萌黄の館 夜の断層線

清水 京紀

第2話 磯部との出会い

雨が降っていた。東京の狭いアパートの一室、窓の外に視界を遮るほど激しく降りしきる雨が、藤原誠一ふじはらせいいちの目覚めと共に始まった。彼はベッドからゆっくりと起き上がり、小さな部屋を見渡した。ここは彼の全世界だ。壁一面にはジャンルを問わない多様な本が並び、彼には趣味というものが感じられない。他には特に飾り気はなく、機能的で質素な空間が彼の孤独と静寂を映し出していた。


彼は窓際に歩み寄り、雨に濡れる街を眺めた。雨音が唯一の伴奏者であり、それが日曜日の静けさを一層強調していた。外に出ることなく、彼は窓からの景色に心を奪われる。他の人々は家で過ごすか、愛する人との時間を楽しむだろう。なので藤原は自分の好きなPortishead《ポーティスヘッド》の『Dummy』というアルバムをながした。このアルバムは、彼の心情と見事に調和しており、雨の日曜日にぴったりのサウンドトラックだった。


彼は日曜日はなるべく仕事のことを考えず、ゆっくりと映画をみたりアニメをみたりして過ごしたかった。あと彼にはある特別なルーティンというものがある。それは一人でブッフェ形式のイタリアンレストランに食事に行くこと。これは日常にあまりにも楽しみがない藤原が見つけた唯一の救済の場所であった。だがそれはいつも決まって日曜日のよる。明日ある仕事へと頑張ろうと思えるような区切りのために通うようになったのだ。



雨が窓をたたく音が、イタリアンレストランのビュッフェ内で響いていた。藤原は、この日曜の恒例行事に、いつものように無言で臨んだ。彼の最初の目的地は野菜コーナーだった。彩り豊かな野菜たちが、生であれ調理済みであれ、彼の皿に静かに積み上げられていく。今日も彼は、フレッシュなサラダ、カラフルなグリル野菜を選んだ。このビュッフェでは、食事を始める前に野菜から食べるのが彼のルールだ。


次に彼の足取りは、ピザステーションへと向かった。焼きたてのマルゲリータ、ペパロニ、さらには野菜たっぷりのピザが並ぶ中、藤原は自分の好みに合わせて数切れを取り、席に戻ってからはテーブルの上のピザウォーマーで再び温める。ピザのチーズがとろりと溶け出す様子を見ながら、彼はひと切れずつ丁寧に味わう。この瞬間、彼の表情はわずかに緩む。


続いてパスタコーナーで、彼はバジルの香り高いジェノベーゼと、しらすがたっぷりと散りばめられた和風パスタを選んだ。いつものように、彼は異なる味を楽しむため、一皿ずつ慎重にパスタを取り分けた。


食事の最後には、ゴールデンブラウンに揚げられたポテトを選び、それに濃厚なチーズフォンデュをたっぷりとお玉ですくってかけた。藤原はこの組み合わせが特に好きで、いつものようにこの瞬間を心待ちにしていた。


彼の食事が終わりに近づくころ、店内は家族連れやカップルで賑わっていた。一つの家族が藤原の食事の仕方を見て小さな笑い声をあげた。彼の目の端にその様子が捉えられ、彼の心に小さな影が落ちた。彼らの視線が、彼の孤独をより一層際立たせたのだ。その瞬間、彼の心の中で何かがぎくしゃくと動いた。彼は顔を上げずに、ただ黙々と自分の食事を続けたが、心の中ではその家族の笑い声が反響し続けていた。


最後に、コーヒーとデザートの時間がやってきた。彼はビターなコーヒーを一杯と、口の中で甘くとろけるティラミスを選んだ。この甘い締めくくりだけが、彼に少しの慰めを与えた。コーヒーの苦味とデザートの甘さが、彼の心にほんの少しの平和をもたらす。中年男性の孤独は軽視されやすい、だがここで自分がこなくなると世の中の孤独な中年男性に顔向けすることはできない。周りの視線には負けてはならぬのだ。


藤原誠一は神戸の小さな出版社で編集者として働いている。彼の主な仕事は、地元関連の本や月刊の文化雑誌を担当することである。彼の日々は、原稿の受け取り、内容の精査、修正の指示、レイアウトの確認といった一連の編集作業についやされている。


具体的には、朝一番にメールをチェックし、フリーランスのライターやイラストレーターからの提出物を確認する。必要に応じて、記事の内容についてのフィードバックを送り、追加情報や修正を依頼する。彼は特に事実確認に厳しく、地元の歴史や文化に関する記事で誤りがあれば、信頼性が損なわれると考えている。


午後には、印刷会社からのページレイアウトのサンプルを確認し、配置やデザインに問題がないかをチェックする。また、彼は月刊誌の編集会議を主宰しゅさいし、各セクションの進捗を確認しながら、次号の特集やテーマを決定する。これには市のイベントや祭り、新しく開店するレストランなど、読者が興味を持ちそうなトピックを選ぶ洞察が求められる。


彼が手掛ける雑誌は本屋で多く積まれることは少ない。それでも生きていくためにこの職業を選んだのだ。


藤原誠一は新しいプロジェクトとして、神戸で活動するボッチ系YouTuber、磯部悠太いそべゆうたの特集を担当することになった。磯部はどこにでもいそうな若者だが、一人で楽しむ旅行や趣味の動画を投稿しており、特に独りで過ごす時間の価値を伝える内容で人気を博している。彼のチャンネルは、特に一人暮らしの若者たちからの支持が厚い。


取材の日、藤原は磯部と神戸にあるカフェで会うことにした。このカフェはリラックスできる雰囲気があり、インタビューに最適だと考えたからだ。

磯部が到着すると、藤原はまず彼を温かく迎え、コーヒーを注文した。お互いの緊張をほぐすために、最初は軽い雑談から始める。


「悠太さん、今日はお時間をいただきありがとうございます。」藤原が話し始めた。


「はいこちらこそありがとうございます。」と磯部が応じる。磯部はなかなか目線を合わせようとしない。


取材が本格的に始まると、藤原は磯部のYouTube活動について具体的に質問を投げかけた。「磯部さんのチャンネルは、一人の時間の楽しみ方を提案していて、多くの人に影響を与えていますね。この活動を始めたきっかけは何だったのですか?」


磯部は少し考えながら運ばれた水を見ながら答えた。「実は、自分自身が一人の時間をどう楽しむか、長い間悩んでいたんです。この日本では実は一人でも勇気さえあれば結構いろんな遊びができると思ったんです。」


藤原はうなずきながら、「それは海外と比べてですか?」

「はい、海外には一人で外食を食べていると、変な目で見られることがあるらしいです。」

藤原はそのことは知っていたが、二倍近く年の離れた若者の緊張を解くためにあえて知らないふりをした。「そうなんですか、知りませんでした。」


取材の会話が進むにつれて、藤原は磯部の動画制作に対する熱意と一人の時間を価値あるものにするための工夫を深掘りしようと考えた。彼は磯部に対して、具体的な動画制作のプロセスについて尋ねた。


「悠太さん、実際に動画を制作するときのプロセスを教えていただけますか?どのようにテーマを選び、撮影に臨んでいるのですか?」藤原が質問を投げかけた。


磯部は一息ついてから答え始めた。「動画のテーマは、基本的には僕の日常生活で感じたことや、視聴者からのリクエストが多い内容から選んでいます。撮影は、まずはリサーチから始めますね。例えば、一人で楽しめるカフェや公園、または地元の隠れた名所などを訪れて、その場の雰囲気を大切にしたいと思っています。」


「そのリサーチの過程で特に注意している点はありますか?」藤原がさらに詳しく知りたがった。


「はい、一人で行く場合の安全性やアクセスの良さを重視しています。また、僕の動画を見て訪れるかもしれない視聴者にも分かりやすく、楽しめる情報を提供することを心掛けています。」


藤原は磯部の配慮深さとプロフェッショナリズムに感心し、次に動画の編集について尋ねた。「撮影した素材から実際の動画が完成するまでの編集プロセスはどのように進めていますか?」


磯部はカフェのテーブルに置かれたカップを手に取りながら答えた。「編集は最も時間がかかる作業の一つですね。Adobe Premiere Proを使用して、まずは撮影したクリップを全てチェックします。その後、ストーリーが自然に流れるようにクリップを並べ替え、カットを決めていきます。カットが編集の基本なので後は基本手を抜いてますね。こういういちゃだめだと思いますが。」


藤原は興味深く聞きながら、テロップの扱いについて尋ねた。「テロップはあまり重視していないのですか?」彼自身テロップがある動画を好んで見るため、その制作にどれほどの労力が必要か気になっていた。


磯部は少し苦笑いしながら答えた。「いやたぶんこだわったほうがいいんでしょうけど、やっぱり時間がかかっちゃうので、それよりは日常動画を撮ってながしたほうがコスパもいいですし、作られた感が出ないので」


藤原は次に、磯部の動画の中で特に気に入っているものについて聞くことにした。彼はカフェの窓から見える海を背景に、質問を投げかけた。


「悠太さん、これまでに制作した動画の中で、特にお気に入り、または思い入れのある作品はありますか?」


磯部は思案顔で少し間をおいてから、ほほ笑みながら答えた。「うーん。やっぱり初期の作品のなかのどれかになるでしょうね。例えば誰もいない公園で木登りする動画とかですかね。最近はそういうの求められてないみたいなんですけど。」


藤原は驚いた。それは彼がそんな大胆なことをするひとには思えなかったからだ。そしてその動画を今すぐ見てみたくなった。

「私今その動画みてもいいですか?」

「え、めっちゃ恥ずかしいです。でもぜひご覧なってください。」


磯部は少し照れくさそうに笑いながら、藤原に自分のスマートフォンを差し出した。彼はYouTubeアプリを開き、その動画の再生ボタンを押した。


画面には、朝早くの公園が映し出され、磯部がカメラに「キェェェェェ」という奇声とともに一風変わったをしながら登場してきた。そしてまるでクオリティの低い野生動物のまねをし、上着を脱いだ。そして、とうとう低木に上った。その絵はとてもシュールである。そこに一人の老人が奇妙そうに眺めるシーンで藤原は思わず笑いそうになった。


その時、公園を散歩していた一人の老人が、磯部の奇行を不思議そうに眺めているシーンが画面に収まった。老人の表情は、戸惑いと好奇心が混じったようなもので、彼の視線は磯部から離れなかった。カメラはその様子を捉え、視聴者にもそのシュールな光景を共有していた。


藤原はその光景を見て、思わず笑いそうになるのを堪えた。彼は磯部に向かって、「その動画は本当にユニークで面白いですね。ぶっ飛んでいて最高です。」と笑顔でコメントした。藤原はこんなことでお金を稼いでいるのは素直にすごいと尊敬した。

いまとても目の前に話している人だとは思えなかった。


その時の磯部の表情は少し恥ずかしそうでありながらも、少し考え込むようにしてから静かに付け加えた。「ありがとうございます。ただ、あの動画は今では非公開にしています。初期の頃の作品なので、少し恥ずかしさもありますし、そういう過激なものをしなくなっても再生数が回るんで。」


藤原はその考えに納得し、磯部のプロフェッショナルな判断に敬意を表した。「なるほど、YouTuberとしてのブランディングも考えながら、内容を選んでいるわけですね。それにしても、多くの視聴者が楽しんだ動画を非公開にするのは勇気がいる決断だと思います。」


磯部は少し笑いながら、「ええ、たしかにそうかもしれません。でも、これでいいんです。自分が納得して、そして長く続けていけるスタイルを見つけたいので、時には過去のコンテンツを見直すことも大切だと思っています。」


藤原は、磯部の成長と変化を認めつつも、どこかで初期の無邪気で自由奔放な作品に対する郷愁を感じていた。彼は商業主義に基づく内容の調整には少し抵抗を感じており、磯部のもっと大胆で型破りな動画が見たいという思いが強かった。そう尋ねる藤原の声には、わずかながら期待と興奮が混じっていた。「他にも初期の作品で、今は非公開にしているものがあれば、教えていただけますか?」


磯部は藤原の興味の深さに少し驚きながらも、笑って応じた。「なかなか食いついてきますね。そういうの好きなんですか?」


「ええ実は好きです。」渡辺は即答した。


「あんまり非公開の動画は見せたくないんですけど、現在公開されている自分のチャンネルを古い順にしてもらえられば、見られると思いますよ。」


「ではこの取材が終わったら見させていただきます。どうします本はどんな感じの二仕上げたいですか?ご自身の人生についてか動画作成上の苦悩をつづったものや生き方や考え方をまとめたものとか、何か案はありますか?」


「実は、自分の動画作りに対する考えや一貫して取り組んできたことについて語る本を一度は書きたいと考えていました。動画制作の技術的な面だけではなく、なぜこのような活動を始めたのか、そしてどのようにして一人の時間を豊かにするかという考えを共有することで、価値のある本を作りたいです。」


藤原は磯部の提案に興味を示し、感銘を受けた様子で話を進めた。「非常に魅力的な内容になりそうですね。多くの人が日々感じている孤独感に対する対処法を、磯部さんの視点から掘り下げることができれば、読者にとっても非常に価値あるものになるでしょう。」


彼はさらに続けた。「このプロジェクトには時間をしっかりと割きたいと思います。私の他の業務は地方紙の推敲が主なので、時間は比較的取りやすいです。次回、じっくりと話し合える日をメールで教えていただければと思います。」


「こちらこそ今回はありがとうございました。また考えがまとまれば送ります。」と磯部は頭を軽く下げた。


藤原は立ち上がり、会計を済ませるためにカウンターへ向かった。「今日は貴重なお話を聞かせていただき、本当にありがとうございました。会計はこちらでお支払いしますので、ご安心ください。」彼は微笑みながらそう付け加えた。


磯部は感謝の意を表し、もう一度藤原に頭を下げた。


藤原は自宅に帰り着くと、取材の疲れを癒やすために、さっそく冷蔵庫からビールを一本取り出した。彼は磯部悠太の「ゆうとソロ遊戯チャンネル」での初期の動画を見るのを楽しみにしていた。ビールを開け、ソファに深く腰掛けながら、ラップトップの画面を開いた。


画面に映し出されたのは、雨が降る河原で磯部が泥んこ遊びをする姿だった。またもや彼は「キェェェェ」「ポーーーー↑↑」「ひゃひゃひゃ」と次々に奇声を繰り出していく。期待していたほどの面白さはなかったが、世の中にはこんな人もいるのかと興味深かった。


次の動画では、磯部がニコニコの笑顔で自室でトマトを壁に投げつけるという一風変わった試みをしていた。トマトが鈍い音とともに壁にぶつかり、ジューシーな赤い液体が飛び散る様子は、磯部の狂気じみたニコニコの笑顔でなんとか動画としてエンタメ動画で成り立っているような気がした。


この磯部悠太の本を編集できることは藤原の人生にとって刺激になることが期待できた。藤原の人生の安定は時として、予測可能な周期の中で徐々に彼の創造的な魂を縛りつけ、日々の生活を単調な繰り返しに変えてしまっていた。


藤原と磯部は、取材後も頻繁にメールで連絡を取り合い、磯部の本の構想を具体化していた。藤原は磯部の視点から孤独の時間をどう充実させるか、その哲学を広く共有したいという熱意に感銘を受けていた。


ある日、磯部から送られてきた初期原稿は、藤原の期待を大きく上回るものだった。磯部は岡山大学を卒業しており、そこでで培ったであろう知識と文章の読みやすさが原稿にも色濃く反映されていた。原稿には、彼の学生時代に抱えていたいじめ、そしてその後絶対的な孤独が描かれていた。この悲劇は藤原が読むにつれてさしたるメンタルに影響を与えなかった。


藤原は原稿を読み進めるうちに、その内容をさらに磨き上げるためのフィードバックを丁寧にまとめた。彼はメールでその感想と具体的な修正提案を磯部に送り、次回のミーティングでさらに深く議論を進めることを提案した。


そして日曜日がまた近づいてきた。


夕暮れが深まる中、藤原誠一はふたたび神戸にある愛されるイタリアンビュッフェレストランへと足を運んだ。この場所は、彼にとってただ食事をするだけでなく、週末ごとに訪れる小さな逃避行となっており、毎回の訪問が新たな発見と喜びを与えてくれた。


店内に足を踏み入れると、藤原はいつものようにまずはカラフルな野菜たちが迎えるサラダバーへ直行した。彼はプレートにビーツのマリネ、シャキシャキのキャロット、そしてサクサクのレタスを丁寧に盛り付けた。


メインディッシュエリアでは、ピザの香ばしい香りが空気を満たしていた。藤原は、特製のマルゲリータとハニーピザを選び、その熱々のスライスを皿に滑らせた。次に、彼は海の幸がたっぷりとトッピングされたリングイネを取り、魚介の風味が口の中で広がるのを楽しみにした。


今日のレストランはいつもよりも穏やかで、藤原をじろじろと見るような視線は感じられなかった。店の雰囲気は活気に満ちており、いつもの猫背気味な店長も忙しそうに新たな客をテーブルへと案内していた。時間が7時を回ると、通常通り客で混み合い始めた。ポテトを取りに行こうと思った矢先、そのエリアはすでに人で溢れかえっていた。


藤原は少し離れた場所で、周りの客たちの会話を耳にする。隣のテーブルでは家族連れが、子供の学校の話で盛り上がっていた。「もう学校で友達いっぱいできたの。」という子供の声に、家族は笑顔で応えている。「すごいね、みっちゃんは元気だから人気者になれるよ。」と母親が言い、子供は嬉しそうにニコニコ笑った。


もう一つ遠くのテーブルでは、若いカップルがデートの計画を立てている様子が聞こえてきた。「来週の土曜、コナンの映画に行こうよ。めっちゃ今人気らしいね。」と女性が提案し、男性は「俺コナンの映画なんか見たことないけど、まあいいか、一緒に行くよ。」と応じていた。


藤原はいよいよ満腹も近くなり、デザートにはいつもとは異なる選択を試みて、ふわふわのパンナコッタとシチリア風カンノーリを選んだ。パンナコッタの滑らかな口当たりとカンノーリの甘いリコッタクリームが、彼のデザートタイムを至福な時間にした。最後にオレンジがいれられたデトックスウォーターを一杯。このデトックスウォーターは腹十分目まで食べたことに対するやましさを少し軽減さしてくれる。


磯部悠太に平日、休日の区分けは重要ではない。ただ土日に外撮影を行うものならすこし人が多くて動画がとりにくくなった。実はまだ外撮影をするのは多少の緊張がいるものだ。明らかにピンマイクをつけて自撮り棒をもちながら自分を撮影するって周りからしても時代的に多少は奇怪な目で見られることは少なくなったが、まだ特に初老の老人たちにはそういう目で見られることが多々ある。


磯部悠太は平日の月曜日、人出が少ない時間を狙ってイオンシネマへ向かった。彼の目的は、最新の『名探偵コナン』の映画を観ながら、その体験を自分のYouTubeチャンネル用に撮影することだった。カメラ装備を整えつつ、彼はまず自宅を出発する様子を撮り始めた。


磯部は自撮り棒にカメラを装着し、ピンマイクをシャツにしっかりとつける。彼の準備は完璧で、家を出る前に一度カメラに向かって「どうもゆうたです。今日はコナンの映画をイオンまで見に行こうと思います」と話しかけた。


彼がイオンシネマに到着すると、チケット購入のプロセスもしっかりとカメラに収めた。「映画を観るのは一人の時間を楽しむ最高の方法の一つですね。特に『名探偵コナン』みたいな人気シリーズはそれ自体が祭りみたいのものですし。」と語りながら、彼はチケットを受け取り、映画館の中へと進んだ。


磯部は映画を見ている最中どんなことを話そうか考えながら鑑賞した。これが動画投稿者の意地というものだ。この職業はただぼさっと見るだけでは許されない。鑑賞後ふりかえってみると磯部はコナンの映画はつまらないと思った。しかし、つまらないという感想は圧倒的に受けが悪いので、面白いと思った点を映画のレビューを参考にノートにまとめていく。そしてそれをフードコートで書き、そのままフードコートの隅に移動する。こうすることで他者へ配慮するのだ。なぜ自宅に帰って感想を取らないかというと視聴者はリアルタイム感を求めているからだ。台本ありとしったら冷めてしまう視聴者も多いのではないかと思う。


磯部悠太の撮影はまだ終わっていなかった。『名探偵コナン』の映画撮影に続き、彼は次の企画である「一人回転ずし」の撮影のため、近くのくら寿司へと向かった。店内は客で賑わっており、彼は躊躇することなくカメラを回し始めた。自分がみじめにそして楽しんで食べているようにわざと笑顔を作り、注文する寿司も視聴者の反応がよくなるように定番物は注文せず、さばや貝類、そして肉類のすしを注文した。


食事を楽しんだ後、磯部はくら寿司のもう一つの楽しみ、ビッくらポンのゲームに挑戦するために寿司皿を5枚返却口に入れた。カメラをゲームのスクリーンと自分が映る位置に適切にセットアップし、ゲームが始まる瞬間を捉えた。ビッくらポンの結果が外れた際には、彼は変顔をして見せることで、撮影にユーモアを加えた。一方で、当たりが出た時は大げさにガッツポーズをとり、わざとらしく喜んで見せた。その時対角線上に座っていたちっちゃな女の子が不思議そうにこっちを見ていたので、それをカメラに収めたいと思ったが、さすがに炎上しそうなのでやめておいた。


幸運にもこの日、磯部は先ほど見たコナンの映画とのコラボ中であることから、キャラクター服部平治がデザインされた缶バッジをゲットすることができた。彼はカメラに向かって缶バッジを紹介し、「ほらみてみ、いらないのが当たったねー。捨てていい?」と興奮して話した。その後、彼はその缶バッジを自分のシャツに着けた。


磯部悠太が自宅に戻ると、彼はすぐに執筆のための机に向かった。今日一日の撮影で得たエネルギーはまだ彼の中に残っており、それを原動力に変えて、次の大きなプロジェクトである本の原稿を書き進めることにした。


彼が取り組んでいるのは、自身の過去と現在の経験を綴った自伝的要素を含んだ作品である。この本は、一人の時間をどう楽しむか、そしてどのように自分自身と向き合ってきたかを語る内容になる予定だった。しかし、その過程は彼にとって容易なものではなかった。過去を振り返ることは、彼にとって一種の苦痛であり、書く行為自体が痛々しいものになっていた。


磯部悠太は、机に向かいながら、自分の原稿について深く考え込んでいた。彼は自分の過去と現在を綴るこの本が、うっかり重く暗い内容になり過ぎてしまうところだったことに気づいた。「あぶない、あぶない、これじゃあただのうつ病の自伝になるところだった。もっと軽いものでいいんだよ。」彼は自らに言い聞かせた。現代の視聴者には、重たい内容よりも何かしらのエンターテイメントとしての価値が求められているからだ。


磯部は、自身のYouTubeチャンネルでの経験からも学んでいた。「ネガティブな内容も面白い形でなければ、YouTubeでの再生数やファンの数は伸びない。本当にありのままのネガティブさや陰気さを貫いて人気になっている人は、僕はまだ見たことがないんだ」と彼は思考を巡らせた。「『ホンモノのうつ病者』いくらネットでもカルト的な位置にしか行かない。人気になっている人は、どこかに魅力的な要素や能力がある。」


そこで彼は、原稿のトーンを調整し始めた。悲惨さを煽るのではなくいつもしているように自身の経験をフランクに、しかしユーモラスに語る方法を取り入れることにした。「視聴者は、フランクな絶望に対して好奇心を持つ。特に女は卑屈な男を最も敬遠する。」このことを忘れてはならない。


なぜ今本を書くのか、それはやっぱり生きてきた境遇や思考などをじっくり語るのはほんの分量になるし、なにより本みたいに受容者が能動的になってくれるものはないと思う。映画だって究極流せばその映画は終わってみたことになる。本を読むということは眺めるだけでは読んだことにはならない。


この思考を胸に、彼は自身の過去を振り返りながら、どのようにそれが現在の彼を形作っているかを綴っていった。例えば、YouTuberとしての最初の挑戦がどのように彼のキャリアを形成したか、また、個人的な失敗がどのようにして彼の価値観を再定義したかを語った。


磯部悠太は執筆の疲れを感じ、少し気分転換をしたくなった。彼は部屋のスピーカーからMissy Elliottの曲を流し、他の磯部の家にある他のボッチ系ユーチューバーの本を読んだ。その本は、一見すると魅力的な表紙とキャッチーなタイトルで装飾されており、シンプルながらも直感的なアドバイスが記されていた。磯部はページをめくりながら、内容には興味をそそられつつも、何か物足りなさを感じていた。その本の中には、一人の時間の過ごし方や、個人的な空間の楽しみ方について書かれているが、磯部にはその議論が表面的に感じられた。その本を越えねばならぬと対抗意識をもった磯部は音楽を止め、今日とった動画の編集作業に移った。


藤原誠一は、その日の夜もまた、自宅の書斎で原稿の編集に没頭していた。彼が手がけているのは、磯部悠太の本の編集で、その内容には彼自身が感じる生きる意義や一人の時間の過ごし方が詳細に綴られていた。藤原はこれまでの編集者人生で数多くの作品を手掛けてきたが、この本は特に彼の心に響いていた。磯部の生きざまが、彼自身の考え方にも新たな視角をもたらしていたからだ。


しかし、今夜はいつもと違って彼の心は落ち着かなかった。本の内容には満足しているものの、市場での受け入れ方や読者の反応が気になっていた。磯部の本がただの一過性の自己啓発書と受け取られないか、その深い洞察が適切に評価されるかどうか、そんな不安が彼の心を覆っていた。そんな本の質のことよりもっと根本的な不安材料があった。それは磯部の最近の動画を再度チェックしている間に、その内容の一貫性と創造性が低下していることだった。かつては斬新でユニークだった磯部の動画も、最近ではどれもが似たり寄ったりの内容になっており、視聴者が新鮮さを感じる要素が減っていた。最近投稿された「孤独な男のネットカフェの過ごし方」という動画では、磯部がネットカフェで漫画を読み、美味しそうな食事をするだけの内容だった。


この動画自体はシンプルで日常的なものだが、コメント欄を見ると、意外にも「本当に中毒性がある」「こういうのでいいんだよ」というようなポジティブな反応が寄せられていた。このギャップに藤原は戸惑いを感じつつも、磯部の動画が特定の視聴者には依然として強い魅力を持っていることを認識した。


磯部のチャンネルは現在30万人の登録者を持っているが、半年前には一つの動画が50万回以上再生されることも珍しくなかった。しかし、最近の動画の平均再生数は10万回にとどまっており、彼の動画のトレンドが明らかに下降していることを示していた。藤原は、時間が経てばこれらの動画もある程度は再生されるだろうが、内容が平凡すぎてリピート視聴を促す魅力に欠けているため、大きく伸びることは難しいだろうと推測していた。


前回カフェで磯部と会った際、彼はこの問題について一切触れなかった。藤原はこれが磯部のプライドか、はたまた自身の状況に対する無知から来るものなのか、見極めかねていた。しかし、磯部が自身のキャリアの現状を真摯に受け止めていないことに、藤原は心からの危機感を覚えていた。


机の上の授乳ランプだけがぼんやりと光を放ち、彼の前に広がる原稿に黄色い光を落としていた。藤原は一息つき、少し窓を開けて新鮮な空気を取り入れることにした。外の空気は冷たく、彼の思考を少しクリアにしてくれた。


藤原は、自宅の書斎での長時間の作業に一区切りつけることに決めた。彼はパソコンの電源をオフにし、部屋の明かりも消して外に出た。気分転換と夕食の買い出しを兼ねて、近所のスーパーマーケットへ向かった。


スーパーに着くと、彼の目に飛び込んできたのは、特価になっている寿司のコーナーだった。普段よりもかなり値下げされていたため、彼は迷わずその寿司を二パック手に取った。夕食にはこれで十分だと思いながら、彼は次に野菜コーナーへと足を運んだ。そしてカットキャベツをカゴに入れ、食事の一部とする計画を立てた。寿司とキャベツのサラダで、簡単ながら栄養バランスのとれた夕食ができる。


そして、スーパーの飲料コーナーで、彼は自分への小さなご褒美を選ぶことにした。アサヒのスーパードライ、彼の好きなビールが6本セットで広告価格になっていた。彼は躊躇することなくそれを手に取り、カゴに加えた。これで今夜は美味しい寿司と冷たいビールを楽しむことができる。


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