醜態の上で踊る画家

@kakanaiyomu98

第1話

「あたしじゃないわよ!」


 女は地団駄を踏むように階段を駆け下りた。「待ちなさい! 階段は静かに!」

 慌てて後を追いかけたが、踊り場で一回転しただけで、女の姿は消えていた。

 一階のホールに駆け戻ると、階段室からタキシード姿の男が現れた。


「まったく、近頃の若い娘は……礼節というものを知らんな」


 年配の男だった。白髪混じりの髪をジェルでなでつけ、手にはステッキを握り締めている。金縁眼鏡の向こうで、糸のように細い目が神経質そうにまたたいた。


「君の連れか?」


 男はステッキで肩を叩きながら言った。


「いえ、私は無関係です。このホテルに泊まっている者です」

「ほう。このホテルに?」


 男は細い目をわずかに見開いた。「すると、あんたがあの手紙の?」

「手紙? ……ああ、はい、そうですが」

 徳次郎が訝りながらうなずくと、男はステッキを放り出して手を叩いた。


「そうか、そうか。あんたがな」

「あの……失礼ですが、あなたは……」

「おお、すまんすまん」

 男はあわてて名乗った。「私はこのホテルのオーナーだよ」

「オーナー?」


 男の着ている服はタキシードというよりはむしろ礼服に近い。しかし、支配人というには若すぎるように見えた。徳次郎の疑念を察したのか、オーナーはにやにやしながら説明した。


 ホテルのオーナーは、三嶋と名乗った。やはりまだ三十代の前半に見える。

 徳次郎が事情を話すと、三嶋は興味深そうにうなずいた。

 話の途中から、ホールにいた他の客たちの視線が集まっているのを徳次郎は感じた。どうやら彼らはホールの展示物を鑑賞していたわけではなく、三嶋と徳次郎のやりとりを遠巻きに見守っていたらしい。オーナーは客たちに向かって笑いかけると、展示コーナーを片付けるようホテルマンに言い渡し、自分は徳次郎を一階の応接室に案内した。


 応接室には、革張りのソファと小さなテーブルが置かれていた。壁には『ホテル五景』と題された大きな写真パネルが掛けられている。

「この写真はね、私の恩師が撮影したものなんだ」


 三嶋はソファに腰を沈めると、壁の写真を見上げながら説明した。ホテル五景とは、彼が自ら考案したホテル内の五つの景観のことで、各景観に一名ずつ著名な写真家が充てられているのだという。

 徳次郎は感心した。わずか三年でこれだけのホテルを作り上げたことといい、三嶋には確かに商才があるようだ。


 しかし、その商才をどこで培ったのか。

 徳次郎の視線に気づいているのかいないのか、三嶋はパネルの写真を順に指さした。

 第一景は箱根外輪山の稜線第二景は長崎港の夜の風景。第三景は鳴門海峡の渦潮。第四景は松島の海。第五景は高野山の早朝風景である。

「ご説明ありがとう。……ところで、どうしてあの手紙のことを?」

「実はね、手紙の差出人は私なんだ」

 三嶋があっさりと白状した。


「そうでしたか。……しかし、ご自分で招待状を送るなど、いささか大げさではないですか?」


 三嶋は意味ありげな笑みを浮かべただけで答えなかった。徳次郎は話題を変えた。

「それで、私の恩師というのは?」

「ああ。……君の恩師と私はちょっとした知り合いでね」

 三嶋は急に歯切れが悪くなり、たどたどしく説明を始めた。


 徳次郎の恩師は、三嶋が経営しているホテルにしばしば滞在する客で、その縁から三嶋とも知り合いになったのだという。

 その客が東京で自分の知人に会ったという話になり、東京で会ったその知人というのが徳次郎だったというわけだ。

 徳次郎の恩師の名は、小松崎茂といった。

 小松崎は戦前に一世を風靡した風景画家である。彼の描く作品は写実的な画風と大胆なデフォルメが印象的で、一時期は抽象表現主義やシュルレアリスムの作家と並べて評されることもあったが、戦後は一転して神秘的な画風へと移行した。



 小松崎茂の画風が変わったのは、三十代も半ばを過ぎた頃だった。

 いや、画風というより作風といった方がいいかもしれない。それまでのデフォルメされた抽象表現主義やシュルレアリスム的な構図から一転して、伝統的な日本画の手法に倣った写実的な画風へと変化していったのだ。

 その転機となったのは彼の愛人、佳子との出会いからだった。

 当時、小松崎は丸の内に事務所を構え、外交官の個人的な依頼を受けて日本の風景を描く画家として知られていた。徳次郎も三嶋もその事務所に何度か足を運んだことがあったから、小松崎の愛人のことは知っていた。その佳子が自殺したと聞いた時、三人は一様に驚きを隠せなかった。


 徳次郎が恩師のアトリエを訪れたのは、自殺から数カ月が過ぎた頃である。

 アトリエには描きかけの絵が立てかけられていた。ひと目で佳子を描いたと分かるほどの出来栄え。しかし、何かが違う。徳次郎は首をひねった。

「小松崎さん」

 アトリエの入り口で声を掛けると、絵筆を手にした小松崎が驚いたように振り返った。

「や……やあ、徳ちゃんか」

 小松崎のやつれた顔を見るのは久しぶりだった。以前はもう少しふっくらした頬と肉付きのいい体型をしていたはずだが、今はほとんど食事を摂っていないかのように痩せこけていた。まるで幽鬼のような形相に思わずたじろいだが、すぐに気を取り直してアトリエに入る。


「その、色々と大変でした」

 徳次郎は言葉を慎重に選んだ。「心中、お察しします」

「ああ……うん」

 小松崎は力なくうなずいた。「まあ、座れよ」

 勧められるまま椅子に腰を下ろすと、小松崎も向かい側に座った。しばらく二人とも沈黙していたが、やがて小松崎が重い口を開いた。


「……佳子は私のことを恨んでいただろうか?」

「それはないと思います。彼女はいつも先生を気遣っていましたから」

 徳次郎はきっぱりと言った。しかし、小松崎は納得しなかった。


「いや、私は佳子のことを何も知らなかった。彼女が何に苦しみ、何に喜びを見出していたかをだ。私は彼女の絵しか見ていなかった」


 小松崎は頭を抱えた。徳次郎は慰める言葉も見つからず、ただ黙って見守るしかなかった。

 やがて、小松崎が顔を上げた。その目には決意の色が浮かんでいる。


「徳ちゃん」

「はい?」


「……私に日本画を教えてくれないか」

「先生に?」


 これは驚くべき発言だ。日本画家を志してから二十年近く、小松崎は一貫して洋画一筋でやってきたのである。

「私には日本画が分からぬ。いや、何もかもが分からなくなってしまったんだ」

 小松崎は苦しげに言った。「このまま描き続けても佳子への償いにはならん……だから」

 徳次郎は迷った。恩師の頼みとはいえ、教えるなんてことは自分にもできない相談だ。しかし、恩師を見捨てることもためらわれた。結局、彼は折衷案を出すことにしたのだった。


 それから半年間、徳次郎は小松崎に日本画の基礎を教えた。絵の具の溶き方から筆の選び方、描き方に至るまで、一通りのことを教え込んだ。そのかいあってか、小松崎の絵は次第に生気を取り戻していった。

 半年後、小松崎は再び風景画の制作に戻った。佳子を描いた絵は完成を待たずしてアトリエの奥深くにしまい込まれたが、徳次郎にはそれが運命づけられたもののように思えてならなかった。


 その日以来、徳次郎徳次郎は彼とは顔を合わせなくなった。徳次郎の恩師、小松崎茂は昭和五十三年三月三十一日に心不全で他界した。アトリエに籠ったまま、誰も気づかぬうちに息を引き取ったのだ。


「先生と最後に会ったのはいつですか?」

 ホテルを出た後、徳次郎は車を運転しながら質問した。助手席の三嶋が答えた。

「亡くなる一週間前かな」

「そうですか……」

 それ以上何も訊けず、徳次郎は口を閉ざした。会話が途切れるのを待っていたかのように、三嶋が話題を変えた。


「ところで、佳子さんの絵はどうだった?」

 徳次郎は思わずアクセルを踏み込むところだった。三嶋の横顔をちらりと見ると、彼は意味ありげな笑みを浮かべている。どうやらこちらの反応を見て楽しんでいるらしかった。

「……実に見事なものでしたよ」

 徳次郎はしぶしぶ答えた。「正直言って、あの絵には心を動かされました」

「そうだろうとも」


 三嶋が自分のことのように自慢する。ふと気になり、徳次郎は訊ねた。

「実を言うとな……」

 小松崎茂と三嶋は古くからの知り合いだったのだ。当然、小松崎が日本画家を目指していたことも知っているはず。にもかかわらず、なぜ彼は日本画を教えろと頼んだのか。

 三嶋の答えは明快だった。

 彼は小松崎に絵の手ほどきをしたことがあったのだという。その縁で小松崎は三嶋に日本画を習いたいと頼み込んできたのだそうだ。しかし、小松崎は結局絵筆を置こうとはしなかったという。

 徳次郎が日本画を教えることになったのも、そんな経緯があったからである。


「絵を習うくらいだから、佳子さんの絵に感化されたんだろう」

 三嶋は車のスピードを緩めながら頷いた。

「彼女が小松崎さんに見せたものとは、何だったんですか?」

 徳次郎が問うと、三嶋はしばらく考え込んだ後で答えた。

「それは私にも分からんよ。だが、おそらく……いや、やめておこう」

 三嶋が口をつぐみ、車内に沈黙が流れる。


「まさか、あの絵が?」

 徳次郎はふと思いついて口にした。

 佳子は小松崎のために一枚だけ日本画を描いたのだ。彼女が最も得意とし、小松崎が一番気に入っていた題材は……。0

 しかし、三嶋はかぶりを振っただけで、それ以上何も語ろうとはしなかった。



 翌朝、徳次郎は自宅にかかってきた電話によって叩き起こされた。受話器を取ると、聞き覚えのある声が聞こえてきた。

〈もしもし……〉 島本吉右衛門だった。〈朝早くからすまんな。今から言う場所に来てくれるか〉 徳次郎は欠伸をかみ殺して聞き直した。

〈どちらですか?〉 〈芝浦や。そこにアトリエがあるねん……まあ、詳しいことは着いてから話すわ〉 島本の声は妙に切迫していた。徳次郎は急いで身支度を整え、アトリエに向かった。


 道中も不安は募るばかりだった。島本がわざわざ徳次郎を呼び出すということは、何か大きな事件が起こったに違いないのだ。

 島本のアトリエはアトリエは二階建てで、一階が仕事場、二階がプライベートスペースになっていた。島本に通された二階の仕事場に徳次郎が足を踏み入れると、そこにはすでに三人の人物がいた。

「島本さん……」

 徳次郎は驚いて言った。「これは一体……」

 島本吉右衛門と佳子の両親である島本長一とその妻トシ子、そして小松崎茂の三人だ。三人とも笑顔で椅子に腰掛けていた。


「お二方は言うまでもないな。この方は小松崎洋路。茂さんの弟だ」

 島本は簡潔に紹介した。

 徳次郎は驚いて彼を見つめた。小松崎茂には弟がいたことは知っていたが、その弟と顔を合わせたことは一度もなかったのだ。

「初めまして」と、小松崎の弟という白髪の男が丁寧に頭を下げた。「洋路です。東京で画商をやっています」

 徳次郎も自己紹介して頭を下げる。それから、島本に向かって訊ねた。

「それで、これはどういうことなんです?」


 島本は小松崎とトシ子に視線を移した。

 徳次郎もつられて彼らを見る。二人はにこにこしながら徳次郎を見つめ返したが、その笑顔にはどことなく陰があるように思えた。

 島本が口を開いた。

「実はな、徳ちゃん。俺は徳ちゃんに謝らなあかんねん」

「謝る?」

「ああ、そうだ。俺はあんたに嘘をついてしまったんや」

 島本はそう言って洋路を横目でちらりと見やった。穏やかな表情だったが、その目に宿る何か異様な光が徳次郎を落ち着かなくさせた。


「嘘? 何のことです?」

 徳次郎は訊ねたが、島本はそれに答えず洋路たちに言った。

「すみません、お三人さん。ちょっと席を外してもらえませんか?」

 二人は素直に椅子から立ち上がった。しかし、そのまなざしはじっと徳次郎に注がれている。徳次郎は思わず目をそらした。なぜか恐ろしかったのだ。

「では、私たちはこれで」と洋路が言った。「吉右衛門さん、後はよろしく」


「ああ。二人ともご苦労さんやったな」

 島本が笑みを浮かべて言う。徳次郎はわけが分からなくなった。

 洋路たちが部屋を出て行き、扉が閉まると、島本は徳次郎に向き直った。その顔から笑みが消えていることに気づいて、徳次郎の背筋が寒くなった。


「さて、何から話したもんかな……」

 島本がゆっくりと口を開いた。「そうやな……まずは俺が茂さんに会ったところから話そか」

「先生に?」

「ああ、そうや。あれはまだ俺が駆け出しの頃やった。茂さん、あんたも知ってるやろうけど、あの人は風景画家として将来を嘱望されとったんや」

 徳次郎は頷いた。小松崎茂は昭和の初め頃に活躍した画家である。彼は東京美術学校で洋画を学び、卒業後はフランスに渡って西洋画を学んだが、やがて日本画に転向した。そして、その才能を開花させていったのである。


「単刀直入に言うとな、俺やねん。茂さんを殺したの」

徳次郎は耳を疑った。

島本吉右衛門は小松崎茂とあまり接点がないはず。茂の日本画から影響を受けることはあるかもしれないが、殺人にまで及ぶとは考えにくい。

しかし、島本の口から語られた真実は徳次郎の想像を遥かに超えていた。


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