この部屋は事故物件だったんじゃないの?

仲瀬 充

この部屋は事故物件だったんじゃないの?

6階建てのそのマンションには幽霊が出るという噂が絶えない。

特に602号室には住人が居つかない。

それというのも601号室の橋本のせいだ。


マンションのベランダは衝立ついたて状のボードで仕切られているのだが下部に隙間がある。

その隙間から橋本は超小型のスピーカーを深夜に隣りの602号室のベランダへと滑り込ませる。


スピーカーはパソコンのマウスよりも小さく、細いコードでスマホに接続してある。

橋本はスマホを操作して人の話し声や笑い声を小さめの音量で流す。


住人が起き出してカーテンを開ける気配がしたところでコードを手繰ってスピーカーを回収する。

これを夜中に繰り返すと602号室の住人は1、2ヶ月のうちに引っ越していく。

そういう次第でこのマンションはとかくの噂が流布されているのだった。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


橋本がこんなことをするのにはわけがある。

ベランダで大麻草を栽培しているのを知られたくないためだ。


部屋の中で栽培すればいいのだが特殊なランプや換気装置が必要でけっこうな経費がかかる。

そのため橋本は昼間だけ大麻草のプランターをベランダに出して日光に当てている。


大麻草には独特の匂いがあるので隣りの住人に長く居つかれると不信感を抱かれる危険性が高い。

入居するにあたって橋本が角部屋の601号室を選んだのも退去工作を仕掛ける部屋が一つで済むからなのだった。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


ただ601号室には橋本にとって一つだけ難点があった。

入口のドアの開閉がスムーズにいかないのだ。


アルバイトから戻ってドアを開けようとするとドアが重く、力を入れなければならない。

一度管理人を呼んで見てもらったことがある。


しかしその時は管理人がドアのノブを引くと抵抗なく開いた。

橋本はバツの悪い思いをした。


「おかしいですね、僕が開ける時はたいがい重たいんですよ」

「特に建て付けが悪いとかはないみたいだね」


管理人は玄関に入ってそう言った後、ドアの上部を念入りに観察した。

「どうかしたんですか?」


橋本が尋ねると管理人は首を振った。

「このドアクローザーのせいかと思ったけど、これは関係ないね」


管理人の言うとおり、ドアクローザーは開けた後のドアが自動的にゆっくり閉まるようにするための装置であり、開ける時の力加減とは関係ない。

その後もドアを開ける時の重い感じは続いたが大麻草の匂いに気づかれては困るので橋本は管理人を呼ぶことはしなかった。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


そんなドアのことより橋本にとってもっと重要な事態が生じた。

602号室に越してきた新しい住人に小型スピーカーの幽霊作戦が効かないのだ。


神経が鈍くて路上の人間の声の反響とでも思っているのだろうか。

橋本は新たな作戦を思いついた。

人の話し声や笑い声でなく女性の悲鳴を数日おきに流すことにした。


ある時、橋本がアルバイトに出かけようとすると602号室のドアから出てきた隣人と出くわした。

肉体労働でもやっていそうな体格のいい中年男性だったが少しやつれて見えた。


隣人の名前が太田というのは表札を見て知っていたが顔を合わせるのは初めてだった。

「初めまして。隣りの橋本といいます。顔色がよくないみたいですけど大丈夫ですか?」


「夜中に女の悲鳴がかすかに聞こえるんだよ。女房や子供もまいってしまってね。あんたは聞こえないかい?」

太田は元気のない声で言った。


悲鳴作戦がだいぶ効いているようなので橋本は何食わぬ顔で追い打ちをかけた。

「いいえ、聞こえませんけど。そう言えばこのマンションには幽霊が出るという噂がありますから飛び降り自殺でもした人の霊かもしれませんね」

太田の顔が青ざめた。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


それから1週間ほど後、橋本がアルバイトから戻ると太田一家は引っ越し業者と一緒に荷物を通路に運び出している最中だった。

「太田さん、お引っ越しですか?」


「ああ、女房と子供がノイローゼになってね。こんなとこ、もう居られないよ」

橋本は笑いを噛み殺そうとしたが咳きこんでしまった。

「大丈夫かい? あんたも顔色がよくないよ」


「ちょっと寝不足ですが大丈夫です。じゃ、お元気で」

橋本はそう挨拶して重いドアを開けて部屋に入りベランダのプランターを中へ入れ始めた。


「おかしいな、今日は吸っていないのに頭がくらくらする」

プランターを全部室内に入れ終わって橋本は独り言を呟いた。


栽培している大麻は自分の吸引用だが近ごろは以前よりも使用を控えている。

それでも喘息ぜんそくぎみになって首を締め付けられるように呼吸が苦しく睡眠が浅い。

疲れが抜けないので頭が朦朧として今日などは就活する気もないのにネクタイを衝動買いしてしまった。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


引っ越し業者が荷物を階下に運び終えたところで管理人が太田の部屋の前にやって来た。

太田は部屋の鍵を返却しながら管理人に厳しい口調で詰め寄った。


「管理人さん、このマンション、自殺者が出たって聞いたけどこの部屋が事故物件だったんじゃないの? 女の悲鳴が聞こえるんだよ」

「違う、違う、あんたの部屋じゃない」


責任を追及されそうになった管理人は慌てて手を振って打ち消した。

「自殺者が出たのは601号室だよ。それに女の人じゃない。単身赴任の男性が玄関ドアの内側のドアクローザーにネクタイを掛けて首を吊ったんだ。警官立ち合いのもとでドアを開けたんだけどなにしろ人ひとりがぶら下がっているもんだから重くてね。思い出してもゾッとするよ。成仏できずに橋本さんに取りついたりしなきゃいいんだけど、おや?」


話の途中で管理人は隣りのほうを見て言葉を切った。

太田もつられて601号室に目をやった。

「どうしたんだい?」


管理人は人差し指を立てて唇に当てた後、声を潜めて言った。

「橋本さんが聞き耳を立てているんじゃないかと思ってね。今、玄関のドアに体をもたせかけるような音がしたんで」

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この部屋は事故物件だったんじゃないの? 仲瀬 充 @imutake73

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