第二章 - 剣鈴 -

 階段を駆け上がる。

 部活終わりの後の運動に息が切れるが、気持ちが急いて足を止められない。


 朱美が辿り着いたビルは無人で、ドアには鍵も掛かっていなかった。

 フロントにあるエレベーターは動いていない。電気が通っていないようだ。

 最近、廃ビルにでもなったのかもしれない。

 となると、先ほど見た陽炎のような何かが排気口からの熱気や煙という可能性が低くなった。

 じゃあ、何なんだ。あれは。


 朱美はエレベーターの横の階段を見つけ、そこから屋上を目指したのだ。

 駆け上がる。駆け上がる。

 辿り着いた屋上のドアにも、鍵は掛かっていなかった。

 押し開ける。風が強かった。

 セミロングの髪がなぶられる。

 目を細め、それでも見た屋上には黒い何かと、それに対峙する男の姿があった。


 その男。


 夢で見た、あの黒い背広の姿と重なった。


 違う。


 あの人とは違う。何故か分かった。服も、重そうなトレンチコートを羽織っている。

 朱美と、男と、その先に道路から見上げた黒い陽炎が渦巻いていた。風はそこから発生しているようだった。

 そして陽炎の中心に、朱美の見知った少女がいた。


伊緑いのり


 朱美が叫ぶ。

 その声に、トレンチコートの人物が振り返った。三十代半ばの線の鋭い、痩せた男の顔だった。風で捲れあがったコートの下に、ダークグレーのビジネススーツが見えた。


「君には、あれがそう見えるんだな」


 振り向いた男に、陽炎は隙を見出したのか。その一部が槍のように伸び、男を突き刺した。

 ように見えた。

 男は身体を捻って黒い槍を避けていた。トレンチコートに穴が空く。そのままコートが切り裂かれるが、男は陽炎に突っ込んだ。

 コートの下から何かが突き出る。


 鈴の音が、響く。

 同時に光る線が伊緑いのりを貫いた。

 それは剣だった。先端の尖った両刃の、ほこのような剣。つばについた幾つもの鈴が揺れていた。


 朱美は声も出せず、伊緑いのりが倒れるのを見た。

 が、それも数瞬。男の方に駆け出した。

 再度、男が振り向いた。その頬を拳で殴りつけた。

 男がよろめく。その脇をすり抜けて、伊緑いのりに駆け寄った。

 抱き起こそうと身を屈め、そこで動きを止める。


 伊緑いのりが闇の中に、半ば溶けていた。顔の半分、半身が影の中に埋まっていて、どう取り出せばいいか分からない。


「それは、君の友達ではない。そう見えるだけだ」


 背後から声がする。男の声だった。殴られた頬を拭っている。


「どういうこと?」

「そのままの意味だ。そいつは、見る相手の親しい奴に化ける」


 はっとして、朱美がスマホを取り出し、電話する。相手は伊緑いのりだった。


「どしたの? チャットじゃなくて通話なんて」

「何でもない。声、聞きたかっただけ」

「何それ。重い彼氏みたい」


 けらけらと軽い笑い声。間違いない。伊緑いのりだ。

 深く息を吐き、通話を切る。


「わかったか」

「ごめんなさい」


 朱美が頭を下げた。自分の膝が見えた。

 でも、と頭を上げる。


「何なんですか。あれ」

「知りたいのか?」


 何も見なかったことにして忘れることも出来る。こんなことに遭遇するなど、もうないはずだろうと男は言う。

 その通りかもしれない。その方が良いのだろう。だけど。


「見てしまったから、目を反らしたくなんか、ないんです」


 言ってしまった自分が、朱美には信じられなかった。こんなに頑固だったのか、私は。

 そっと男の顔を伺うと、深く溜息をついていた。馬鹿な小娘と思われているのだろうか。


「分かった」


 だが、男の答えは了承だった。意外だ。何か理由をつけて断られるかと思っていた。いらついている口振りだが、不思議と口調ほど機嫌も悪くないように感じた。

 なら平気かな、とついでに聞いてしまう。


「あと、あの」

「なんだ」

「私、日向ひなた朱美って言います。あなたは何て呼べばいいんですか?」

「名前も個人情報なんだぞ。そうそう手軽に教えるもんじゃない」

「相手に名前を聞いてるのに失礼かなって思って」

「違う。君のことだ。自分の名前を軽率に教えるなと言っている」


 妙に常識的だ。あんな訳の分からないものと戦っていたのに。

 でも、こちらから名前を聞いているのに名乗らないのも失礼ではないか、と反論する。

 男が再度、溜息をついた。


「俺は、そうだな。ソウでいい」

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