第五章 御郷島

御郷島 第一話

 山田はあれから眠れないまま、まんじりともせず朝を待った。


 何度も寝返りを打っていたが、夜が明けたのを見計らって布団から抜け出し、服に着替える。


 夢の中の綿子が生々しくて、吐き気がした。


 いくら何でも酷すぎると思う。あんな死に方をするなんて残酷だ。ぎりぎりまで意識を保ったまま、綿子の頭が潰れたのなら、どれほど苦しい思いをしたのだろう。


 夢の中できっと自分も鏡写しのように、綿子と一緒に頭が潰れたのだろう。


 綿子には暗に山田にも同じようになってほしいという願望があるのだろうか。だから、あんな残酷な夢を見せるのか。


 綿子は何度も叫んでいた。何を言っているか全く分からないけれど、その言葉は自分に宛てられたメッセージだ。


 口の中は黒いタールを流し込んだように真っ黒だったが、山田を見つめる瞳は美しかった。あの光が唯一の綿子に残された正気なのだとしたら、自殺した原因について教えてくれていたかもしれない。


 それが分かれば、この悪夢から綿子を連れ出せる。


 山田は枕元に置いたスマホの時刻を確認した。


 万智や爽果が起き出すのは七時を過ぎてからだろう。それまで村を散策しようと考え、つくもを起こさないようにそっと部屋を出た。


 外は快晴だった。太平洋の水平線に朱色の朝日が顔を覗かせている。太陽の光に藍色に染まった雲は空の端へ追いやられて、星々も輝きを失った。


 名も知らぬ鳥の鳴き声に混じって、小屋から出てきた鶏が元気よく鳴き出した。


 昨晩、鳴り響いていた鬼哭は何だったのだろう。遠雷とも違う不気味な音だった。


 坂道を降りていき、西浜の道に出ると、そのまま漁港に向かう。


 漁港には漁から戻ってきた漁師達が、トロ箱を船から降ろしている。トロ箱の中身は溢れんばかりの魚で一杯だった。


 猟師達がやけに元気がいい。大きな声で、楽しげに話をしている。


今日きゅ大漁たいじゅだ。トロ箱が足りんなお」

「おわたいが成功したやぃあげたから、大漁たいじゅになったんじゃないか」

「おわたいさまさまだな」

「吉宝さあの言ったとおりゆゆっになったな」


 漁師達が笑い合いながら、トロ箱の中身を仕分けする為に漁港に並べている。


 仕分けの女性達も楽しそうだ。


 その会話の中で、若い漁師の言葉に、山田は気を取られた。


「そういえば、変な魚すだまがいなかったか?」

「えぇー、サメみたいなヤツだったな」

おいがおが見ゆたとよ。人のがおじゃった」

冗談を言うながえおゆなまるでじき化け物じゃねか」



 山田はその若い漁師に近寄っていった。


「人面魚かぁ」


 いきなり背後から白の声がして、山田は思わず、背後を避けるように飛び退ずさった。


「び、びっくりした……、先生、起きてたんですか」

「うん。山田君が出たあとに」


 山田はきびすを返して、漁師の側に行った。先生も付いてくる。


「おはようございます!」


 できるだけ明るく、山田は声を掛けた。


 最初は不審者を見るような目つきをしていたが、漁師仲間の一人が、山田と白に向かって、思い出したように明るい笑顔を見せた。


「あー、西山のところの。おはようおはゆぅ

「西山のところにいるか。確か大学だいがっのせんせじゃろ?」

「そうですそうです」


 白が頷いた。


「顔が人間のサメの話、詳しく聞かせてください」


 若い漁師が仲間と顔を合わせた。


「よかよ。でもどん、そいつのせいでが開いた。今度見つけたらつしけたら銛で突こうと思っ」

「手足はなかったんですか? どうやって網を破ったんでしょう」


 白が不思議そうに訊ねた。


手足ごごはなかった。顔だけがおこチラリと見ゆた。どうやって破ったかは分かいらんけど、を食われちょった。まぁあらよう今日きゅ大漁たいじゅじゃっで、多少食われても食わたちぃと痛くないけど」


 方言の強い漁師の言葉を理解するのに四苦八苦している横で、白が楽しそうに話を聞いている。


「顔は男でしたか? 女でした?」


 漁師が腕を組んで考え込む。


「うーん、どっちじゃろ。色が白かったからおなごかもしれない……あ、でもどんそっちの若いのわけたくらいしろかだ」


 いきなり指差され、山田はぎょっとした。研究室に籠もって資料を漁るばかりで、日に焼けるようなこと自体なかった。反対に白はうっすらと日に焼けている。少なくとも山田より健康的に見えた。


「色白かぁ。男か女かは分からない、と……」

「これって、しょっちゅう目撃するものなんですか?」


 鹿児島県の磯姫という妖怪のことは聞いたことがあった。人面魚の存在は三宅村独自の現象ものなのか、それとも何かの生き物を人面魚と勘違いしているのか。


 磯姫だとしたら、見たら死んでしまうと言うし、結果、見たものはいないわけだから姿を認識することもできない。


 山田の質問に、漁師が困ったように苦笑いを浮かべる。


「うんにゃ、生まれこのかたこのっさあ、あんなものは見やったことがなかったな。怖いおじとゆより、もっと近くで見てみたい見やったいというか……、会えるならまた会いたい」

「会いたいって……。どこに行ったら見ることが出来ますか?」

「沖に行っていたみたら良いんじゃないか。おいが見たのもうんだったし。それじゃあ、おいたちゃは忙しいせしけいから」


 話に付き合ってくれた漁師達が、トロ箱を片づける作業に戻っていった。


「船を借りる?」


 山田は、楽しそうにしている白を一瞥する。多分、研究とは関係なくただ見

たいのだろう。


「チャーターするとなると、お金がかかりますけど、先生、手持ちで足りますか?」


 白が目を細めて、海の彼方を眺めた。


 ちょっと意地の悪い言い方になったと、後ろめたくなって謝ろうとしたとき、白が思案げに山田を見下ろした。


「豊玉姫かなぁ」


 日本神話で登場する、綿津見神の娘だ。


「それがどうかしたんですか?」

「豊玉姫の正体はサメなんだよ。大きなサメ。山田君は『見るなのタブー』を知ってる?」


 確か、妻が「部屋を覗かないでくださいね」と頼んだにもかかわらず、夫が覗き見たため、約束を破った夫の元から妻が去るという民話の類型じゃなかっただろうか。


「鶴女房とかですよね」

「そうそう。豊玉姫は出産をしている姿を見ないでくれと、夫——山幸彦に頼むんだけど、好奇心に負けた山幸彦が覗いちゃうんだ。するとそこには大きなサメになった豊玉姫がいた。山幸彦が約束を破ったことで、豊玉姫は海の彼方にある竜宮に帰っちゃうってヤツね」

「えーと、異類婚姻譚でしたっけ」


 専門分野ではないがある程度有名なので、学生時代に聞きかじっただけの知識で答えた。


「話の類型から言うと禁室型——『見るなのタブー』と説明したほうがわかりやすいかもね。豊玉姫はサメや龍の化身と言われてるんだよね。さっきの話で思い出した」


 一通り話すと満足したらしく、白が周囲を見て、首をかしげる。


「こんなに人がいたっけ?」

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