塩を運ぶ牛

永久部暦

『塩を運ぶ牛』

 おじいちゃんから『塩を運ぶ牛』の話を聞いたのは僕がまだ小学校に入学する前の話だったと覚えている。

 うだるような真夏のある日、海水浴に行った帰りにおじいちゃんがやおら話し始めたんだ。

「なあ、なんで海の水がしょっぱいか、知ってるかい?」

 日焼け跡と妙に熱っぽくなった体の違和感に気を取られていた僕は、おじいちゃんがどんな表情で切り出したかはわからない。

 だけど、とても楽しそうな―――そう、宝物を見せるかのような声色だった。

「それは、『塩を運ぶ牛』のお陰なんだよ」

「うしさんのおかげなの?」

「そうだよ。その牛さんは真っ白い体をしていてね、大きな大きなお山の頂上に住んでいて、たくさんの雨が降った日にゆっくりゆっくりと山を下りて、何日も時間をかけて海に訪れると、そのまま海に潜るんだ」

「それじゃ、うしさんがおぼれちゃう」

「溺れないよ。海の神様は牛さんのことが大好きだからね。大好きだから、牛さんを大事に迎え入れて、一緒になろうとするんだ」

「……なんか、こわいね」

 得も言われぬ恐怖に、僕は震えた。真夏だと言うのにまるで気温がすっと下がったような嫌な感じは今でも忘れられない。

 でも、それ以上に忘れられないものがある。

「ははは、怖くなんてないよ。一緒になってもまた牛さんはそこにいるんだ。そこにいる牛さんはまたお山に生まれ、たくさんの雨が降ったらまた山を下りて、海にたどり着いて……そうやって、牛さんと海の神様は昔から過ごしてきたんだから」

 そう言って僕の頭をクシャッと撫でた大きな手。今ではその手よりも僕の手の方が大きくなったけど、僕の中ではずっと大きくて、温かい。

 たったそれだけの、小さなころの思い出話を、なぜ唐突に話し始めたのかって?

 それはとてもシンプルな理由さ。

「ねえ、パパ。なんで海ってしょっぱいの?」

「それは、『塩を運ぶ牛』のお陰だからさ」

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塩を運ぶ牛 永久部暦 @Koyomi_T

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