第8話
「一、二、三、四、五。ハイ、五百万円」
華恋は近くの信用金庫で預金を取り崩してきた百万円の札束を重ねた。半分は父親に借りたものだ。
「ありがとう」
剛史は当然のような顔で言うと、華恋が机に置いた信用金庫の紙袋を取り、札束を詰めた。
〖久能久門を殺してくれ〗
夫からそんなメールが届いたのは三カ月ほど前のことだった。彼は四年前まで中堅どころの商社に勤めていたのだが、そこで心を病んだ。仕事熱心で優れた業績をあげ、毎年のように表彰された彼は、会社に認められて経営企画部という重要な部署に異動した。
そんな彼がどうして心を病むようなことになったのだろう?……働きすぎとか、新しい仕事は荷が重いのではないか、と知人は噂したが、夫が何も話さないので本当のところは何も分からなかった。
彼は人に会うのを避けるようになり、様子を見に来た両親にさえ怯えるほどだったから、おそらく原因はパワハラとかセクハラとかいった人間関係に由来するものだろうと想像はついた。原因が会社にあるのなら裁判に訴えてでも補償を求めたいところだけれど、当人は病で被害の事実を口にするのさえ辛いのだ。とても出るところに出て戦える状態ではなかった。被害者を徹底的に叩き潰すことで、ブラック企業は生き残っていられるのかもしれない。
ある日、彼は出社すると言ったのに、寝室のドアノブに細いロープを結んで首を吊った。
死なせてたまるか!……何かを恨むような熱意でロープを切断した。そんなことがあって退職を勧めた。心を病む原因から遠ざかることが一番の治療だと思ったからだ。ある程度の蓄えがあるので、夫の離職を躊躇うことはなかった。とはいえ、少なからず退職金に期待したところもあった。結果、支払われた退職金は雀の涙だった……。
夫を連れて実家に戻ることにした。剛史は嫌がったけれど、彼を一人にして仕事に出るのは不安だった。いつ何時、彼が死のうとするか分からない。
二階の日当たりの良い部屋を彼の書斎にした。鬱の治療には太陽光線も大切らしい。彼はそこで絵を描き、本を読み、音楽を聴いて日々を過ごした。そうやって徐々に心は癒えて、書いた短編小説が雑誌に載った。単行本にはならなかったけれど、作品が世に出たのは良かった。彼は自分に自信を持ち、社会につながることに喜びを得た、……ように見えた。
それから毎日毎日、次の作品に挑んでいた。二年間で雑誌に掲載されたのは短編が三作。すべて、彼が会社員のときの経験をもとにしたものだった。会社勤めの経験は辛いことが多かったけれど、得たものもあったのに違いなかった。
すっかり元気になった剛史は、今度は単行本になるような長編小説を書く、と意気込んでいた。そんな中でそのメールだった。
【久能久門を殺してくれ】
受け取ったのは職場で、昼休みの時だった。スマホでその文字を眼にし、また、夫が壊れたと思った。それが悲しくて泣いたけれど、涙はこぼれない。なぜか、大人になってからというもの、泣いても涙がは出なくなっていた。夫が死にかけた時でさえ、怒りと悲しみを覚えたものの頬が濡れることはなかった。
久能久門って誰?……近隣や通った病院に、そうした人物はいなかった。学生時代の友人にもいない。結果、彼が辞めた会社の上司だろうという結論にたどり着いた。
サラリーマン時代、夫は仕事のことは何も話さなかった。だから久能久門との間に何があったのか分からない。分からないけれど、夫が復讐しようとしているのは明らかだ。
どんな理由があるにせよ、誰かを殺すなど尋常ではない。夫は本当に壊れてしまったのだ。華恋は絶望感で打ちひしがれた。
不思議なことに、帰宅して顔を合わせた夫は普段と変わらなかった。人を殺してくれといったメールを送った自覚もなさそうだった。
「あなた、大丈夫?」
彼の心の底を覗くように恐る恐る訊いた。
「何が?」
「体調よ。ずっと書斎にいるから、ストレスとか、溜まっていない?」
「僕は平気だよ。いたって元気だ」
「私に話したいこととか、ない?」
「おかしなことを言うんだな。僕は普段と変わらないよ」
彼が微笑んだ。妻に他人の殺害を依頼した人間のようではなかった。
一体、あのメールにどんな意味があったのだろう?……それを本人に確認する勇気はなかった。それを訊いて、彼の平静な顔の下の隠された狂気を目にするのが怖かった。それでメールのことを話題にすることも返信することもせず、しばらく夫の様子を観察することにした。
それからの日々、夫は以前と変わらず当たり前に話し、当たり前に食事をとり、当たり前に書斎に籠ってパソコンに向かう生活を続けていた。面と向かって話す限り、夫は狂っても壊れてもいなかった。
次のメールが届いたのは、最初のメールから十日ほど後だった。
【久能久門を殺してくれ。知っているぞ。君はプロの殺し屋だ】
七年も連れ添った妻を殺し屋だと思うなんて。……情けなかった。全身が、得体の知らない黒く濁った重いもので満たされた。それは憤りや悲しみではなく、夫が理解できない生物になってしまったことに対する巨大な不安だった。
どうしていいか分からず、様子を探るために当たり障りのない返事を送った。
〖冗談はよして〗
その夜、返信があった。
【久能久門は、この世にいてはいけない存在だ。この世には、彼か僕か、どちらかしか生きていてはいけないのだ】
短い文章だったけれど、そのメールに夫の切実な願望を感じた。断ると、彼の生きる意欲を削いでしまうことになりかねない。翌日、慎重に言葉を選んで返事を書いた。
〖久能久門って誰? どうして殺すの?〗
【小説家だ。理由は教えられない。プロなら、殺すのに理由はいらないだろう。いくら払えばいい?】
華恋の推理は誤っていた。久門は退職した会社の関係者ではなかった。小説家というのだから、現在、夫と関係を持っている人物だろう。
それにしても、と疑問を覚えた。夫は食事と寝るとき以外、滅多に書斎を出ない。まして家を出るのは病院に行く時だけで、それ以外の外出は、冒険に等しい大事件のはずなのだ。そんな彼が、いつ、どうやって久能久門という作家と知り合ったのだろう? 殺意を抱くなど、よほどの関係に違いないけれど……。
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