみんなを困らせてるから、いなくなっちゃえばみんな幸せになる。でも、一人じゃできないから、手伝ってほしいの。」
「そういうのは僕より警察に言った方が——」
「おまわりさん、何もしてくれなかった。」
少し食い気味なその言動には怒りが含まれていた。
「おまわりさんが言ったの。あくまのしわざだって。」
どうやら最初は協力的だった警察も手を引くほどの大きな力が動いていたようだ。話を聞いた悪魔はこの事件に首を突っ込むと、後戻りできない気がした。
「だから、おねがい。」
悪魔は眉間に皺を寄せてフード越しに頭を掻いた。契約のみでしか動くことができないため、魂という代償がないのに協力することはできない。
しかし、幼児の言う「悪い悪魔」というワードが妙に引っかかっている。
「君、死ぬよ?」
もう一度念を押してみるが、
「おねがい。」
幼児の目は真っ直ぐに悪魔に向けられており、微動だにしなかった。
「……いいかい、願いが叶ったらすぐに君の魂をいただくよ。」
「いいよ。」
折れた悪魔は幼児に手を差し出した。
「僕はヴィセ。君、名前は、」
「リーベ。」
「リーベ。この契約は変更、及び破棄することはできない。『悪魔』を見つけ、殺せば終了する。ただし、その過程で僕にできることがあれば協力しよう。」
わかっているのかそうではないのか、リーベはぽかんとしている。
「……えっと、このお約束は、変えたり無しにしたりはできないよ。悪い悪魔を見つけて退治すれば終わりだからね。ただ、それまでに僕にできることがあったらなんでもするよ。これでいい?」
そこまで優しくしてやっとリーベの目に光が宿った。そしてそのまま差し出された右手を半分にも満たない小さな手で掴んだ。
「契約成立。よろしくねリーベ。」
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