第3話 本の制作

翌朝木曜日、藤原誠一は朝早くに起床し、自宅を出る準備を整えた。彼が勤めるのは神戸の小さな出版社で、地域密着型の出版物や特色ある小規模な書籍を扱っている。この日は特に重要な打ち合わせがあったため、いつもより早く家を出ることにしていた。


藤原は静かな住宅街を抜け、最寄りの駅へと向かった。通勤時間は彼にとって一日の計画を練る貴重な時間であり、頭の中でこれからの打ち合わせの流れや、磯部の本の編集方針について考えを巡らせた。


駅から出版社までは徒歩で約10分。藤原は駅を出るとセブンイレブンによりコーヒーを買った。その熱いコーヒーを手に、彼は少し足を速めて出版社に向かった。


出版社のビルは、神戸の商業地区の一角にひっそりと構えている。ビル自体は古く、レトロな雰囲気が漂っている。藤原が到着すると、すでに何人かのスタッフが朝の準備をしていた。彼は皆に朝の軽い挨拶を交わし、自分のデスクに向かった。


デスクには、地方誌の原稿が山積みになっており、その日の主な仕事はこの原稿をさらにブラッシュアップすることだった。一方で、もう一つの重要な仕事は磯部悠太の本の編集だった。このプロジェクトは藤原にとって特別な意味を持っていた。藤原は深呼吸を一つして、コーヒーを一口飲み、パソコンを立ち上げた。これから始まる一日の仕事に対するやる気と嫌気で、彼はいっぱいだった。そう嫌気は主に地方誌に充てられ、やる気は磯部の本の編集に充てられる。


藤原は一息ついて、机の上のコーヒーを一口飲んだ後、パソコンを立ち上げた。まずは地方誌の原稿に目を通し、文体の一貫性や事実の正確さをチェックしながら、まちづくり支援金による成果が読者にわかりやすく伝わるように調整を加えていった。この事実を確認するためにいちいち神戸市のホームページの中の分割されたPDFを追っておくのがかなり面倒で、イライラする。その作業を一段落させた後、彼は磯部の本の原稿に取りかかる予定だった。明日は磯部にまたカフェで面会があるので、その面会が円滑に進むように最低限のノルマを課した。


一方、磯部悠太はもう藤原が仕事に取り掛かっている10時に目が覚めた。彼は目覚まし時計をかけない。それが非社会人に与えられた特権のような気がしたからだ。彼は前日仕事をたくさんこなすと長時間の眠りにつくとこがよくある。多い時だと12時間も眠り続けることが在った。そういう日はだいたい自己嫌悪に陥る。


磯部の一日はベッドで寝転がりながらスマホでYouTubeのアナリティクスを開くことから始まる。これは彼にとって一種の儀式であり、前日の動画がどれだけの反響を得たかを確認する瞬間は、いつもわずかながらの楽しみを提供してくれた。


画面に表示されたデータは、新しい登録者の数、再生回数、視聴時間の増減を示していた。磯部はこれらの指標を注意深く見て、どの動画がよく受けたか、どの時間帯に視聴者が最も多かったかを分析した。このデータは彼の次のコンテンツ作成に直接影響を与えるもので、どんなテーマが視聴者に受けるか、また何を改善すべきかの手がかりとなった。


磯部悠太は再生数の低下を目の当たりにし、一人でため息をついた。彼は自分の最近のコンテンツが、以前ほど視聴者を引き付けていないことを痛感していた。特に、「店に行ってその様子を撮るだけ」というスタイルの動画が、視聴者にとって魅力を失いつつあることを認識していた。彼は、ただ単に外で食事をする様子を撮影するのではなく、違った方向性の動画をとる必要性に駆られた。


「ただの食事ショーじゃなくて、何か新しいことを提供しないと飽きられる。まんねりでもいいのは『孤独のグルメ』ぐらいだろう」と磯部は考えた。「ああいやになってくる。これが人気商売の苦しさか。」彼は、本の出版企画が頓挫する可能性についても考えてしまう。「もしかして本を出版する企画が途中で頓挫するとかはないよな?」と不安がよぎった。磯部は明日藤原と会うことになっていて、その最近再生数が伸び悩んでいることをおそらく突かれると思うと憂鬱になった。「いったい何をすればいいのか、何の専門性を持っていないとこれからのYouTuberは厳しくなることは知っていたが、こんなに早く来るとは思わなかった」


これ以上煮詰まるのをさけるべく、磯部は近所のガストへ食事をとりにいった。ここの配膳ネコのロボットを見ると癒される。磯部はここの配膳ネコにいつも心の中で話しかける。「助けてくれ。何か面白い企画を考えておくれ。」そうはいってもネコちゃんは一生懸命に働いているだけ。


家に帰って新規性の企画を考えながらも先日見に行ってきたコナンの映画を見に行く動画を夜の19時に投稿した。磯部は投稿ボタンを押すとき一瞬だけドキドキした。


翌日、神戸の静かなカフェで、藤原誠一と磯部悠太は待ち合わせていた。彼らが選んだのは、木の温もりを感じさせるインテリアと柔らかい自然光が溢れる場所で、静寂と落ち着きが漂っていた。二人は他の客から少し距離をとったエリアに座った。


「最近の動画、見させてもらいましたよ」と藤原が会話を切り出した。「再生数のこともあると思うけど、何か新しい試みを考えているんですか?」


磯部は少し表情を曇らせながら答えた。「ええ、実はそこが今日相談したかったことなんです。最近、なんとなく自分の動画にマンネリを感じていて…新しい方向性を模索しているところなんです。」


藤原はうなずきながら、遠慮がちに言った。「磯部さんの動画、個性が光っていますよね。でも、たしかに少し新鮮味に欠ける感じは否めません。私が偉そうに言えることではないですけどね。」


「実は本当に何をしようかわからないんですよね。参考にしようと他の人の動画を見ても、やはりルックスとキャラのどちらかで動画が支えられていることが多いと思うんです。キャラを意図的に控えめにしている私がなすすべはありませんよ。」


藤原は静かに提案を続けた。「たしかにそうですね。私も編集者として仕事していると、その人のキャラだから企画が通る、ということはよくあります。もういっそ時事ネタを切り取っていけばいいんじゃないですかね。時事ネタは常に新しく、視聴者の関心も引きやすいですから。」


しかし、磯部は苦笑いを浮かべながら反応した。「それって、企画が本当に思い浮かばなくて、特技のない人がやる最終手段ですよ。」その時磯部は失言したと思った。それはまさしく自分のことだったからだ。 


藤原は慎重に言葉を選びながら、磯部を励ました。「でも、磯部さん、時事ネタが最終手段だとしても、それをどう扱うかが重要です。ただのニュース紹介ではなく、それに対するあなたの独自の見解や、面白い解釈を加えることができれば、それはもう磯部さん独自のコンテンツになります。」


磯部は内心少しイラついた。藤原のアドバイスはyoutubeを熟知してない人の意見だった。時事ネタを取り入れるアイディアは表面的には魅力的に聞こえるが、実際にはそれを面白く、かつオリジナルに扱うことは非常に困難だった。


「うまくいけばいいんですけどね」と磯部はやや皮肉交じりに言った。彼はYouTubeに関する相談が無駄だと見切り、話題を変えることにした。「それより、本のことで質問したいことがあるんですけど。」磯部は自分のメインの関心事である本の出版に話を移した。


「この本で、もっと自分の個人的な体験を深掘りして、読者に直接語りかける部分を増やしたいんです。でも、どの程度まで個人的なことを書くべきか気になっています。」磯部は藤原の編集者としての意見を求めていた。


「主にファンが読まれると思うので、かなり個人的なところまで突っ込んでもらって大丈夫だと思います。」


「自分いくつかのyoutuberの出している本を参考になると思って読んでみたんです。やっぱそのどれにも幼少期からの出来事は書かれていましたね。自分もそれについて書こうと思います。」


「いいですね。そうする際に、どの話をどの程度深掘りするかは、文章を書く過程で慎重に選んでください。また感情的な部分だけでなく、それがどのようにして磯部さんを今の道に導いたかの論理的なつながりも強調すると、より説得力のある内容になりますよ。」


磯部はスマホでメモを取りながら熱心に頷き、さらに質問を続けた。「それで、具体的にどのような構造で話を進めればいいでしょうか? 自伝的な部分と現在のキャリアとのバランスをどう取るべきか、具体的な例も教えていただけると助かります。」


藤原は考え込みながら答えた。「一つの方法としては、各章を異なるテーマや時期で区切り、その中で重要なエピソードを紹介しながら、どのようにして今の磯部さんになったのか、その根源を描くという方法があります。例えば、一章は幼少期、次の章は学生時代、そしてYouTuberとしてのキャリアをスタートさせた頃、といった感じですかね。」


二人はその後30分ぐらい磯部の本に関する話をつづけた。そして少し親しくなったため藤原は打ち明けた。「実は私も友達一人もいない、ぼっちなんですよ。毎週日曜はお気に入りのイタリアンレストランのビュッフェに一人で言っています。」


「そうなんですか。」と磯部は声のトーンを上げてあいづちをいれたが、それは彼が予想していた通りだった。

「私も今の時代に若者でしたらボッチ系youtuberになっていたかもしれません。」

磯部はこういう軽々しい発言する人が嫌いだった。しかし藤原は同じボッチ仲間であるし、仕事はちゃんとする人間だったので許せた。


「実は中年男性でもボッチ系youtuberとして活動する人はいますよ。その中にはそれなりに成功している人もいます。」


藤原はそれを聞いて彼の心のとげがピンと反りたった。彼自身も孤独感を感じている中年男性であり、YouTubeを活用している同世代がその孤独を収益化している事実に複雑な感情を抱いていた。しかし、表面上は興味を示して、応じた。「へぇーそうなんですか、帰ったら探してみますね。」


磯部はその反応に満足し、さらに情報を提供しようとした。「実は、そういう方々の中には、リアルな日常生活や趣味、旅行などを題材にして、かなりのフォロワーを獲得している方もいますよ。彼らの動画は、同じような境遇の人たちにとって共感を呼び、非常に支持されています。」


藤原はうなずきながらも、その話題に深入りすることは避けた。彼にとって、自分の孤独がどれほど普遍的であるかを思い知らされるのは心苦しいことであり、それが他人によってエンターテイメントとして扱われることに対しては、特に複雑な気持ちを抱いていた。


今日も会計は藤原が支払い、二人はカフェで別れた。


日曜日、藤原誠一の週末のルーチンが再び始まった。


いつものイタリアンレストランに到着する前に藤原はまず手洗いを済ませてから店内に足を踏み入れた。レストランは彼の姿を見慣れた猫背気味の背の高いほっそりとした血色の悪いオーナーに暖かく迎えられ、いつものように窓際の席に案内された。


藤原はまず、ビュッフェコーナーへと向かった。彼の目を引いたのは、色とりどりの野菜とシーフードが豊富に用意されたサラダバーだった。彼はビーツと人参のマリネ、オリーブとパルメザンチーズのサラダ、スライスオニオンをとる。続いて、温かい料理のセクションからは、香ばしく焼かれたマルゲリータピザと、ハニーピザを選んだ。


食事を楽しんでいる間、藤原は今日はどんな客がきているのか静かに周囲を見渡した。毎回似ているが少し違っていて面白い。今日は7人組の中国系の大家族の全員がカラフルなアディダスのTシャツを着ていてびっくりした。藤原はその濃い緑色のアディダスのTシャツがほしくなった。


今日は他にも一人客が何人かいるのを見て、藤原は少し安心感を覚えた。彼は一人での食事が好きだが、同じような人がいると知ると心強く感じることがあった。しかし、夜7時ごろのいつも藤原がポテトを取る時間が近づくにつれ、レストランはさらに混雑してきて、一人客の姿は徐々に見えなくなった。今度からもう少し早い時間に来ようかと考えたが、この賑わい込みでの、楽しさであることからやっぱり同じ時間にくることに考えを改めた。彼には変なこだわりがあった。


デザートには、ティラミスと新鮮なフルーツの盛り合わせを選び、コーヒーで締めくくった。食後のコーヒーを飲みながら、藤原はしばらくの間、自分の週がどのように過ぎていったかを振り返り、これからの一週間に何を期待するかを考えた。そうしてリラックスしながら考えていた藤原の席に、意外な訪問者がやってきた。近くで遊んでいた小さい子供が、店からもらった風船をうっかり飛ばしてしまい、それが彼のテーブルに落ちてきたのだ。藤原は子供嫌いであったし、そういうあそんでいる子供を注意しない親も嫌いであった。「ああこれだから子持ちは。」と心の中でつぶやいて少し強めに風船をはたいて子供に返した。


その後、その子供は再び藤原の視界に入ってきた。今度はソフトクリームのステーションで一悶着起こしていた。子供は一人でソフトクリームを機械から出そうとして、それを山盛りにしすぎてしまい、結果的にはぐちゃぐちゃにこぼしてしまったのだった。藤原は苦笑しながらその光景を見ていたが、その子供の親が笑いながら現場に駆けつけ、子供を叱ることもなく店員に対しては笑いながら謝っている様子を見て、ますます不快感を感じた。


「社会をなめている」と藤原は独り言を思わずつぶやいていた。幸にも隣には4人家族が楽しそうに談笑していたのでセーフだと思った。なかにはその子供の失態を私と同じく不審そうに見ている人もいたが大抵の客は子供に対して優しい笑顔を向けており、彼の小さな失敗を見守るような態度を示していた。


藤原はレジで会計をすまし、家に帰る途中店員がその場の空気を読んで対応したことに対する違和感を引きづっていた。藤原は店員がもっと毅然とした態度で親に注意を促すべきだったと考えていた。しかし、実際は子供の行為を優しく受け流すだけで、特に注意することはなかった。これが彼には「単なる空気を読んだ行動に過ぎない」と映った。子供の過ちをただ笑って許す周囲の態度が、彼には理解できず、その結果ねちねちこんなことをいつまでも考え続けている自分自身に対する自己嫌悪につながった。それが孤独というものだ。


磯部悠太は、自宅の快適な作業部屋でYouTubeのコンテンツを閲覧していたが、心から楽しめる動画に出会えずにいた。彼はチャンネルを渡り歩き、無数の動画をクリックするものの、どれもが彼の期待を満たすものではなかった。この連続する失望感から、彼の体に熱がこもり、心は次第に苛立ちを増していった。


自分が何を見たいのか、どのような内容なら心から満足できるのか、その答えを磯部は見つけることができずにいた。かといってその自分が見たいものが何なのか、磯部は分からなかったため作ることはできなかった。


一方で、皮肉なことに、彼の執筆している本の方は順調に進んでいた。これは彼にとって小さな慰めであった。彼はその日の執筆作業を終えた後、疲れた目を休めるためにスピーカーの電源を入れ、フィッシュマンズの「LONG SEASON」を流し、アイマスクをつけベットに寝転んだ。そのあと彼は一時間ぐらい眠りについてしまった。


火曜日の朝、磯部悠太はひどい空腹を感じながら目覚めた。彼はすぐに着替えを済ませ、近くのスーパーマーケットに向かった。毎週火曜日は彼がよく利用する豆乳が特価で売られる日で、通常230円するものが200円で手に入るため、彼はこの日を楽しみにしていた。しかし、今日スーパーに着いて価格を確認すると、豆乳の価格は240円に値上がりしていた。


この値上げに直面し、磯部は物価の上昇を痛感した。彼は質素な生活を送っており、常に豆腐、納豆、カットキャベツ、もやしなど、基本的で経済的な食品を購入していた。YouTuberとしての収入は不安定で、彼は常に経済的な選択を余儀なくされていた。


「これが専属YouTuberというものだ」と磯部は心の中でつぶやいた。彼は早く年収400万円を超えられるようになりたいと切望していた。現状では、平均的なサラリーマンよりも稼ぐことができていないが、同年代の平均よりは高い収入を得ていることは事実だった。彼は必ずセルフレジで会計をすます。そしてWAON残高が不足していることに気づき、クレジットカード払いに切り替えた。


磯部悠太はかつて藤原誠一から、本を出版することについて興味深い話を聞いていた。藤原によると、本が10万部売れてやっとそれなりの収入になるそうで、多くの作家にとって本を書くことは経済的には割に合わない行為だと言っていた。しかし、その一方で本を出版することには別の利点があるとも聞いた。


出版された本が書店の棚に並ぶこと自体が、社会的な信用を築く手助けになるらしい。磯部は自分の作品が本屋に置かれているだけで、本屋に来る人がその著者をより知的であると感じることが多いという事実を知って驚いた。この現象は、藤原が「インテリに感じる」と表現していた。

磯部はこれを考えながら、「人間は結構単純な生き物である」という思いを強くした。彼はかつて読んだ『影響力の武器』という本から、人々がどのように簡単に影響を受けるかについて知っていたのだ。


磯部悠太はその日、何気なくカメラを回しながらキッチンに立った。普段は撮影する予定のない料理シーンだったが、ふと思いついて「貧乏クッキング」というテーマで動画を作ることにした。彼は予算100円で作れる、電子レンジを使用した簡単な料理を紹介することに決めた。


彼が選んだのは、もやし、オートミール、卵という非常にシンプルで安価な材料だった。これらを適当な容器に入れてよく混ぜ、電子レンジで加熱した。加熱が終わったら、市販のソースをたっぷりとかけて完成させた。料理のシンプルさと完成までの速さがこの動画のポイントだ。


磯部は、動画のアピールポイントを強化するために、視聴者に向けた挑発的なナレーションを加えた。「君たちみたいな貧乏人はどうせろくなもの食ってないでしょ?まあまあ落ち着きたまえ。この息くさお兄さんが節約の秘訣を教えてあげよう。最近物価上がりすぎて、なめてるよね。わかるかわる。ワイもなもう生きていくのに精いっぱいなんやわ。」


この動画は、磯部のユーモアを活かし、経済的なプレッシャーを感じているコア視聴者層に共感を呼ぶことを狙っていた。彼はその料理を口に入れるごとに顔を大げさにくしゃっとさせ、咀嚼する時には不審そうな顔をして、動画のエンターテイメント性をさらに高めた。実際このお好み焼きもどきの味はまずく、それを頑張って口いっぱいに頬張ることで笑いを狙った。


動画撮影が終わると、磯部悠太はピタッと無言と真顔に切り替え、キッチンの片付けに取り掛かった。彼はスピーカーの電源を入れ、音楽を流しながら、使用した耐熱ボウルを丁寧に洗った。


キッチンが片付けられた後、磯部は自分の作業スペースに戻り、パソコンを開いた。そして結構前に撮影したくら寿司の動画の最終チェックをして、動画の説明文を書き、適切なタグを付け、サムネイルを作り、夜の19時に動画が公開されるようスケジュールを設定した。

最近、磯部は執筆活動に多くの時間を割いている。動画撮影と編集に充てる時間はあるにはあるが、なかなか動画のアップロードまでは進まない。その最大の要因は彼のモチベーションの低下であり、これが動画制作の進行に大きく影響している。

磯部は冷凍庫からあずきバーを三本取り出し、まだソースの味がのこった口へ押し込んだ。そしてメールで原稿の推敲してもらうために、書き上げたものを藤原に送った。


藤原誠一の勤務時間がもうすぐ終わる頃、彼は一日の疲れを少しでも癒すためにスマートフォンを手に取り、ニュースアプリを開こうとした。その瞬間、彼の目に磯部悠太からの新しいメールが届いていることに気がついた。開いてみると、またしても長文の原稿が送られてきていた。


磯部は以前にも試しに読んでほしいと言って藤原に原稿を送ってきたことがあるが、そのときに比べて明らかに文量が増えている。興味は湧くものの、今この場で読み始めるのは精神的にも肉体的にも負担が大きい。キリが悪い時間帯であることと、一日の仕事で疲れている自身の体調を考え合わせると、家でリラックスしてからのほうが適していると判断した。


そこで藤原は、メールのマークを未読から読了に変更せずにスマートフォンをポケットに戻し、仕事の終わりを待った。藤原誠一が自宅に到着すると、最近の長時間労働による腰痛が顕著になっていた。彼は玄関を入るやいなや、リビングにある白い大きめのソファへと直行し、その柔らかなクッションに体を沈めた。疲労感を一気に感じながら、思わずため息をつく。


何とか力を振り絞ってテレビのリモコンを手に取りテレビをつけ、ニュース番組に切り替えた。藤原はバラエティの類が嫌いだった。彼はそのような番組が、出演者の本来の面白さを制約するフォーマットであると感じていた。また画面から流れる過剰な演出や、視聴者の好感を得るために工夫されたコメントには、しばしばイライラを覚えるのだった。これは、彼が時々感じる磯部のYouTube動画に対する同じような感情と通じるものがあった。今日は歴史的な円安を更新したそうだ。ドルを持っていない、投資もしていない藤原にとってはそれは残念なニュースだった。また物価が上がるのか。またもや深いため息をつき、近くにあるキッチンのエリアからカップ焼きそばを棚から取り出し、ケトルでお湯を沸かせた。


夕食を済ませた後、藤原誠一はリビングのデスクに座り、磯部悠太から送られてきた原稿を読み始めた。磯部の文章は、彼のパーソナリティを反映しているかのように、やや攻撃的で強気なトーンで書かれていた。藤原はその内容に若干のイライラを感じつつも、磯部の生きざまが垣間見える部分には興味を引かれた。


原稿の中で磯部は、「将来は起業家になりたい」と述べており、現在の社会人生活に対する批判的な見解を隠さなかった。「社会人は奴隷みたい」という表現を使い、自らが真っ先に就職の道を選ばなかった高校時代の決断を語っていた。この部分は、彼の反社会的な姿勢と、一般的なキャリアパスを拒否するパンク的な精神を強調しているように思えた。原稿を読む限りボッチであることはどうやら本当なようなので、とりあえずそのことには安心した。


土曜日、磯部悠太は突然、親からのLINEメッセージを受け取り、神戸への引っ越し後、免許証の住所変更手続きをしていたかどうかを尋ねられた。その問いに、彼はすっかりその重要な手続きを忘れていたことに気がついた。それは久しぶりの親からのLINEだった。磯部は今日もどうせやることないし、藤原からの推敲待ちだった。それにしても雨が降っているから歩いていかなければならないが、彼にとって歩く時間=音楽を聴く時間だったので現在住んでいる区の警察署まで二キロ弱離れていたが、それほど歩くことが苦にならなかった。


彼はいつもここを自転車で通るみちなのだが歩いて色々な発見がある。髪を乾かしている床屋の店主、最近オープンしてできたコンビニで働く大学生ぐらいのかわいい女、道端に咲くつつじの花、そして家の解体作業をしているブルーワーカの人など様々だ。解体作業現場では作業員が派手にホースで道路に水を撒いており、その水が磯部の進路を阻んだため、彼は普段は通らない裏道を歩くことにした。たまには自転車で通ってみない道を通るのもいいだろう。神戸に引っ越して一か月、随分ここら辺に詳しくなったが、まだまだ知らない道であふれている。


その中で、特に目立ったのは、老人が大きな犬を片手でしっかりと握りながら歩いている様子だった。犬は落ち着いているように見えたが、その大きさに対する老人の扱いには若干の無理があるようにも感じられた。そしてさらに歩くとコーナーからは傘もささずに、恥ずかしそうに下を向きながら歩く若い女が現れた。彼女は慌てている様子で、磯部とすれ違う際に苦笑いを浮かべた。磯部はこの裏道を通って目的地に出るはずだったが、途中で道が予想外に曲がっていたようで、思い描いていた場所とは異なる出口に出てしまった。


磯部は警察署に到着する前に一旦立ち止まり、しっかりと財布の中を確認した。特にマイナンバーカードが入っているかどうかを重点的にチェックし、無事にそれが財布の中にあることを確認すると、ほっと一息ついた。その後、彼はイヤホンを雨に濡れないように丁重にケースに戻した。

警察署の建物の中に足を踏み入れると、待合室にいた三人の警察官が同時に彼の方を向いた。彼はその視線を感じながら傘をたたんだ。警察署にはいるとなかはガラッとしていてとても静かだった。

女性警察官がカウンター越しに声をかけてきた。「どうされましたか?」


磯部は少し緊張しながら答えた。「えっと、住所が変わったので住所変更の手続きをしに来ました。」


女性警察官は申し訳なさそうに対応した。「申し訳ございませんが、土日は住所変更の手続きはできないんです。最速で月曜日から受け付け可能です。そのため、大変恐縮ですが、月曜日に再度お越しいただけますか?」


「はい、わかりました。」と磯部は答え、少し落胆しながらも軽く頭を下げた。「失礼します。」と言って警察署を後にした。


磯部は警察署を出ると、すぐにイヤホンを耳に差し込み、心地よい音楽で気分を切り替えることにした。彼の選んだのはスティービー・ワンダーのアルバム『Songs in the Key of Life』で、その豊かなメロディとリズムは彼の気分を高めた。曲が流れる中、彼はスマートフォンを取り出し、LINEアプリを開いた。


彼は親に向けて、冗談交じりに「ふざけるな」というメッセージを送った。これは、手続きができなかったことへのちょっとした不満と土日は受け付けてないことを教えてくれなかったことへの怒りを込めつつ、軽いジョークとして伝えたものだった。メッセージを送信した後、彼は少し遠回りをすることに決めた。


家に帰る途中で、彼はスーパーマーケットに寄る必要があった。家にはまだ納豆とカット野菜があり、これらを使って夕食を作る予定だったが、割り箸が足りなかったため、それを大量にもらうために店へ行くことにした。スーパーマーケットは彼の住むアパートから少し遠い場所にあるため、散歩がてらに遠回りをして向かうことにした。


磯部は帰り道、人々が雨にもかかわらず外に干している洗濯物をじっくりとなめまわすように見ながら、どんな人が住んでいるのか妄想した。




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