御郷島へ渡る舟

藍上央理

御郷島へ渡る舟

プロローグ

第一話

 夢を見ている。これは夢なのだろう。


 波の音がする。打ち寄せては引いていく。


 潮の匂いが鼻を掠める。だから、ここが海なのだと分かった。


 波打ち際にたたずんでいるのか、足を濡らす冷たい海の温度を感じていた。足が踏みつけている地面は不安定だ。気を抜くとすぐにふらついてしまう。


 視線を上げると、空はとても暗くて、星も見えないし、月もない。


 暗闇の中、波の音に耳を澄ませていた。


 すると、静かな波の音に混ざって、少女の歌声が聞こえてくる。


 何人かの歌声が、暗闇の先から聞こえてくる。


 月は出ていない。だから光もない。波の音や潮の匂いからここが海だと分かる以外、岩場にいるのか、それともさざ波立つ海面に立っているのかすら分からない。


 それでも、目を凝らせば、何かが瞳に映るだろうと、暗闇を睨む。


 徐々に闇に目が慣れて、視線の先に薄ぼんやりと藍色に染まる人影が浮かび上がる。


 横一列に五人、いや六人か。とにかく少なくない人影が、それほど遠くない場所に立っていた。


 歌声は彼女ら——暗いのに何故かそう思った——から聞こえてくる。


 何を唄っているのか分からないけれど、短いフレーズを繰り返している。旋律だけがはっきりと耳朶を打つ。


 波の音と旋律が、ゆるりと辺りを支配している。


 このまま聞いていたいような気分になった。


 彼女らは、裾がちぎれた服を着ている。ワンピースなのか、それとも前開きのシャツなのか、とにかくボロボロの服を身につけている。


 服は見えるのに、首から上は闇に沈んだままだ。


 腕を前に回して、手のひらに何かを載せている。


 彼女らが、すっと手を前に伸ばし、手のひらの上の何かをポトリと落とした。


 ふんわりと甘酸っぱい香りが立つ。柑橘系の匂いだ。


 コロコロと丸い何かが転がってきて、足先にぶつかって止まった。


 何の疑問も抱かずに、足下に転がってきたものを、手に取った。


 波間に立っているはずなのに、手に取った丸いものは乾いている。強い柑橘系の匂いが鼻腔をくすぐる。


 果実は鮮やかな黄みを帯びている。薄闇の中、果実だけがはっきりと見えた。


 何の疑問もなく、手の中で果実を転がしてみる。匂いや感覚があるけれど、どこか現実離れしている。


 これは食べて欲しがっているように感じた。だから迷わず口を大きく開けて、皮にかぶりつこうとした途端、果実に小さな口が浮かび上がり、きゅっと口角を上げて、歯を見せた。


 ケラケラケラケラッ!


 果実が甲高く笑い出し、思わず果実を放り投げた。


 笑い続ける果実から目を離せない。一気にこれは怖い夢なのだと気付いた。


 唄はもう聞こえない。荒い波音と、耳障りな笑い声。


 冷たい汗が額に浮かぶ。叫びたくても声が出ない。


 困惑していると、突如闇が割けて、目の前に赤いリボンを結ぶセーラー服が現れた。


 肩から上は黒いクレヨンで塗りつぶされたように見えない。


 襟にかかる長い黒髪。膝丈のスカートから見える、華奢な白い膝小僧と伸びやかな足。


 黒い靴が、笑う果実を踏みつけて、そのままぐしゃりと潰した。


 潰れた果実から魚のはらわたがはみ出し、強烈な生臭い臭気が辺りを包む。


 吐き気を覚えてうずくまったとき、波の音に混ざって、何度も何度も名前を呼ぶ声が聞こえてきた。


(山田君……)

(山田君!)


 だれかが自分を呼んでいる。


 山田は目覚める為に、闇を見つめる目をさらに見開いた。




 眼球に太陽の日差しが突き刺さり、思わずまた目を閉じてしまう。


 明るすぎて死にそうだ。


 波の音は相変わらず聞こえ、冷たい潮風に乗ってかすかに潮の匂いがする。


 ぼんやりと空を見上げていると、山田の視界に、くしゃくしゃな髪の頭と、小柄な女性のシルエットが覆い被さってきた。


 眩しくて直視できないし、眼鏡がずれて、逆光で陰った二つのシルエットが一瞬誰か分からなかった。


「山田君、大丈夫?」


 女性が心配そうな声音で話しかけてくる。


「まだくらくらするなら横になっているほうがいいよ」


 優しくのんびりとした男性の声が聞こえる。


 記憶が混濁しているのと、後頭部が痛いのとで、めまいがしてくる。


 自分がどこにいるのか思い出す前に、女性が言った。


「みかん畑に来た途端、山田君、叫んでころんじゃって、頭打ったみたい」


 ぼんやりと、山田は思い出した。


 ここは、女性——三宅爽果みやけそうかの故郷、三宅村だ。


 福北ふくほく大学の准教授、民俗学者であるつくも匡介きょうすけとともに、準限界集落の漁村、三宅村を訪れたのだ。


 眼鏡をかけ直し、山田が上体を起こそうとするのを、大きな手が優しい手つきで押し止める。


「脳しんとうを起こしているかもしれないから無理に起きなくて良いよ」


 くしゃくしゃな髪の白が、心配そうに山田を見下ろした。


「先生、僕……」


 後頭部がズキズキして、思わず痛みのある場所に手を当てた。したたかに頭を打ったようだ。


「岩場じゃなくて良かった」


 爽果がほっとしたように呟いた。

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