乃愛

*

「もういい加減閉めようぜ。これ以上やっても無駄だろ」


 一発目の花火が上がるのを見て、悟さんが口火を切った。

 七時半を回り、店の前で行われていたちびっこ広場も、とうに終了していた。観覧客は皆花火大会のメイン会場である新川の河川敷に向かってしまい、店の周辺は閑散とするばかりだった。


「いくつ売れた?」


 彼が覗き込むものの、手元のメモ用紙にはポテトの下に正の字が六つ、豚角煮まんに至っては正の字一つすら形作ることが出来ていない。徒労と言う以外に当てはまる言葉が浮かばない程、あまりにも酷い結果だった。


「あーあ、豚まんどうすっかなぁ。お前ら何個かずつでも持って帰れよ」

「でも、稲谷さん騒ぐんじゃないですか? 売れてないのに無くなったって」

「どっちみち一回蒸したやつはもう駄目だよ。それに、どうせまだまだ冷凍で残ってるし」

「悟さん達のまかないにしたら?」

「勘弁してくれよ。流石に毎日はキツイぜ」


 片付けと言っても大してゴミも無く、器材さえ撤収してしまえばすぐだった。

 店を出る頃にはすっかり花火も終わってしまい、火薬の香りとどことなく浮き上がった町の雰囲気だけが空しく漂うばかり。それでもいつもに比べるとだいぶ早くあがれたから、久しぶりに彼と出かけられる事になった。


「とりあえずドライブにでも行こうか」


 そう言って彼は車を走らせた。まだ火薬の臭いと祭りの余韻が立ち込める街から目を背けるように、ぐんぐん遠ざかっていく。

なんとなく、向かう先はわかった。海だ。

 花火大会の後の町は、興奮冷めやらぬ若者や酔い客で騒がしい。そんなところに、私と彼の居場所なんてないのだ。

 いつもの新舞浜に行ったものの、駐車場にはいつになく車が並んでいて、海岸で花火をする若者達の姿があった。どうやら花火大会から流れてきたようだ。

 彼は無言で車を切り替えし、再び道路へと出た。


「どうするの?」

「そうだな……肝試しにでも行こうか?」

「きもだめし?」

「知らない? 有名な心霊スポットがあるんだ」


 そう言われても、この町に来てからのほとんどが『フィオーレ』でのアルバイトと彼との時間で埋め尽くされていた。彼に連れて行って貰った場所を除けば、私がこの町で知っている場所なんてほとんどない。


「どこにあるの?」

「まぁ、黙って見ていなよ」


 くるくると闇夜を切り裂く灯台の灯かりの下を進む内、小高い山の上に青白く浮かび上がるマリンタワーの姿が見えてきた。

 工場が立ち並ぶ江名浜の港のすぐ側の高台に、大崎公園という大きな公園がある。海上四十六メートルの公園の中央に聳え立つマリンタワーは高さ六十メートル。合わせると海抜百メートルを超える高さから、太平洋や江名浜の港が一望できるという謳い文句だけど、小中学校の遠足ぐらいでしか利用されない地味な観光スポットだ。

 車はマリンタワーの直下を潜って、細い道を入って行った。木立を抜けるとちょっとした駐車スペースがあって、奥の闇の中に建物が見えた。


「ここ?」

「そう。来てごらん」


 彼に手を引かれ恐る恐る着いて行くと、三階ぐらいの高さの円柱形の塔が建っていた。でも彼は塔には登らず、その先へと歩みを進める。

 荒ぶる波の音で、すぐ先まで海が近づいているのがわかる。と言ってもいつもの海岸とは違って、ここは高台だ。足元の遥か下ところで波が爆ぜる音が響く。


「これだよ」


 目の前に開けた風景に、私は息を飲んだ。

 海抜五十メートル近い高さの断崖絶壁の上に、一本の橋が突き出していた。周囲はガッチリとアーチ状の格子に覆われているけれど、一歩間違えば根本からポッキリと折れてしまいそうな不安定さを感じさせる。


「すごい!」


 私は吸い込まれるように足を進めた。

 眼下には漆黒の海が広がり、切り立った岸壁に次々と波が打ち寄せる轟音が身体の奥にまで響き渡る。麓には江名浜の工業団地の灯りが煌々と煌めき、海の上にはタンカーらしき巨大な船体と小さな光が明滅する。


「大したもんだ。よく平気だね」


 見れば彼は、橋の袂に立ったままだった。


「どうしてそんなところにいるの? おいでよ」

「高い所は苦手なんだ。それに……」

「それに?」

「その端から、女のおばけが足を引っ張るって有名なんだ」


 私は悲鳴をあげて、彼の元へと走った。


「もう!」

「肝試しって言ってただろう?」


 彼は私を抱き止めて、声をあげて笑った。

 大崎公園の汐見台と言えば、地元では有名な心霊スポットなのだそうだ。お化けが出るという噂もあれば、恋人達のデートスポットとしても知られている。カップルで訪れると別れるというものもあれば、格子部分に二人の名前を刻んだ南京錠を嵌め込み、鍵を海に投げ捨てれば永遠の愛が保証される、といったものもあるらしい。

 確かに格子にはおびただしい数の錠前がぶら下がっていた。決して開けられる事のないであろうそれらは、夜のせいか不気味にしか感じられなかった。

 私達は汐見台の塔の方に登った。螺旋階段が続いていて、最上部の展望デッキからは、さっきよりも幾分高い視点から海を見渡せる。彼もさっきのように躊躇する様子は見られず、私と一緒に並んで手すりにもたれ掛かる。


「こっちは平気なの?」

「足場がしっかりしている分にはね。ああいう、落ちそうなのは好きじゃないんだ」


 私達は改めて、二人で寄り添って海を眺めた。

 江名浜の港を車で走った事はあるけれど、こうして上から見下ろすのは初めてだった。数年前に工場の夜景がブームになったけど、江名浜だって負けていないと思う。精錬所やコンビナートの無機質な建物と、白や橙の明りが無数に輝く様は、幻想的でついつい見惚れてしまう。

 夜の港にも、沢山の船が並び、煌々と明かりを点けている。漁船は朝早くから漁に出発するというから、こんな時間から準備でもしているんだろうか。

 こうして彼と見るまでは、夜の港がこんなにも明るいものだなんて、想像もしなかった。

 花火はほとんど見られなかったけれど、こんな風に二人で夜景を見られるのなら、花火大会も悪くない。


「綺麗だね」


 私は素直な気持ちで言ったのだけど、


「乃愛もね」


 と彼は微笑んだ。


「ありがとう。陽の事、説得してくれたんだろう? 助かったよ。いつも乃愛には助けられてばかりだ。乃愛がいてくれて、本当に良かったと思うよ」


 思いがけず向けられた言葉に、胸がじんわりと疼く。


「そんな、私なんて……」

「これからも支えて欲しい。乃愛はずっと側にいてくれ」


 彼の腕が私の肩に回り、ほんの少しの力で抱き寄せられる。私達はそのまま、唇を寄せた。

 そうして何度も何度も、キスを交わす。もう、海も夜景も目に入っていなかった。私には彼だけが、彼の目にも私だけが映っていた。

 彼の手がTシャツの上から胸をまさぐり、続けて直接身体に触れて来ても、それが自然な流れのように感じた。声が漏れそうになるのを、彼の首筋に唇を押し当てて必死に押しとどめる。彼の手が私の下腹部に達し、我慢し切れずに離した口に、間髪入れず彼の舌が滑り込む。

 彼の唇や指が触れた場所が、途端に熱を帯びる。彼は私の心と体の奥にしまい込んだ大事なものをするりと音もなく解いてしまう。

 彼が、好きだった。

 私には彼が必要だし、彼が必要としてくれるのが心の底から嬉しかった。

 彼が喜んでくれるのならば、どんな事だってしようと思えた。

 どんな場所でも、どんな時でも、彼が求めてくれるだけで幸せだった。

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