第9話

 自分が仕事に出ている間、久能久門が訪ねてきているのかもしれない。そう考えて母に訊いた。彼女には自分が仕事に出ている間、夫が過ちを犯さないように見守りを頼んであった。

「婿殿の所に来客なんて、一度もありませんよ」

 母は時代劇の台詞のように応じてコロコロ笑った。

「外出もしてないのね?」

「月に何度かは出かけていますよ。私も、散歩ぐらいして身体を動かす方が健康にいいと話しているし、誰かと話すのは大切だと思うのよ。だって、

 人間だもの、というところを可笑しな口調で言って、再びコロコロ笑った。

 どうして久能久門を殺したいのだろう?……それを知ることは、夫の心の状態を知ることだ。夫とのやり取りを成立させるためにも、久能久門と夫の関係を知る必要がある。

 ところが、インターネットで調べても久能久門という小説家は見つからなかった。図書館に足を運んで司書に尋ねても同じだった。

 剛史から聞きだすしかないと判断してメールを書いた。

〖仕事を引き受けるとしても、久能久門のことを詳しく教えてほしい〗

 久能久門の所在か連絡方法を訊いて、彼に夫との関係を尋ねようと思った。彼を遠ざければ、夫が元に戻るかもしれない。淡い希望を抱いていた。

 翌日から断続的にメールのやり取りが続いた。その間、夫婦は直接顔を会わせて言葉も交わしていたけれど、夫の様子は以前のままで、メールの相手が華恋だと知っている様子もなかった。

【久能久門を知らないのか?……〝矢梅真理やばいまりの事件簿〟は映画にもなっている】

「映画?」

 記憶にそうした作品はなかった。インターネットで検索しても〝矢梅真理の事件簿〟といった作品はヒットしない。

〖映画はみないから……〗

 そう誤魔化した。実際、経済的にも時間的にも映画を観て楽しむ余裕はなかった。毎日が朧館での仕事と狩猟、剛史の面倒を見るので、時間も気力も使い果たしていた。

【無知は罪だ】

 そんな返事には腹が立った。彼のために腐心しているのに、酷い言われようだ。

〖殺すのに彼の作品や映画を知る必要はない。そんなことより、彼がどこに住んでいて、日々をどう過ごしているのか、仕事にはそうした情報が重要だ〗

 ひと月ほど、かみ合わないやり取りをして、久門がホテル・ミラージュで執筆していることを、ようやく訊きだした。

 調べてみると、ミラージュというホテルは東北地方の都市に実在した。そこに電話をして久能久門に取次ぎを頼むと、宿泊者に久能という人物は宿泊していないという返事だった。

「……過去の宿泊者に久能久門という作家がいるはずです。その方の連絡先を教えていただけませんか? 人の生死に関わることなのです」

 悲痛な思いで訴えた。

「申し訳ございません……」宿泊客のプライバシーにかかわることには応じられない、とにべもなく電話を切られた。

 ホテルマン一人一人に聞きまわるしかない。そう考え、剛史にメールを書いた。

〖久能久門の写真がほしい。顔がわからなければどうしようもない〗

 再び、雲をつかむようなやり取りが始まった。

【写真はない。彼はメディア嫌いでね。だが、自分が久能久門だということは隠していない】

 メディア嫌い?……だからといって、著名な作家の写真が一枚もないのは信じ難かった。

〖私に、久能久門を捜せというのか?……それは探偵の仕事だ〗

【探偵に探させた後に殺したら、足がつく】

 論理的な思考はできるようだった。

 これからどうする?……手をこまねいていると、夫から届くメールが増えた。

【どうして殺してくれない?】【いくら払えばいいのだ?】【君はプロだろう。依頼者を選ぶのか? それとも、標的を選ぶのか?】

 メールの内容が日に日に切迫感を増していた。

【僕が殺すしかないのか?】

 夫が他人をあやめる。それは受け入れ難いことだった。

〖あなたの気持ちは分かった。殺人など、素人がやるべきことではない。仕事は引き受ける。報酬は一億円〗

 そう返信したのは時間をかせぐためだった。一億円もの大金を用意できるはずがないから、夫が気持ちを変えるかもしれないという期待もあった。

 翌日、仕事から帰ると夫が感情のない顏で待っていた。

「一億円、用意してほしい」

「一億円?」

 思わず声が裏返った。用途はわかっている。が、夫がそんな無茶なことを面と向かって言ってくるとは思ってもいなかった。

「僕が稼いだ金があるだろう」

 夫の話に絶句する。退職金は雀の涙だった。退職後、彼が小説を書いて得た報酬は微々たるものだ。

「あなたのお金?」

 気持ちを落ち着けてよく見れば、彼の瞳に鉛色の狂気が宿っていた。

「出版社から振り込まれているはずだ。まさか君が……」

 剛史は売れ子作家にでもなった妄想を抱いているのに違いなかった。

 華恋を見る彼の瞳に猜疑の光が宿っていた。そんな目で見られたのは初めてで切なかった。剛史は売れ子作家でもないし、大金も持っていない。だけど、そう指摘するのは躊躇われた。心の病なのだ。彼が自分の妄想に気づいたら、事態は一層悪くなるかもしれない。〝自死〟の二文字が脳内で揺れた。

「分かったわ。でも……」

 とりあえず話を合わせることにした。預かっていた金はファンドで運用しているのですぐには現金化できない。時間が欲しい、と答えた。

 剛史が通う心療内科の医師にも、夫が久能久門を殺したがっているということや自分が大金を持っていると妄想していると相談した。薬の影響があるかもしれないと思ったからだ。しかし、思わしい返事は得られなかった。


 再びメールのやり取りがあって、人殺しの代金を分割することにした。

 手付金を五百万円に取り決めた。夫は、あくまでも殺し屋と打ち合わせているつもりのようだった。

「一、二、三、四、五。ハイ、五百万円」

 机に百万円の札束を重ねると、夫はそれを信用金庫の紙袋に詰めて書斎を飛び出した。

「どこに行くの?」

 慌てて夫を追った。

「大丈夫だ。すべてうまくいく」

 彼は道路に出るとすさまじい勢いで走り出した。四年間もろくな運動や肉体労働をしなかった人間の速さとは思えなかった。

 彼は殺し屋にあの金を振り込むのだろう。想像はできた。案の定、深夜になってメールが届いた。

【手付金は振り込んだ。残金は仕事が終わった時に必ず振り込む。必ず殺してくれ】

 メールを読んだ後、神経が泡立って眠れなかった。夫は真剣に久能久門という謎の作家を殺そうとしているのだ。

 ホテル・ミラージュに行ってみようと思った。そこに答えがあるに違いない。

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