第7話 直感
「明日、退院だって? 良かったね」
見舞いに来た
「自宅療養に変わるだけだけどね」
衣奈が目を覚ましたのは、救急車で運び込まれた翌朝だった。戸惑いながら、そばにいた看護師に尋ねると、
検査の結果、大きな怪我は無く、フレドルカの回復も順調だった。5日目になる明日には退院し、自宅療養することが決まっている。
衣奈が運ばれたと聞き駆けつけた両親は、退院後もしばらく付き添うつもりでいたらしい。しかし、衣奈が自宅でしっかり休むことを条件に、昨日、半ば無理矢理帰ってもらっていた。
正直なところ、会社を堂々と休める約一週間の自宅療養は嬉しい。何をして過ごすか悩むくらい、衣奈は元気だった。
「怪人に襲われたって聞いて、心配した」
赤居は心配そうに尋ねるが、衣奈は言葉を濁した。
「そう……みたいだね」
「……覚えてない、よな。人通りの少ない場所だったみたいだから、目撃者もいないって」
「……ぅん」
それだけ声を絞り出し、黙ってしまった衣奈を見て、赤居は悲しそうに目を伏せた。嫌なことを思い出させ傷つけてしまったと思ったらしく、自分の言葉を反省しているらしい。
しかし、衣奈は決して傷ついていなかったし、あの大雨の日のことを忘れたわけでもなかった。むしろ気を失うまでのことは鮮明に覚えている。
大雨のなか、夜の公園にある遊具の中で、傷だらけのウルフガルムを見つけたこと。
どうにか助けたい、フレドルカを与えたいと、彼を抱きしめたこと。
気を失ってしまった後のことは覚えていないが、ウルフガルムに襲われて倒れたのではないということは間違いなかった。
それなのに、周りの人々は、怪人に襲われフレドルカを奪われたせいで倒れていた、と言う。事実と異なることに困惑しつつも、衣奈は怪人であるウルフガルムが死にそうだったから助けたかったとは言い出せずにいた。
看護師から説明されたことを思い出す。
救急車を呼んでくれたのは、衣奈と面識のない通行人の女性だったそうだ。その女性が言うには、まるで異世界の戦士のような服装をした黒髪の大男が、傘もささずに衣奈を
『フレドルカが奪われている。隣駅でシャイニングナイトと戦い敗れた怪人が、最後の悪あがきに襲ったんだろう』、と。
女性は慌てて救急に電話をかけた。しかし、彼女が電話を切るころには、衣奈だけが残され、男の姿はどこにもなかったのだという。
説明を聞いた衣奈は、その男がウルフガルムだったのではないか、と考えた。
彼が人の姿になれるのか定かではない。
でも、もしそうだとしたら。
ウルフガルムは嘘までついて、衣奈を身体的にも世間的にも助けてくれたことになる。
胸の奥が、きゅぅと締め付けられた気がして、衣奈は思わず胸の上に手を置いた。
「……ねぇ、赤居さん。その怪人って、どうなったのかニュースとかで流れてた?」
衣奈は、赤居に恐る恐る尋ねた。
「えっ? あぁ、ウルフガルム……って怪人、だっけ。シャイニングナイトが倒したってその日の夕方にはニュースになってた。羊ヶ丘さんのことは報道されてなかったと思うよ。もうすぐ5日が経つけど、どこかに現れたっていう情報もないし……もう、消滅したんじゃないかな」
「そっか……」
赤居の言葉に、衣奈の胸はざわめいた。
衣奈を通行人に預けたのがウルフガルムであるならば、無事、彼にフレドルカを分け与えることができたということだ。消滅を免れ、どこかに身を隠しているのだろう。あるいは、シャドウオーダーの元へ戻った可能性も考えられる。
ウルフガルムの安否を心配する一方で、世間一般では罪になるようなことをしてしまったのではないかとも思えてくる。一握りの後ろめたさは見えない薄い膜となり、衣奈の口を塞いでいるかのようだった。
「……羊ヶ丘さん、ごめん」
「……え?」
突然の赤居の謝罪に、衣奈は顔をあげた。いつも周囲に笑顔を振りまく彼の顔は、悲しそうに歪められていた。
「守ってあげられなくて、ごめん。僕が、」
「な、なんで赤居さんが謝るの!? 赤居さんのせいじゃないでしょ」
思わず声を上げた衣奈に、今度は赤居が目を瞬く。しかしすぐに、彼は表情を和らげた。
「……っあはは、そうだよね。ごめん、変なこと言った」
衣奈は慌てて首を横に振る。赤居はそんな衣奈を見て、頬をかきながら言葉を続けた。
「いや……うん。なんであの日、僕も残業しなかったんだろうって思ってさ。そしたら、羊ヶ丘さんは怖い思いをしなかったかもしれないのに、って」
「そんな……! 私が仕事を引き受けちゃったからだし。それに、あの日はすごい雨だったから。もし赤居さんが声をかけてくれてたとしても、たぶん私、断ってたと思う」
実際、あの日に赤居が一緒だったら、衣奈はウルフガルムを助けることはできなかっただろう。そして、もしそうだったなら、一生後悔し続けることになっていた。
だから、赤居が謝ることではない。
「……そっか」
苦笑する赤居に、優しい気遣いへの感謝と、ありのままを伝えられない歯痒さが、衣奈の心の中で渦巻いていた。
「じゃ、僕はそろそろ行くよ。また、会社で」
「うん。……あの、赤居さん。ありがとう」
ベッドサイドの椅子から立ち上がった心優しい同僚に、衣奈はすべて打ち明けられない申し訳なさも感じながら、感謝の気持ちを伝える。
「どういたしまして。ゆっくり休んでね」
光を宿した墨色の瞳は、衣奈に向かって優しく細められた。衣奈も微笑み返し、病室を出ていく赤居を見送ったのだった。
次の日。
午前中に退院手続きを終え、昼には病院を後にした。
入院していた大学病院は、何度も訪れたことのあるショッピングモールのすぐ近くだった。驚きながら電車に揺られること15分弱。見慣れた最寄り駅に到着した衣奈は、徒歩15分の自宅であるアパートメントまでゆっくり帰ることにした。
日差しが強くなってきたが、風は爽やかで気持ち良い。
街路樹の葉が日の光を浴びてキラキラと輝き、赤やオレンジ色のレンガが敷き詰められた道に心地よい木陰を作っている。
ランチタイムのピークを過ぎたからか、道に面した飲食店はどこも落ち着きを見せ始めていた。洒落たカフェでは、衣奈の母親と同じくらいの婦人が2人、テラス席に座っておしゃべりを楽しんでいる。本を片手にコーヒーを飲んでいる初老の男性や、良い雰囲気の若い男女の姿もあった。
チャイルドシートを付けた自転車に乗った親子が、衣奈を追い越していった。制服を着た子供が母親に今日あったことを一生懸命話している声が少しだけ聞こえ、衣奈の頬が緩む。
そんな何の変哲もない日常が流れる街並みをのんびり歩き、自宅のアパートメントが少し先に見える小さな公園の前を通りかかったときのことだった。
「だから、答えたくねぇっつってんだろうが」
ふと、聞き覚えのある重低音の不機嫌な声が衣奈の耳に飛び込んできたのだ。
衣奈は、すぐに足を止めて声のした方を見た。そこには、困り顔の警察官を睨みつけながら、公園のベンチにふんぞり返って座るひとりの男の姿があった。
ベリーショートの黒髪はゆるくオールバックにされ、猩々緋色の瞳が警察官を睨んでいる。口元は不機嫌そうに歪み、どう見ても善良な市民には見えない。おまけに、服装は最小限の黒い装甲がついた戦闘服。それを鍛え上げられた肉体で着こなしている上に足元は裸足なものだから、全力のコスプレイヤーでなければ変質者にしか見えないだろう。
「……ウルフガルム?」
オオカミの怪人であるはずの彼の名前を、衣奈は思わず呟いていた。
すると、男が視線だけ衣奈に向けたのだ。一瞬目を見張ったあと、眉間の皺を増やして顔を背けた。
あ、間違いないな、と衣奈は確信した。
警察官は男の態度に戸惑いつつも、言葉を続ける。
「えぇと……子供たちが安心して遊べるように、ご協力いただければな、と思うのですが……」
「知るかよ」
「で、でもですねぇ……」
「あ、あのっ!」
ふたりのやりとりに小走りで割り入ったのは、もちろん衣奈だ。
どうにか説得しようと言葉を探している警察官が不憫に思えたこともあったが、それよりも何よりも、衣奈の頭はウルフガルム(かもしれない人物)に再会できたということでいっぱいだった。
衣奈を見た警察官は、少し驚いた様子で目を瞬いていた。すると、ベンチに座る男が盛大に舌打ちをしたので、そちらへと顔を向け恐る恐る尋ねる。
「あのー……お知り合いの方ですか?」
「知らね」
即答した男に、衣奈は思わず苦笑した。しかし、それで引き下がるわけにはいかない。
「もーっ! うちの前で待っててって言ったじゃん!」
「あ゙?」「えっ?」
突然、男に詰め寄った衣奈を見て、男も警察官も訝しげに彼女を見る。
「すみません、お巡りさん。このひと、私の知り合いです!」
衣奈は警察官に頭を下げた。「はぁ、」と気の抜けた返事を聞き、頭を上げる。
「私、この公園から3軒先のアパートに住んでいる、
そこで、衣奈はチラと男を見た。彼は普通の人より尖った歯を、
「彼、うちに来る予定だったんです」
そんな約束は全くしていなかったが、衣奈はきっぱり言い放った。男が勢いよくベンチから立ちあがる。
「はぁ!? てめぇの家なんか、」
「知らないなんて言わせないからね!? 昨日、電話であんっっなに説明したのに!」
衣奈は言い包めるように、男の腕を掴みながら詰め寄った。
「まさかこんなところにいるなんて! もー、ガルくんはいっつもそうなんだから!」
「だ、誰がガルくんだ! 誰が!」
「またそんな格好して! ……あのー、お巡りさん。もう帰ってもいいですか? 帰って、このひとを着替えさせたいんですけど」
「えっ……あぁ……なるほど。そういうことでしたか」
警察官は突然話を振られて一瞬戸惑いを見せたが、ふたりの関係を癖のある男女関係とでもとったらしく、うんうんと頷いてみせた。
「本当に、ご迷惑をおかけしました」
衣奈がもう一度頭を下げる。隣から男の舌打ちが聞こえた。しかし、もう反論はしてこなかった。どうやら成り行きに任せることにしたらしい。
警察官に解放されると、衣奈は男の腕を掴んだまま、自宅であるアパートメントへ向かって歩き始めた。
「おい、離せ」
「まだ駄目。疑われちゃう。とりあえず着いてきて」
「……」
握る手に力が入る。男は納得したのか諦めたのか、抵抗せずにおとなしくついて来た。
アパートの外階段を登り、左右に2つずつ並んだドアのうち、左奥へと向かう。そこが衣奈の部屋だった。
「どうぞ」
男は、少しだけ躊躇したように見えた。
やがて、衣奈の迷いのないキラキラとした瞳に促されたのか、諦めたように大きく息を吐いてから、玄関へ足を踏み入れた。
ドアを閉めた衣奈が、男の脇をすり抜けるように部屋へと上がる。
「待って。いま、足を拭けるもの持ってくるから」
「いらねぇ」
「……やっぱり、部屋には上がるのは、ちょっと?」
「……」
腕を組み、緋色の瞳が睨み下ろしてくる。しばしの沈黙を破ったのは、鋭い視線から目を外さずに見つめていた衣奈の方だった。
「……ねぇ、ウルフガルム」
ぴくり、と男の眉が動いた。
「やっぱり、そう? あなた、なんだよね?」
「……」
衣奈の顔が、まるで宝物を見つけた子供のように緩む。
「人間になれるなんて、びっくりした。あ、でも私はオオカミの姿の方が好きだけどね!」
すると、男は呆れたように苦笑した。
「……ったく。てめぇはほんと、気持ちわりぃ女だな」
次の瞬間、彼の身体を暗闇の渦が包む。
渦がほどけると、漆黒の毛並みに猩々緋色の瞳をしたオオカミが姿を現した。
彼は紛れもなく、シャドウオーダーの怪人、ウルフガルム・シェイドランナーだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます