第9話 茶館アイリスに招かれ
「イナちゃんが僕らに茶館の紹介状を?」
「はい、お話のお礼にといただきました」
「ふぅん、どんな話をしていたのさ」
休憩のために屋敷へと戻ってきた
維南がくれた紹介状は、確かに興味深いものだったけれど、それ以上に
もしかしたら自分の気のせいかもしれないけれど、粛々と片付けを進める彼女の視線が、一度もこちらを向かないのだ。
翔和の顔を見られないほど、何か、都合の悪い話でもしていたのだろうか。
「……女の子の話ですから、内緒です」
そう思って問いかけると、雅月は視線を逸らしたまま呟いた。
そして、彼に大切にされていると聞かされ、ほんの少し心が揺れていることも。
「気になるなぁ。ほら雅月、こっち向いて」
「ダメです。お片付け中です」
「言うこと聞かないと……」
「……!」
だが、彼が現れた途端、否が応でも高鳴る羞恥に顔を逸らし続けていた雅月はここで、痺れを切らした翔和に、ふと肩を掴まれた。
そして、半ば強制的に翔和の方を向かされ、唇に何かを押し当てられる。
ほんの少し柔らかい角ばったこれは、キャラメル……?
「な、何をなさるのですか……っ」
「こっちを向いてくれなかった罰? 苦手な甘味の刑だよ。顔を逸らされるのってなんか悲しい。それにしても、雅月の唇は柔らかいね」
「……っ。そ、そう言うことをわざわざ仰らなくてよいのです! もう! お茶を淹れてきますから、維南さんのお土産の羊羹でも食べていてください!」
突然放り込まれたキャラメルをもぐもぐ言わせ、雅月は間近に覗く翔和の瞳から逃げるように立ち上がると、一目散に歩き出した。
維南にあんな話をされた後で、彼と顔を合わせるのも気恥ずかしいというのに、触れられた挙句の感想に、頬が一気に赤くなる。
それに翔和ったら、雅月の唇に触れたその指で、自分も普通にキャラメルをつまんでいるのだ。
もちろん、それ以上指の行方を追うことなんてできなかったけれど、当分、この羞恥は消えない気がした。
数日後。
どうにも収まらないどきどきと格闘しながら、それでもポーカーフェイスを装う雅月はこの日、翔和と共に番頭が運転する車に乗り込むと、紹介状を手に茶館を訪れた。
維南がくれた紹介状に記載の「茶館アイリス」は、主に文化人のサロンとして知られており、煙草の煙と共に様々な意見交換がなされているという。
故に常連客は年中利用可能な会員となり、非会員は紹介状がなければ基本は入れない、今時珍しい半会員制茶館だ。
サロンに興味のない翔和も初めて来る場所だと言っていたが、スタッフに席へと案内される途中、見知った顔が窺えた。
「やあヒロ。やっぱりここはきみの行きつけなんだね」
「翔和! 維南が紹介状を渡したと言っていたが、本当に甘味につられて来たんだな」
そこにいたのは、濃灰色の着物を着た翔和の友人・
ゆったりとソファに腰かけ、煙草を吸いながら数人の作家先生方と談議をしていた裕也は、翔和の声掛けに手を上げると、感心とも呆れとも採れる口調で呟く。
「まあね。煙たくて仕方ないけれど、ここの甘味は美味だと聞いたから、興味はあったのさ」
「そうかい。なら存分に楽しんで……と、一応皆様に紹介を。彼は私の友人で、御代家の跡取りです。こういったところには滅多に顔を見せないので、必要かどうか分かりませんが」
すると、肩を
途端、立派な口髭を蓄えた先生方は目を丸くして、次々と頭を下げ始める。
「なんと、御代伯爵のご子息でしたか。私は小説家の
「私は詩人、
「ハハハ、ソウデスカ」
「それにしてもこんなところでお会いできるとは、光栄ですな~」
「ハハハ……」
こうして、全然必要なかった裕也の紹介に、にこりと笑みを湛えた翔和は、感情の乗らない声音でテキトーな相槌を打つと、早く解放されることだけを願い、話を聞き続けた。
正直翔和には、文化人や政治家との交流にもコネにも興味はない。
ただ甘味を食べに来ただけなのに、とんだ災難に出くわしたものだ。
「はああー、疲れた」
「大丈夫ですか、翔和?」
数十分後。気乗りしない彼らとの会話を経て、ようやく席へとありつけた翔和は、ぐったりソファに
よほど甘味をお預けされていたことが精神的苦痛だったのか、持参したジャムを先に食べ始めた彼は、普段の数倍元気がない様子だ。
「大丈夫じゃない……。近年の世界情勢とか、政治家の下世話な内部事情とかどうでもいい……。雅月、あとで癒して……」
「な、何をすればよろしいので……?」
まるで、心底疲れ果てた人のような口ぶりで、なぜか癒しを求める翔和に、雅月は困りながら呟いた。
大抵のことは甘味で回復するはずの彼に何をすれば、癒しとなるのかが分からない。
取り
頭の中でぐるぐると、癒しの正解を模索していた雅月はここで、運ばれてきた甘味に我に返ると、
「と、翔和。一先ず甘味を食べて癒されてくださいませ。ですが、抹茶カステラにお汁粉のセットとは、少し珍しい選択ですね」
「うん。この茶館は抹茶カステラが特に有名なんだ。だから今回は和菓子なのさ」
「そうでしたか」
来たことはないまでも情報は持ち得ていたのか、運ばれてきた和菓子に合わせ、メープルシロップではなく黒蜜をかけまくる翔和に、雅月はコクリと頷いた。
そして、これで彼が回復するか見守るように、そっとお茶を飲み始める。
すると、カステラを一口食べた後で、湯気の立つお汁粉に手をつけた彼は、口いっぱいに広がる甘さにふと笑みを見せて言った。
「お汁粉も甘くて美味しいよね。小豆がたくさん入っている方が好きなんだ」
「そ、うですか」
にこりと表情を綻ばせ、お汁粉の感想を告げる翔和に、雅月は一瞬どきりと目を見開いた。
今、翔和が言ったのは「雅月」ではなく「小豆」だ。
そもそも彼女の名前は「夜道を彩る月のように、雅やかに誰かを照らす光であれ」との意味を込め、父に名付けられたものだ。小豆は全く関係ない。
でも、響きが同じものを好きだと言われて、つい動揺してしまった。
と、それに気付いたのか、お汁粉に入った白玉を食べていた翔和は、悪戯っぽく笑って言う。
「あ、もちろん雅月も好きだよ? 小豆よりも甘そうだしね」
「か、
「揶揄ってなんかいないよ。でも最近、ようやくきみの感情が素直に出るようになってきたから、楽しいのも本当だけれどね」
「……っ」
それが揶揄っているということではないのだろうか。なんて反論すら口に出せないまま、雅月は頬を染めると、困ったように俯いた。
先日維南は、互いに心が通じ合っているのなら、婚姻に身分は関係ないと力説していたけれど、相手はこの、時々何を考えているのか分からない甘党だ。
翔和を好きになったところで、きっと後悔するだろう。
彼は御代家の跡取り。
だから絶対にこれ以上、心を傾けてはいけない。
(しっかりするのよ、雅月! 私は翔和の恩に報いるだけのお供。それ以上もそれ以下も、私たちにはないのだからね……!)
心の中で強く自分に言い聞かせ、雅月はもう一度お茶を飲む。
だが結局は終始彼に翻弄されたまま茶館での甘味時間を終え、二人は帰途の道を行く。
表の通りで車を降り、薔薇と
「雅月、ちょっとこっちにおいで」
翔和の調子も戻ったようだし、一先ず休憩のため、お茶でも用意しようかと歩いていた雅月は、しかし、途中で彼に声を掛けられた。
広い座敷に佇む彼は、真剣な眼差しでこちらを見つめている。
「いかがなさいました?」
「あ、やっぱり。髪に花びらがついているよ」
「……!」
すると、何事かと訝しむ雅月に、翔和は手を伸ばすと、優しく彼女の髪に触れた。
途端小豆色の髪がさらりと舞い、彼の手から零れ落ちる。
どうやら翔和の言うように、庭に咲く薔薇の花びらが髪についていたようだ。
だけど、なんだか……。
「あれ? どうかした?」
不意に近付いた距離に雅月は頬を染めると、小首をかしげる翔和に背を向けた。
本当にこの人の行動は、いつもいつも他意がないからこそ、心臓に悪くて敵わない。
でも、この気持ちだけは……。
「何でもありません」
「またそれ? 気になるなぁ。もしかして僕に触られるの、嫌?」
背を向けた雅月の正面に回り込み、翔和はどことなく哀愁の漂う声音でもう一度髪を撫でる。
近くにある甘い香りと指先に、雅月の心臓は困るくらいに高鳴った。
でも、答えは言い出せない。
だって、嫌ではないなんて、認めてしまったら、もう……。
(ダメよ、雅月。翔和の興味は甘味にしか向かないのよ。ね? そうでしょう?)
まるでそうであってほしいと願うように、雅月は自分に問いかける。
おそらく彼女は今、翔和が甘味にしか興味を示さないと、以前のように心から思っているわけではないのだろう。
ただ、そう思わなければ自分の心が持たないと、無意識に一線を引いている。
出逢ってからずっと、優しくしてくれた彼に、恋を抱かないために。
なのに……。
(どうしたって叶わない。だから、ダメ…なのに……)
沈黙に答えを見つけ、もう一度髪を梳く彼の傍で、雅月は困ったまま目を閉じた。
たぶんもう、この気持ちを誤魔化すことは、できないのかもしれない。
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