聖水よりも一杯の味噌汁を

第4話 死神さんとメランコリーモーニング

  翌日、小鳥が囀る優雅な日本の早朝。藍里は蝶がはためくように自室で瞳を開けた。


「うーん、よく寝た」

 彼女は起き上がると、腕を伸ばして、呻きを上げた。そして、そのまま肩を揉みながら、ぺらぺらと口を開いた。


「はぁ、あたし疲れすぎ。変な夢だったぁ、死神と契約して一緒に喫茶店経営なんて……。イエスキリストが泡吹いて卒倒ね」


「誰が夢だって?」


 その瞬間、藍里の首に冷えた金属の感触がした。そのまま視線だけ横にずらせば、なんとベッドの縁にはモルテがいて、180cmは優に超える大鎌を藍里に突き立てていた。藍里はひゅっと喉から音を出し、ベッドのすぐ傍にある窓に手をかけて身を乗り出した。


「うそうそうそぉ!? 夢だけど夢じゃなかった!? よし一回飛び降りよう。 でぇじょうぶだ、夢なら死なねぇ!」


「ちょっと、ここ二階よ!? 待ちな、あんた!」


 藍里の奇行に、モルテは流石に慌てて鎌を放り出して彼女を掴んだ。


「離してぇ! やっぱりよくよく考えると怖くなってきたんです! 相手は神ですよ? 神となんちゅう約束したんですか、わたしぃ!」


「分かったから、分かったから、落ち着きな!__クソっ!」


 モルテが藍里の腕を取った瞬間、彼女は窓縁から足を滑らせた。そのとき、藍里は兎模様のパジャマのまま、真っ逆さまに落下を始めた。やはり、自分は死神に命を取られずともこうなる運命だったのだ。死神との一夜のいざこざが命を延ばしてくれただけなのだ。


 そう思うと藍里は不思議とこのまま天に身を任せてもよいと感じた。彼女の軽い体は自宅傍の野菜農園に向かった。しかし、次の瞬間、物理法則に逆らって藍里の落下は止まった。目を開ければ、自身はまだ空中である。ふと顔を上げてみると、件の美顔が目に入った。羽音がし、背後を見ればモルテの背からはカラスの如き黒羽がはためいていた。


 モルテが藍里を救ったのだ。やはり、昨日の契約は忘れられていなかったようである。おちゃらけているようで、意外と真面目。藍里はそのギャップにどこかおかしくなって、吹き出した。しかしモルテの気に召さなかったようで、次の瞬間には農園の茂みに振り落とされていた。藍里は草まみれになって、茂みから顔を出すと青筋を立てた。


「な、なにするんですか!? こっちはレディですよ!?」


「うっさい。人が折角モーニングコールしてやったのに、ギャースカギャースカ騒いで……。最近のコ―コーセイって、猿にまで退化してるの!?」


「うっ、ごめんなさい。やっぱり死神と契約したことがまだ信じられなくて……。」


「信じるも、何も、あんたのおでこに証拠あるでしょ?」


 そのとき、藍里ははっとした。証拠とは何のことだ? すると、モルテはこちらに来いと手招きした。藍里が大人しく、彼の前に来ると、途端に前髪をかき上げられた。抵抗する暇もなく、次にはどこから取り出したのか分からない鏡を向けられた。一体、どうしたのか。藍里がそれを覗き込むと、あっと声を出した。


「なによ、これぇぇ!」


 なんと藍里の額には、やや斜めに傾いた「M」という傷跡が入っていた。触ってみても、とくに痛みも熱も感じない。これを刻んだであろう元凶を見つめると、彼は得意げに目を閉じていた。


「いかしてるでしょう? それがアンタとアタシのボンドよ!」


 なるほど、これが契約の証か。Mとは、つまりモルテの頭文字か。ふーん。しかし、如何せん、これは……。


「だせぇぇぇぇ! 」


 藍里は鏡をはたきおとすと、モルテの襟を掴んで、前後運動を始めた。


「なんですか、コレ! 駄目ですよ、コレ! どこの眼鏡をかけたハリーでポッターな少年ですか!?」


 藍里の嘆きに、モルテはうんざりした顔を見せるとばっと軽く彼女を突き飛ばした。瞬間数歩後ずさる彼女に、モルテはひらひらと手を振った。


「そのうち、気に入るわよ! 小娘。あんたのご先祖様は皆、それがあったんだからさ。さぁ、そんなどうでもいいことは置いといて、神であるこのアタシに最高の朝食を用意なさい!」


 そう言うとモルテはケラケラと笑って、喫茶店と併設する大蔵家の一戸建てに入っ

ていった。藍里はもう一度額を触ると、悔しそうに拳を握りしめた。


「っく、見た目優男で、中身シンデレラの姉かよ。許して、おばあちゃん……。全ては黄泉平坂の茶処を守るため……」


 藍里は溜息をつくと、モルテの後を追ったのだった。


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