ヒッチハイクで知らないおじさんに1万円貰った話【後編】
さて、どうにか市街地に向かう車を見つけようと坂の下に見える大きな道に出たのだが、
「……これは止まらないな」
唯一の救難手段であるスケッチブックに「町」と書いて掲げてはみたが、車が通り過ぎた後の排気ガスが顔を勢い良く撫でるのみ。こんな辺鄙な場所でヒッチハイクをしているのが奇妙なのか皆視線は送ってくれるものの、流れるようにスルーして現実に戻る。冷たい視線が心に刺さる。寂しいです、僕。
このまま突っ立っていても仕方ない。私は少しでも町に近づこうと道路に沿って歩き始めた。もちろんスケッチブックを掲げるのも忘れていない。フリーハグのプレートのように胸の前に掲げて対向車にアピール。時々振り返って車が来ていればすかさずアピール。1台も見逃さない貪欲な姿勢がヒッチハイクでは重要なのだ。
――まあ姿勢だけでは車は止まらないのだが。歩けども掲げども車は止まらない。だんだんと日が昇っていききつい日差しが体を指す。徐々に喉が渇き体力が削られる。しかし水を買う金すらない。
2時間ほど歩いたところで、干からびる前に短いトンネルの中で少し休憩する。体力の限界が近い。思わず脇にへたり込む。受験勉強でなまった体にこの長時間運動は少々厳しいものがある。汗を拭こうにもタオルがない。仕方なく手で顔にへばりつく汗を拭う。
正直、既にだいぶ帰りたかった。手加減しないでくれといった8時間前の自分を殴りたい。伏見とかで降ろしてもらえればもう家に帰れたのに。
だが言ってしまったものは言ってしまったし、来てしまったのは来てしまったとして受け入れるしかない。泣き言を言ってもどうしようもないのだ。今はただドライバーの同情を誘いながら少しでも前に進むしかない。厳しい現実にため息が漏れる。
と、その時トンネルの先で1台の車が止まった。これは、私を載せるために止まってくれた救世主か?いやただ後部座席の荷物を整えたかっただけかもしれない。果たしてあの車に近づくべきか、否か。考えを逡巡していると車から50代ほどにみえるナイスミドルが降りてきた。
「お兄ちゃん乗るかー?」
――乗ります。
私の窮地を救ってくれたこのナイスミドルは仮にSさんと呼ぶことにする。話を聞くとSさんは町の方に住んでいるのだが、たまたま山菜を取りに山に来ていたところ珍しい生物がいたので拾ってみたということらしい。後部座席を見てみると確かに山菜が積んである。こいつらと同格かと思うとなんとなく複雑な気持ちだったがそのおかげで拾ってもらったようなものだから何も言えない。というか結構あるな。食べきれるのか。
「なんであんなところでヒッチハイクなんかやってたの?」
そりゃ気になりますよね。そもそもどうやってあそこに辿り着いたんだって話ですもの。私はSさんに前回までのあらすじを丁寧に話した。Sさんは「やっぱり馬鹿と天才はなんとやらってやつなんだねー」と言っていたが多分私たちは前者側の人間だと思う。
「急いで帰る必要ないんだったら今日泊まっていく?」
とんでもないお誘いが来た。夜の車も通らないような時間ならともかく、時刻はまだ朝9時だ。帰ろうと思えば帰れるというのにこのお方は「せっかくだから観光していきなよ」と快く泊めてくれるというのだ。こんなにいい人と出会えていいのだろうか。もちろん返事は元気よくYES。掃除でも皿洗いでも何でもしますと返した後の快活な笑いがまたナイスミドルであった。
Sさんと娘さんの話や仕事の話をしているといつの間にかSさんの家に到着していた。周りは田んぼで囲まれており、開けた視界の中にぽつぽつと一軒家があるのがわかる。大量の山菜を一緒に車から降ろしてもう一度車に乗る。なんと近くにある牧場に連れて行ってくれるそうだ。どこまで優しいんだこの人は。
それから私は富山県黒部市を満喫した。Sさんとともに牧場ではソフトクリームを、その後海近くの店では地元でとれた海鮮の定食を頂いた。日本海で身が引き締められた魚はその体に旨味が詰め込まれており、焼き魚・刺身共に涙が出るほどのおいしさであった。
そして食事の後はSさんの自転車を借りて黒部市を周った。5月初旬とはいえ雲の少ない晴天の下は肌が刺されるような暑さであったが、はるか先、まだ頭に雪を残した日本アルプスを見るとその感覚も忘れてしまうようだった。ふと見た家の玄関先に、山から下ってきた雪解け水を使って大きなスイカが冷やしてあったことが印象に残っている。
3,4時間ほど観光した後へとへとになった状態で帰宅するとSさんは夕ご飯の用意をしてくれていた。急いで借りた服に着替えて用意を手伝う。簡単なタレを作ったり、盛り付けをしたり、そうこからビールを取ってきたりなど色々しているうちに料理が完成、そこらの料亭なぞ目じゃないほどの豪勢さである。メインは地元でとれたブリを昆布で〆た刺身。Sさんが自ら〆たそうだ。テーブルにつくと用意していた時より数倍、数百倍おいしそうに見える。待ちきれないという感情が顔に出ていたのかSさんに少し笑われた。そして自分の分の缶ビールを開けると私の方へ差し出す。
「乾杯!」
気が付いたら朝だった。回らない頭をどうにか動かして昨日の記憶を探る。……特に失礼なことはしていない。良かった、瓶とかで殴ってなくて。もう10年近く彼女がいない話をしてうなだれながらアドバイスをもらったという痴態はなんとなく覚えていた。
時間は朝8時くらい、寝ていた部屋は2階の娘さんの部屋のようだった。20畳はあるだろうか、子供の部屋というにはあまりにも広い空間に学習机とピアノがぽつんと置いてある。娘さんはこの3月で東京の会社に就職してしまったそうだ。家が急に広くなってしまったから泊まってくれて嬉しいと話していたような記憶がある。
寝巻から着替えて1階に降りる。リビングにいたSさんに声をかけると昨日の晩酌の残りと白米、味噌汁を用意してくれた。この味噌汁がまた体に染みわたるおいしさだった。
食べ終わった後のお皿を洗っていると徐々に帰る時間が近づいているのを感じた。なんとなく「帰ります」と言いづらい。皿を洗うことでそれを言うことから逃避している気分だった。
しかしひとり分の食器なんてそう多くはなく逃避先はすぐになくなる。自分でもなぜこんなに言いづらいのかあまり理解できなかった。それでも言わなくてはいけない。少しだけゆっくりと呼吸をしてニュースを見るSさんに声をかける。
「すみません、そろそろ帰ります」
Sさんはふっとこちらを見て数舜止まった後、
「あ、そっか。ちょっと待ってて」
そう言ってリビングから出て行った。少しの後、リビングに戻ってきたSさんの手には何かが入ったジップロックのような袋があった。
「これ持ってきな。濡れても大丈夫だから」
透明な袋の中には、1枚の1万円札が入っていた。Sさんは軽く笑ってそれを私に差し出している。
一瞬時が止まった。がすぐに口が動いた。
「いや流石に貰えませんよ!」
「いやいやいいから!お金持ってないんでしょ!」
「でも貰うのはだめですよ!それに1万円も!」
「いいんだよ!若いんだから受けっとっときなさい!」
諭吉の押し付け合いが続く。私も昨日今日とここまでしてもらってさらにお金を貰うわけにはいかない。しかしSさんもなかなか芯が強く全く折れる気配がない。さらに4ラリーほど続いたのち
「じゃあ、このお金は貸す。いつか返して」
「いつか君がちゃんと彼女を作って、結婚して、幸せになりますって時に彼女さんと一緒にここに返しに来て。それならいいでしょ」
言葉が出なかった。涙が溢れそうになって思わず下を向いた。なぜこの人がここまでしてくれるのかも分からなかった。ただ、この約束は守らなければならないと思った。
「……分かりました」
「その時はみんなでまた飲もうね!ブリのやつ作ってるから!」
顔を上げてSさんの方を向くと、Sさんが泣いていた。なんでこの人は泣いてるんだ。ひまわりの約束か。
帰りの支度も終わり、別れ際、玄関前でSさんと少し話す。
「1万円、絶対返しに来るので待ってて下さい」
Sさんはいつも通り快活に笑いながら「待ってるよ!」と言った。相変わらず子供みたいに笑う方である。
「じゃあ、この2日、本当にありがとうございました!」
Sさんに別れを告げてインターチェンジの方へ歩き出す。朝の富山は昨日と変わらず肌を刺すような晴天である。その暑さが今日はなんだか染み入るように気持ちがよかった。
少し先で振り返るとSさんはいなかった。この暑さだ、家に入ったんだろう。開けた視界の先、Sさんの大きな家の奥に日本アルプスが見える。綺麗な場所だ、と思った。
――ちなみに1万円はSさんの家に忘れたので普通にヒッチハイクで帰った。
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