愚者の火
古野愁人
一
短刀に付着した血液を連れの腰巻で拭う。垢まみれで間違っても清潔とはいえないが、豚どもの汚れた血よりはずっとマシだ。いまだ温もりの残る死骸を爪先で蹴転がして所持品を検める。がらくたばかりで役に立ちそうな物資はない。
思わず舌打ちをしたおれの横顔を連れが不安そうに見つめているのがわかった。相変わらず気に障る野郎だ。気まぐれに殺しても構わないが、こいつはいざという時きっと役に立つ。
腹は減っていないか。そう訊ねると、連れは遠慮がちに頷いた。喰え。生唾を呑む音が薄暗い隧道に響きわたる。隧道、洞窟、迷宮、地下聖堂――呼び方はさまざまあるが、どう取り繕おうとこの場所の本質は変わらない。数多の命を喰らおうとも飽くことを知らない、遠大で貪欲な奥津城だ。
連れが用を足している間、おれは黴と苔に覆われた石壁に背を預けて、荒らいだ呼吸を鎮めようと努めた。死骸の傍らにひざまずいて肉を貪る連れの様子を見るともなく眺めていると、やつの背中に刻まれた十一本の傷が薄闇のなかにぼんやりと浮かびあがって見えた。
その傷はおれがこの忌々しい隧道に足を踏み入れてから経過した日数を表している。十一日。それだけの時間をおれは無為にすごしている。
強い苛立ちと焦燥感に突き動かされて、おれは握りしめたままの短刀を自らの前腕にあてがった。短刀にかるく力をこめる。磨き澄まされた刃は一寸の抵抗もなく皮膚を裂いた。したたる血液が鈍い光を放つ刃をつたって剥き出しの地面に沁みこんでいく。
悍ましいほどの快感に腰が砕け、喘ぎ声が漏れる。あいつの短刀が、あいつのペニスが、おれの肉を犯している。おれの血が、あいつの精液が、飢えた肉を汚している。あいつのペニスが、あいつの精液が――。
絶頂にむけて短刀をより深く肉に沈めようとしたそのとき、聞きおぼえのある情けない悲鳴がおれの意識を現実に引き戻した。
声のする方向を見やると、死骸のそばで腰を抜かしている連れの姿が目にはいった。先ほど殺したはずの豚のひとりが上半身を起こして血に塗れた両腕を連れに伸ばしている。どうやら死に瀕して意識を失っていたところを、肉を食いちぎられる痛みで覚醒したらしい。
恍惚の境地を妨げられて激しい怒りに駆られたが、顔面を返り血で染めて情けない声で助けを乞う連れの姿を見ているうちに、耐えがたい笑いの発作が膨れあがった。
おれは笑った。あいつの幻影が脳裏から消えるまで、腹を抱え、涙を流して大声で笑った。
発作がやんだとき、連れは死にぞこないに首根っこを掴まれて体ごと地面に押しつけられていた。おれは息を整えながら大股で歩み寄り、あいつの形見の短刀を豚野郎のうなじに突き立てた。肥え太った体を蹴り倒し、顔面をかかとで乱暴に踏みつける。達し損ねたことへの怒りをこめて。何度も。何度も。
そうとも、これは八つ当たりだ――いったいなにが悪い?
あいつを失った怒りを、悲しみを、自己嫌悪を、他人にぶつけてなにが悪い?
こいつはとっくに死んでいたが、おれは踏みつけるのをやめなかった。やめられなかった。踏みつけるたびに足の裏から痺れるような快感が脊髄を駆け上がった。今にも絶頂を迎えてしまいそうだった。
だが届かなかった。こんなことで辿りつくはずがない。わかりきっていることだ。あいつが姿を消してから、おれは一度も達していないのだから。
踏みつけるのをやめて、その場に座りこんだ。死体からはみ出たやわらかく温かな脳髄の感触が、外衣をとおして尻に伝わってくる。それは糞便のようだった。
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