第113話 理性崩壊の足音

「ノアっ」


 エリアは車の窓から身を乗り出して声をかけた。


「あれ、エリア。執事さんも、こんばんは」

「うん、こんばんは……じゃなくて、お姉ちゃんどうしたの⁉︎」

「あぁ、ルーカスさんにしごかれた反動で爆睡してるだけだよ」

「なんだ、よかったー……」


 エリアはハーッと息を吐いた。

 何かあったのかと思った。


 イーサンが車を路肩に寄せる。


「乗って」

「えっ、悪いよ」

「いいからいいから。ほら、後続来ちゃうかもしんないし」

「……わかった」


 ノアからお姉ちゃんを預かり、後部座席の真ん中に座らせる。

 起きる気配はない。すぐにエリアの肩にもたれかかってきた。


「本当に爆睡だね」

「すごいよね」


 ノアも乗り込み、マフラーを外した。

 水色の、お姉ちゃんが誕生日プレゼントとして彼にあげたものだ。


「よろしいですかな?」

「はい」


 イーサンが車を発進させる。


「すみません。ご迷惑をおかけして」

「それはこっちのセリフだよ。うちの姉が迷惑かけるね。師匠から連絡があったの?」

「ううん。ほら、前にシャルが風呂に入らないまま寝て風邪ひいちゃった事あったじゃん? それで心配になって、シャルがルーカスさんのもとで修行する時は毎回迎えにいく事にしたんだ」

「えっ、それ結構大変じゃない?」

「全然。僕のWMUダブリュー・エム・ユー行く日と大体被ってるから、帰りに拾うだけだし」

「大変そうに聞こえるけど……主にノアの体力的に。WMUでの修行もきついんじゃないの?」

「楽ではないけどね。シャルみたいにぶっ倒れるほどは追い込んでないよ」

「何してるの?」


 彼ほどの実力者が世界最高峰の魔法師たちに囲まれて何をしているのか、エリアは純粋に興味があった。


「対人戦闘の経験を積ませてもらってる……っていうのが一番適切かな」

「えっ、じゃあもう色々な人と戦ったり?」

「もそうだし、今はいろんなパターンを想定した訓練をさせてもらってるよ。今日も遠距離魔法なしって言われてたのに、いきなり割と近距離から撃たれたからね。いやぁ、あれはびっくりしたよ」

「……いいの? それ」


 ノアはあっけらかんと言ってのけるが、エリアは少々心配になった。


「全然いい。むしろ、どんとこいだよ。敵、特に異星人との戦いなら想定外の攻撃なんてザラだろうからね。これが結構楽しいんだ」

「変態だね。マゾだ」

「うん、自分でもちょっと思ってる」


 ノアが白い歯を見せた。

 本当に楽しんでいるようだ。

 本人が楽しいならいいか、とエリアは思う事にした。


「迎えが無理そうなら声かけてね。イーサンに行ってもらうから」

「えぇ、いつでもお申し付けください」

「はい。もし僕が急用などあったら、その時はお願いします」


 イーサンがお姉ちゃんを迎えにいく日は来ないだろうな、とエリアは確信した。


 間もなくして、お姉ちゃんの家に到着した。

 ノアは今日はそのまま泊まるようなので、送迎はここまでだ。


 結局、再びノアの背に乗せても、お姉ちゃんは薄っすらと目を開ける事すらしなかった。

 呼吸は安定しているため、心配する必要はないが。


「じゃあ、また明日ね」

「うん。今日はありがとう。執事さんもありがとうございました」

「いえいえ、シャーロット様をよろしくお願いいたします」

「はい。それじゃ、また明日。エリアも頑張ってね」

「……えぇ」


 笑顔で手を振り、ノアが慣れた手つきで家の鍵を開けた。

 すでに彼は、お姉ちゃんの家の合鍵を持っているのだ。


 完全に扉が閉まってから、車を出す。


「……イーサン、なんでも見透かされてるっていうのも、それはそれで鼻につくね」


 ノアは明らかに、エリアが一歩踏み出した事に気づいていた。


「はっはっ。ならばその想定、期待を超えて鼻を明かしてやれば良いのです」

「うまいいこと言うじゃん。よしっ、ギャフンと言わせてやろ。あー、やる気出てきた! ——いてっ」


 エリアは車内で拳を突き上げた。

 勢い余って天井を殴ってしまった。なかなか痛い。


「心意気は素晴らしいですが、休憩も、というより休憩こそが大事ですからな」

「わかってるよ。今日はもう修練はしない。グレースさんにも言われたしね」


 何かに没頭する事は素晴らしい事だが、長期的な目で見るなら一番優先すべきは休息だ——。

 それが彼女の最初の教えだった。


『なんて偉そうに言いつつ、私も三日ほど徹夜をする事もあるがな』


 彼女はそう言って笑っていた。

 詳しい年齢は聞いていないが、ルーカスは中年と言っていた。

 よくまだあの美貌、美肌を保っていられるものだ。


「ねえ、イーサン。やっぱり好きな事をしてると人間って老けないのかな」

「そうですな。嫌いな労働をしているより若々しさを保てるのは間違いないでしょうな」

「イーサンはテイラー家の執事の仕事、楽しい?」

「もちろんですとも。そうでなければ、今頃引退しております」

「えっ、て事は私が当主になってから辞めたら、私の下で働くのが楽しくなかったって事?」

「はっはっ。エリア様が当主になる頃にはもう、体の限界がきている事でしょう」

「ダメだよ。少なくとも私が引退するまでは働いてもらうからね」

「なかなかの無理難題をおっしゃいますな」


 エリアの無茶な要求に対して、イーサンは愉快そうに肩を揺らした。




◇ ◇ ◇




「ほらシャル、起きて」

「んー……」

「お風呂入らないと、前みたいに風邪ひいちゃうよ? 合宿行けなくなってもいいの?」

「んー……」


 ダメだこりゃ。完全に寝ぼけている。

 だって、まぶたなんてぴくりとも動いてないもん。


「お風呂、一緒に入る? 僕が洗ってあげようか?」

「うん……」

「僕が理性を抑えられないからダメ」


 彼女の裸、というより秘部を見た時が、僕とシャルが一つになる日だ。

 これは確信じゃない。もうそう決定してる、厳然たる事実だ。


 にしてもどうしようか。

 一緒に入る選択肢はなし。かといって無理やり風呂に放り込んでも危ない。


 ……もう、最終手段しかないか。


「シャル。ちょっと待っててね」

「うん……」


 温水でタオルを絞り、シャルの元に戻る。


「僕が体拭いてあげるから、大事なところは自分で拭いてよ。というか拭かせるからね」

「ん……」


 本当は風呂に入るべきだけど、それは明日の朝でもいいだろう。

 今はとにかく、眠ってしまっても問題ないくらいの環境を整える事が優先だ。


「ほら、腕あげて」

「う……ん」

「もう……」


 上着はすでに脱がせてあるため、シャツを脱がせるとすぐに下着があらわになった。

 相変わらず傷一つない、抜けるような白肌だ。

 なんか前にもこんなシチュエーションあったよな、と思いながら、背後から上半身を拭いていく。


 なるべく思考を明後日に飛ばしていたが、前回とは違い、ほぼ上半身裸になっているのはただの異性の友人ではなく彼女だ。

 その清楚ながらも色気を感じさせる肌が目と鼻の先にあるのに、何もしないでいられるはずもなかった。


 シャルの首筋に鼻を近づけ、息を吸う。

 いつもより、匂いに占める汗の割合が多い。それでも、まったく不快なものではなかった。

 むしろ、なんだかクセになりそうだ。


 視線は自然と脇に移っていた。

 しっかりと嗅いだ事はなかった。さすがに嫌がるだろうと思っていたからだ。


「ちょっとだけなら……いいよね?」


 誰にともなく言い訳を口にしてから、わずかにできている、腕と胴の隙間に鼻を近づける。

 ——あっ、これはやばいやつだ。

 理性の崩壊の足音が聞こえて、僕は慌てて鼻を離した。


 場所自体もそうだし、匂いもより官能的なものだった。

 多分もう一度しっかり嗅いでしまったら、出番を今か今かと待っている息子を戦場に送り込んでしまうこと間違いなしだ。


 ひたすらに素数を頭の中で唱えながら、太もも、膝、ふくらはぎ、そして足の指まで拭き終える。


「シャル、おーきーてー」


 僕はシャルの肩を掴んでゆすった。

 ん、という声が彼女から漏れるが、起きたのかはわからない。

 僕自身が目を瞑っているからだ。


 どうしてそんな事をしているのかって?

 答えは単純。揺れるシャルのシャルを見て理性が崩壊するのを防ぐためだよ。


 先程の一連の行為のせいで、だいぶ気分が高まってしまっている。

 今は馬鹿馬鹿しいと思うほど警戒してちょどいいくらいなんだよね、多分。


「……ノア君?」


 かすれた声が聞こえた。

 僕は手を止めた。


「あっ、起きた?」

「はい……」

「じゃあ、下着のところだけこのタオルで拭いて、パジャマに着替えちゃって。他の部分は拭いてあるから」

「わかりました……」


 依然として寝ぼけてはいるが、意思疎通はできている。

 これなら大丈夫そうだな。


「シャル、終わったー?」


 数分後、部屋の外から声をかける。返事がない。


「シャルー? ……入るよ」


 案の定、彼女はベッドの上で猫のように丸まって眠ってしまっていた。

 なんとか着替えまでは済ませたみたい。よかった。


 脱ぎ散らかされている下着は、視界に入った瞬間放置すると決めた。

 洗濯カゴに入れてから半日くらい放置するんだし、別にそのままでもいいよね。

 今僕がそれに触れてしまったらどうなるのか、なんて眠っているシャルの手を捻るより明らかだし。


「シャル、ちゃんと布団かけないと」


 すぅ、すぅ、という可愛らしい寝息の返事。


「しょうがないなぁ……」


 なんだか手間のかかる妹を持った気分になりながら、シャルの体を定位置まで運んで布団を被せる。

 僕はもうWMUでシャワーを済ませているから、あとは寝るだけだ。


 シャルの家には一組だけ敷布団があるから、ちゃっちゃと敷いてちゃっちゃと寝よう。

 そう思っていたのだが。


 ……ギュッ。


 布団を離れようとすると、シャルが僕の服の袖を摘んだ。


「シャル?」


 返事はないし、寝息にも変化はない。完全に無意識下の行動みたいだ。

 正直、力はさほど入っていないので、振り解く事は簡単だ——こんなにも愛おしいと感じなければ。


 彼女が無意識下で自分を求めてきた。

 こんな状況で振り払える彼氏なんている? いないよね。


 僕は自分にとって修羅しゅらの道である事を確信しながら、シャルと同衾どうきんする覚悟を決めた。


「お邪魔するよ、シャル」


 僕が布団に潜り込むと、シャルが嬉々としてすがりついてきた。

 胸に頬をこすりつけてくる。実に幸せそうな表情だ。

 

 ……明日くらいは好きにお菓子食べていいかな。というかシャルにパフェでも奢らせようかな。

 そんな現実逃避をしていたら、なんだかんだで僕も疲れていたようで、いつの間にか眠っていた。

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