【異世界百合奇譚】水に祈りを、血に口付けを
金石みずき
第一章 -水霊教の聖女-
第一話
汚染された水は、人々の命を容易に奪う。そんな世界で、聖女たちだけが水を清められた――。
「
「
ヴェロニカから手渡された徽章を、エレナは膝をついたまま恭しく受けとった。純金に紫の貴石。中央に水霊教の紋章。エレナはその荘厳さが持つ重みに、感嘆の息をもらす。
そんなエレナに、ヴェロニカは頬を緩める。
「あなたが
「もったいないお言葉、ありがとうございます」
頭を下げる。エレナの長く美しい銀の髪が清流のように波打った。エレナの姿勢には一分の隙もなく、伏せた顔に隠れた赤の瞳には、強い意志が宿っている。
「謙遜することはありません。あなたは
「……謹んで、お受けいたします」
聖女とは水霊教会の最大責務である水の浄化を担う役職だ。聖女の行う〝聖浄の儀〟によって清められ、水は初めて使用可能になる。
汚染原因は魔力という、何やら魔物に関連する物質や力のようなものらしいが、詳しいことはわからない。
もしかすると至高聖女や紅衣聖女たちならば何か知っているのかもしれないが、少なくともエレナたちのような末端には知らされていなかった。
聖女には階級が定められている。上から順に、至高聖女、紅衣聖女、叙階聖女、高位聖女、
聖女に選ばれるための〝ウンディーネの聖別〟を受けられるのは一四歳を迎えてからで、エレナが受けたのもその歳だ。
必然、最速記録を持つエレナは最年少の叙階聖女ということにもなる。一般的な叙階聖女は三〇歳前後で選ばれることが多い。
「この叙階聖女への任命は期待の裏返しでもあります。これに満足せず、これからも一層励むように」
「精一杯、努めさせていただきます。ウンディーネ様の御心のままに」
◇
「エ・レ・ナ~~~!」
「うわっ!」
式典を終えて寄宿舎の廊下を歩いていると、曲がり角から突然飛びついてくる影があった。
エレナはその小柄な身体をよろめきなく受け止める。栗色のふわふわした髪を撫でつけると、髪の持ち主が顔を上げた。
「アリシア、廊下は走っちゃダメっていつも言っているでしょう」
「へへ。ごめん、エレナ。でも、早く会いたかったから」
「……もう」
そんなことを臆面もなく言われてしまっては、怒る気なんて失せてしまう。エレナがこの寄宿舎に住み始めてから――いや、孤児院にいた頃から幾度となく繰り返してきた光景だ。
アリシアはエレナの唯一無二の親友だ。同じ孤児院出身で、年齢はアリシアが一つ上。実の姉妹のように育ち、共に〝ウンディーネの聖別〟を受けた仲間でもある。他にも受けた者はいたが、皆、聖別を突破できずに亡くなってしまった。
「ねね、ここにいるってことは式典はもう終わったよね? 叙階聖女様の徽章もらったんでしょう? 見せて見せて!」
アリシアは好奇心をいっぱいに湛えた瞳で、エレナを見る。苦笑しつつ「ほら」と徽章を手渡してやると、受け取ったアリシアはさらに一段、瞳を爛々と輝かせた。
「うわ~~っ! すっごい綺麗! いいなぁ!」
徽章を掴んだまま、アリシアはその場でくるくると回りだす。「ちょっと。落とさないでよ」と注意しても「わかってるわかってる」といい加減な返事を返すばかりだ。
「はい、ありがとう。返すね」
一通り眺めて満足したのか、アリシアが徽章を手渡してくる。
アリシアの胸元についているのは、十字をあしらった小さな銅製の徽章――聖女見習いのものだ。
聖女見習いは一四歳から一八歳くらいの者が多いので、アリシアが特別遅いというわけではない。
「はぁ~~~。素敵だったなぁ。ありがと、エレナ。次にその徽章を見られる機会なんて、いつになるかわからないから」
「徽章くらい、言ってくれればいつでも見せるわよ」
エレナのその言葉に、アリシアが唇を尖らせる。
「……でも、そもそも会うのが難しいじゃない」
「……そうね」
アリシアの住んでいる寄宿舎は、高位聖女統轄の下、聖女、聖女見習いまでが生活を共にしている。
下位の聖女は一般的に閉鎖的な環境で生活し、外部――聖女以外との接触はあまり許されていない。
一方で、叙階聖女からは国の運営にも関わり、官僚など外部の者と関わる機会も増える。そのため、住居自体が
例に漏れず、エレナにも一室を与えられた。明日にも寄宿舎を出て行くことになっている。
清貧な生活を好むエレナとしては、浄瀧殿のようないかにも荘厳な建物を好まない。
しかし教会の威光を世に示し、人々の心の支柱として在り続けるためには、これも仕方のないことであった。
「そんなに心配しなくても、ときどきは会いにくるわよ」
そう言ってアリシアの栗髪を撫でつけると、アリシアは「……本当に?」と上目遣いで見上げてきた。どっちが年上かわからないな、と内心で苦笑する。
幼い頃からアリシアの壁を感じさせない人懐っこさに、ずいぶんと助けられたものだ。そんなアリシアと、もう気軽には会えなくなる。
寂しさに心を痛めながらも、表には見せないよう気丈に振舞い、しばしの間手に馴染んだ髪の感触を愛おしんだ。
◇
「ふぅ……。こんなものかしら」
額に浮かんだ汗をぬぐいながら、部屋を見渡す。ここは浄瀧殿のエレナにあてがわれた一室だ。先ほどまで空っぽだった部屋には――今もそれほど荷物は置かれていない。
とはいえ、生活するにあたり必要最低限の物品は必要である。クローゼットには叙階聖女専用の修道服が並んでいるし、隅には化粧台もある。
エレナとしてはあまり化粧など必要ないと思うのだが、身だしなみを整えることも叙階聖女の大切な仕事だと言われてしまっては、それ以上何も言えない。
ただでさえ、周囲とは一回り以上離れているのだから、悪目立ちしないように気を配らないといけない。
その他にも書架や机は必須だし、祈祷具に聖典、水盤も欠かせない。備え付けられていた寝台は天蓋付きの豪華なもので、寄宿舎で使用していたような簡素なもので十分だと言ったのだが、すげなく断られてしまった。
叙階聖女に至っても、エレナは権威を誇示するようなものにはまだ慣れないのだった。
しかし、そんなものにもこれからは徐々に慣れていかなくてはならない。
ほとんど内に閉じこもっていた高位聖女までとは違い、今のエレナは叙階聖女。国の中枢を担う紅衣聖女以上よりも、衆目を浴びる機会は多いだろう。
そんなときにみすぼらしい叙階聖女の姿を見せてしまっては、教会の名誉に傷がつく。
幼い頃に両親を亡くし、引き取り手の叔母にあっさりと捨てられてから、教会の運営する孤児院で育てられた。
〝ウンディーネの聖別〟を経て聖女見習いになってからも、教会の恩寵を賜り生きてきた。
この身に受けた恩はもはや返しきれるものではない。生涯を教会の発展に捧げることに、迷いはなかった。
「水の主ウンディーネ様……我らが導き手よ……御意のままにこの身を捧げ奉らん……人々の
水盤を前に祈りを捧げる。一心に、人々の穏やかな生活と教会の繁栄を願って。窓から差し込む光が、水盤に反射する。さざ波一つない水面が、きらきらと輝いた。
祈りを終えて見上げた青空の端に、白く欠けた月が薄っすらと覗いた。その瞬間、胸がチクリと疼く。
「月……」
握り込んだ手が、叙階聖女を示す真新しい深紫の修道服に皺を作る。不安気に揺らぐ瞳には、深い葛藤が伺えた。次の満月は……いつだっただろうか。
「ウンディーネ様……」
エレナは再び祈る。ただし、今度の祈りは先ほどまでとは違い、人々や教会のためのものではなかった。
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