第6話 アンジョリーナの指輪を叩き売る少女!
兄貴が、俺の顔をじっと見つめている。
そのむさくるしくも憂いを帯びた表情があまりにもうっとうしく感じられたものだから、俺は思わずメシを食う手を止めた。
「どうしたんだよ兄貴」
「なあ、ブラドフよ。ずっと昔から思っていたのだが……」
「なんだよ」
「ああ、その……なんでもない」
「なんなんだよ」
俺の兄貴は、そこそこ名が知れた冒険者である。
鎧や盾でガチガチに身を固め、率先してパーティの盾役を買って出る役割……いわゆる防衛職の冒険者であり、その堅実かつ堅牢な守りから「黒鋼のタルコフ」という異名が付いているらしい。
最近、単発の仕事を共にしたという冒険者達と意気投合して、新たにクランを結成したらしく、その活躍ぶりにも拍車がかかったという。
なぜ、パーティの盾役なんていう損しかない役目を引き受けたがるのか、俺には全く理解できねえが、兄貴に言わせりゃあ「誰もやりたがらない役割だからこそ、やりがいがある」のだそうだ。仕事にやりがいも何も無いだろうと思う。
そんなことはともかく、俺の兄貴は、黒鋼なんていう大層な異名をとるぐらいの冒険者だから、今、俺達が飯を食っている酒場「黒犬のチョビ髭亭」の常連客達も、兄貴の顔ぐらいは知っているはずだ。冒険者連中だけでなく、むこうでいつもと代り映えのしない曲を演奏している店の雇われ吟遊詩人だって、きっと兄貴のことを知っているだろう。
で、そんな兄貴は、10歳の年の離れた弟の俺を、心配し過ぎるくらいに心配しているようなのだ。
「言いたいことがあるんだったら、ウジウジしてねえでさっさと言ってくれよ。気持ち悪いったらありゃしねえぜ」
「ぬう……しかし、こんなところでする話では……」
俺は皿の上にフォークを置いて、兄貴をにらんだ。
「兄貴はいつもはっきりしねえから、気になって気になって仕方がねえんだよ!」
「その皿だ」
「サラダ?」
兄貴は、俺が食っているメシをじっと見つめている。
「サラダじゃねえだろ。俺が食ってんのはパスタだ」
「その皿だよ。わざわざピーマンをよそっているのが気になってな。ブラドフよ、お前ももう二十歳だ。いい年なんだから、ピーマンぐらい食べられるようになってはどうかと思うのだが……」
顔がかっと真っ赤になるのを感じて、慌てて俺は兄貴に文句を言った。
「ピーマン!? わ、わざわざこんなところでする話かあ!? ガキ扱いすんじゃねえよ!」
俺の言葉に、兄貴はというと、「ぬう……だから言わなかったんじゃないか……」と、頭をポリポリとかきながら、困った顔をする。
兄貴には悪気は無いようだが、昔も今も、俺のことを本気でガキ扱いするから困る。
兄貴のむさくるしい顔から目を反らした先で、酒場のマスターと目が合った。マスターはさっと目をそらし、カウンターの向こうでグラスをキュッキュッと拭き始めた。
「ところでブラドフ。最近、仕事はどうなんだ。ちゃんと働いているのか?」
「ん? ああ、ボチボチやっているよ」
ボチボチどころか、仕事なんてほとんどしていない。する気も無い。楽して儲かる仕事があれば別だが。
弟の真意を捉え違えた兄貴は、安心したような顔をした。
「そうか、それならよかった。少しづつ働けば、みんなも認めてくれるからな。だが、無理なことはするんじゃないぞ。病気をすると、後に響くからな」
「ああ、そうだな」
「だから、ピーマンも残さず食べて、しっかりと栄養を摂るんだぞ。野菜を摂ることが、風邪に強い身体を作るんだから」
「だーかーらっ! こんなところでする話かよ!」
・・・・・・・・・・・・・
心配性の兄貴と別れたオレは、さっそくその足で、賭け屋に向かうことにした。
せこせこと仕事なんてせずとも、ドカンと楽に稼げる唯一の方法、それが賭博だ。
最近は負けが込んできて、手持ちが心許なくなりつつあるが、継続は力なりと言う言葉がある。続けて行きゃあ、いつかは大きな波が来るってことよ。
賭け屋はオルメディアの裏通りでひっそりと開かれているが、そこに行くには、ガヤガヤと騒がしい「商人の川」を通る必要がある。
その商人の川では今日も今日とて、他国から集まった行商人たちが、商売敵に負けじと必死に声を張り上げていた。
「あの超有名クラン『轟雷の群狼』のリーダー、ミルゼイ氏公認のロングソードだよ! 柄に轟雷の群狼のエンブレムが施されたこの剣を買って、他のファン達に大きく差をつけよう!」
「あなたの手料理に、インドール産のスパイスを一つまみ! それだけで、遠い異国の風味が楽しめますわよ~。厳選した数十種類のスパイスを販売しております。ご家庭でぜひぜひお楽しみくださいねえ~。試食もしていただけますわよ~」
「重そうな鎧だって? 見た目に騙されちゃあいけないよっ! 身に着ければ分かる羽のような軽さ。これがたったの20万ディールなんだから驚きだっ!」
「我がラボが開発した冒険の新定番、それがこの十徳ソードである! 一振りの剣の中に、槍やハンマー、弓に鞭、さらに鏡やヒゲ抜きまで内蔵した、実に多機能な剣であるぞ。十徳ソードを持っていないとモグリ扱いされる時代は、もうそこまで来ているのであーる!」
「へへへ、さすがは旦那。目が肥えてますなあ。こいつぁ、どんな矛でも貫けねえ至高の防御を誇る盾でさあ。こっちの矛ですかい。聞いて驚いちゃあいけませんぜ? この矛はどんな盾をも貫く究極の――」
「今日も掘り出しモンの時間がやってきたで! 『アンジョリーナの指輪』っちゅう、世にも奇妙な指輪が登場や! 一品物やさかい、はよ買わんと無くなるで!」
昼間っから、なんとも騒がしいことで。
オルメディアで一番騒がしい場所だと言われているが、それも納得だ。
さっさと、こんなうるさい場所を通り過ぎて、賭け屋に直行だ。今日こそ大勝ちして、がっぽり大金をせしめてやるぜ。
「なんとこの指輪は、口の中でアメちゃんのように転がせば、体を透明に出来るステルス機能を搭載しとるんやで! 透明人間にあこがれを持つ人必見の品や!」
商売人の声に、俺の耳がピクリと動いた。
足を止めて、声のした方に顔を向けると、
「透明になれる、可能性無限大の指輪や! スケスケになりたいスケベさん必見の品やで!」
声を張り上げているのは、まだケツの青いガキだ。赤い頭巾が、目に痛いほど鮮やかである。
その歳で商売に手を出しているのか。まだまだ遊び盛りだろうに、ご苦労なこった。
いや、そんなことよりもだ。
透明人間になれるって、マジかよ?
「透明人間になれるこいつが、たったの1000ディールなんやから驚きやっ!」
ガキの隣で鎧の軽さを自慢していた商人が、一瞬驚いた顔をした。
俺も、その行商人と同じような表情をしたに違いない。
透明になれる指輪を、1000ディールで売るだとぉ?
「透明になれるだけとちゃうで! アンジョリーナの指輪を指にはめると、な、な、ナント! あらゆる呪いや魔法を完璧に弾いてくれるんや。アンジョリーナの指輪を持ってへんとモグリ扱いされる時代はもうすぐ……えーと、チョイと言い過ぎたけど、ともかくこいつを買わへん手は無いで!」
魔法を弾く指輪は、探せばどこかにあるかもしれないが……体を透明にするなんて、それこそ空想の世界でしかあり得ねえ。
思わず、頭の中で夢のある使い方を想像しちまったが……やっぱり、どう考えてもあり得ん。
いかにも考えの浅い奴がこぞって飛びつきそうな品じゃねえか。
スルーだ、スルー。
……だが、1000ディールである。
安すぎる。
語られる性能と価格が全く釣り合ってねえ。もっと高い値段で売っても、それこそ1000万ディールでも、バカな奴は手を出すに違いない。
あれか、ガキだから物と金の価値が分かってねえのか。だからママごとみてえな値段をつけているってのか?
だが、そんなガキがわざわざ商人の川で商売を始めようとするかよ。そもそもここで商売を始めるには鑑札がいるんだぞ?
不審に思っていると、怪しげな指輪を売るガキと目が合った。
「ムフフ、そこのオッチャン! ウチの商品をじろじろ見とるけど、どないしたんや? そんなスケベ心丸出しの顔、敏腕商売人のウチは見逃さへんで! 遠慮せんと、もっと近くでじっくり拝んでや!」
「お、おっ、俺はまだ二十歳だっ! オジサン扱いすんじゃねえ!」
このガキ、まさか俺をカモにするつもりじゃあねえだろうな?
そう思いつつも、なんだかんだ指輪が気になって仕方がない。
……1000ディールなんだしよ。
まあ、嘘臭かろうが胡散臭かろうが、話を聞くだけならタダだ。
仕方ねえから俺は、カモが引っかからずに困っているであろうガキの話を聞いてやることにした。これも単なる気紛れ、暇つぶし、大人の気まぐれというやつだ。
「透明人間になれる指輪だっけか」
「その通りやで! しかも、指にはめるとあらゆる呪いや魔法を完璧に弾いてくれる、スペシャルな機能をも搭載しとる指輪なんや。ほれ、これが機能盛りだくさんの欲張りな指輪やで」
ガキが手のひらに乗せて俺に見せてきたのは、いつに作られたのかも分からぬ恐ろしく古い指輪であった。
ほんの少しばかり金色の部分が残っているが、全体的に錆が浮いているのだから、純金で出来ているわけではなく合金製だろう。宝石を嵌める窪みどころか装飾も無く、元々からして地味な指輪だったのだろうと思われる。
1000ディール以下……いや、タダであげると言われても、なんらおかしくはない、そんなゴミみてえな指輪だ。
……そう、透明になれるとか言われなけりゃあ。
「『アンジョリーナの指輪』って言っていたよな。アンジョリーナってのは女の名前だろ? どこの誰のことなんだ?」
そういうと、ガキは途端に困った顔をした。
「実を言うと、ウチにもアンジョリーナっちゅうのが誰のことなんか、さっぱり分からんねん」
「おいおい。怪しいものを売ろうとするならよお、設定ぐらいちゃんと考えとこうや」
やれやれだぜ。
胡散臭い品を売ろうするんだったら、客を引き込むための設定を、細部まできっちりみっちり詰めてから売りやがれってんだ。質問の一発目から頼りない返事をしているようじゃあ、どこの誰にも売ることなんて出来ねえぞ?
「ダメだなあ、全くなってねえぜ。そんな頼りないことじゃあ、そんな怪しい指輪は一生、誰にも売れねえなあ」
「ムフフ。あいにくやけど、ウチが仕入れた品が売れ残ったことは、これまでに一度だってないねん。ウチが一流の商人やっちゅう証やな!」
「本当かぁ? 単なる強がりじゃねえのか?」
ガキの強がりが本当かはともかく、やっぱり胡散臭いものには手を出さないに限る。さて、野暮用はこの辺にして、さっさと賭け屋へ向かうとするかと思った時に、
「ほほう。その指輪は、『シャルルローズ伝説』に関わりを持つ、あのアンジョリーナ王女の持ち物で間違いございませんなあ」
俺の背後に、身なりの良いジジイが立っていた。
そのジジイは、鼻に引っ掛けた眼鏡をクイッと人差し指で持ち上げつつ、
「波乱に富んだ展開を迎えたことから、後の世に『狂えるオズワルド事件』として名を残すこととなった歴史的事件に、アンジョリーナ女王は強く関わっております。絶世の美女と評された彼女は、他国の王や高名な騎士達をも狂わせるその美貌により、自らが望まずして、権力者たちの醜き争いの火種となりました。彼女は闘争に巻き込まれるたびに、自身の指輪に宿る二つの力、『身体を透明にする力』と『魔法を跳ね返す力』を用いて難を逃れたとか。
アンジョリーナ女王の命を救った指輪を、まさかこのような場所で見ることが出来ようとは……実にありがたいことでございますなあ」
誰も頼んでもいねえのに、とうとうと解説を語り始めたと思ったら、最後は満足げに去っていきやがった。
「おいおい、なんなんだあのジジイは。解説するだけして帰っていきやがったが……」
「ウチが、商売しとる時にたまにあらわれる、異様にモノを知ってはる謎のオッチャンや。名前を聞いても笑うだけで教えてくれへんから、ウチは勝手に『有識者のオッチャン』と呼んどるで」
「有識者ぁ?」
流石はオルメディア。変なことに詳しい人間もいたものだ。
ガキはと言うと、「有識者のオッチャンは何でも知ってはるなあ。まさに絶世の知識人やで」と、あのオッサンに妙な感心を寄せている。
「有識者のオッチャンのことはともかくとしてや。さっきの解説にもあったとおり、狂える何とかっていうヤバそうな事件にも関わってはった、王女様が持ってはった伝説の指輪がコレや。魔法を跳ね返すトンデモ機能を搭載した、ここでしか手に入らん掘り出しモンやで!」
魔法を弾くなんてことはどうでもいい。俺が気になるのはあくまでも、その古すぎる指輪で本当に透明になれるかどうかだ。
「なんや。オッチャンは、魔法を反射する機能には興味が無いようやな」
「客のことをよく分かってんじゃねえか。さすがは一流の商人サマだな」
そう言うと、ガキは褒められでもしたかのような、得意げな顔をした。
「ムフフ、なんか鼻をほじりながら退屈そうに聞いてはるから、オッチャンが興味あるのは、透明化の方なんやと推理したわけや!」
俺は慌てて、鼻に突っ込んでいた指をポケットにねじ込んだ。クソ、完全に無意識にやっちまった。
気を取り直して、ガキに肝心なことを尋ねる。
「伝説の指輪がこんなところで売られているなんて、到底信じられねえなあ。本当に透明になれるかどうか、ちゃんと試したんだよな?」
「もちろん、試してへんで」
「試してから売れよ馬鹿が」
ぬぁーにがもちろんだ!
自分の商品を試さねえで売る馬鹿が、どこにいるってんだよ。
最初から分かっていたことだが、指輪を口に放り込むだけで透明状態になれるだなんて、やっぱりそんな美味い話があるわけねーんだ。大昔の事件の中で、この指輪が実際に使われたなんて話も、全部嘘っぱちだ。
そう! 透明になれるわけがねえんだって、俺は最初っから分かっていたけれどもな!
オレが心の中で、アホバカマヌケとガキを罵倒していると、ガキはじとっとした目で俺を見つめてきた。
「オッチャン。ウチをちっちゃくてかわええ美少女やと思って、心の中でバカにしとるやろ。これ、一品物やで? 口の中でなめなめせんと本気出さへんタイプのコイツを、お客さんに売る前にどうやって試せっちゅうねん。商売舐めとったら痛い目見るで?」
「ん? あ……あー……そうだな」
思わぬカウンターパンチを喰らった気分だ。よくよく考えたら、客に売る前に指輪を味見する奴がいるわけねえ。
追い打ちをかけるようにガキは「ウチがペロリとなめただけでも、こいつの価値がたちまち暴落してまうわ。1000ディールではとても売れんようになってしまうで」と口をとがらせた。
「おいおい、1000ディールから値段が下がるなんてことはねえだろ。もう既に底値じゃねえか」
俺のツッコミは、どうやらガキには届いていない様子である。
理由はどうあれ、試していないというのであれば、透明になれるなんて保証は無いってことだ。
やっぱりガキのママゴト、商売ごっこに過ぎねーことだったというわけだ。そんなガキの商売ごっこに乗ってやるだなんて、オレはなんて優しいんだ。
……だがしかし、1000ディールである。
くそっ、ダメだ。
どうしても売値に考えがいってしまう!
「ところでオッチャン。やたら透明化機能に興味丸出しやけど、これを使って何をするつもりなんや?」
「何をって……」
そんなこと、決まってんだろうが。
「あんなことやこんなことだ」
「どんなことやねん」
「お子様には刺激が強すぎるから、教えるわけにはいかねえなあ」
ガキは少し考えてから、
「女湯のぞくとか、そんなところとちゃうか」
「んなっ!? そんなわけ、ねえだろがっ!」
チクショウ、図星だ!
だが、透明になれるアイテムがあるぞと聞いたら、男だったら真っ先に思い浮かぶ使い道がそれだろが。
そんな俺の焦りを見抜いてか知らずか、ガキは頭を掻きながら、
「そやな。ええ歳したオッチャンが、まさかそんなことするわけがないな。別に刺激的っちゅうわけでもないし。変な風に勘ぐってしもて、ゴメンやで」
「わ、分かりゃあ、それでいいんだよ」
しかし、勘のいいガキはまだ、何やら考えている様子だ。
「でも、何に使いはるつもりやろ……あっ、刺激が強すぎるって言葉でピーンときたで。オッチャンはやな、透明になってから、危険な魔物の背後にそろりそろりと近寄って、バシーンとステルスキルを決めたるつもりなんやな! ええやん、刺激的でカッコええやん! ジャポンに存在すると言う、幻のニンジャみたいやで!」
「おっ、おう。そんなところだな……で、指輪の値段だが、本当に1000ディールなんだな?」
ガキが勝手に真相から遠ざかったところで、俺は再度、指輪の値段を確認する。
「モチのロンやで! 様々な可能性を秘めた多機能な指輪を、たった1000ディールでご奉仕や。透明人間もびっくりして姿を現す衝撃特価やで!」
怪しさ満点、いかにも眉唾ものの指輪だが、本当に1000ディールならば、騙されたと思って買ってやろう。あんまり懐も痛まねえからな。
「透明人間になれる言うても、これを使ってお店の商品を万引きしたりとか、学校の先生の椅子にこっそり画びょうを仕掛けたりとか、そんな悪いことは絶対にしたらアカンで。かわええウチとの約束や!」
「ああ、もちろん……約束するともさ」
悪いことをするのはダメだって? 無茶を言っちゃあ困るぜ嬢ちゃん。
透明人間になれるんだったら、誰しもがまず、欲望のために使うことを考えるだろう。悪いことをしないのは聖人ぐらい……いや、聖人だって人間だから、皆に黙って裏でやることはやるはずだ。それでこそ健全な人間ってやつだ。
人生経験の浅いガキは、そういうところがまるで分っていねえ。
俺は金貨袋から銀貨を取り出し、ガキに手渡した。
「よっしゃ。自称二十歳のオッチャンが、アンジョリーナの指輪をお買い上げや!」
「自称じゃねえ! 現役バリバリの二十歳だ!」
とにもかくにも、指輪を手に入れた俺は、さっそく使ってみることにした。
右手を前にかざしながら、左手で指輪を口に放り込む。こうすりゃあ、嘘かどうかすぐに分かるだろう。
嘘だったら、「騙しやがったなクソガキめ!」と、ガキが涙目になるまで問い詰めてやる。
大人げない? いんや、大人を騙すと痛い目を見るってことを、ちょこっと教えてやるだけだ。
そう思っていると……信じられねえことが起きた。
目の前にかざした右手が、スウッと背景に溶け始め、やがて完全に透明になってしまった!
おいおいおいおいおい! なんだこりゃあ、夢でも見てんじゃあねえだろうな!
この指輪、信じられねえがマジモンだ! マジで身体が透明になるぜ!
興奮で我を失いそうになった時に、それは突然現れた。
口の中で含んだ指輪が、信じられないくらいの苦みを発し始めたのである。
それが唾液と絡んで、地獄のような苦みが俺の口の中を襲う。
「うっ、うえええええええ!!」
俺はたまらずその場で、人が居るのも気にせずに、地面に指輪を吐きだした。
吐きだしてからも、異様な苦みがまだ口の中で暴れている。
「どないしたんやオッチャン! 苦虫を念入りに嚙み潰したおサルさんみたいな顔して、オエッてしてはったけど、大丈夫かいな!」
「に、に、ににに……苦え! とんでもなく苦え! なんなんだこの指輪はよお!」
「苦いんかいな。でも、ちゃんと身体が消えとったで! 2秒くらいやけど」
その通り、確かに体が消えた。今は元に戻っているが、アレは絶対に見間違いなわけねえ!
だがしかし……。
「おめえ、この指輪が我慢できねえぐらい苦いって、知ってやがっただろ!」
「試してないってさっき言うたばかりやで。味なんて知っとるわけないやん」
周りを見回した。
行商人や客たちが大勢いるが、誰も俺の方を見ちゃいねえ。思い思いの目的に夢中だ。
人が目の前で消えたら、驚く奴もいてしかるべきだと思うが……そうなっちゃいねえということは、俺が消えたのは本当に一瞬だけだったということか。
「どれほどの苦さか知らんけど、もしかしてピーマンと同じくらい苦いんかいな。あっ、ウチな、最近になってピーマンを残さず食べれるようになったんやで。すごいやろ! ウチもチョイとずつ、大人の階段を登っとるってことやな!」
「ピーマンなんて目じゃねえよ! こいつは舌がバカになるぐらい苦ぇんだよ!」
何度も自分に言い聞かせるが、この指輪の力はマジだ。マジで体が透けやがる。
俺は興奮のあまり歓喜の声をあげそうになったが、口の中に広がったあの耐え難い苦みを思い出し、顔を歪めた。
透明になれるのは良いとして、この指輪、本当に馬鹿みたいに苦いのだ!
指輪に浮いた錆が苦さを醸し出しているのか、それとも元々こういうものなのか?
苦さの理由について、今は確認のしようがないが、指輪の力が引き出されるのはどうやら口に含んでいる間だということははっきりした。
ということはだ。透明人間になってあれやこれやと楽しみたい場合は、どうにかしてこのロクでもない苦さと付き合っていかなければならないのか。
舌先で指輪をおそるおそる舐めてみると、
「ぐうぅ、ダメだ! こいつは耐えられねえ……」
それだけで、ひりひりとする理不尽な苦みが俺を襲う。
嫌か、そんなに欲望のために使われるのが嫌なのか!?
「チクショウが! だけどよお、俺はあきらめねえぞ。どうにかして苦みに耐えりゃあいいんだろ?」
俺は頭を振り絞り、このチクショウな苦みを克服する手立てを考えた。人間、欲のためなら頭をフル回転できるものだ。
そして、閃光のような閃きによって、近くにスパイスを売る女の商人がいたことを思い出す。
「そうだ、スパイスだっ! ハハハッ、俺の頭は今、猛烈に冴えているぜっ!」
「スパイスがどないしたんや? おいしいスープカレーでも作るんかいな」
ガキの疑問には答えず、さっそくスパイス売りの行商人を探す。
目的の行商人はすぐ傍で見つかった。
屋台の中から、道行く客達に向かって、のんびりした調子で声を掛けている。彼女の前に置かれたテーブルには、赤や黄色の粉や、見たこともない葉っぱなんかが瓶詰めされていた。
「おい、そこの商人さんよお。俺にスパイスを売ってくれねえか!」
「あらあら、異国のスパイスをご所望なのね。あなたの手料理に、インドール産のスパイスを一つまみ! それだけで、遠い異国の風味が味わえ――」
「売り文句はどうでもいい。一番安いものはいくらするんだ?」
「こちらの小瓶のスパイスが最も安いもので、お値段は2000ディールですよ。料理の中に一つまみ足すだけで、ピリリと香ばしい、異国の風味が楽しめますわよ~」
行商人から赤い粉が入った小瓶を買い、俺は早速、指輪を口の中に放り込んだ。立て続けに、スパイスの粉を口の中にさらさらと流し込む。
それを見た行商人が「ああっ、一つまみでよろしいのに……」と悲しそうに呟いたが、知ったことか。
スパイスの風味で、指輪の苦みを消し飛ばす。そうすりゃあ、透明になる時間を延ばせるに違いねえ。
……だが、俺の考えは圧倒的で理不尽な苦みによって否定された。
「オエアアアッ!」
再び、思いっきり指輪を地面に吐き出した。
無理、マジで無理だ!
口の中であの苦みが猛威を振るってやがる! 異国の風味が一瞬で駆逐されちまった!
俺の健闘を眺めていたガキが、パチパチと拍手しながら、
「おおっ、3秒ぐらい透明になれとったんとちゃうか。記録更新やで! たぶん世界新や! 何のためのスパイスやったんか知らんけど」
「3秒で何が出来るんだっつーの!」
ふと、スパイス売りの行商人が、目をごしごしとこすりながら俺を見つめているのに気が付いた。
「ん? どうしたんだよ」
「あの、さっきあなたの体が少しの間、消えたようなのですが……」
「さあな。あんたの見間違いじゃあねえか?」
俺が投げやり気味に答えると、行商人は安心したような顔をした。
「そうよねえ。本当に体が消えるわけがないものねえ。ふふふ、わたしったら、きっとスパイスをキメ過ぎたせいで幻覚が見えたに違いないわ」
「……おい。これ、本当にスパイスなんだろうな。ご禁制のヤバいものじゃあねえだろうな」
スパイスは無理だったが、何かしら手はあるはずだ。対策は後で、じっくり考えよう。
地面に吐いちまった指輪を拾おうとしたとき、
「はいはい、ちょっと前を通らせていただきますよお。馬車が通りますよお」
俺のすぐ前を、ごとごとと荷馬車が悠然と横切った。
なんて間が悪い。
しかもあの馬車。わざわざ指輪をひいていきやがった。
指輪に就いた砂を落としてから、もう一度、口の中に指輪を放り込む。
「うぐぅ!」
苦い……! だが、人間は慣れるものだ。相変わらずエゲつねえ苦さだが、覚悟していた分、さっきよりもまだ耐えられる。
再び吐きだしたが、手ごたえはあった。
ふふふ、最初は2秒だったが、そのうち10秒……いや、一日中透明になれるように訓練してやるっ!
「あれれ? なんか盛り上がっとるところ悪いんやけど、体が透明になってへんかったで?」
「なんだと?」
もう一度、指輪を放り込んで、自分の手に目を向けると……なぜだっ!?
さっきまで確実に透明になれたというのに、そのままだ!
口から指輪を出してから、まじまじと眺めると、
「おいおい、嘘だろ……ヒビが入っているじゃねえか……」
「もしかして、さっき通りかかった馬車に踏まれたせいで、壊れてしもたんとちゃうやろか」
「マジかよ……」
これでは、苦く苦しいだけの指輪だ!
なんてことだ、俺のささやかな野望が、ほんの一瞬で潰えてしまった……。
「なんか残念な感じやけど、人生こんな時もあるもんやし、落ち込んだらアカンで。ほれ、口直しにアメちゃんあげるさかい、元気だしや」
「アメなんていらねえんだよ!」
欲望をモノにするチャンスを失った俺は、ガキに見送られるまま、とぼとぼと商人の川を後にした。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
兄貴が、俺の顔をじっと見つめている。
「どうしたんだよ兄貴」
「その皿だ」
「皿がどうしたんだ」
奇跡の指輪を失った日から3日後。
黒犬のチョビ髭亭でパスタを食い終わった時に、一緒に飯を食っていた兄貴が、俺を見てやたら嬉しそうな顔をした。
「ふふふ、ようやくピーマンが食べられるようになったんだなあ! 成長したじゃないかブラドフ!」
俺は皿の上にフォークを叩きつけて、兄貴に向かって叫んだ。
「だーかーらっ! こんなところでガキ扱いすんじゃねえって!」
そこで、店のマスターが飛んでやってきた。
「あの、すみませんがお客さん。食器を乱暴に扱うのは止めてくださいねえ」
「あっ、そうだな。すまねえ……」
マスターは俺に注意をしつつも、どこか嬉しそうな顔である。
「ですが……ふふふ、今日は残さず食べていただいたみたいで何よりですよ。これでこそ、料理のし甲斐があるってもんです!」
そう言って微笑むマスターに、俺は何とも微妙な顔をしたと思う。
兄貴に目を戻すと、嬉しそうにニヤニヤと笑ってやがった。
俺は兄貴の顔を苦々しく見つめながらも、ピーマンも意外と美味いもんだなと思い直す。
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本作の「アンジョリーナの指輪」は、シャルルマーニュ伝説の一つ「狂えるオルランド」に登場する、アンジェリカ女王の指輪をパロディ元としております。アンジェリカ女王の美しさはかなりの美しさのようで、彼女を得ようと男性たちが争いを繰り広げました。彼女は指輪の持つ「身体を透明にする力」と「悪しき魔法を跳ね返す力」を用いて、自らの追手から逃げ延び、危機を脱したということです。
なお、以前にカクヨムに投稿しました拙作「矛盾を売る男」は、本話のスピンアウト的立ち位置となっております。よろしければ、こちらも読んでいただけると嬉しいです。
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