デジタルの海に溺れる魂
島原大知
本編
第1章
理央の指が、黒と白の狭間で踊る。
一音一音が、魂の叫びのように響く。
午後の陽光に照らされた部屋。埃の舞うピアノの前に、理央はいつまでも佇んでいた。
10年前、彼は世界を舞台に活躍するピアニストだった。
「神童」「天才」と称され、革新的な演奏で聴衆を魅了した。
けれど今は、そんな日々も遠い過去の話。
運命のいたずらか、ある事件を境に彼は音楽の世界から姿を消した。
表舞台に立つことを拒み、平凡な日常に身を沈めた。
時折、街で話題になることもある。
「あの速水理央は今何をしているのだろう」
しかし、本人である理央の耳に、そんな噂が届くことはない。
彼にとって、過去の栄光は触れてはならない傷のようなものだった。
ふと、理央は時計に目をやる。
午後3時。そろそろ行かなければ。
立ち上がり、コートを羽織る。
玄関を出ると、冷たい風が頬を撫でた。
色づき始めた街路樹。日々、秋が深まっている。
理央は公園のベンチに腰を下ろした。
ここに来るのが日課になっていた。
いつものように、ポケットからスマートフォンを取り出す。
画面に、見慣れたアプリのアイコンが並ぶ。
無心でスクロールしていると、見覚えのある文字が目に留まった。
「My Diary」
そう、これは昔自分が書いていたブログだ。
非公開設定にしていた、あのブログ。
心の奥底に封印していた記憶が、一気によみがえる。
完璧を求められる日々。
周囲の期待に応えるため、ひたすら練習に明け暮れた。
間違いは許されない。スポットライトを浴びる者の宿命だ。
苦しくて、でも誰にも相談できない。
そんな時、理央はブログに思いを綴っていた。
音楽に対する葛藤。プレッシャーに押しつぶされそうになる心。
理央の本当の姿は、そこにしか存在しなかった。
けれど今は――
理央は画面をタップし、ログインページを開く。
ブログを更新するつもりはない。
ただ、過去の自分と対話したい。そう思っただけだ。
パスワードを入力し、画面が遷移するのを待つ。
だが、そこに表示されたのは信じがたい光景だった。
「お探しのページは見つかりませんでした」
理央の目が見開かれる。
どういうことだ。
何度もリロードを試みるが、結果は変わらない。
ブログに綴った記事は、跡形もなく消えていた。
信じられない。
こんなはずでは。
理央の脳裏に、ある可能性が浮かぶ。
ブログのことを知る人物が、削除したのではないか。
だが、誰が。そして、なぜ。
理央は立ち上がり、公園をあてどなく歩き始めた。
詰め寄る疑問に、頭が混乱する。
風に吹かれる髪。不安げな表情。
そこには、かつての完璧な天才ピアニストの姿はなかった。
ただ、真実を求める一人の男がいるだけだ。
スマートフォンを握り締め、理央は決意する。
消えたブログの謎を追おう。
この10年、触れてこなかった過去に立ち向かおう。
それが、新たな一歩を踏み出すきっかけになるかもしれない。
ポケットの中で、スマートフォンが振動した。
理央は画面を見つめる。
差出人は、田端哲也。
かつての自分を知る数少ない人物だ。
タイミングが良すぎる。まるで運命に導かれるように。
理央は迷わず、通話ボタンを押した。
「もしもし、理央君?」
「……はい、お久しぶりです」
「君の声を聞けて嬉しいよ。実は、君に伝えたいことがあってね」
そう切り出した田端の言葉に、理央の背筋に緊張が走る。
過去と現在が交錯する予感。
遠い記憶が、今を揺さぶる。
通話の向こうから聞こえてくる声に耳を澄ませながら、
理央は静かに目を閉じた。
失われたブログ。
絡み合う謎。
そして、変わり果てた自分。
全ての答えは、この先にあるのだろうか。
胸の鼓動が、高鳴り始める。
第2章
「理央君、君の演奏をまた聴きたいと思っている人は大勢いるんだ」
田端の言葉に、理央は絶句した。
「僕は、もう……」
「君は天才だよ。たった一度の挫折で、音楽を諦めるなんてもったいない」
理央の脳裏に、あの日の出来事がよぎる。
本番直前、突然襲った激しい痙攣。
指が思うように動かず、ピアノに向かえなかった瞬間。
絶望と恥辱が、全身を支配した。
「皆は、君が失踪した理由を知りたがっている。憶測が憶測を呼んで……」
田端の声が、現実に引き戻す。
「どんな噂が流れているんですか?」
沈黙の後、田端が言葉を選ぶように話し始めた。
「君が、プレッシャーに押しつぶされて逃げ出したとか。 薬物に手を染めたとか……」
理央の拳が、思わず握られる。
「そんな、僕は……!」
「分かってる。君はそんな人間じゃない。だからこそ、真実を伝えるべきだ」
通話を終えた理央の心に、新たな決意が生まれていた。
噂を打ち消すためにも、ブログの謎を解明しなければ。
田端に教えてもらったある人物の名前が、頭をよぎる。
鈴木麻子。かつて自分を支えたスタッフだ。
ブログのことを知っているかもしれない。
鈴木との待ち合わせ場所は、都心のカフェだった。
小雨の降る中、理央は足早に店内に入る。
年季の入った扉を潜ると、コーヒーの香ばしい香りが鼻をくすぐった。
しばらくすると、見覚えのある女性が現れた。
「お久しぶりです、鈴木さん」
「……速水さん。お会いできて光栄です」
鈴木の表情は、どこか晴れない。
理央は、切り出すのが躊躇われた。
「あの、実は……僕のブログのことで聞きたいことがあって」
鈴木の瞳が、一瞬揺らめく。
「ブログ、ですか?」
「昔書いていた非公開のブログなんですが、消えてしまったんです。鈴木さんは、心当たりありませんか?」
沈黙が、テーブルに垂れ込めた。
「……すみません。存じ上げません」
鈴木の言葉は、妙に棒読みだった。
まるで、嘘をついているようで。
理央は、疑念を深めた。
カフェを後にした理央は、公園をさまよった。
小雨に濡れたベンチ。踊る水の輪。
真相は、もう少しのところまで来ている。
けれど、まだ手が届かない。
一体誰が、何のために。
理央の脳裏に、ある人物の顔が浮かぶ。
森下準。音大時代からのライバルだ。
完璧主義の理央をよく知る数少ない存在。
コンクールで競い合った日々。
お互いの弱点を知り尽くしている。
もしかしたら、森下なら……。
スマートフォンに、森下の連絡先を呼び出す。
指が、通話ボタンを彷徨う。
胸の鼓動が、不規則に乱れる。
過去に立ち向かう勇気。
それを、今の理央は持っているだろうか。
ゆっくりと、画面に指が触れた。
プルプル、コール音が響く。
理央は息を呑んで、受話器を耳に当てた。
「……もしもし」
聞き慣れた声が、耳に飛び込んできた。
第3章
「……速水?」
受話器の向こうから、森下の驚いた声が聞こえてくる。
「突然で悪いな。実は、君に会いたくて」
理央の言葉に、一瞬の沈黙が続いた。
「どうしたんだ、急に。何かあったのか?」
森下の口調は、どこか警戒しているようだった。
理央は、覚悟を決めて切り出した。
「君は、僕のブログを読んだことがあるかい?」
スマートフォンを握る手に、汗がにじむ。
「……ブログ?ああ、あれか。読んだことあるよ」
森下の答えに、理央の心臓が跳ねた。
「実は、そのブログが消えてしまったんだ。君は心当たりないかい?」
「消えた?どういうことだ」
理央は事の顛末を説明した。
気づいたときには跡形もなく消えていたこと。
そして、真相を追っていること。
「……そうか。それは残念だな」
森下の言葉は、どこか投げやりだった。
「でも、正直言って僕には関係ないことだ。むしろ、君は今までどこで何をしていたんだ?皆心配していたんだぞ」
予想外の質問に、理央は言葉を失った。
「それは……」
「君が消えた後、色んな噂が流れたんだ。ライバルがいなくなって、少しほっとしたよ。……冗談だけどね」
森下の声は、皮肉に歪んでいた。
通話を終えた理央は、公園のベンチに座り込んだ。
濡れた木肌が、ジーンズに染み込む。
周囲を囲む木々は、すっかり秋の装いだ。
色とりどりの葉が、雨に濡れて艶めいている。
真相は、また遠のいてしまった。
誰に聞けば、答えは見つかるのか。
理央は天を仰ぎ、溜息をついた。
ふと、スマートフォンが震えた。
差出人は、見覚えのない番号だ。
メッセージを開くと、短い文章が現れた。
「君を助けたい。事務所で会おう」
署名は、Kとだけあった。
事務所……あの事務所のことだろうか。
理央の脳裏に、かつての社長の顔がよぎる。
黒川雅彦。業界でも一目置かれる存在だ。
理央は、迷った。
過去に戻るつもりはなかった。
けれど、真実を知るためなら。
そう自分に言い聞かせ、理央はメッセージに返信した。
「了解した。今から向かう」
送信ボタンを押す指が、少し震えていた。
事務所の応接室。
そこに、一人の男が座っていた。
「……久しぶりだな、速水君」
口元に皺を刻む笑顔。黒川雅彦だった。
「君のブログのことで、話があるんだろう?」
切り出しから、核心を突いてくる。
さすが、業界の帝王は違う。
理央は、覚悟を決めて頷いた。
「消されたブログのことを調べています。黒川さん、心当たりはありませんか?」
「……ああ、あれなら私が削除した」
あっけないほど、事実が明かされた。
「なぜ、ですか……?」
理央の問いに、黒川は難しい顔をした。
「君は完璧主義だった。周りが見えなくなるほどに。だから、君の弱音を誰にも見せたくなかった」
黒川の言葉に、理央は目を見開いた。
「あれは、君を守るための措置だったんだよ」
理央の脳裏に、走馬灯のように過去がよぎる。
練習に明け暮れた日々。
ミスを恐れるあまり、指が震えたこと。
誰にも相談できず、ブログに綴った心の叫び。
「君の才能は、時に諸刃の剣になる。才能があるがゆえに、完璧を求められる。でも、それは君を蝕んでいく」
黒川の言葉は、まるで理央の心を見透かしているようだった。
「表舞台に立つ者の宿命かもしれないが、私はそれを見過ごすことができなかった。だから……」
理央は、拳を握りしめた。
「……ありがとうございます。おかげで、自分と向き合うことができました」
立ち上がり、深々と頭を下げる。
黒川は、難しい顔のまま頷いた。
「これからどうするつもりだ?」
その問いに、理央ははっきりと答えた。
「音楽と向き合います。自分なりのやり方で」
事務所を後にした理央は、雨上がりの街を歩いた。
地面に、水たまりが輝いている。
空は、まだ曇り空だ。
けれど、どこか晴れやかな気分だった。
失われたブログ。
それは、理央の弱さの証だった。
けれど、それがあったからこそ、今の自分がある。
ポケットの中で、スマートフォンが震えた。
差出人は、森下準。
メッセージには、こう書かれていた。
「音楽フェスに出ないか?私からのオファーだ」
理央は、微笑んだ。
迷いはない。
ゆっくりと、返信を打つ。
「喜んで引き受けます」
曇り空が、少しずつ晴れ間を見せ始めていた。
輝く陽光が、理央の頬を照らす。
まるで、新しい一歩を踏み出すことを後押ししてくれているようだ。
第4章
理央は、深々と息を吸い込んだ。
鼻腔をくすぐる空気。懐かしい楽屋の匂い。
それは、まるで過去からの使者のようだった。
10年ぶりに戻ってきた、音楽の世界。
ざわめく観客の声が、壁の向こうから聞こえてくる。
「緊張してるのか?」
背後から、声をかけられた。
振り向くと、そこには森下の姿があった。
「……ああ、少しな」
理央は、けれん味に笑った。
「昔は、こんなことで緊張したりしなかったんだがな」
「久しぶりだからな。無理もない」
森下は、理央の肩に手を置いた。
「君は天才だ。今日のステージでそれを証明するんだ」
リハーサル中のホール。
ピアノに向かう理央の姿があった。
スポットライトを浴びて、黒燕尾服が艶めかしく輝く。
指が、鍵盤の上を舞う。
奏でられる旋律は、まるで魔法のようだった。
観客席からは歓声が上がり、拍手喝采が巻き起こる。
本番まであと1時間。
楽屋に戻った理央は、再び深呼吸をした。
胸の奥で、何かが疼いている。
完璧を求める呪縛。
それは今でも、理央の心に棲みついていた。
けれど、今は昔と違う。
ブログに綴った弱音は、もう消えてしまった。
でも、それでいい。
過去の自分と決別し、新しい一歩を踏み出すために。
「速水さん、お疲れ様です」
ドアが開き、スタッフが顔を覗かせた。
「あと30分ほどで本番です。準備をお願いします」
「……ありがとうございます」
理央は、鏡の前に立った。
そこに映る自分は、昔とは違っていた。
もっと逞しく。もっと頼もしい。
そう、今の理央は変わったのだ。
ステージに上がる直前。
袖で、理央は目を閉じた。
客席のざわめき。スタッフの忙しない足音。
全てが、遠くに感じられる。
今はただ、音楽だけがそこにあった。
自分と、ピアノと。
深呼吸を繰り返し、理央は自分に言い聞かせる。
完璧である必要はない。
ありのままの自分で、音楽と向き合えばいい。
「速水理央、ステージへ」
理央は、観客席に向かって一歩を踏み出した。
スポットライトに照らされる背中。
大きな拍手が、ホールに響き渡る。
理央は、ピアノに向かって歩を進めた。
黒く艶めかしい楽器。
昔と変わらない感触。
理央は、静かに目を閉じた。
そして、音楽が始まった。
奏でられるのは、ショパンの「幻想即興曲」。
理央の十八番だ。
繊細で美しい旋律が、ホールに響き渡る。
観客席は、しんと静まり返っていた。
溢れんばかりの感情。
魂の叫びのような音色。
それは、まさに理央の魂の歌だった。
ミスを恐れず、ただ音楽に身を委ねる。
その姿は、かつての天才ピアニストを彷彿とさせた。
演奏が終わり、理央が立ち上がる。
鳴り止まない拍手。割れんばかりの喝采。
理央は、深々と頭を下げた。
目に、涙が滲んでいた。
「ありがとうございました」
マイクを通して、理央の声が会場に響く。
「僕は、音楽と向き合うことを諦めていました。完璧でなければいけないと思い込んでいたから」
理央は、観客席を見渡した。
「でも、音楽は完璧である必要はないんです。ありのままの自分で、音楽と向き合えばいい」
その言葉に、会場がどよめいた。
「僕は、もう一度音楽と向き合います。自分なりのやり方で。これからも、応援していただけたら嬉しいです」
理央は、再び頭を下げた。
雷鳴のような拍手が、ホールを包み込んだ。
理央の脳裏に、かつて書いたブログの文章がよぎる。
弱音を吐き出した、あの言葉たち。
今はもう、必要ない。
自分の言葉で、音楽と向き合えばいい。
ステージを降りた理央を、森下が出迎えた。
「素晴らしかった。君は本物の天才だ」
森下は、目を細めて笑う。
「……ありがとう」
理央も、笑顔を返した。
「これからは、君とライバルとして切磋琢磨していこう」
「ああ、そうだな」
二人は、固い握手を交わした。
再会を喜び合うように。
そして、新たなスタートを切ることを誓うように。
楽屋に戻った理央は、スマートフォンを手に取った。
新しいブログを開設する。
そこには、こう綴られていた。
「私は、音楽と向き合い続けます。完璧を目指すのではなく、ありのままの自分で」
送信ボタンを押す指に、迷いはなかった。
むしろ、胸が高鳴るのを感じていた。
新しい一歩を、踏み出せた喜びに。
窓の外では、雨が上がっていた。
青空が、顔を覗かせている。
まるで、理央の新たな始まりを祝福しているかのように。
音楽は、理央の人生に再び色を取り戻した。
輝かしい未来が、そこに広がっていた。
失われたブログ。
それは、理央を新しい地平へと導いてくれた。
過去は消えても、未来は無限に広がっている。
理央は、希望に満ちた瞳で空を見上げた。
心の中で、音楽が鳴り響いていた。
第5章
音楽フェスから一週間。
理央は、再び日常に戻っていた。
けれど、その日常はもう以前とは違う。
音楽への情熱を取り戻した理央は、毎日ピアノに向かっている。
失われた10年の時間を、取り戻すように。
「速水先生、次の生徒さんが来られましたよ」
アシスタントの声が、ドアの向こうから聞こえてくる。
「はい、今行きます」
理央は、ピアノの蓋を閉じた。
教室で生徒にレッスンを行うのが、今の理央の日課だ。
かつての名声を取り戻すことよりも、音楽の喜びを伝えることに情熱を注いでいる。
レッスン室に入ると、そこには小さな女の子がいた。
「速水先生、こんにちは!」
元気な声が、部屋に響き渡る。
「こんにちは、リサちゃん。今日は何を弾きたい?」
理央は、優しく微笑んだ。
「ショパンの『幻想即興曲』!先生の演奏を聴いて、私も弾けるようになりたいの」
リサの瞳は、輝いていた。
理央は、その情熱に心を打たれた。
「いいね。一緒に頑張ろう」
レッスンが終わり、リサが帰った後。
理央は、一人レッスン室に座っていた。
ふと、スマートフォンが鳴った。
メールだ。差出人は、黒川雅彦だった。
「久しぶりだな。君の演奏を聴いたよ。素晴らしかった」
理央は、思わず微笑んだ。
「ありがとうございます。あの時は、厳しい言葉をかけてくださって」
「いや、私は間違っていた。君の才能を閉じ込めてしまったことを、謝りたい」
黒川の言葉に、理央は目を見開いた。
「いえ、あのおかげで自分と向き合うことができました。感謝しています」
メールを閉じた理央は、レッスン室を後にした。
外は、少し肌寒くなっていた。
秋も、終わりに近づいている。
理央は、公園に向かって歩き始めた。
あの日、消えたブログのことを知った場所だ。
ベンチに腰掛け、理央はスマートフォンを取り出した。
新しいブログを開く。
そこには、レッスンの様子や音楽への思いが綴られている。
完璧主義に苦しんだ過去の自分。
それを乗り越えた今の自分。
全てを包み隠さず、書き記している。
「速水君?」
聞き覚えのある声が、背後から聞こえてきた。
振り向くと、そこには鈴木麻子の姿があった。
「……鈴木さん。どうしてここに?」
「ちょっと散歩していたら、君を見かけてね。話しかけずにはいられなかった」
鈴木は、申し訳なさそうに微笑んだ。
「この前は、嘘をついてごめんなさい。実は、君のブログのことは知っていたの」
「どういうことですか?」
理央は、眉をひそめた。
「君のブログを、密かに読んでいたの。完璧を求める君の苦しみが、手に取るように分かった」
鈴木は、目を伏せた。
「だから、ブログが消えたと聞いた時、安堵したのよ。でも同時に、申し訳ない気持ちでいっぱいだった」
理央は、しばらく無言だった。
そして、ゆっくりと口を開いた。
「気にしないでください。過去のことは、もう大丈夫です」
「……本当に?」
「ええ。自分と向き合うことができたから。鈴木さんも、私の力になってくれたんです」
理央は、優しく微笑んだ。
「ありがとうございました」
二人は、しばらく公園で語り合った。
かつての日々。音楽への思い。
笑い声が、秋の風に乗って運ばれていく。
時間が経つのも忘れるほど、楽しいひとときだった。
「そろそろ行かないと。レッスンの予定があるんだ」
立ち上がりながら、理央が言った。
「そうだ、最後にもう一つ聞かせて」
鈴木が、理央を見つめた。
「今の君は、幸せ?」
その問いに、理央は一瞬戸惑った。
そして、はっきりと頷いた。
「……ええ。今は、とても幸せです」
音楽に囲まれた日々。
生徒との触れ合い。
そして何より、自分自身と向き合えたこと。
全てが、理央を幸せにしていた。
「そう。良かった」
鈴木は、安堵したように微笑んだ。
「また会おう、速水君」
「はい。ぜひ、私のレッスンにも来てください」
別れ際に、理央はそう告げた。
鈴木は、驚いたように目を見開いた。
そして、嬉しそうに頷いた。
「ええ、喜んで」
公園を後にした理央は、レッスン室に向かって歩き始めた。
歩くリズムに合わせ、口ずさむメロディ。
それは、ショパンの「幻想即興曲」だった。
失われたブログ。
過去の自分。
全ては、新しい理央を作るための道のりだったのかもしれない。
レッスン室の前で、理央は立ち止まった。
ドアノブに手をかける。
少し緊張したが、すぐにほぐれていった。
深呼吸をして、理央はドアを開けた。
中から、生徒の歓声が聞こえてくる。
「速水先生!」
笑顔で駆け寄ってくる子供たち。
理央も、笑顔を返した。
「さあ、レッスンを始めよう!」
窓の外では、優しい風が吹いていた。
木々の葉が、ゆらゆらと揺れている。
秋の日差しが、レッスン室を暖かく照らしていた。
理央は、ピアノに向かった。
指が、鍵盤の上を舞う。
美しい旋律が、部屋に響き渡る。
それは、かつて失われたはずの音楽。
今、ここに蘇った。
理央の心に、希望の音色が満ちていた。
完
デジタルの海に溺れる魂 島原大知 @SHIMAHARA_DAICHI
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