第8話 揺らぎだす心
降り注ぐ明るい日差しに、ほんの少しの熱が帯び始めた、六月の昼下がり。
子爵邸での一件を経て、
「こんにちは、雅月さん。本当に翔和様と同棲しているのですね」
そこにいたのは、雅月の学友で、翔和の友人・
オレンジ色の着物に身を包み、ふくよかな頬に
どうやらカフェー・ピエットで彼女と再会して以来、ゆっくり話がしたくて、機会を模索していたとのことらしい。
翔和は今、呉服屋の方に出て仕事をしているものの、雅月宛ての来客くらい、対応しても問題はないだろう。
彼女を客間に通し、緑茶を淹れた雅月は、維南に向き直って言った。
「今日はいかがなされたのですか? 維南さんが訪ねてくるなんて、驚きましたわ」
「急にごめんなさい。でも、先日の夜会では翔和様とやけに親密なご様子から、お声掛けできなくて……。ずっとお話がしたかったのです」
お土産にと持参した老舗和菓子屋の羊羹と、雅月が淹れたお茶を前に、維南は微笑みながら頷いた。
確かに
もちろんあれ以降、翔和が雅月に何かをしてくることはなかったけれど、あの口づけの意味は、未だに判明していない。
「親密だなんて……。私はお供として傍にいただけですわ。それに、翔和が女の子に興味を示さないことはご存じでしょう? 所詮虫除け程度ですよ」
「あら、そんなことないと思いますわ!」
すると、自分では見出せない答えに悶々としながら、一先ず事実を告げる雅月に、維南は目を輝かせて断言した。
女学校にいたころも、維南は恋愛関係の話が大好きだったけれど、二人について語る彼女はとても楽げだ。
その証拠に、うっとりと微笑んだ維南は、両頬に手を添えて言った。
「私はヒロの許婚として、幼いころより翔和様のことも存じていますから、断言できますわ。雅月さんは翔和様にとても大切にされておりますよ」
「……!」
「それに、あんなに甘い口づけまで……っ! きゃあっ、羨ましいっ!」
「で、ですが私は……」
「それとも、翔和様に好意を向けられるのは嫌ですか?」
恥じらうように身をくゆらせ、声を上げた維南は、戸惑い、信じきれない顔で目を瞬く雅月に、上気した様子で問いかけた。
おそらく彼女は、雅月が借金取りに追われていたことも、それを翔和に肩代わりしてもらい、代償としてお供をしていることも詳しく知らないから、こうして無邪気にはしゃいでいるのだろう。
だが、翔和に救われた身で、これ以上彼に何かを求めるのはきっと違う。
「……」
そう思っていたはずなのに、問いかけられた言葉に、雅月はつい迷ってしまった。
翔和に好意を向けられて、嫌かどうか。
付き従う責務がある以上、深く考えてみたことはなかったけれど、嫌だったことなんて……。
「……っ。嫌だとは、思いません。しかし、私など今や身分が違いますわ。彼は
正直な答えと覆せない壁。維南の期待に沿えはしないと心苦しくなりながら、雅月は黙った後で、静かに目を伏せ呟いた。
たとえ彼に興味がないとしても、跡取りである以上、
そして御代家ともなれば、その身分に釣り合う女性が選ばれる。
そうなれば、大切にされるべきは奥様だ。
雅月はこのまま翔和の傍にのさばるつもりも、妾になる気もない。
だから今のうちに、彼の恩に報いたい、それが心にあった想いのはず、なのに。
「ねぇ雅月さん。身分だなんて、そんなもの関係ありませんわ。翔和様があなたを大切に想い、あなたが翔和様に心を許せるのなら、結ばれるべきだと私は思います」
「……!」
「私はこの三年間、あなたに何があったのか、詳しくは分かりません。でも、これもご縁ですよ。翔和様や御代家が身分に拘るお家なら、最初から許婚くらいいますもの。どうぞ囚われずに奥様の座を狙ってみてはいかがですか?」
いつも通りの無表情で、淡々と告げたはずの雅月に何を感じたのか、維南は優しく笑って提案した。
そこには先程までのはしゃいだ風はなく、純に二人を想っている様子が窺える。
だが、だからこそ回答に困っていると、維南は続けざまに笑って。
「私は羨ましいですよ。何かのご縁で出逢い、惹かれ合う関係って。私とヒロは、父親同士が仲の良い従兄弟だったため、子供のころに縁付きを提案されただけなんです。ずっと兄みたいに感じていましたし、彼も作家の性なのか、情熱的な出逢いに拘っていて、未だに結婚に踏み切ってくれませんし……」
「維南さん……」
「もちろん、今の関係も楽しいですよ。でもそろそろ、私だけを見て欲しいなあって、思う、こともあって。……ごめんなさい、弱音を吐きに来たわけではないのですが」
柔らかい笑顔で、饒舌に言葉を続けていたはずの維南は、徐々に声を先細らせると、誤魔化すようにお茶を含んだ。
きっと、突然こんな話をしに来た彼女にも、それなりの理由があるのだろう。
それを察した雅月は、維南が落ち着くのを待ってから、そっと口を開いた。
「謝る必要はありません。私で良ければ愚痴でも喜んで聞きますわ。言葉を吐露することで気持ちが軽くなることって、きっとありますもの」
「でも……」
「私もそう、翔和に教えてもらったのです。だから維南さんも、良ければ話してみてください。私たち、お友達でしたでしょう?」
そう言って、笑顔に似た穏やかな表情を浮かべ、雅月は静かに促した。
今や何の力も持たない雅月には、話を聞いてあげることしかできないけれど、一度途切れたはずの学友との縁を、大事にしたいと思ったのだ。
「……実は、先日、
すると、しばらくお茶を飲みながら迷っていた維南は、遂にぼそりと呟いた。
「華族女学校を中退されて原川男爵の元へ嫁がれた
「それで私のところへ?」
「ええ。同じような立場にいる雅月さんになら、お話ができるんじゃないかと思って……」
「そうでしたか。しかし、桜庭様はご関係の解消を願われているわけではないのですよね?」
覚束ない口調で、ぽつぽつと語る維南の話に、ようやく合点がいった雅月は頷くと、静かにそれを問いかけた。
確かに今は、十五歳で婚姻が可能になる時代だ。平均初婚年齢は二十代前半というものの、華族令嬢ともなれば、早々に結婚していたとしてもおかしくはない。
にも拘らず、裕也が結婚に踏み切ってくれない現状に、少し焦りを覚えているのだろう。
「ええ……。
寂しそうな微笑みで雅月を見つめ、維南は想いを口にする。
彼女に許婚がいることは、女学校時代から知っていたことだけれど、二人に距離感については、先日カフェーで見たことしか分からない。
だけど、許婚でいることと、妻になることは全く別のものなのだろう。
縁談が決まり切る前に追われる身となった雅月には、正直分からないことだらけだが、少し間を置いた彼女は、しっかりと維南を見つめて言った。
「……人は非日常を体験したとき、初めて日々のあたりまえがどれほど大切なものだったかを、思い知るものなのでしょうね。桜庭様はきっと、許婚でいる今があたりまえになっているからこそ、先へ進みたがらないのかもしれません」
「あたりまえ……」
「だから、もう少し、信じてお待ちになってはいかがですか? きっと今が心地よいだけで、結婚を嫌がっているわけではないと思いますわよ」
非日常。それを体験した雅月だからこそ感じる重さに、維南は目を見開くと、何度も言葉を噛み締めた。
雅月が言うように、変化がないことは心地よく、変化には不安と覚悟がつきまとう。
故に裕也が現状維持を望むなら、彼の覚悟が決まるまで、無理にせがむのは違うのだろう。
想いを吐露し、意見をもらうことで、随分軽くなった気持ちに驚きながら笑みを見せた維南は、コクリと頷いた。
「そう、ですね。こればかりは焦っても仕方ないことですわよね」
「ええ。痺れを切らすときが来たならば、非日常の演出、お手伝いしますわ」
「ありがとうございます。本当に話せてよかったです」
先程までの靄がかかった表情から一転、笑みを見せた維南は元気を取り戻すと、またしばらくの間、他愛のない会話を続けていた。
そして迎えを呼んだ帰り際、彼女は鞄から一枚の紙を取り出して言う。
「話を聞いてくださったお礼に、こちらを差し上げますわ」
「これは……?」
「
明るい笑顔を浮かべ、紹介状を手渡した維南は、つい逢瀬ではないと言いかけた雅月にもう一度微笑んだ。
言葉を続ける彼女はやはり、自分たちの進展を期待しているらしい。
だけど、もし本当に翔和が雅月に対し、お供以外の感情を抱いているとしたら……。
(いいえ、意識なんてしたらダメよ、雅月。ここでの生活に支障を
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