第35話 シャーロット、本家に呼び出される
心配そうな表情を浮かべたまま、ノアは帰っていった。
迷惑はかけられないし、立場上、彼を付き合わせる事はできない。
心労をかけてしまって申し訳ないなと思う反面、今回ばかりは仕方ない、ともシャーロットは思った。
何せ、半ば強制的に家を追い出されて一人暮らしを始めてからは、実家とは——というよりエリアとイーサン以外とは——絶縁状態だったのだ。
ここにきての突然の呼び出し。
シャーロットの胸中は不安と恐怖で埋め尽くされていた。
「どんな要件なのですか?」
運転席のイーサンに尋ねる。
「申し訳ありませんが、私も存じ上げないのです。お連れしろ、としか命じられておりませぬ」
「そうですか……」
イーサンは長年テイラー家を支えており、シャーロットの父、つまりはテイラー家の当主であるオリバーからの信頼も厚い。
そんな彼にも言えないという事は、よほど重要な案件である可能性が高い。
シャーロットは憂いを浮かべた表情で、窓の外に目を向けた。
「到着いたしました」
「ありがとうございます」
イーサンに促され、車を降りる。
テイラー家の屋敷は、奥ゆかしいと世間でもっぱら評判だ。
確かに、暗めの色を基調としてどっしりと構えられた屋敷には
しかし、シャーロットは昔から実家の雰囲気が嫌いだった。
奥ゆかしさなどの静かなる美よりも先に、孤独を感じるからだ。
シャーロットは、ずっと孤独とともに生きてきた。
暴走障害を発症してから、父との間には事務的な会話のみが交わされるようになり、母に至ってはシャーロットの育児を全て使用人に押し付け、接触すらを拒んだ。
近づこうとすれば、手を上げられた。
——私に近づかないで!
——エリアだけ生まれてくればよかったのに!
そう言われた時は、さすがに傷ついた。
思い出すだけでも涙が込み上げてくる。
シャーロットの育児を任された使用人やエリアはいつも気にかけてくれたが、それでも実の両親に見放されるというのは精神的に
一時期はかなり精神的にも
それが原因でエリアがいじめられている事にも気付けず、結果的に全ての元凶である暴走障害が悪化してしまったのだから、何とも皮肉な話だ。
館内に足を踏み入れた瞬間、足が震えた。
嫌だ、怖い。行きたくない。
でも、行かなければならない。
「大丈夫ですか?」
「はい……大丈夫です」
心配そうな表情を浮かべるイーサンに、口の端を吊り上げて答える。
とても大丈夫でない事はわかっただろうが、彼は何も言わずに歩き出した。
その歩幅は、先程よりも少しだけ小さかった。
長い廊下を歩く。
もう何十年も訪れていないような気がするが、実際には一年ほど前まではここで暮らしていたのだ。
当然、すれ違うほとんどの人間は顔馴染みだ。
とは言っても、そのほとんどは当主に見捨てられたシャーロットの事を邪魔者扱いしていたが。
陰口なら数えきれないほど聞いた。
何でこいつの世話なんか、とわざと聞こえるように言われた事もある。
今も、悪意のある視線がいくつも自分に突き刺さっているのがわかる。
何様だと睨み返したいのに、
勘当されたわけではないため、立場としては自分の方が上のはずなのに、彼らの視線が怖い。
情けないな、とシャーロットは
イーサンに連れられてたどり着いた部屋は、暴走障害を発症して以降はめっきり訪れる事の減った部屋——当主室だ。
「シャーロットです」
ノックをして名乗ると、「入りなさい」という柔らかな、しかし感情のこもっていないどこか冷たさすら感じさせる男の声。
父のオリバーだ。
「失礼しま——」
足を踏み入れようとして、シャーロットは固まった。
どうして、
室内にいたのは、オリバーだけではなかった。
彼の横には、シャーロットやエリアと同じ色の髪と瞳を持つ女性——母のギアンナが座っていた。
目線が合った瞬間、彼女は顔を歪ませた。
自分への憎悪を隠そうともしない実の母親を前に、シャーロットは足がすくんでしまった。
「どうした? 入りなさい」
「は、はい」
オリバーに促され、震える足を何とか動かし、用意された座布団に腰を下ろす。
重苦しい雰囲気。息が詰まりそうだ。
「こんな時間に呼び出してすまなかったね」
「いえ……」
たった二文字。それだけを口にするのも緊張した。
何を言われるのか。さすがに勘当ではないだろう。
そんな予想をしていたシャーロットにとって、オリバーが持ち出した話は、想定も想像もしていないものだった。
「早速本題に入ろう。ブラウン家が、君と向こうの長男であるジェームズ君との婚約を申し込んできた」
「……えっ?」
脳がフリーズしてしまう。
……婚約? 私が、ジェームズさんと?
「ジェームズ君とはクラスメートだろう? 彼も賛同しているらしいが、どうする?」
「しょ、少々お待ちください。なぜそんなお話が?」
暴走障害については伏せられているが、シャーロットが干されているのは貴族界では周知の事実だ。
ジェームズが一度言い寄ってきた事を踏まえてもなお、普通は縁談の申し込みなど来るはずがないと言い切れた。
「君の定期テストの成績を見て、ブラウン家の当主であるムハンマド氏が決めたそうだ」
「な、なるほど……」
「どんなに汚点があっても成績が良かったからと囲い込もうとしてくるのは、さすがは実力主義のブラウン家といったところね」
ギアンナが皮肉げに口元を歪めた。
「どうする? 強制ではないが、私は君のためにも受けていい話だと思っている」
「エリアならともかく、あなたにブラウン家ほどの家から縁談を申し込まれる機会など、二度と訪れないわ。ぜひ受けなさい」
父は遠回しに、母は直接的に縁談を受諾するよう圧をかけてくる。
当然だろう。
策略のテイラー家に対して、ブラウン家は実力こそが正義だ。
両家の影響力を発揮できる領域は異なるため、協力体制を結べればばテイラー家の更なる発展につながる。
昔、エリアとジェームズの婚約を画策していたが、エリアは素の戦闘力が低いために断念した、というのを噂程度に聞いた事がある。
「ブラウン家は我が家と並ぶ名門だ。そこに嫁入りする事になれば、君の生活は安泰だろう」
「それに、ブラウン家との繋がりは将来のテイラー家、ひいてはエリアのためにも必要よ」
両親がさらに言葉を重ねてくる。
シャーロットの本心としては、すぐにでも断りたかった。
エリアには申し訳ないが、ジェームズの性格が良くない事は知っているし、何より彼と婚約してしまったら、ノアとの関係が終わってしまう。
それだけは絶対に嫌だ。
——それなのに、言葉が出てこない。
両親に逆らう、反対の意見を述べる。
中学三年生の子供にとっては当たり前であろうその行為が、シャーロットにとっては身の毛がよだつほどに恐ろしかった。
しかし、シャーロットは一つの活路を見出した。
ジェームズはアローラと交際している。
アローラの実家であるスミス家は影響力はまだまだ小さいが、最近力をつけてきている新興勢力だ。
テイラー家としても敵対はしたくないはず。
その事をシャーロットが指摘すると、
「あぁ、スミス家の長女か。もうじき別れるそうだ。だから問題ないよ」
二人の仲が険悪だという噂は学校で耳にしていた。
本当だったのか。
(このままでは、本当にノア君との将来がなくなってしまう……!)
彼に振られるならまだしも、こんな形で可能性を閉ざしたくない。
そう思うのに、喉から漏れるのは空気ばかり。
まるで、声の出し方を忘れてしまったかのようだ。
「それで、どうなんだい? 黙っていてもわからないよ。何か、不都合でもあるのかい?」
オリバーが尋ねてくる。
チャンスだ。切り出すならここしかない。
絶対に断らないと。
「実は——」
やっとの思いで口を開きかけて、シャーロットは固まった。
ギアンナが、射殺さんばかりにシャーロットを睨みつけていた。
拒否するなんて絶対に許さないというその視線を前に、再び声が出なくなってしまう。
——無理かもしれない。
そのとき初めて、シャーロットの中に諦めの気持ちが生まれた。
そして同時に思う。
もし自分がここで断れば、ノアに迷惑がかかるのではないかと。
断りたければ、ノアの名を出す必要がある。
だが、ギアンナにその存在が知られれるのはまずい。
最悪、縁談を成立させるためにノアに手を出しかねない。
彼女はそういう人だ。
(本当にお付き合いしているわけでもないのですし、私のわがままで彼に迷惑をかける事など、あっていいはずがありませんよね)
——だから、仕方ないのだ。
貴族のドロドロした関係に彼を巻き込まないためには、自分がここで受け入れるしかない。
そう。これは仕方がなかった。
貴族として生まれた以上、好きな人と結ばれるとは限らない。
そういう運命だったのだ。
「実は?」
「……いえ、何でもありません」
シャーロットが首を横に振ると、ギアンナからの圧が収まった。
視界の隅で、彼女は満足げに笑った。
「では、何も不都合がないようだから、縁談はこのまま進めるとしよう。夜遅くにすまなかったね。もう帰っていいよ」
父と母が立ち上がった。
「っ……!」
シャーロットは視線を下に向けたまま、奥歯を噛みしめた。
ノアの笑顔が、ぼんやりと思い描いていた彼との未来図が、ガラガラと音を立てて崩れ落ちていく。
一筋の透明な雫が、シャーロットの元から離れて地面に落下した。
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