第12話 咲来通りのカフェーへ
「あ、
「じっとしていてくださいまし、
突如翔和に持ち上がった妹との縁談を取り下げてもらうため、二人で作戦を立て決行することにした雅月は、真正面から彼を見つめ言い置いた。
これも何かの作戦なのか、座布団に座る翔和と向かい合った彼女は、じっと近い距離で彼の相貌を見つめている。
「翔和は綺麗ですから。視線を向けられると緊張してしまうのです。きちんと恋人を演じるためにも、もう少し慣れたいと思いまして」
「そ……だからってにらめっこかい? お見合いを確実に回避するため、両親にきみを大事な恋人として紹介するとは言ったけれど、この距離で見つめられると口づけしたくなるよ?」
すると、身を乗り出すようにして翔和を見つめ、理由を告げる雅月に、彼は肩を
どうやら二人の作戦は、作戦と言いつつも純粋に関係を認めてもらうことにあるらしい。
そのために雅月は単身、「翔和の美貌に慣れる作戦」をしているようだが、彼としては、自分から見つめるのは平気でも、彼女から見つめられると心の奥がざわついて、どうにも落ち着かなくなる。
好きだと告げた直後だと言うのに、彼女は恋人としての欲求が自分に向く可能性を、考えたりしないのだろうか?
「ふえっ?」
そう思い、悪戯っぽく告げる翔和の一方、彼の発言に目を瞬いた雅月は変な声で飛び退いた。
やはり翔和=甘味にのみ一途な甘党というイメージが強すぎるのか、彼女はやけに慌てた様子だ。
「と、翔和も
「フフ、誘ってきたのに今さら退くの? 狡いなぁ」
「ささ誘って!? そのようなはしたないことをしたつもりは……!」
頬を朱に染め、即座に距離を取ろうとする雅月に、翔和は悪戯っぽく笑う。
やはり主導権を握る側になると、気恥ずかしさよりも彼女の反応を楽しんでいる自分がいるようだ。
腕を引き、雅月が離れるのを阻止した翔和は、狼狽える彼女になおも笑って、
「この距離じゃあ誘うには十分さ。ヒロみたいな変態なら、何も言わずに襲ってるよ、たぶん。それに恋人なら、口づけくらい赦してくれてもいいんじゃない?」
「う……、ですが、そ……。……っ、承知しました。では失礼します」
顔を赤くして慌てふためき、戸惑いのままに瞳を揺らしていた雅月は、やがて覚悟を決めると、手を伸ばした。
そして、笑みを見せる翔和の頬に一瞬だけ唇を触れさせ、すっと立ち上がる。
彼女から口づけるとは思っていなかったのか、大きく目を見開いた翔和は、驚いた様子だ。
「こ、これが限界です! ゆ、ゆゆ夕食の準備をしてまいりますので、失礼します!」
「……狡いなぁ」
そう言って逃げていく雅月の背を見つめ、翔和は赤くなったまま笑う。
彼女が翔和を恋人としてきちんと認識するまでには、まだ時間がかかるような気がした。
「あっ、見えてきたよ。あれが
それから数日。ついに作戦を決行することにした二人はこの日、
大きな店が幾つも並ぶこの通りは、帝都でも指折りの繁華街だ。
「緊張いたしますね。わざわざ人に見せつけたのちに、御代家へご挨拶に伺うなんて……」
すると、相変わらず翔和に手を握られ、薄紅色の着物の袖を揺らす雅月は、辺りを窺うように呟いた。
縁談を確実に回避するための作戦として、二人はこの周囲を物色した後に、御代家へ顔を出すことにしている。
どうやらそうすることで、近所の人の目にも印象を残させ、雅月が翔和のその場しのぎの相手ではではないことを、証明させる狙いがあるようだ。
本音を言えば、純粋に逢瀬も楽しみたいだけなのだが、それを隠しつつ笑んだ翔和は、目的のひとつであるカフェーに着くと、扉を開けた。
「いらっしゃいませー。……あら、翔和様ではありませんか」
カランカランと鈴の鳴る音を背に中へ入ると、華やかな女給の姿が目に入った。
翔和曰く、ここは接待の有無を選べるカフェーらしいが、働いている女給たちは皆、艶やかに化粧を施し、男性客らをもてなしている。
そんな中、来店に気付いた女性は、翔和に頭を下げて言った。
「お久しゅうございます。ご注文は
「うん。いつも通りでいいよ。彼女は僕の大事な人さ。水菓子とサンドイッチももらえる?」
「畏まりました。それはさぞご両親がお喜びになりますわね」
ふふと柔らかい笑みを浮かべ、女給は、翔和のことを知っているらしい口ぶりで、二人を席へ案内した。
彼に接待が不要であることは皆分かっているのか、店の者たちが不必要に近付いてくる様子はないものの、雅月を連れている現状に、密やかな声が聞こえてくる。
確かに、今までは御代呉服屋本店近くの店を避けていたのも事実だが、こんなにも反応があるなんて、なんとなく照れる思いだ。
「反応は上々だね。この店のパティシエは母の知り合いだし、女性は噂が好きだから、きっとすぐに広まると思うよ」
「それはそれで恥ずかしい限りですが……。しかし、お店の雰囲気は素敵です」
「うん。僕は子供のころから来ているんだ~」
早速運ばれてきた紅茶に口を付け、翔和は呑気に語る。
彼としては家に帰るだけなので、特段緊張していないのかもしれないが、時間が経つごとに雅月の心拍数は上がっていく。
もちろん、伯以上の身分を持つ相手と交流した経験がないわけではないものの、御代家に関しては、遠目で見たことがあるのみ。
父が御代家と交流を持っていたことすら知らなかったし、そもそも妹が彼の見合い候補として挙がっているにも関わらず、姉が挨拶に行くなんて、翔和の両親はどう思うだろう。
考えれば考えるほど、歓迎されないような気がしてならなかった。
(……いいえ、今さら怖気づいてどうするの、雅月。翔和の傍にいたいのでしょう……?)
「雅月、そんなに気を張らなくて大丈夫だよ」
「……!」
と、硬い表情で前を睨みつけ、ぎゅっと手を握りしめる雅月に、翔和は優しく囁いた。
向かい側で穏やかに笑む彼は、どこか心配そうにこちらを見つめている。
「僕の両親は怖い人じゃないし、身分をどうこう言う人でもない。むしろ、僕がようやく甘味以外に目を向けたと知って、喜ぶんじゃないかな。だから今はカフェーを楽しもう?」
「……っ。そう、ですわね。せっかく参ったのですものね」
「そうそう。あっ、甘味が来たよ~」
雅月への気遣いと周囲への見せつけを兼ね、テーブルの上で彼女の手に触れる翔和に、雅月はひとつ深呼吸をすると、気持ちを落ち着かせた。
この案件がどう転ぶかなんて、いくら考えても答えは出ないのだ。
だからこそ、いつも通りの自分でいなければ。
「はぁ~、美味しかった。じゃあ近くを回りながら家に行こうか」
メロンやオレンジなどの水菓子が乗る大きめのタルトレットを二つも平らげ、翔和は満足そうに店を出た。
旬の水菓子を使った甘味が有名だという馴染みの店の味に、今回も満足したらしい。
すると、そんな翔和にまた早々と手を握られた雅月は、落ち着いて言った。
「分かりました。頑張ります」
「うん。頑張らなくて大丈夫だけど行こう。今の時間なら父も母も屋敷にいると思うし」
にこりと笑って彼女の手を引き、誘導してくれる翔和と共に、雅月は通りを歩きながら、御代呉服屋本店へと向かう。
その途中、幾つかの店先から人の視線は感じたものの、下手に声を掛けられる心配はなさそうだ。
後は翔和の両親が在宅していることを願い、しばらく進むと、通りの右手に大きな平屋の建物が見えてくる。
引っ切り無しに人の行き来が見られるあの建物こそが、今回の目的地だ。
「僕も実家に帰るのは久しぶりだな。何か変わったところはあるかな~」
「翔和!?」
「!」
と、呑気な翔和が呉服屋に視線を向けた、そのとき。
不意に後ろから、翔和を呼ぶ女性の声が聞こえてきた。
何事かと思い振り返ると、そこにいたのは丸髷にした黒髪と、優しげな目元が印象的な女性。
すらりとした指で口元を覆った彼女は、心底驚いた様子で翔和を見つめている。
「これはこれは母上。今ちょうど、家を訪ねるところでしたよ」
「あなたが自分から……? 珍しいこともあるのね。そ、それよりその子……」
呆気に取られた女性の心情など気にした様子もなく、穏やかに告げる翔和に、彼女――翔和の母親で御代伯爵の夫人・
繋がれた手と言い、寄り添う雰囲気と言い、信じがたい光景に頭がついていっていないようだ。
「彼女は雅月と言います。僕の大事な人です」
「だ……」
「涼佳様~、お待たせいたしまし…たぁ……?」
「……っ」
だが、善さげな雰囲気で話が始まろうとした直前。
目の前の小間物屋から華やかな振袖を纏った少女が、猫なで声で飛び出してきた。
釣り目に、媚びるような視線を乗せた彼女は……。
「……
「あら。お姉様ではありませんの。こんなところで何をなさっているのかしら」
明らかな侮蔑と卑しめを言葉に乗せ、その場に現れたのは妹の杏子だった。
二人で何をしていたのか、やけに涼佳と親しげな杏子は、じっと雅月を睨みつけている。
「……っ」
「母上。僕の訪問理由はシンプルです。先日の見合い話、なかったことにしていただきたい。僕にはちゃんと、大事な人がいるのですから」
すると、和やかさの欠片もない姉妹の再会に震える雅月を想い、翔和は道端で堂々と宣言した。
途端杏子は悲しげな声を上げたが、彼の視線は揺るがない。
そんな息子の姿に決意を感じたのか、涼佳は少し間を開けると、凛とした声音で言った。
「そう。話は分かったわ。二人とも、まずは家へいらっしゃい。そこで詳しく事情を聞かせてもらえるかしら?」
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