ラストナイト・シンデレラ

島原大知

本編

新宿・歌舞伎町。

ネオンに彩られた東京の歓楽街。その片隅に、ひっそりと佇むガールズバー「Luna」の扉が、今夜も開かれる。


***


「麻衣、もう出勤?」

玄関で靴を履く麻衣に、妹の舞が声をかける。薄暗い部屋の中、ベッドに腰掛けたまま、舞は不安そうに麻衣を見つめていた。青白い顔に浮かぶ心配そうな表情。麻衣は、そんな妹の姿に胸を締め付けられる。

「ええ、今日は少し早番でね。舞はゆっくり休んでいてね」

そう言って麻衣は笑顔を見せる。けれど、その瞳の奥には憂いの色が滲んでいた。笑顔の仮面の下には、いつも不安と疲労が渦巻いている。

麻衣と舞の両親は、数年前に事故で他界した。それ以来、麻衣は舞の病気の治療費を稼ぐため、必死に働いている。看護師の勉強をする傍ら、生活費を得るためにガールズバーでアルバイトをしているのだ。

「行ってきます」

薄暗い部屋に鍵を閉め、麻衣は夜の街へと繰り出す。路地に入った瞬間、まるで別の世界に迷い込んだかのような錯覚に襲われる。

ネオンサインの洪水。酔客の嬌声と笑い声。大音量の音楽。歌舞伎町の喧騒が、五感を圧倒する。

ざわめく人々の波に呑まれながら、麻衣はネオン街を歩く。雑踏に揉まれる度に、鋭利な孤独が胸を刺す。誰ともぶつかることなく、麻衣はひたすら前を見据える。

華やかな噂とは裏腹に、ガールズバーの世界は厳しい。売上げのノルマに追われ、いつも美しく在り続けなければならない。体調を崩せば、すぐに首を切られる。明日のシフトがもらえるかどうかも分からない、そんな不安定な日々の中で、麻衣は今日も笑顔を作る。

「よっ、麻衣ちゃん。今日も可愛いね〜」

派手な化粧をした女の子たちが、軽い調子で麻衣に話しかける。けれど麻衣には、その笑顔の裏に隠れた疲労が見えた。みんな必死なのだ。生きるために、自分を偽り続けている。

薄暗い店内。ドレスに着替え、笑顔を作る。甘い香水の匂いが鼻をくすぐる。客を喜ばせるためなら、自分を偽ることも厭わない。

これが、私の日常──。

溜息をつきそうになるのを、麻衣は必死でこらえる。吐息の奥から込み上げてくる虚無感。それを誰にも悟られてはいけない。

今日も、張り付いた笑顔で客をもてなす。キラキラと輝くシャンデリアの下で、麻衣はひたすら笑顔を作り続ける。シャンパングラスの触れ合う音が、不規則に響く。それが、「Luna」というステージでの麻衣の役目だった。


***


「ねえ、君」

ふいに、低く落ち着いた声が麻衣の耳に届く。

はっとして振り返ると、そこには見慣れない男性客が立っていた。濃紺のスーツに身を包んだ、30代半ばくらいの男性。切れ長の瞳が、穏やかに微笑んでいる。

「あの……私に、何か?」

「君の瞳が綺麗だなと思ってね。こんな美しい瞳の持ち主とは、話してみたくなったんだ」

その言葉に、麻衣は一瞬戸惑う。客からの褒め言葉なんて、日常茶飯事のはずなのに。けれど、この男性客の眼差しは、他の男とは違っていた。

「お客様、光栄です。……私で良ければ、お話しましょうか」

麻衣は精一杯の笑みを浮かべる。それが彼女の仕事だから。けれど心のどこかで、この男性客への好奇心が芽生え始めていた。

「君のような女性が、どうしてこんな場所で働いているんだい?」

その問いかけに、麻衣は一瞬言葉を失う。

「それは……生活のためです」

思わず、本音を漏らしてしまう。麻衣は慌てて口元に手を当てた。

「そうか。生きるために、か」

男はゆっくりと麻衣を見つめる。その瞳の奥には、悲しみにも似た感情が揺らめいているような気がした。

「私は速水圭吾と言います。君も、きっと辛い思いをしているんだろう。もしよければ、私に話を聞かせてくれないかな」

その言葉に、麻衣の瞳が潤む。こんな自分の境遇を理解してくれる人がいたことが、どうしようもなく嬉しかった。

こうして麻衣と圭吾は言葉を交わすようになる。ネオンに彩られた歌舞伎町の片隅で、孤独な魂同士が出会った瞬間だった。

その出会いが、麻衣の運命を大きく変えることになるとは、まだ誰も知る由もなかった――。


***


「麻衣、最近なんだか楽しそうね」

ロッカールームで着替えをする麻衣に、同僚の女の子が声をかける。

「え? そんなことないわよ」

麻衣は慌てて首を振る。けれど、頬に朱色が散るのを隠し切れない。

最近、麻衣は圭吾と頻繁に会うようになっていた。ガールズバーでの過酷な日々の中で、圭吾との時間だけが心の安らぎになっている。穏やかな口調で語る彼の言葉に、いつも救われる思いがした。

「本当に、何もないの? その表情、恋する乙女そのものよ」

からかうような同僚の言葉に、麻衣は思わず目を伏せる。圭吾のことを、恋だなんて──。けれど、心のどこかで密かに芽生える感情を、否定できずにいた。


***


「麻衣ちゃん、最近売上が落ちてるみたいだけど?」

ある日、店長に呼び出された麻衣は、厳しい表情で問い詰められる。

「申し訳ありません……。もっと頑張ります」

麻衣は平謝りに頭を下げる。売上のノルマ。それは、ガールズバーで働く女の子たちにとって、常に頭の上に吊るされた剣のようなものだ。

「頑張るだけじゃダメなのよ。結果を出さなきゃ。このままじゃ、君もクビになっちゃうわよ」

冷たい言葉を残し、店長は麻衣の前から立ち去った。不安で胸が押しつぶされそうになる。このバイトを失ったら、妹の治療費はどうすれば──。

そんな時、店の片隅で圭吾の姿を見つける。心配そうに、麻衣を見つめている。

「どうしたんだい? 辛そうな顔をして」

「……店長に、怒られて。私、このバイト続けられるか分からないの」

今にも泣き出しそうな麻衣を、圭吾は優しく抱きしめる。その温もりに、麻衣の心は救われた。

「君は一生懸命働いている。それを誰よりも知っているよ。私が君の味方でいる。一緒に乗り越えていこう」

その言葉に、麻衣は嗚咽を漏らす。圭吾に支えられることが、どれだけ心強いことか。


***


だが、そんな矢先、最悪の事態が起こった。

店内で、酔客とトラブルになった麻衣は、思わず酒瓶で相手を殴ってしまったのだ。

「君のような女の子は、こうでもしないと分からないだろ?」

絡んでくる客の下衆な言葉に、麻衣の理性が飛んだ瞬間だった。

「麻衣ちゃん、クビよ」

翌日、痛々しい表情の店長から、麻衣は容赦なく解雇を告げられた。

「お願いします……。私、このバイト以外に……」

しがみつくように頼み込む麻衣に、店長は冷たく告げる。

「君みたいなトラブルメーカーは、ウチには不要なのよ」

ガールズバーを追い出された麻衣は、虚ろな瞳でネオン街を歩く。行き交う人々の笑い声が、むごたらしく耳に響く。

生きる希望を失った麻衣。途方に暮れながら、とぼとぼと路地裏を歩いていた。

「麻衣!」

いきなり、背後から圭吾の声がした。麻衣が振り返ると、圭吾が息を切らせて駆け寄ってくる。

「聞いたよ。君が解雇になったって……」

「……もういいの。私なんかが夢見ても、無駄なことだったわ」

諦めの言葉を口にする麻衣に、圭吾は真剣な眼差しを向ける。

「それでも、夢を諦めちゃいけない。君にはまだ、妹さんがいるだろう? 私についてきてくれ。私が、君の新しい人生の道を照らしてみせるよ」

その言葉に、麻衣の瞳が潤む。圭吾の真摯な思いが、胸に迫る。

「……本当に、私なんかでいいの?」

「ああ。君は私の光だ。君と一緒に歩んでいきたいんだ」

圭吾に手を引かれ、麻衣は新しい一歩を踏み出す。ネオンの煌めきを背に、二人は未来へと歩き出した。

まだ先は見えない。けれど、麻衣の心には希望の灯火が灯っていた。この男性と共に歩む未来を、信じることができる気がしたのだ。

歌舞伎町の喧噪は、今夜も麻衣たちの背中を照らし続ける。けれど、もうそれは脅威ではない。

圭吾と共に歩む勇気が、麻衣の心を満たしていた。どんな困難も乗り越えられる。そんな予感に満ちた一歩だった。


***


「麻衣、君は素晴らしい看護師になれる」

圭吾の紹介で、新しい仕事を始めた麻衣を、彼は優しく励ます。

麻衣は小さな病院で看護師見習いとして働き始めていた。圭吾の知人の医師が経営する病院だ。けれど、医療の現場は甘くない。覚えることは山ほどあるし、患者さんの命を預かる責任の重さにも、麻衣は圧倒されていた。

「でも私、本当にできるのかな……」

不安を口にする麻衣の手を、圭吾はそっと握る。

「君なら必ずできる。私はそう信じているよ」

その言葉に、麻衣は小さく頷く。圭吾がいてくれるから、頑張れる気がする。看護の勉強に打ち込む麻衣。その姿を、圭吾は温かく見守っていた。


***


「お姉ちゃん、今日も遅くなるの?」

夜遅く帰宅した麻衣を、舞が寂しそうに出迎える。麻衣は申し訳なさそうに、妹の頭を撫でた。

「ごめんね。お仕事、たくさんあって……」

看護師の勉強と新しい仕事。麻衣は毎日忙しく、妹との時間もままならない。けれど、これは妹の未来のためだと自分に言い聞かせる。

「そういえば舞。良いニュースがあるの」

食卓に向かう妹に、麻衣は明るい声で話しかける。

「圭吾さんの知り合いの医師から聞いたんだけど、舞の病気、新しい治療法があるんだって」

その言葉に、舞の瞳が輝く。

「本当に? 私、治るの?」

「ええ。きっと良くなるわ。そのための手術なんだけど──少し費用が掛かるの」

言葉を濁す麻衣に、舞は不安そうな表情を浮かべる。

「お金、大丈夫なの? お姉ちゃん、働き過ぎじゃない?」

「大丈夫よ。お姉ちゃんがしっかり稼ぐから。舞はお姉ちゃんを信じていて」

麻衣は精一杯の笑顔を作る。けれど、医療費のことを考えると、不安が胸を過ぎる。今の収入では、とても賄えない。また、あの場所に戻るしかないのか──。


***


「戻ってきたのね、麻衣ちゃん」

再びガールズバーに戻った麻衣を、同僚たちが冷ややかな眼差しで迎える。噂は広まっていた。麻衣が粋がって店を辞めたこと。けれど、結局戻ってきたのだと。

「頑張るわ。妹のために……」

麻衣は歯を食いしばる。ドレスに袖を通し、窓の外のネオンを見つめる。キラキラと輝く歌舞伎町の灯りが、今はむごたらしく感じられた。

客の テーブルを回る麻衣。張り付いた笑顔で、酔客たちの相手をする。けれど、心はどこか冷たいまま。以前よりも、もっと必死に振る舞わなければならない。妹の手術費用を稼ぐのだ。

「麻衣、何してるんだ!」

ある時、売上げの悪さを咎められ、店長に叱責される麻衣。思わず、涙があふれてしまう。

「店長、お願いします……。私……」

泣きじゃくる麻衣に、店長は冷たく言い放つ。

「自業自得よ。みっともない」

そう捨て台詞を吐いて、店長は立ち去った。途方に暮れる麻衣。店の裏通りで、ガックリとへたり込んでしまう。

「どうしたらいいの……。私……」

ぽつりと呟く麻衣の肩を、不意に誰かが抱きしめた。

「麻衣、君は一人じゃない」

振り返ると、そこには圭吾が立っていた。

「私も君と一緒に戦うよ。必ず道は開ける。諦めないで」

その言葉に、麻衣は圭吾に縋りつく。今は、彼の胸に顔を埋めて泣くことしかできない。けれど、心の奥底で再び希望の灯火が灯る。


***


「麻衣、君の妹さんの手術、無事に終わったよ」

病院で麻衣を出迎えた圭吾が、麻衣に優しく告げる。

「本当? 良かった……!」

安堵に腰を抜かしそうになる麻衣。けれど、すぐに現実の壁がのしかかる。

「でも、医療費……」

「心配しないで。君と一緒にがんばろう」

圭吾は麻衣の手を握り、力強く言う。

「麻衣、君と一緒にいたい。これからもずっと、君の隣にいさせてくれないか」

その言葉に、麻衣の瞳が潤む。

「圭吾さん……」

「君も同じ気持ちだと思ってる。一緒に幸せになろう」

圭吾の瞳に揺らめく真摯な想い。麻衣は頷くしかなかった。

こうして二人は結ばれた。歌舞伎町のネオンを背に、幾多の苦難を乗り越えて──。

「舞、お姉ちゃん、幸せになるからね」

病室で眠る妹に、麻衣は囁く。窓の外では、歌舞伎町の喧騒が途切れることなく続いている。けれど、もうそれは脅威ではない。

麻衣の心は、新たな人生への希望に満ちていた。圭吾と共に歩む未来。そこには光しかないのだから。

どんなに厳しい現実でも、乗り越えられる。二人でなら──。

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ラストナイト・シンデレラ 島原大知 @SHIMAHARA_DAICHI

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