真夜中の観覧車

ウッドタロウ

第1話

丘陵の上にある病室から観覧車がみえた。観覧車は、夕方になるとライトアップされ、夜空に色とりどりの光を点滅させている。光の点滅が止まると、三本の太い鋼管で支えられた観覧車の円い縁の白いイルミネーションだけが光っている。


 夏も終わり近くなり、少し蒸し暑い風が病室の開け放たれた窓から入り、室内の冷えた空気と混じり合っている。しのぶは窓際の椅子に寝間着姿で腰かけていた。身体に負担をかけないようにゆったりと座っている。


 しのぶの顔にピンク色の光の筋が映った。観覧車の消えていた光が夜空に点滅しはじめた。白、橙、黄色、水色、青、緑とさまざまな光が華やかな幾何学模様を描きだしている。


 しのぶは窓の外に顔を向けたまま、「夜の観覧車は綺麗だね」とつぶやいた。幾何学模様は、ひまわりや矢車草のような光の花を一定の間隔でリズミカルに描いている。「闇のなかに浮かぶ蜃気楼みたい」娘の操が答えた。「青と緑の扇子みたいな模様がキラキラしてまわっている」しのぶは立ち上がり、おぼつかない足どりで窓に近づいて、両手を軽く胸の前で合わせた。


 しばらく観覧車を眺めていたが、突然、窓の下を見ながら、「おや、重治さんが、あそこでわたしたちを見ている」と言った。「エッ、おかあさん、変なこと言わないでよ」操は困惑の表情をした。


 重治は二十年以上前に脳溢血で亡くなっていた。操は窓から身を乗り出して下を見た。観覧車に向かう道には若いカップルがたたずんでいる。男はTシャツにデニムの短パンをはき、女は両肩を出し、スリムなジーンズを身につけていた。ふたりとも腕をあげて携帯でイルミネーションで輝く観覧車を写していた。年配の男の人影はない。


「お父さんが、いるわけないじゃない」。「そんなことないよ。あそこの木の下にいるじゃないの」しのぶは木陰の方を指さした。操が、その方角に目をやると、木立の下にベンチがあり、若い男女が寄りそって座っている。木立から少し離れたところに池があり、水面に観覧車のイルミネーションが揺らぎ水面ににじんで見える。


「今度は、観覧車の切符売り場に並んでいるよ」。「しようがないわね。おかあさんは……」ととがめる口調で言いながら切符売り場の方を見た。切符売り場には、昼間は多くの家族連れが並んでいたが、夜はカップルが多かった。「おかあさん、しっかりしてよ」操は情けない気持であった。


 しのぶは重治が亡くなってからも、操が一緒に暮らそうよ、と誘っても一人の方が気ままでいいよ、と断り続けて一人暮らしをしていた。しのぶは長年続けていた趣味を生かしてタピストリー教室を開き、生徒の若い主婦たちからも慕われていた。それが、二週間ほどまえに膀胱がんの手術を受けてから急に衰えが目立つようになっていた。


「お父さんがいるなんて変なこと言っているけど、おかあさん、疲れているのよ」操は心配そうにしのぶを見た。「疲れてなんかいないよ……。あら、今度はあの女と一緒にいる」しのぶは大きく目を見開いた。「エッ、あの女って誰のこと?」操が怪訝な顔つきをして尋ねた。「重治さんの会社にいた女だよ」重治は定年まで食品会社に勤めていた。


「あの女が離婚してから深い関係になったんだよ」。操は驚いて、「それは何時ごろのことなの?」「おまえが結婚するまえだよ」「じゃ、お父さん、五十代の半ば頃ね」しのぶがゆっくり頷いた。「若い女だったの?」「重治さんより年上だよ」「そう……。その人、まだ生きてるの」「重治さんより先に病気で亡くなったよ。その時に重治さんが、わたしに頼んだんだよ」「何を?」「自分が糖尿病で動けなくなったものだから、あの女の葬式に連れて行ってくれってね」。しのぶは眉間にしわを寄せている。


 操は、重治が定年になって数年もしないうちに糖尿病が悪化して動けなくなったことを思い出した。「それで、おかあさん、連れていったの?」「連れていったりしないよ。ホント、あの人は自分勝手な人だったよ」しのぶは不満そうな口調で言った。


 操は窓から身を乗り出すようにしてしばらく外を見ていたが、後ろを振り返った。「お父さんが、浮気をしていたなんて知らなかった」しのぶが少し困った顔をした。「おかあさん、何でいままで黙っていたの」「済んでしまったことだから。それに……」「なあに?」「わたしも恋をしたからね……」「エッ、恋! 相手は誰なの」操はあっけにとられたように尋ねた。「おまえの知らない人だよ。達次さんっていってね。職人さんだよ。重治さんみたいに気難しくなくて、優しい男だよ」しのぶの顔を生気が少し戻ってきた。


「おかあさんの恋はプラトニックラブだったの」「なんてことを聞くんだろうね。この子は」しのぶがいたずらっぽく笑った。「わたしは達次さんと夜の観覧車に乗ったんだよ。達次さんがわたしの胸にいつまでも手を当てているから、赤ちゃんじゃないのにいいかげんにしなさい!って言ってあげたの」操は思わず苦笑した。「でも、レディはこんなはしたないこと人前で喋ってはダメよ」しのぶは片目をつぶってみせた。


 操は外の観覧車に目をやりながら言った。「おかあさんも素敵な恋をしたなら、お父さんのことも許してあげたら」しのぶは黙って俯いている。「おかあさん、お父さんと仲直りのしるしに三人で観覧車に乗ろうか」操は微笑みながら子供にもどったような口調で言った。


 観覧車のイルミネーションの輝きが増し、しのぶと操、重治を乗せた観覧車はゆっくりと上がっていく。しばらく上昇すると、暗い海が見え、河口近くに五、六隻の屋形船の灯りが小さく見えた。船の胴のところが、夜の闇のなかを泳ぐ熱帯魚のように光っている。


 巨大な円盤の頂点まで来ると、観覧車は展望を楽しめるように数分間止まった。重治は半そでの開襟シャツに灰色のズボンをはいていた。膝の上に手を置いて、二人を見つめてぼそっと言った。「家に帰りたいが、帰れないんだ」しのぶが少しとがめるように言った。「本当に、長い間、帰ってこないね」。


 しばらく沈黙があって、観覧車がふたたび動きだした。観覧車はゆっくりと地上にむかって降りていく。次第に駐車場が迫ってきて、駐車場に並ぶ車の一台一台が水銀灯にぼんやり浮かびあがった。観覧車が乗降場まで来ると、係員の女性が素早くドアを開けた。操はしのぶを抱きかかえるようにして客室のボックスから降りた。


 後ろを振り向くと、重治は降りようとせずに、自分でドアを閉めた。重治を乗せたボックスはそのまま上昇していく。重治がガラス窓に顔を押しつけるようにして、こちらを見ている。何か叫んだようだが、何も聞こえない。操が観覧車を見上げると、巨大な恐竜が骨格をさらしてそびえているように見えた。「お父さん、何で降りなかったんだろうね」「また、しばらく帰ってこないつもりだね。あの人は無口で不器用な人だから」「おかあさん、お父さんが帰ってこなくてさびしくないの」「さびしくなんてないよ。おまえたちがいるからね」しのぶが一人きりになると不安がるので、操が連日病室に泊まり込んでいた。


 窓から風が入ってきた。夜半になって風は涼しくなっていた。カーテンが少し揺れた。観覧車の切符売り場に並んでいた人の列もなくなっている。しのぶが顔を少し歪めて「お腹が痛むよ」と言った。操はしのぶをゆっくりとベッドまで連れて行った。「おかあさん、疲れたでしょう。そろそろ、薬を飲んで寝たほうがいいよ」。操はコップに水を注いで薬を飲ませた。しのぶは安心したようにベッドに横になり目を閉じた。操はしばらくしのぶの痩せて小さい顔を眺めていた。しわだらけの顔に幼い童女のようなあどけない表情があった。手をとると、温もりが伝わってきた。


 操は病室の窓から外に目をやった。夜の闇のなかにライトアップされた観覧車が見える。じっと眺めていると、観覧車が音もなくゆっくりと回っているように見える。腕時計を見ると十二時近かった。


 光の幾何学模様がリズミカルに繰り返されている。操はしのぶの心臓の鼓動のような気がして、思わず目をとじた。


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