第34話 一日デート② 一緒に料理

 シャルの家に帰る頃には六時を回っていたため、僕らは休む間もなく料理に取り掛かった。


「それじゃあ早速始めるけど、オムライスでいいんだよね?」

「はいっ」


 シャルがいつもよりも大きな声で頷いた。

 エプロンを着てやる気に満ちている彼女は大変可愛らしい。


「じゃあまずはチキンライスを作ろうか。玉ねぎとにんじんを——」


 まともな料理は初めてだというシャルの手際は、お世辞にも良いものとは言えなかった。

 包丁さばきが危なっかしい。

 色々とアドバイスをしたり、実際にやってみせたりもしたが、いつ手を切るかとヒヤヒヤさせられる。


 特にシャルが苦戦したのは、サラダのためのカボチャだ。

 他の材料に比べても大きくて固いからだろう。


 僕はその背中に声をかけた。


「シャル、無理しなくてもいいよ。切るのは僕がやっておくから」


 それはあくまで、シャルが怪我しないようにという気遣いからの言葉だったのだが、


「む、無理ではありませんっ」


 シャルはなぜか意固地になってしまった。


「このくらい——いっ⁉︎」

「シャル⁉︎」


 鋭い悲鳴が聞こえて、僕はすっ飛んでいった。

 幸い、手の先を少し切っただけだった。

 彼女自身の治癒魔法ですぐに傷は塞がった。


「はぁ、焦った……シャル」


 僕は厳しい口調でその名を呼んだ。

 肩をびくりと震わせたシャルは、オドオドとこちらに視線を向けてくる。


「包丁は、一歩間違えれば凶器にもなる危険なものなんだ。下手すれば指を失っていた可能性もあったし、そうなれば治癒魔法でも完治できないかもしれない。くれぐれも気をつけて」

「はい、ごめんなさい……」


 シャルがか細い声で謝罪を口にした。

 その目には薄っすらと雫が溜まっている。


 彼女は唇を噛みしめ、必死に泣くのを堪えていた。

 どうやら、しっかり反省したみたいだな。


「ま、取りあえずは大事にならなくてよかった。過ぎた事をぐちぐち言っても仕方ないし、次から気をつけてよ」

「はい……教えていただいている立場なのに、言う事を聞かなくてごめんなさい。もう包丁は触りません……」


 シャルがズズっと鼻をすすり、肩を落として包丁から離れた。


「あっ、いや、そこまでしなくてもいいんだけど」


 やばい。思った以上に傷つけちゃった。

 多分これ、うやむやにしちゃダメなやつだ。


「そうだ、シャル。それなら一緒に切ってみようか」

「えっ?」


 シャルが勢いよく顔を上げた。

 その表情には驚きと不安が浮かんでいる。


「ですが——」

「大丈夫。手取り足取り教えるから。僕にかかれば誰だってちょちょいのちょいで上手くなるからさ。ねっ?」

「……はいっ」


 少しおどけてみせると、シャルは涙を浮かべつつも笑顔を見せた。

 うん。やっぱりこっちがいいな。

 いじめたくなる時は多々あるけど、基本的には好きな子には笑っていて欲しいものだ。


「それじゃ、包丁を持って……うん、握り方は完璧だね。大丈夫。怖がる必要はないよ」


 包丁を握るシャルの手は、かすかに震えていた。

 上から包むように自分のそれを重ねる。

 互いに利き手が右であるため、必然的に背後から覆い被さる形になる。


 それだけでも十分問題が発生しかねない体勢なのに、甘さの中に少し酸っぱさの混じった匂いが鼻腔をくすぐった。

 シャル本来のものと汗の匂いが融合したそれは、僕の性的興奮をき立てるには十分すぎた。

 やばい。これは誤算だ。


「ノア君?」


 シャルが不思議そうに見上げてくる。


「あっ、な、何でもないよ」


 だめだ。気を逸らしている場合じゃない。

 シャルに包丁を使わせるんだ。

 余計な事は考えるな。


「よしっ、やろうか」

「はい」

「左手はそう、そこに置いて。刃の先に指が来ないようにね。包丁は真下に下ろすというよりは、押して引く感じでやるといいよ。こんなふうに」

「おー」


 手を添えつつ実際にやってみせると、シャルが感嘆の声を上げた。

 初めはされるがままだったシャルだが、徐々に自らの手で包丁を扱い始めた。


 ある程度慣れてきたところで、僕は言った。


「いいじゃん、慣れてきたね。そろそろ一人でやってみる?」


 正直なところ、色々と我慢の限界が近づいていた。


「あっ……その、もう少しだけ手を添えておいていただけると助かります」


 マジか、どうしよう。


(でも、さっき怪我したばっかだし、手取り足取り教えるって言っちゃったしなー……)


 迷った結果、僕は了承した。


「わかった」

「ありがとうございます」


 シャルがホッと息を吐いた。

 最初に比べ、その手つきはだいぶ上達していた。

 苦手意識が成長を阻害していたという側面もあったのかもしれない。


 それ自体は喜ばしい事なのだが、危なっかしさがなくなった事により、僕の心に余裕が生まれてしまった。

 添えているだけの手に全神経を集中させるというのは難しく、どうしてもシャルが動くたびに漂ってくる彼女の匂いや、白いうなじに意識がいってしまう。


 特定の場所に血が集まっていくのがわかる。


(これ以上はまずい)


 そう思ってシャルから離れようとした時、「できました!」とシャルが歓喜の声を上げた。


「お疲れさまー」


 僕は二重の意味で安堵の息を吐き、シャルから離れた。


「教えていただきありがとうございます。次は何をしますか?」

「あっ、うん。ごめん。ちょっとそのままで待ってて」


 すっかりやる気を取り戻したシャルを手で制して、僕は後ろを向いた。

 取りあえずはたかぶりをしずめなければ。


 目を閉じて、適当な数字で暗算を行う。


「——キャッ」


 その音量は、決して大きくはなかった。

 しかし、聞こえないふりができるほど小さくもなかった。


 おそるおそる振り返ると、両手で顔を覆っているシャルがいた。

 指の隙間から覗く肌と、髪の間に見え隠れする耳は、真っ赤に染まっていた。


 その立ち位置は、先程よりも少しだけ僕に近づいていた。

 何が起きたのかは考えるまでもない。

 シャルは、僕の張った状態のテントを見てしまったのだ。


 最悪だ。どうする、誤魔化すか?

 いや、無理だ。誤魔化しようがない。

 正直に謝るしかない。


「あの、シャル、本当にごめん」


 僕は腰を直角に折り曲げた。

 焦りで昂りはすっかり収まったため、前のように正座をする必要はない。


「さっきの体勢は男子的にちょっとキツくて……いや、これは言い訳だね。こうなる前にやめればよかった。本当、ごめん。不快な気分にさせちゃって」

「あ、謝らないで、顔を上げてくださいっ」


 見なくても、シャルがあわあわしているのはわかった。

 僕はそろそろと顔を上げた。

 恥ずかしさと申し訳なさで、シャルの顔を直視できない。


「ノア君は隠そうとしてくれていたのに私が見てしまったわけですし、男の子なら仕方のない事だともわかっています。そもそも私も考えが足らなかったですし、それに、ああやって教えてくださったのも、私を気遣ってのものなのでしょう?」

「まぁ……君が思った以上に落ち込んじゃってたからね」


 僕が苦笑すると、シャルが恥ずかしそうに視線を逸らした。


「あれは、その……意固地になって失敗して、嫌われてしまったのではないかと」

「まさか。そんな事で嫌いにならないよ」

「でも、これまでにないほど口調も厳しかったですし」


 シャルの口調はねた子供のようだ。


「そりゃ、心配だからね。それに、シャル自身が言ったように意固地になっていたから、余計にキツく言っとかなきゃなって思って。何であんなにこだわってたの?」


 意地を張った理由を尋ねると、シャルはバツの悪そうな表情で話し始めた。


「……これは完全に私の心が狭いだけなのですが、ノア君が無理しなくていいよと言ってくださった際に、お前じゃ無理だよって言われた気がしてしまって……それでムキになってしまいました」

「えっ、それはごめん」


 マジか。そんなふうに聞こえちゃってたのか。


「全然そんな事を言ったつもりじゃなかった」

「わかっています。ノア君がそんな人じゃないという事は。そういうふうに感じてしまう私が悪いんです」

「いや、僕の伝え方が悪かったよ。言葉って、どういう意図で伝えたかよりも、どういう意図で伝わったかの方が大事だからさ。今度から気をつけるね。あと、ありがと。正直に言ってくれて」


 僕は感謝の念を込めて笑いかけた。

 シャルは目を見開いた後、なぜか俯いてしまった。


「シャル?」

「……それはずるいです」

「おっと」


 頭から突進してきた——というより胸に頭突きをしてきた——シャルを受け止める。

 髪の毛の間から覗く耳は、少し赤みがかっていた。


「どうしてそんなに心が広いのですか? 私がより狭量に見えてしまいます」

「シャルのどこが狭量なのさ」

「ノア君の前だとすぐにわがままを言うし、情緒不安定になります」

「いいじゃん。僕が前に我慢するなって言ったんだし。これからも正直でいてくれると嬉しい」

「そういうところですよ」

「痛い痛い」


 脇腹をつねられた。なぜだ。

 腕の中で、シャルがふふ、と笑った。


「でも、私にそう言ってくださるのなら、ノア君も正直になってくださいね。その……男の子的に辛いのとかも、言ってくだされば気をつけますから」

「……嫌じゃないの?」

「そりゃ、知らない人であったり、いくら知人でも年がら年中そういう目で見られるのは嫌ですが、ノア君はそうではないですし、私が嫌がる事もしない人だと信じていますから。女の子として見てくれているのだな、くらいにしか思いませんよ」

「そっか、ありがとう。やっぱりシャルは心が広いね」

「ノア君が広いから、ですよ」


 嬉しい事を言ってくれるものだ。


「じゃあ、その、もし危なそうだったら言うから。いや、やっぱり言うのは恥ずかしいから、さりげなく距離を取るから察して」

「難しいですね」


 シャルがくすくすと笑った。


「大丈夫。それ以外の理由でいきなり距離を取る事はないから」

「それなら安心です」


 シャルが安心したように微笑んだ。




 それからは特に問題が起きる事もなく、無事にオムライスは完成した。

 シャルの卵載せは二つとも失敗してしまったが、そんなのは可愛いものだ。

 

 シャルが崩れかけの卵にケチャップで「ノア」と書いてくれたので、お返しに花丸を描く。


「上手ですね、花丸」

「でしょ? 試験と料理、どっちも頑張っていたからね」

「ふふ、ありがとうございます。今度は私も何か捻ったものを描きますね」

「それは楽しみだな。じゃあ、食べよっか」

「はい」


 僕らは顔を見合わせ、同時に「いただきます」と手を合わせた。




「美味しかったねー……」

「そうですね……」


 無事に洗い物も済ませ、僕らはリビングのソファーに体を投げ出してグータラしていた。


「今日はなかなか疲れましたね。結構歩き回りましたし、運動もして……」

「そうだね……明日、久しぶりに筋肉痛になりそう」

「腕とふくらはぎがパンパンです」

「ね」

「すみません。ノア君はこれからお帰りにならないといけないのに、無理をさせてしまって」

「シャルが謝る事じゃないよ。僕も楽しんでいたんだから」

「料理も、色々とご迷惑をおかけしました……また、教えていただいてもよろしいですか?」

「もちろん」


 僕が頷き、シャルがパッと顔を輝かせた、その時。

 呼び鈴が鳴った。


「ノア君はここで待っていてください」


 そう告げて、シャルが玄関に出ていく。

 中身まではわからないが、聞いた事のある声が聞こえてきた。

 テイラー家の執事さんだ。

 エリアとシャルの送り迎えをしている人で、確か名前はイーサンと言ったはず。

 ……嫌な予感がした。


 しばらく会話をして、シャルが戻ってくる。

 その表情を見れば、彼女にとってよくない用事である事は明白だった。


「申し訳ありませんが、ノア君にはお帰りいただいてよろしいでしょうか?」

「えっ? うん、わかった」


 おそらく、テイラー家としての問題だ。

 部外者である僕が立ち入る権利はない。

 それでも、一つだけ聞いておきたかった。


「……大丈夫なの?」

「わかりません。テイラー家当主であるお父様から、呼び出されました」


 そう淡々と告げるシャルの顔には、隠しきれない不安と緊張が浮かんでいた。

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