第五話

 食事を済ませた二人は、爽果に言われたとおり、西山の爽果の実家に戻った。事前に教えられていた場所に隠してあった鍵を使って中に入る。


 与えられた部屋以外を使うのは気が引けたので、布団を敷き直して暖房を付けて、だれかが戻ってくるのを待った。


 一度、爽果が帰ってきて、風呂を用意してくれたくらいで、何か用事があったら電話してくれと言い残して公民館へ戻っていった。


 風呂から上がると、テレビを見るか本を読む以外にすることもなく、布団に潜り込んだ山田は、持って来た文庫本を読みながら、夜を過ごした。


 隣のつくもを横目で見ると、彼も分厚い装丁の本を読んでいた。白のバッグがやたら重たかったのは本のせいかと思いつつ、文庫本に意識を集中する。


 それでも昼間、維継と話した内容が、脳裏をぐるぐると巡る。


 ほかい様の数だけ橘の実を持ち帰った乙女がいた。その乙女はせっかく戻ってきたのに帰されたのか、一緒にやってきたまれびと神だけ帰されたのか、そこははっきりとしていない。維継さんの話す内容だけを信じるとしたら、乙女も帰したと考えられるし、最悪、ほかい様として封じたようにも受け止められた。


 せっかく豊漁を齎す象徴を持ち帰った乙女が封じられるのは、どうも納得がいかない。本当にそれは乙女だったのだろうか。


 御郷島へ渡った少女は、本当に乙女として戻ったのか。禍だけが戻ってきたのではないか。


 御郷島に渡った時点で、乙女はこの世から去っていたとしたら、何が戻ってきたのだろうか。禍なのか、神なのか、乙女という何かなのか。それらに御郷島に帰ってもらったなら、ほかい様は何を封じているのか。


 まず、おわたいやほかい様が先ではなかった、というのは維継から聞いて知ることができた。おわたいと名付けられる前、『おわたい』は補陀落渡海であった可能性があると、白は考えた。それについては維継も同意した。ただし、実際はどうか分からない。


 では最初に舟に乗せられたほかいという名の乙女は……、橘の実を持って戻ってきて……。


 気付くと、周囲は闇に包まれていた。


 上体を起こしたが室内の電気が消えて、真っ暗闇だ。部屋の調度や布団まで黒一色。


 隣を見たが、白も闇に溶けて見えない。寝息も聞こえない。


 枕元のライトも消えていることに気付いた。スマホのライトもいつの間にか消えていた。時刻を見ようと枕元を手探りでスマホを探したが見つからない。


 それどころか、今まで潜り込んでいた布団もなかった。慌てて自分の手を見ようと手のひらを自分に向けた。けれど、何も見えない。


 何故見えないのか、訳が分からない。


「先生!」


 咄嗟に白を呼んだが返事がない。


 まさか、目が見えなくなったのか? 山田は、狼狽えながら立ち上がる。


 前後左右どころか上下も分からない。平衡感覚が狂ったみたいにふらふらとよろけてしまう。


 よろけながら、足裏で床をりつつ、手を前に差し伸べて、前に進む。


 六畳くらいの座敷なのに、いくら進んでも壁に指先が当たらない。


 どこまでも黒い空間だ。


 前方を見据えながら進み続けていると、うっすらと灰色に霞む何かが見えた。灰色の光が、黒い空間を斜めに切り裂いて差し込んでいる。


 この光景に見覚えがある。


 果樹園で転倒して気絶していたときに見た光景だ。


 灰色の空間にぼんやりと六人分の白い脚が浮かび上がる。薄汚れた細い脚で裸足はだしだった。


 やはりあの少女達だと思った。皆、手にみかんを持っていなくて、両腕をだらりと下げている。


「君達……」


 山田は思わず少女達に声を掛けた。


「あの……」


 山田は足を止めた。


 今の今まで六人分の脚が見えていたのに、いつの間にか、ぼんやりと藍色のセーラー服が視界の先に現れた。


「綿ちゃん……?」


 背を向けた髪の長い少女に向かって、山田は無意識に声を掛けていた。その少女が綿子だと確信していた。


 綿子の顔を遺影でしか見たことがなかったのに。


 頭は相変わらず闇に沈んでいる。


 中学二年生の綿子。自分よりも背が低い。小学生の時は、綿子のほうが成長が早くて、背も高かった。


「綿ちゃん……」


 綿子が自分の前に現れるのは、何か意味があるんだろうか。


 夢だけでなく、白昼夢のように、いきなり目の前に現れて消える。


 車に轢かれそうになったり、穴に落ちそうになったり、転倒して頭を打ちそうになったり。


 果樹園で綿子の姿がはっきり見えて、その凄惨な姿に驚いて悲鳴を上げ、足を滑らせた。


 頭が見えなくても、綿子がどんな姿か分かる。その姿を思い出して、山田は胸が締め付けられた。


 綿子が死んでも苦しんでいるのを感じ取って、何故自殺してしまったのか知りたくて、山田はなんとか綿子を楽にしてあげたくて頑張っているつもりだ。


 しかし、何の成果も出せず、無為に日々が過ぎていく。


 綿子が急かしているように感じ、気ばかりが焦る。


 ほかい様が何故封印されているのか、少女達を封印しているとしたら、少女達は一体何をしたというのか。封印されるような出来事があったのか。


 その答えは綿子にも関連があるのだろうか。


 綿子が何故怨霊になってしまったのか、それが知りたい。何を憎んで、恨み、自殺に至ったのか、それを解明したい。


 そうしたら綿子が成仏できるような気がしてならない。


 自殺の原因を解決できたら綿子は本当に楽になるのか。


 少女達の思いを解決できたら封印は解けるのか。


 そこに共通点はあるのか。


 山田は唇を噛んだ。


 綿子が自分の前に現れるのは、何か言いたいことがあるのだろう。


 それは恨み言だろうか。それとも助けを求めているのだろうか。山田が生きていることに、怒りを感じているのだろうか。それが知りたくて、綿子に何度も危ない目に遭わされても、彼女を遠ざけることができない。


 脳裏に浮かぶ、綿子の寂しげな笑顔の遺影。こんなに悲しそうに笑う子だったろうか。記憶の中の綿子と、あまりにも変わりすぎていて、胸が締め付けられた。


「綿ちゃん、僕のこと怒ってるの?」


 助けられなかった自分に怒りを感じているように思えてならない。


 顔半分、崩れて潰れた綿子が目の前に突然現れる度に、綿子の無念が伝わってくる。


 綿子の怨霊を見ると、気持ちは中学二年の頃に戻る。


 こんなことになったのは助けてくれなかった山田のせいだと言っている気がした。


 背を向けてたたずむ、綿子の肩に手を置いた。


 手の甲に、赤い雫が滴る。


 血に混じって白いものが落ちてくる。


 あっと思った瞬間、グロテスクな灰色がかった白い塊が、山田の手の甲にボトボトと落ちてきた。


 生温かでどろりとした感触に、山田は悲鳴を上げた。




「山田君、起きて。大丈夫?」


 肩を激しく揺すられて、山田は目を覚ました。


 さっきまで綿子といっしょにいた。姉の肩に手を掛けていたのに、手にしているのは文庫本だった。


 本を読んでるうちに眠ってしまったらしい。


 肩を揺すっている白を見上げた。


 山田は起き上がって、「大丈夫です」と安心させる為に言った。


「山田君、うなされてたよ?」


 白と山田は今回が初めての取材旅行だ。だから、山田が毎晩うなされているのを知らない。山田の精神状態を心配しているのだろう。


「大丈夫です。姉の夢を見ただけです」

「綿子さんの?」

「姉が夢に出てくるんです……」


 綿子の夢が恐ろしいわけではなかった。怯んで叫んでしまうのは、スプラッタが苦手なだけだ。それに綿子が夢に出てきて、直接自分に意思表示すること自体珍しい。


 綿子の気持ちが掴めなくて、それが不安を誘う。夢に出てきてまで何を伝えたいのだろう。


 綿子に恨まれている、と思えてならない。


 山田が青ざめて意気消沈しているのを見て、白が自分のバッグを引き寄せて、中から何かを取りだした。


「そうかぁ。これ飲むと安眠できるよ」


 山田の目の前に、安眠できる乳酸菌飲料を差し出した。山田は思わず受け取る。


「それ飲んで、もう一度眠ると良いよ」


 心配そうな白に、なんと言っていいか分からなくて、山田は曖昧に笑った。


 白の気遣いに、山田も肩の力が抜ける。


「ありがとうございます」


 乳酸菌飲料の蓋を取り、山田は飲み干した。すると、白が安心したように笑顔を浮かべた。


 もう一度布団に潜り込んで、山田は目を瞑る。


 白がカチリと枕元のライトを消す音がした。


 先ほど飲んだ乳酸菌飲料のおかげか、スッと眠りに落ちることができた。

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