第十三話 祈り

 ぐちゃぐちゃ、ぺちゃぺちゃ。


 その場に、湿った音が響き続ける。


 黒く巨大な『熊』型の化け物は、未だに馬のはらから何かを探し出すのに夢中なようだ。


「シルフェまで逃げなさいって……どういうこと? お母さまは、どうしますの?」


 そんな中、母の言ったことが理解できず、ミーナは困惑していた。


 否、のではない。

 のだ。


「……ミーナ、よく聞きなさい」


 娘の心情を察してか、母・レーナは真剣な目でミーナの顔を見上げ、言い聞かせるように続ける。


「この化け物は恐らく、ヴォーロス=ガルヴァ。巨体を維持するため、魔力の豊富な他者のコアを好んで食します。こいつが次に向かうのは、獲物が多く集まる場所……人口密集地である、シルフェに違いありません」

「お母さま、でも……」

「シルフェには今、降臨祭のために帝国中から人々が集まっています。そんなところに、何の先触さきぶれもなしにこいつが現れたら……どうなるか、分かりますね」

「分かります、分かりますが……っ」

「ならば、行きなさい」


 にこり、と、レーナが微笑む。

 こんな状況には似つかわしくない程に優しく、朗らかに。


「今、シルフェの民を救えるのは、あなただけなのです。行って、この危機を伝えなさい」


 賢いミーナには、解っていた。


 確かに、母の言うことに間違いはない。


 だがこれは同時に、ミーナを納得させるための方便でもある。


 だって、ミーナも母も、馬には乗れないのだ。


 もし馬車を除けてレーナを助け出せたとしても、指笛一つで数頭の軍馬が戻ってくるとしても、その後二人が一緒に逃げおおせることは難しい。


 馬に乗れるバンドベルがいても、大人二人と子ども一人を乗せては、馬は速くは走れない。


 だがミーナ1人だけなら?


 大人一人と子ども一人が乗るだけなら、馬の俊足は維持できる。

 バンドベルと一緒に馬に乗って、逃げ切ることができるのだ。


 故に母は、自分の生を諦め、ミーナを生かそうとしている。


 それが解っていてなお、ミーナは首を横に振った。


「嫌……イヤです、お母さま! お母さまを見捨てて逃げるだなんて、そんなことわたくしには……!」

「ふふっ、そうでしょうね。あなたは優しいから……」


 一方のレーナは、困ったように笑った後、今度はバンドベルに視線を移し、


「バンドベル。ミーナを、頼みます」

「はっ、この命に代えましても……!!」


 次の瞬間である。


「姫様、ご無礼つかまつる!」

「え!?」


 急に背後から抱え上げられ、ミーナは驚きの声を上げた。

 それがバンドベルによるものであり、自分が母から引き離されようとしていることに、ミーナは一拍遅れて気づいた。


「やだ、いや! バンドベル放して、放しなさい! お母さまが、お母さまがまだ……っ」

「姫様、申し訳ありません。ご容赦を……!」


 お腹のあたりから右腕だけで抱えられ、足が少し宙に浮く。

 そのまま草原の方に運ばれそうになる中、ミーナは手足を振り回し、必死に暴れた。


 対するバンドベルは、姫君への遠慮もあり、全力で力を込めることができなかったのだろう。

 加えて、負傷の痛みで身体が自由に動かなかったことも影響したに違いない。


「姫様っ! どうかお聞き分けを!」

「いやぁっ!」


 じたばたと抵抗するミーナを押さえきれず、途中で手を放してしまった。


 拘束から逃れたミーナは街道の石畳の上に両ひざをついてしゃがみ込み、胸の前で手を組んで、


そらを統べし我らが主、ルールズ様。どうか私の願いをお聞き届けください。私の血肉と内なる力、そのすべてを捧げます。か弱き我らの元に、どうかその御使いを……英霊たちをお降ろしください。か弱き我らを、お救いください、お救いくださいっ」 


 オルトニシアの教会で捧げる、祈りの言葉だ。

 天空神ルールズが英雄たちを遣わせてくれるよう、早口ながらも全身全霊で祈りをささげる。


 だが、現実は非情であった。

 ミーナがどれほど心を込めて祈ろうとも、何も起こらない。


 むしろ、事態は悪化の一途を辿る。


 馬の腹を裂いた化け物が、ついに探し物を見つけたらしい。

 化け物は、馬の腹内から人の頭ほどの大きさのコアを引きずりだすと、それを咥えてゴキュリと呑み込んだ。


 金の四ツ目が嬉しげに歪み、それから再度、ミーナの姿を捉える。


 一方のミーナは、未だに路上で祈りを捧げていて……。


「ミーナ! なにをしているの!? 逃げなさい!」

「姫様!」


 バンドベルが再び、背後からミーナを捕まえた。

 先程と同じようにミーナのお腹のあたりに右腕を回し、自身の胸に押し付けるようにしてがっしりと。


 今度は遠慮などない、全力だ。


 老いたりとは言え、負傷しているとは言え、バンドベルは歴戦の武人。

 全力で拘束されたら、12歳の女の子に過ぎないミーナの力では、抜け出すのはもう不可能であった。


「や、やだっ! 放して、嫌ぁ!」


 鎧に覆われたバンドベルの腕を叩く。

 足を蹴る。

 けれどもう、力が緩むことはない。


「GuRuRuRuRu……」


 街道を離れ草原へと連れられていくミーナに向け、化け物が一歩を踏み出そうとしたその時、その顔にぺちん! と何かがぶつかり、弾けた。


 桃色の魔力の塊。


 ミーナの母・レーナが放ったものだ。


 レーナは両脚を馬車に下敷きにされたまま、半身を起こして化け物を睨み、片手を広げて向けていた。

 その手のひらに魔力が集まり、こぶし大ほどに膨らんで、ポヒュンッと音を立てて飛んでいく。


 放った魔力の塊りは再び、化け物の顔面に直撃。


 だがレーナは、攻撃魔法の達人と言うわけではない。


 こんなもの、小石をつかんで投げつけているのとそう威力は変わらない。

 当然、巨大な化け物にとっては痛くも痒くもないわけだが……興味を惹くことはできたらしい。


 化け物はその顔をゆっくりとレーナへ向け、ぞろりと見据えた。

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