第17話 無防備なシャーロット
「ノア君」
四時間目の前、アッシャーが話しかけてきた。
シャルはいない。受ける授業が違うからだ。
「どうしたの? アッシャー」
僕は肩の力を抜いて応対した。
この少年が善人である事は知っている。
「レヴィ君が
「どうして?」
「レヴィ君はここ最近、君に対してフラストレーションを溜めているようだったし、シャーロットさんがイザベラさんを牽制していたから。レヴィ君とイザベラさんはよく一緒に悪さをしていたから、何かあったのかなって」
それらの情報だけで真実まで辿り着いたのか。
性格だけじゃなくて頭もいいな、アッシャー。
「あったにはあったけど、気にしないでいいよ。もう解決したし、アッシャーも言ったようにシャルも牽制してくれたからさ」
「……本当に付き合い始めたんだね」
アッシャーがしみじみと言った。
僕がシャルと呼んだからだろう。
「うん。意外だった?」
「意外か意外じゃないかで言えば、意外だったよ。でも、二人とも本が好きみたいだし、お似合いだと思う」
「ありがとう」
お世辞でも、シャルのような美少女とお似合いと言ってもらえるのは素直に嬉しい。
「ノア君。その、困った事があったら言ってね? 力になれるかはわからないけど……」
「シャルとの関係について?」
「えっ? あっ、いや、違うよ。俺、恋愛経験皆無だし」
アッシャーがアワアワと否定した。
僕は思わず笑ってしまった。
「わかってるよ。気遣ってくれてありがとう」
真面目に感謝を伝えると、アッシャーは不満げな表情を浮かべつつうなずいた。
——昼休み。
生徒会室に向かうと、シャルの姿はあったが、エリアはいなかった。
そもそも以前から、彼女は来たり来なかったりらしい。
最近は仕事が立て込んでいたから毎日来ていただけ、という事だった。
「それに、付き合いたてのカップルを邪魔する女として見られるのは嫌だと言っていました」
「なるほど。確かに周りからはそう見えるのか。ごめんね、最近せっかくの二人の時間を邪魔しちゃってる」
「そこはお気になさらず。私もエリアも納得していますし、会おうと思えば会えるのですから。さっ、ちゃっちゃと食べてしまいましょう」
シャルが弁当を広げる。
中身はシンプルだ。
初めは名門テイラー家の長女にしては質素だなと違和感を覚えていたが、彼女が一人暮らしをしていると聞いて納得した。
女の子は特に、朝の準備に時間がかかる。
自分で凝った弁当を作る暇などないだろう。
僕も手作り弁当だ。
最初は義理の両親に迷惑をかけたくないという義務感だったが、最近では料理にハマってしまい、我ながらなかなか凝った仕上がりになっている。
時々雑談を挟みつつ、弁当を平らげていく。
「そういえばシャル、ありがとね」
シャルが弁当を片付ける手を止めて、目をぱちくりさせた。
「何がですか?」
「二時間目の後のやつだよ。シャルの牽制は何よりも効果的だったと思う。身を削ってくれて本当にありがとう」
「身を削るなんて大袈裟ですよ。ほとんど本心でしたし……それに、巡り巡って私のためにもなる事ですから」
「いや、それでも明らかに僕の方が恩恵を受けているよ。ごめんね、こっちは何もしてあげられてなくて。この借りはいつか必ず返すから」
「何もしていないなんて事はありませんよ。暴走障害の事を知った上でそばにいて下さっているだけですごく嬉しいですし、救われていますから。本当に」
シャルが目を細め、口元をへにゃりと緩めた。
思わず見惚れてしまうほど、自然で綺麗な笑みだった。
「それに、貸し借りなどという言い方はやめませんか。偽カップル以前に友人なのですから、お互い困っている時に助け合えればそれでいいのでは?」
「……そうだね」
何気ない言葉から、確かな信頼が伝わってきた。
頬の内側を噛んで、ニヤけそうになるのを必死に堪える。
「お互い気楽にいきましょう。それでは早速この本について——」
「——の前に、この仕事だけやっちゃうよ」
「……誤魔化せると思ったのに」
シャルが唇を尖らせた。
子供っぽい仕草に思わず笑ってしまう。
「溜めておくと後で面倒になるから、今やっちゃおうよ」
「むむ……ノア君。生徒会に入ってお堅くなりましたね」
「今まで見せる機会がなかっただけで、僕は意外とお堅いよ。ほらこれ」
書類の一部を差し出せば、シャルは渋々といった様子で受け取った。
僕はソファーに座った。
月日が経つうちに自然と定位置になっていた。
シャルは定位置の自席ではなく、僕の隣に腰掛けた。
「シャルがこっちに来るなんて珍しいね」
「隣の方が意見交換しやすいですし……その、普段から恋人のように振る舞っていた方がボロが出ないと思いまして」
「なるほど」
それは僕も考えていた事だが、シャルの負担になると思って提案していなかった。
無理しているようには見えないのでいいか。
書類作業を進めること五分、シャルは隙あらばあくびを噛み殺していた。
仕事中はよく見かける姿だが、今日は回数が異常だ。
「シャル、無理せず休んでいいよ」
「いえ、大丈夫です」
眠気を吹き飛ばすように、シャルは力強い声で答えた。
その三分後、肩に重みを感じた。
まさかと思いつつ肩口に目をやると、案の定シャルがもたれかかってきていた。
目は完全に閉じられ、口からはくぅくぅと可愛い寝息が漏れていた。
膝から書類が落ちそうになっている。
「シャル?」
声をかけてみるが、びくともしない。
完全に寝入ってしまったようだ。
「どうしよう……」
寝落ちしてしまうほど疲れている人をすぐに起こしてしまうのも
昨日今日と、シャルにとってはハードな時間が続いた。
相当疲れが溜まっていたのだろう。
悩んだ挙句、僕は現状維持を選択した。
……しかし、改めて見ると本当に可愛いな。
サラサラとした水色の髪に、形の良い長いまつげ。抜けるような白肌ともちもちした頬。そして桜色の
どれをとってもレベルが高い。
それに、なんだかいい匂いも漂ってくる。
彼女自身の匂いなのか、石鹸などの匂いなのか。
……あっ、まずい。
これ、意識しちゃダメなやつだ。
内側から湧き上がる様々な衝動から気を紛らわすために、僕はテストのつもりで目の前の書類作業に取り掛かった。
昼休み終了の時間が近づいても、シャルが目を覚ます気配はなかった。
「シャル、起きて」
相変わらずぴくりとも反応しない。
寝息も規則的なままだ。
仕方ない。物理的に起こすか。
シャルの両肩を掴む。
ほっそりとしているが、触り心地は柔らかかった。
「シャル、昼休み終わっちゃうよー」
肩を前後に揺する。
「んっ……んぅ」
わずかに開かれた唇から甘い声が漏れる。
「シャル、起きなさい」
「うー……」
シャルが赤子がぐずるような声を出した。
眠りの世界から覚めきっていないあどけない姿も可愛いが、先程までの色気のあるものではなく、小動物のような庇護欲をそそる可愛さだ。
頭を撫でたくなる衝動を必死に抑えて、再度肩を揺する。
「シャル、本当に起きて」
「ん……ノア君?」
シャルが薄っすらと目を開けた。
髪と同じ空色の透き通った瞳が、僕を認識して大きく見開かれる。
「えっと、これは……」
「寝落ちしてたから起こした。もう昼休み終わるからさ」
「あぁ……すみません。ありがとうございます」
シャルが目をこすった。
「口元」
「っ〜!」
笑いながらヨダレの垂れた口を指差せば、シャルは赤くなりながらハンカチで拭った。
その拳が持ち上がり、無言で僕の肩を叩き——は、しなかった。
中途半端に拳を振り上げたまま、シャルは瞳を見開いて固まった。
その頬や耳が、さらに真っ赤になっていく。
「シャル? どうしたの?」
「あ、あの……もしかして私、ノア君の肩にもたれかかってました?」
「うん。けど別にキツくは——」
「ご、ごめんなさいっ!」
僕の言葉を遮り、シャルは勢いよく頭を下げた。
ハンカチを裏返し、僕の肩に当てる。
なるほど。そういう事か。
「あぁ、別にいいよ。いずれ乾くし」
彼女のヨダレが僕の肩に垂れていたのだろう。
ご褒美とまでは思わないけど、気にするほどの事ではなかったのだが、シャルは「汚してしまって申し訳ありません……」とかなり罪悪感を感じているようだった。
僕の肩を懸命に拭くシャルの眉は垂れ下がり、口元は引き締められていた。
今にも泣きそうに見えた。
「シャル」
僕は彼女の細い手を掴んだ。
「は、はい」
「本当に気にしていないから、そんなに落ち込まなくていいよ。それに……これもまた、恋人っぽいしね」
「っ〜!」
再び頬を染めたシャルは、今度こそ僕の肩を叩いてきた。
ちょっとは元気になったみたいだな。
「そういえばさ、シャル。恋人っぽいことで一つ提案が——」
「うるさいですっ」
「違う違う。真面目な話だよ」
「……何ですか」
むすっとした表情のまま尋ねてくる。
ふざけたら承知しない、と顔に書いてある。
ここでふざけるほど、僕は空気の読めない人間ではない。
「今週の金曜日に林博嗣の新作出るじゃん? 一緒に買いに行かない? ほら、お出かけとかしてたらより恋人アピールにもなるだろうし」
「いいですよ」
即答だった。
「えっ、いいの?」
「えぇ。どのみち買いに行く予定でしたし」
「そっか。じゃあ、よろしく」
「はい。ちなみにもちろん当日に買いに行くんですよね学校から直行ですよねまさか直行しないわけないですよね?」
「ちょっ、怖い怖い。シャルがいいなら直行でいいよ」
「よろしい」
シャルが満足げに頷いた。
機嫌とテンションはすっかり元通り、というより元より上昇しているな。
おそらく、林博嗣の新作の話をしたからだろう。
やっぱり、本は世界を救うよね。
——五時間目。
問題を早く解き終えた僕は、ぼーっとしながら先生が答え合わせを始めるのを待っていた。
『それに……これもまた、恋人っぽいしね』
昼休みの自分のセリフが脳内で再生される。
……改めて考えると、めっちゃキモいな。
いくらシャルに気を遣わせないために咄嗟に絞り出したものとはいえ、あれはさすがにない。
羞恥心と頬の熱がじわじわと込み上げてくる。
僕は机に突っ伏しながら、もう二度とあんな事は言わないようにしようと心に決めた。
「ノア君。起きなさい」
「あっ、はい。すみません」
先生に注意され、慌てて上体を起こす。
側から見れば寝ている体勢をとっていた事は事実であるため、謝るだけに留めた。
クスッ、という笑い声が聞こえた。
シャルがこちらを見てニヤニヤしていた。
僕は不満を表すために、口をへの字に曲げてみせた。
それを見てもう一度クスリと笑い、シャルは黒板に視線を戻した。
ガタン、と音がする。
思わず振り向けば、音の発生源はアローラだった。
彼女も寝ていたのかな、などと思いながら、僕は黒板に向き直った。
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