第62話 マッサージ

「すぅ……すぅ……」


 ノアは可愛らしい寝息を立て、無防備な寝顔をさらけ出していた。

 すっかり寝入ってしまったようだ。


 変に刺激をして起こしてしまっても申し訳ないため、シャーロットはマッサージを中断した。

 ノアの部屋には興味深そうな本がいくつもあるし、自由に読んでいいと言われていたが、なんとなく読む気にはならなかった。


 風呂も入っていない状態でベッドに座るのは申し訳ないため、普段はノアが使っている椅子に腰掛ける。


「はあ……」


 思わず、ため息がこぼれ落ちる。

 今日、ノアが泊めてくれる事にもちろん不満はない。

 しかし、逆に今日についてしかノアが言及しなかった事に、シャーロットは不安を覚えていた。


 検査が終わるまで毎日泊めさせろ、などと厚かましいお願いをする気は毛頭ない。

 しかし、ノアの人柄を考えると、その提案をしてこないのはいささか違和感があった。


 深い意図はないのかもしれない。遠慮したのかもしれない、

 もしくは、ただ言わなかっただけなのかもしれない。

 けれど、明日が十二月二十四日、クリスマスイヴである事が気にかかっていた。


 ノアは自らの抱える秘密について、イヴに全て話すと明言してくれている。

 その事と、明日以降のシャーロットとの過ごし方についての言及をしなかった事が、シャーロットにはどうにも無関係のようには思えなかった。


 もしかして、ノアはシャーロットが思っている以上に深刻な事情を抱えていて、真実を話すと同時に関係を断とうとしているのではないか——、


(いえ、それはさすがに考えすぎでしょう)


 シャーロットはネガティヴ思考を脱却するために、ギャグ要素の強い小説を手に取った。

 くだらない掛け合いの数々を読んでいるうちに、少しだけ心が軽くなった。




「ごめん、寝ちゃってた……」


 ノアが目を覚ました時、時刻は午後五時を回るところだった。

 彼が寝落ちしたのが三時前だったから、あれから二時間も経っていたのか。

 全然気がつかなかった。


「いえ、構いません。先程も言いましたが、ここはノア君の自室なのですから」

「うん……シャルは本を読んでいたの?」

「はい、これを」


 表紙をノアに向ける。


「あぁ、それ。くだらなくて面白いよね」

「はい……ふわぁ」


 あくびが漏れてしまう。


「疲れた?」

「少しだけ。ずっと同じ姿勢で読んでいたので……」


 シャーロットは腰を揉んだ。


「じゃあさ、今度は僕がマッサージしてあげるよ」

「よろしいのですか?」

「さっきやってもらったしね」

「では、お願いします」


 以前に一度だけ肩を揉んでもらった事があるが、ノアはとてもマッサージがうまかった。

 たまに義母のカミラにやっているそうなので、その賜物たまものだろうか。


 シャーロットがベッドにうつ伏せになり、その上にノアがまたがる。

 先程とは逆の体勢だ。


「じゃあ、やるよ。痛かったら言ってね」

「はい……あっ」


 ノアの指が首元を押し込むと同時に、シャーロットは声を上げてしまった。


「あっ、ごめん。痛かった?」

「あぁ、いえ、気持ちよくて……」

「そ、そっか。じゃあ、続けるよ」

「はい……ん……あっ……」


 以前よりも凝っていたのか、シャーロットは刺激を加えられるたびに声を漏らしてしまった。


「ちょ、シャル。声抑えてっ」

「む、無理ですっ。気持ちよくて、あぁっ」


 シャーロットは、手で口を覆って声を押し殺した。


「ん……の、ノア君」

「うん、何?」

「その、腰の方もやってもらっていいですか? 結構痛くて……」

「あぁ、うん。いいよ」

「ありがとうございます……あっ、はんっ! そこ、いいですっ……!」


 シャーロットは気づいていなかった。

 自分が、そういう行為だと思われても仕方のないような声を出している事に。




 ノアからマッサージの終了を宣告される頃には、体はだいぶほぐれていた。


「はあ〜……気持ちよかったです……」


 シャーロットは満足げに呟いてから、ノアの方を振り返る。

 お礼を言おうとしたのだが、彼はなぜかシャーロットに背を向けていた。


「ノア君? どうし——」


 そこで、シャーロットははたと気づいてしまった。

 ノアが脈絡もなく自分に背中を向ける意味を。

 ——彼は、シャーロットに対して欲情してしまったのだ。


「えっ、な、なぜですっ⁉︎」


 シャーロットには、ノアがなぜそういう状態になってしまったのか、皆目見当がつかなかった。


「……今回は本当にシャルが悪いと思う。マッサージされている最中の自分を思い出してみてよ」

「マッサージされている最中……?」


『ん……あっ……』

『む、無理ですっ。気持ちよくて、あぁっ』

『あっ、はんっ! そこ、いいですっ……!』


「っ〜!」


 今更ながらに、自分がそういう行為の最中であるかのような声を上げていた事に気づき、シャーロットは羞恥に悶えた。


「あ、あの、申し訳ありません!」

「僕の理性を試そうとしてたわけじゃないよね?」

「ち、違います! あのっ、本当にわざとではなくてっ、その、ノア君のマッサージの力加減が絶妙でっ……!」

「わかってるよ。シャルはそういう事はしないって」


 ノアの含み笑いが聞こえた。


「か、揶揄からかったのですか⁉︎」


 シャーロットは赤面したまま抗議した。


「軽い仕返しだよ。こっちは善意でやってたんだからね」

「す、すみません……」


 シャーロットはうつむいた。


「アハハ、全然いいよ」


 頭をポンポンと叩かれる。

 シャーロットは彼の顔よりもまず先に、股間に目を向けてしまった。


「大丈夫だよ、もう落ち着いたから。あと、あんまり凝視ぎょうししないでもらっていい? 恥ずかしいから」

「あっ、す、すみません!」


 シャーロットが慌てて視線を背けると、ノアがまたアハハ、と笑った。

 彼はベッドから降りた。


「トイレ行ってくるね」

「あっ、はい」


 ノアが部屋から出ていく。

 それから数分が経過しても、彼は戻ってこなかった。


『ノア、ナニしてきたの?』

『えっ、おしっこだけど』

『本当に〜?』

『何を疑っているのさ』

『ナニだけど』

『んな訳ないでしょ』


 不意に、過去のノアとエリアの会話が脳内で再生された。


「い、いえいえ、まさかそんな事はないですよね⁉︎」


 男子が興奮した時にそういう事をするのは、知識としては知っている。

 いやでも、まさかこのタイミングでしている事はないのではないか。


「いえ、ですがここはノア君の家ですし、別にそういう事をしていてもいい……って、私は何を考えているのですかっ!」


 シャーロットは熱を持った両頬を抑えてベッドに倒れ込んだ。


「……エリアのばか」


 九分九厘八つ当たりだが、妹への文句を口にせずにはいられなかった。




◇ ◇ ◇




「へっくしょん!」


 エリアは盛大なくしゃみをした。


「エリア様、大丈夫ですか?」

「うん、大丈夫」


 ちょうど姿を見せた執事のイーサンに対し、自分は大丈夫だと指で丸を作って見せる。


「どうせ、お姉ちゃんとノアが私の話でもしているんだよ。いいなぁ、私も二人と過ごしたかった〜」


 エリアは現在、テイラー家次期当主としての仕事が立て込んでいた。

 そのせいで、お姉ちゃんの病院の付き添いにも行けなかったのだ。


「それは難しいですな。明日もこなさなければならない仕事がたくさんあるゆえ」

「うん。いや、まあ、明日はどうせ暇でも二人には会わないけどさ。ノアがお姉ちゃんに告白する大事な日だから」


 いいなぁ、とエリアは呟いた。

 ちなみに、彼女はノアが様々な秘密を抱えている事を知らない。


「エリア様、大丈夫ですか?」


 イーサンの問いかけは抽象的なものだったが、その意図は明確だった。


「うん、もう大丈夫。ある程度の踏ん切りはついたしね」


 手に入らないものをいくら悔やんでも仕方ない。

 切り替えていかないと、手に入るものも逃してしまう。


「それならば安心です。案外、近くに良いご縁が転がっていたりもするものですからな」

「そうかなぁ」


 一番身近な男子といえばテオだが……、


(いや、あれはないかな)


 仲は悪くないし、いい奴だとも思うけど、彼と愛し合っている自分は想像できない。

 恋人というより、姉弟に近い関係性だろう。


「あー、王子様でも湧いて出てくれないかなぁ……って、そんな事はいいとして。イーサン、頼んでいたのは調べてくれた?」

「はい。その報告に参った次第です」

「そっか、ありがとう。どうだった? 【統一とういつ】の使用者のその後は」

「その多くが、何事もなく無事に回復しています。特に、シャーロット様と同じように毎日検査を行った事例では、死亡者は出ていません。後遺症が残った例もごくまれです。さらには、一週間以上が経過した後に体調に異変を起こした例もありませんでした」

「そっかー……」


 エリアは安堵の息を吐いた。

 絶対安心というわけではないが、現在の体制であれば、お姉ちゃんの安全はほとんど保証されているようなものなのだ。


「ひとまずは安心……かな。わざわざありがとね、イーサン」

「いえ、エリア様もシャーロット様も私の主人あるじなのですから。この程度の事は当然でございます」

「……うん、ありがとう」


 執事にもう一度お礼を述べてから、エリアは仕事に戻った。

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