砂上に舞う、君の足跡を追う

涼慈

第1話 砂漠と旅人


 一歩、また一歩と白い砂地に等間隔に続く足跡があった。時折、砂地を浚うように吹くそよ風が徐々に、徐々に足跡をかき消していく。一番古い足跡はもう残っていない。それは旅人にもう後戻りはできないことを伝えるかのようだった。


旅人は振り返ることなく歩き続けていた。時折、吐いた息が生ぬるく頬全体につたわる。歩くたびに肌を布が擦り、乾いた汗の匂いがする。


旅人の口と鼻を覆う緑色のストールのほつれた糸の数が、その旅が幾月も続き、そして困難な道のりであることを物語っていた。ここの砂は大半がガラス質だ。もし砂嵐が吹き荒れる中、深呼吸でもしようものなら喉は切り裂かれ肺に穴が開くだろう。


旅人は知識ではそれを理解していた。この旅にでる前、天文台で星読みをしていたからだ。星を観察し、明日を予測する。気候や自然災害の兆候をとらえるのが主な仕事だった。


そしてまた、この旅もそうだ。星の運行がもたらす何らかの兆候は多岐にわたる。そしてそれらの中には天文台の資料に載っていないものも存在する。そういったものは実地で見るしかない。旅人はそのために天文台から探索を命じられたのだった。


ずれてきたストールをゆっくりと元の位置に戻す。


その手は、指はおよそ学者のものとは思えぬほど乾燥でひび割れた皮膚と治りかけてきたばかりの瘡蓋かさぶたが絶えなかった。ふと、肌を撫でる風の向きが変わるのを感じる。視界の奥の方、遠くの地平線がぼやけてくるのが見える。風は徐々に強くなり、大地を覆う白い砂を巻き上げた。その砂は太陽の光を乱反射してプリズムのように光を分散させた。


’’雨の降らない白い砂漠で虹が見えるとき、それは嵐の兆候である’’


旅人はぼんやりとした記憶から浮かんだ、古いガイドブックの言葉を思い出した。美しい景色に心を奪われるよりも先に、嵐にあと何秒で巻き込まれるか計算しようとしたがどうやらそんな時間は残されていないらしい。


急いで前を開けていたデザートコートを首元まで閉じ、フードを深く被り直した。そしてそのばにうずくまり、風が強く、さらに地鳴りに似た音が近く、近くなってくるのが聞こえた。美しい幻想的なプリズムの世界に囚われその場で立ちつくせば、その体をたちまち飲み込んでしまうだろう。旅人は風にフードを飛ばされないように内側から引っ張るようにして必死だった。


直後、フードの外がわをまるで雹が襲っているかのように轟音が彼の耳を打つ。鼓膜が割れそうなそれを彼は目をつぶり必死に耐えた。旅人がきているデザートコートはとても分厚くて頑丈だ。砂もそのコートを食い尽くすことはできない。絶え間なく続く風と砂の轟音の中で、自らの呼吸と心臓の音を聞くことに集中した。やがて落ち着きを取り戻した心臓の拍と拍の間が徐々に長くなるのを感じる。不意に訪れた疲労感と、安堵に彼は抗うことはできず、やがて、風と砂の轟音にも耳がなれたのか自身の呼吸音もまじって聞こえるようになった。砂嵐と一体感になったような安堵感が彼の中に広がる。やがて砂嵐の中で眠りに落ちてしまった。天然の揺籃ようらんの中でほんのひとときの休息を得たかのようだった。


 目を覚ました時、旅人は静寂の中にいた。もう耳を打つあの音は聞こえないことから嵐が過ぎ去ったことを理解した。仰向けになったまま、フードをゆっくりと外した。砂がほろほろとこぼれ落ちた。月明かりの優しい光がその小さな白い砂つぶを照らした。先ほどとはうって変わって穏やかな風に照らされ、白いモヤとなって運ばれていった。まるで蛇のようにうねる白いモヤは月あかりによって鱗のように時たま虹色に輝いて見えた。


空とどこまでも続く地平線の境目を眺めながら、今は何時か、と思いたった。無数に輝く星の中から特に明るく輝く星、シリウスを彼は探した。


「南東ってことはだいたい午前二時ごろってところかな。」


不意に喉がかわいた。目を覚ましてから横になったまま、星を見ていただけで何も口にしていなかったことを思い出した。服の中に備え付けられた水袋を一舐めした。この水は切らすわけにはいかない。


体力に余裕があるうちは、舐めるように飲む。乾いた口の中で水滴を滑らせ唾液と混ざっていくのを感じる。徐々にそれは生ぬるくなり、少しの血生臭さも感じるその水を飲み干した。乾燥した皮膚に染みた水は、塊つつあった傷口にも潤いを与えた。


「忘れないうちに記録しないと。」


ボソリと旅人はつぶやいた。その独り言は誰にも届くことはなく、ただ、この白い砂漠だけが聴いていた。今ここに旅人以外の生命は存在しない、かのようだった。


腕に装着したナビゲーターを起動しようとする。。しかし、ナビゲーターは空よりも黒いままだった。旅人の影が、月明かりによって垂らされた影が黒い画面をより濃く黒くさせた。


砂詰まりか?と思い腕を振り回してみたが真っ暗なままだった。


「こわ、、れた、、、?」


ナビゲータの画面を見つめながら旅人は呆然としていた。バザールで買った砂漠越え向けのナビゲーターは対砂に優れていると謳われていたがどうやら誇大広告だったようだ。いや、ここが特殊なのかもしれない。大体、ここほどガラス質がおおい砂は多くない。まあいい、使えないのならただのがらくただ。荷物は軽い方がいい。


分厚いグローブで覆われた手でぎこちなく腕に巻きついたベルトを外そうとした。が、こちらも砂が絡んで外せそうにない。仕方がないのでナイフでベルトを切った。どさっという音とともに白く綺麗な砂埃が舞った。


このガラクタが、もし何百年後かに見つけられたのならオーパーツか何かとして取り上げられてしまうんだろうか。そんなくだらない妄想も一緒に。


 ナビゲーターが地面に落ちた時、カチャリと金属音も聞こえた。白い砂埃は二重に舞う。月明かりに照らされたそのアクセサリーはネームプレートだ。どこにつけてもいいが砂漠旅行者にはこいつの装着が義務付けられている。理由は簡単、もしこの砂漠で死んだ時に身元を特定するためだ。もし身元が特定されれれば、旅人の持ち物、旅をしながらつけたログの精度によって家族に報奨金が授けられる。

 もっとも、近頃のログはナビーゲーターの自動書記頼りである。旅人もそうだった。砂に転がるネームプレートを彼は片手で摘むつまむようにして拾い上げた。J.D.ボーン、それが彼の名だ。もっとも、Jがジュディかジョンかジョナサンか、それはもう思い出せない。愛称はJB。酒場の仲間からはよくそう言われていたし彼もそう名乗っていた。名前とはただの束だ。わかってほしい人に見つけてもらえるならなんでもいい。


 ナビゲーターが壊れた今、もしここで死んでも大した報奨金は出ないだろう、それならいっそ、忘られた方がいい。もう、自分の名前は自分だけが覚えていればいい。


分厚いデザートコートの右ポケットの奥から手を抜き、強く前を閉めた。ほろほろと砕けたガラス質の砂が月明かりに反射されて虹色に輝いて見えた。


「綺麗だよね。」


突然、背後から女の子の声が聞こえた。旅に出てからもう長いこと人と話していない。人間、予想だにしない事が起きると固まってしまうものである。


JBは影を確認しようと、視線をゆっくりと地面に向け、影を眺めた。今、目の前に映っている影は一つである。不意に背後の人影が斜めに動いた。足音は聞こえなかった。ただ、影だけが移動した。これで影は二つになった。自分と同じ楕円形の影である。


人ではあることにJBは安堵せずにはいられなかった。


しかしその楕円形の影はいつの間にか真横にやってきていた。同じ楕円の影が平行に並んでいるのが見える。しかし影はJBの方が大きいらしい。


「君はなんでここにきたの?ここには何もないのに。」


右耳の方から優しい少女の声が聞こえた。少女の影の動きから、今まさに自身の髪の毛を耳に掛ける様が伺える。


少女の髪が耳に掛ける時、揺れた薄金髪色のそれがJBの視界の端に映り込んだ。不意にその髪を目で追ってしまった。月明かりが照らす中、目の端に映ったその一本の線を思わず追ってしまった。


JBはゆっくりと彼女の方へ顔を向ける。


そこには彼よりも背の低い、およそ冒険者とは思えない傷一つない白い肌をした薄金髪色の少女がそこにいた。少女はじっと砂漠の砂を、JBの影を見つめている。その目はりんごのような赤い瞳だった。およそ同じ人間とは思えない、どこか儚げな印象のある可愛らしい少女の印象を受けた。


少女はそっと腕を伸ばす。


少女の着ている白いワンピースの袖が少し捲れる。白い肌にそのワンピースはとても似合ってると思えた。


「迷えるあなたに予言を授けます。ここから北にまっすぐ、3日ほど進みなさい。」


そういうと少女は一歩、踏み出した。


膝下あたりまであるワンピースが揺れる。


「裸足?」


少女は裸足だった。素足のまま、この白いガラスの大地に足を踏み出していたのだ。


少女の表情は変わらない。痛い、という声も出さない上に、そういった表情もしていない。まるでそれが普通というような有様だった。


そのままもう一歩前へ、JBに目もくれず少女は歩き出した。歩くたびに揺れる髪からふわりと優しい匂いがした。JBはその場に立ち尽くしていたが、少女はどんどん先に歩いていった。少女の小さな背中は、を呆然と眺めていた。


砂地に少女の足跡が残る。


砂地の足跡にピッタリと沿わせるようにJBも歩き出した。


JBが一歩踏み出すごとに、少女はまるで十歩歩いているかのように思えるほど追いつくことができなかった。さらに少女の背中は徐々に小さく小さくなっていった。やがて地平線と同化していくのが見えた。少女が指したきたの方角、JBはただその足跡を辿るほかなかった。







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