11魔鏡の世界
楽しそうな少女の笑い声が聞こえる。
廃墟が映し出された鏡の破片に吸収された類の体は、粒子のように細かくなり、誰かの記憶の中にいた。意識ははっきりとしており、トンネル状の巨大な映写幕の中を落ちていくような奇妙な光景が広がっていた。
鮮明に映し出される記憶の数々が類を取り囲む。
アンティークの家具が置かれた広いリビングルームに設置された大きな鏡の前に、若い女が立っていた。女は、駆け寄ってきた幼女を抱き上げて、笑みを浮かべる。そして幼女は微笑み返す。
お母さん大好き―――
場面は変わり、リビングルームから家具が撤去されて、生活感がない売家になっていた。玄関の鍵穴に細長い金属を入れてピッキングする男と、長い黒髪の少女の姿が見えた。玄関を開けた男女は殺風景なリビングルームに侵入して、キスを交わす。フローリングに横たわった少女の衣服を脱がせる男。その後、少女は男に愛撫されて、快楽に悶える。
お兄ちゃん大好き―――
ふたたび場面が変わった。桃色のカーテンが引かれた室内の片隅に置いてある机に座る少女は、卓上カレンダーを手にした。西暦一九九一年、暦十二月二十八日に印をつけると、余白にサイパン旅行と書き込んだ。
その直後、類は制御を失った軽飛行機の中にいた。六十代前半の操縦士と十代の乗客を含めた六人の動揺する声と悲鳴が機内に響く。機体は一気に急降下し、鬱蒼としたジャングルが目の前に迫った。
自分が搭乗していた旅客機の墜落の瞬間とよく似た光景を目の当たりにして、フラッシュバックに襲われた類は、悲鳴を上げながら、魔鏡と呼ばれる廃墟の鏡の世界へ抜け落ちた。そして、粒子だった体は瞬時に元の形状を取り戻し、仄かな月明かりが差すリビングルームの床に尻もちをついた。
恐怖に身震いし、乱れた息を整えようとした。やはり飛行機は一生無理そうだ。それにしても、何故、魔鏡なんかに移動してしまったのか。どのようにして学校へ戻ればよいのか……
「くそ……どうなってるんだよ……」
自分が置かれている状況を冷静に考えようとした。そのとき、正面にひとの気配を感じたので、驚いて咄嗟に顔を上げた。すると、白いロングワンピースに身を包んだ少女が立っていた。
このとき、純希と一緒に撮った画像に映り込んだ少女の影はこの子だとわかった。そして、ここに降り立つあいだに見たすべての光景が、この少女の過去の記憶なのだろうと理解した。
立ち上がり、少女から離れた。
少女は後退りする類に尋ねた。
「あなたは誰なの? なぜここに?」
学校の鏡の世界に、見ず知らずの部外者が突然現れたら驚くだろう。そして自分も、少女と同じ質問を部外者にするはずだ。
旅客機が墜落してからきょうまでのできごとを少女に打ち明ければ、島から脱出するために必要な手がかりを得られるかもしれない。
だが……少女の記憶の中で見た卓上カレンダーの西暦は一九九一年。少女はまちがいなく廃墟の元所有者の娘だ。三十年前に行方不明となった人物がここいる。
なぜ……。
もしも自分たち七人と同じ状況で鏡の世界にいるなら、どこかで歳をとらずに寝起きを繰り返していることになる。なぜなら、少女は死んだのではなく、行方不明者なのだから。
どうして少女が鏡の世界にいるのか気になる。それに……卓上カレンダーにサイパン旅行と記入していたので、なおさら気になる。自分たちが搭乗していた旅客機の墜落となんらかの関わり合いがあるとしたら……。
(怖気づいている場合じゃない。訊かなきゃいけいないんだ、自分たちの運命のために!)
「無料でサイパンに行けるモニターツアーの登録をして……」
類が言っている意味がわからない少女は首を傾げた。
類は考える。
(モニターツアー……三十年前にそんなものあるけないよな。インターネットすら一般に普及していない時代だ)
類は少女にわかるように一連の流れをおおまかに説明し始めた。
「あるツアー会社の抽選で、無料で行けるサイパンツアーに当選した俺は、友達を六人誘って飛行機に乗った。それがフライトから数時間後、俺たちが乗った飛行機は無人島に墜落し、機体は大破した。生存者は俺たちだけ。その後、海を目指してジャングルを歩いたんだけど……」
類の説明の途中で、少女は静かな口調で言葉を連ねた。
「大地に根を下ろす植物は硬質で摘み取ることすらできないのに、散った植物は簡単に握り潰せる。虫もまた同じ。生体はまるで石のように硬い。だけど生命線が断ち切られているものは脆い。そして、眠れば鏡の世界、目覚めればジャングル」
鳥肌が立った。自分たちと同じ状況でここにいる。だとしたら三十年ものあいだ、鏡の世界と現実を行き来していることになる……。
(いったい、どういうことなんだ?)
「あなたはいま眠っている。そして鏡の世界にいる」類を見据えて、もう一度、訊いた。「あなたは誰なの? なぜ、私の鏡の世界に? あなたの鏡の世界はここじゃない。どうやってここに来ることができたの?」
「学校の鏡を割った。夢の世界の鏡を割ってもらったんだ。気がつけばここに……」
「鏡の外に協力者がいるのね? だってここからでは、ドアすら開けられないもの」
「うん」大切な協力者、理沙がいる。「俺だけじゃ何もできないから」
「あなたがいる鏡の世界と偶然繋がった。もう二度と起きない現象だと思う。そう……偶然……」
偶然この世界に……。
少女は島のゲートの場所を知っているのだろうか? いや……もし知っているのだとしたら、とっくに島から脱出しているはずだ。鏡の世界にいるはずがない。
何から何まで気になることばかり……。
訊きたいことがたくさんある。何から訊けばよいのか迷うほどたくさんの質問がある。
「俺は類。君の名前は?」
「小夜子(さよこ)」
もし、小夜子もネバーランド海外のツアーでサイパンに向かったとすれば、今回の一件はツアー会社が関係しているということになる。ツアー会社の謎を明らかにしたい。カレンダーに記していたサイパン旅行について訊いてみた。
「小夜子もツアーでサイパンに?」
「どうして私がサイパンに出かけたことを知ってるの?」
「この世界に通り抜ける途中で小夜子の記憶を見たから」
「だったら何も言う必要はない。軽飛行機が島に墜落する瞬間を見たんでしょ?」
「見たよ。見たけど、詳しく知りたいんだ。未だにどこかの島で寝起きしているなら、情報交換したほうがお互いのためだ」
類の言葉に驚いて、目を見開いた。
「未だにってどういうこと?」
類も驚いた。寝起きを繰り返しているなら、島にいる年数を把握しているはずだ。
「小夜子は何歳?」
「十七歳」
「俺は西暦二〇二一年の十七歳なんだ。小夜子は一九九一年の十七歳……」
「二〇二一年? あれから三十年もたったの? 私の体はどうなってるの?」
寝起きを繰り返しているわけじゃないのか? 眠ったままってことなのか? まるで『眠り姫』じゃないか、と動揺する気持ちを抑えて質問を続けた。
「もう一度、訊いていい? 小夜子はツアーでサイパンに行ったの?」
「私の体の行方を類に訊いたところで答えは出てこないよね。ごめんなさい」
自分がどこで寝ているのかさえもわかっていない……どういうことだろう、と、思ったが、まずはツアー会社について明らかにしたい。
「いいんだ。それよりも俺の質問に答えてもらえる?」
「私はツアーでサイパンに行ったわけじゃない。お祖母ちゃんがサイパンに住んでいて、正月を一緒に過ごさないかと誘いの電話があったの。だから私は、ひとりでお祖母ちゃんの自宅に行くことにした」
「……」
(ツアーじゃない?)
「無事にサイパンに到着した翌日、観光客を相手に商売をしているお祖母ちゃんの友人に誘われた私は、四人のアメリカ人観光客と一緒に、そのひとが操縦する軽飛行機に乗ったの。
最初は楽しかった。でも、しばらくしてスコールに見舞われた。すぐに引き返そうとしたんだけど、災難は続くものでエンジンが故障して、無人島に墜落した」
呟くように疑問を口にした。
「ツアー会社は関わっていないのか?」
「そういえば……」ふと思い出す。「同乗したひとたちはツアーでニューヨークからサイパンに来たって言っていた。彼らも抽選で無料ツアーに当選したって言っていたような……」
目を見開いた。
「無料ツアー?」
「飛行機や旅先のホテルや送迎まで、ツアー会社が無料で手配してくれる。添乗員もいないし、個人旅行みたいに自由に行動できる最高の無料ツアーに当選したから、常夏のサイパンで過ごすことにしたって言ってた」
添乗員もいない個人旅行のような内容も、類が登録したモニターツアーと同じだ。運営者が異世界の者なら神出鬼没。
「あのさ……」恐る恐る尋ねた。「そのツアー会社の名前はわかる?」
「わからない」
ツアー客と一緒になったとしても、ツアー会社の名前を訊くひとはほとんどいない。 “ツアーなんです” “そうですか” と、そんな単純な会話を交わす程度だろう。
それに……ツアー会社が関係していたとすれば、生存者は自分たち同様、ツアーで訪れた四人のみで、小夜子は即死だったはずだ。だが、小夜子は生きていた。
だとしたらツアー会社は無関係? やはりバミューダトライアングルの伝説のような現象や、墜落の衝撃で偶発的に島へとワープしてしまったのだろうか?
(どういうことなんだろう?)
「操縦士は、ニューヨークから来た彼らから、ツアー会社のリーフレットを貰っていた。操縦士も観光客を相手にする仕事だから、商売上、気になったんだと思う。たしか……鍵が壊れた手提小型金庫を小物入れの代わりに使っていて、その中にしまっていたような気がする。ごめんなさい、役に立てなくて。記憶が曖昧なの」
ツアー会社の名前を聞けなくて残念だがしかたがない。
「いや、いいんだ。墜落してからの話の続きを聞かせてもらえる?」
「墜落後、操縦士以外の私たちは意識を取り戻した。彼はひどく血塗れだった。いまでも鮮明に思い出す、あの悲惨な姿を……」
夥しい死体を目にした。戦慄の光景が脳裏に焼きついている。
「わかるよ、その気持ち。俺たちは無傷だったけど、ほかの乗客は血塗れで死んでいたから」
「体に付着した血は操縦士の血……私たちも無傷だった。ここがミクロネシアのどこかの無人島なのだろう、と、考えた私たちは機体から出て救助を待つことにした。けど、ジャングルの中にいては自分たちの身を隠してしまう。だから全員で浜辺を目指すことにした」
「俺たちと一緒だ……」
「歩き出してすぐに、墜落した軽飛行機の近くに急勾配があることに気づいた。見下ろしてみると、そこには川が流れていた」
「え?」
(川だって? ちょっと待て……ちょっと待てよ……)
浜辺を目指して歩いていた途中で、墜落した軽飛行機を発見した。その後、道子を抱きかかえて転落した急勾配の下に川が流れていたのを思い出す。
ひょっとして、あの軽飛行機は小夜子が乗っていた機体ではないだろうか……
だが、大破した機内の座席には夥しい血痕が……
搭乗者全員が絶命したものだと思っていたが、あの血はすべて操縦士の体から流れ出たものなのだろうか……
だとすれば……機体の下に転がっていた髑髏は操縦士の頭部なのか?
ということは……やはり……小夜子は三十年ものあいだ、あの島のどこかでいまも眠っている?
類は墜落していた軽飛行機に関して何も言わずに、黙って小夜子の話を聞き続けた。
「川で血を洗い流したあと、浜辺を目指して歩いた。しばらくして浜辺に辿り着いた私たちは、植物や昆虫が鉄のように硬いことに気づいた。異常としか言いようがない不気味な光景だった。だから確認のためにすごい実験をしたの」
息を呑んだ。
「どんな?」
「大地に落ちた木々の枝を集めて焚き火を作った。そして、生け捕りにした魚を熱い火の中に放り投げたの。どうなったと思う?」
察しがつく。小夜子の質問に答えた。
「薪が灰になっても魚は生きていた」
「正解。魚は海水に覆われていた。魚にとっては火の中でも海と同じ環境だった。生体は目に見えない不思議な力に守られている」
「やっぱり……生体はなんらかの力に守られているのか……」
(俺たちの仮説は当たっていた……)
「本当に信じられないことばかり」
「常識という概念を根底から覆す驚異の島だ」
「あの島に常識は存在しない。夜を迎え、眠りに就けば鏡の世界」
「俺たちは学校の鏡の世界にいる」
「ここは鏡に閉じ込められた世界なの。私たちは、全員が異なる鏡の世界を見続けた結果、ある共通点に気づいたの」
「共通点?」
「思い出深い場所にある鏡の世界へ意識が移動していた。私たちにとってたくさんの思い出がある場所や、大切な場所にある鏡がこの世界となる」
なぜ、学校の鏡の世界だったのかという疑問が解けた。想像したとおり、これから先も七人の意識は、学校の鏡の世界とジャングルを行き来することになる。
「なるほど……校内だった理由がそれか……」
「全員が自分にとって、一番思い出深い場所にある鏡の世界を見続けた。そして、鏡の世界と現実世界の鏡は繋がっている」
「だから俺は彼女を協力者にして、あの島から脱出する手段を探しているんだ」
「彼女と鏡でやりとりを?」
「ああ」
「私もお兄ちゃんとここでやりとりしていた。ずっと……ずっと……」
小夜子の記憶の中で見た血縁関係にない兄のことだと理解した。だが彼は、三十年前に魔鏡の前で衰弱死している。それを知っているのだろうか……酷な質問かもしれないが類は訊いてみた。
「小夜子のお兄ちゃんは……」
質問の途中で双眸に涙を滲ませながら、首を横に振った。
「死んだの。愛していた。これ以上ないくらいに愛していた。いまも愛してる。訊かないで、お願い……何も訊かないで。つらいのすごく……与えられた罪と罰以上に……」
小夜子の言葉が気になる。
「与えられた罪と罰って?」
「この鏡の世界は、思い出深い場所であるのと同時に、殺人を犯した者が閉じ込められる牢屋でもある。殺人を犯せば永遠に鏡の世界に幽閉される。いつ、どのタイミングで牢屋になるのか、それはその時が来たらわかる。罪と罰、愛の代償の意味はいずれ理解できる。あなたが彼女を愛しているなら……」
“彼女を愛しているなら” つまり理沙を殺すってことなのか?
「俺は殺人なんて犯さない。だから鏡の世界が牢屋になることはない」
「もしかしたら友達を殺すかも……」
純希たちを殺す。それもあり得ない。みんな助け合っている。
「俺には関係ない。だけど鏡の世界が殺人を犯した者の牢屋だってことは覚えておくよ」と、言ったあと、彼女が殺人を犯すようには見えなかったので率直に尋ねた。「だけど小夜子がお兄さんを殺したわけじゃないだろ?」
「いいの、その話は……いずれあなたの身に起きる。島の話に戻っていいかな?」
質問を逸らされてしまった。もし、愛する理沙が死んでしまったら、自分も詳しくは答えたくないはずだ。小夜子が兄を殺したわけではない、と、解釈し、それ以上、追及しなかった。
「聞かせてほしい」
話を続けた。
「あの島で寝起きを繰り返し、島と鏡の世界を行ったり来たりしているうちに、島は現実世界じゃないって、全員がそう思い始めたの」
「あの島は異世界だ」
「私たちも異世界だと考え、島から脱出するためのゲートを探そうとした。スコールに見舞われた軽飛行機は、エンジントラブルを起こして墜落した。そのときに時空と空間を超えて、現実世界と異世界を繋ぐゲートを通り抜けてしまったのだろうと考えた」
「墜落の衝撃……」
「もちろん、それも考えた。私たちは、いろいろと意見を出し合いながら、ゲートを探すために、こんどは浜辺からジャングルへと移動した。だけど、その翌日、ジャングルで方向感覚を失い、完全に迷ってしまったの。それから私たちは、四日間もジャングルをさまよい歩いた」
「肝心なゲートは見つかったの? どうすれば現実世界に戻れるのかを知りたい」
「島はあなたちの身体と繋がっている。島の謎と自分たちの身に起きたことを合わせてカラクリと言うなら、その答えさえわかればゲートはどこにでもある。現にいまも島にある。常にそれはある。いつでも島から脱出できる。但しカラクリの答えがわからないかぎり、それは目に映らない」
「ゲートはどこにでもある?」訝しげな表情を浮かべる。「なぞなぞみたいなこと言われても困る」
「なぞなぞ……これは人生において究極のなぞなぞと思えばいい。異なる島の謎は、一見バラバラなようで、たったひとつの共通点がある。それが自分たちの身に起きたことと、島を繋げるカラクリの答え。異なる謎がひとつにまとまったとき、まるでジグソーパズルのピースがすべて収まったときのように、ひとつの絵となる共通点……つまり答えが見える」
「やっぱり、明彦が言うように謎にも共通点があるのか。その共通点を教えてほしい」
「その共通点がわかれば自分たちの身に起きたことを理解できる。でも各々が理解しないと島に置き去りにされる。あたしみたいに……」尋ねた。「本当にあの島から出たいの? 本当は滞在し続けたいんじゃないの? あなたが殺人を犯さなければ永遠の十七歳でいられる……それがあの島なの。時が止まった島。あなたの時間は止まり続ける。永遠の十七歳。あたしも永遠の十七歳であり、魔物でもある」
「魔物?」
小夜子は答えない。
「……」
スマートフォンの日付表示が表す止まった日付は、自分たちの年齢なのではと考えていた。三十年前の人物が十七歳の姿のままここにいる、ということは、時が止まったままという何よりの証拠。時が止まった異世界の島と解釈してよいものなのだろうか……
「真実の中に現実がある。真実を知り、現実を見る。この意味がわからなければ、結局は自分たちの身に起きた現実と、島の謎は解けない。カラクリは永遠に解けない。真実こそ現実。それがわからなければ、それこそ永遠の十七歳」
真実とはなんだ? 真実と現実―――自分たちの身に起きたことは、旅客機が墜落し、奇妙な異世界のような島に滞在する羽目になったということ。それ以外、何があるというのだ。それが真実であり現実だ。
「遠回しに言わないではっきり言ってほしい」
遠回しに言っているつもりはない。小夜子自身も答えを受け入れたくないので、このような説明しかできない。
「私は彼らが導き出した答えが本当に合っているのかを確認するために、数日間ジャングルを迷いながら、ようやく惨劇の場に戻った」
墜落現場で答え合わせ……どういう意味だろう。
「惨劇の場? 軽飛行機の墜落現場に戻る?」
「そう」軽くうなずいた。「そこに島のカラクリの確実な答えがあると言っていた。それこそ自分たちの身に起きた真実であり現実だと言っていた」
あの場所には乗客の死体と飛行機の残骸だけだった。自分たちはゲートを見るためのヒントが欲しくて墜落現場に戻ろうとした。それなのに……答えそのものがある……どういうことだろう、と思った。
「どうして、墜落現場なんかに……」
墜落現場にて彼らが言っていたこと、そしてそこで見た光景を話す。
「雲の切れ間から眩い光が射している、彼らはそう言っていた。太陽とはちがう光、月とはちがう光。その光はカラクリが解けていない私には見えなかった。そんな光は空のどこにもなかった。
でも、彼らの手が仄かに金色に光っているのだけはわかったの。彼らは私にカラクリの答えを説明しようと必死だった。だけど……私には何も理解できなかったし、受け入れたくなかった。永遠の十七歳のままでいいって思ったことを覚えている」
「理解できなくてもいい。彼らが言っていた答えを教えてほしい」
だが小夜子は答えない。
「すべてを受け入れて、現実を見るんだ。そう言われたけど、どれだけ説明されても私には理解できなかった。だけど、いいの。お兄ちゃんが死んだ日に心を失ったのだから……」
“お兄ちゃんが死んだ日に心を失った” 。愛するひとを亡くせば、すべてを失ったかのように感じるだろう。もし、理沙を失ってしまったら……そう思うと、小夜子の気持ちも理解できる。主観的な考えで小夜子の言葉を重要視せずに、最も肝心な質問をした。
「カラクリが解けた人たちは現実世界に戻れたの?」
「彼らは、金色の光に包まれて島から消えた。無事にゲートを通り抜けたんだと思う」会話の途中で眩暈を感じ、足元をふらつかせた。「魔物が私に……意識が薄れていく……声が聞こえる……魔物の声が……死神の声が……」
「どうしたんだよ?」
小夜子は耳を塞ぎ、類に背中を向けた。そして、突然、叫び声を上げた。
「私を解放してぇ! 殺す気はなかったの! 気づいたときには骨と皮だった! もうひとりの自分の囁きが、抗えない囁きが聞こえたの!」
意味深長な言葉を叫んだ小夜子の肩を引き寄せた。まだ訊きたいことがある。謎と真実、その繋がりを知りたい。
「おい! どうしたんだよ!」
「助けて! 私は永遠の十七歳であるのと同時に魔物なの! どうか類は魔物にならないで!」
「小夜子!」
つぎの瞬間―――
耳を塞いでいた手を下ろした小夜子は、体を左右に捩らせた。その直後、断末魔に近い悲鳴を上げた。それは女の声でも男の声でもない、魔物そのものだった。
小夜子は後ろ向きの状態のまま、じりじりと距離を縮めてきた。怖くなった類はドアに駆け寄り、ドアノブに手を伸ばした。だが、ドアノブを回そうとしても回らない。
「来るな! こっちに来るな!」必死に声を張った。「来るなって言ってるだろ!」
悲鳴が止んだ。身を捩じらせながら振り向いた小夜子は、白目が消えた真っ黒な双眸を類に向けた。
慄然とする類の視界に飛び込んできたのは、小夜子とは思えぬほど恐ろしい顔つきをした化け物だった。
(怖い! 誰か助けて!)
葉脈のように青い血管が浮き上がった人差し指を類に向けた。
「お前とは……一度、目が合っている……」
小夜子の最後の意味深長な言葉、“もうひとりの自分の囁き” の意味を知りたかった。だが、先ほどまでの小夜子はもういない。人格交代のさいに聞こえる声のことだろうと解釈した。
「誰だよ、お前! 誰なんだよ!」
「ここに来る連中が死神屋敷と言っているのを何度も聞いた。死神……悪くない呼び名だ。私は魔物……地縛霊であるのと同時に、お前ら人間が言う死神のような存在だ」
慄然とする類は、壁に背をつけたまま身震いする。
(死神だって? それに地縛霊ってなんのことだよ? 魔鏡の前で何人もの若者が衰弱死している。そして小夜子の兄が死んだのも、全部こいつの仕業なのか?)
「去年のいまごろだったな……お前がここに現れたのは。ぎゃあぎゃあとうるさいガキが二匹。威勢のいいガキを殺すのが一番面白い。あのときも殺意が湧いた。だが、やめた。私が手を下さないときは、どんなときだかわかるか?」
恐怖心から動けない。
「わかるわけないだろ……」
「死の影が見えたときだ。黒い靄……見たことはあるか? 黒い靄を……」
ここのリビングルームを映し出していた鏡の破片が黒い靄に覆われていたのを思い出し、恐る恐る訊いた。
「黒い靄がなんだっていうんだよ……」
「体を取り巻く黒い靄、それが死の影だ。お前といたもうひとりのガキに死の影が見えた。わざわざ殺さずとも恐怖を味わいながら死ぬ。そう遠い未来じゃないかぎり、人間の生き死になど簡単に見えるようになる。じきにお前もな」
「どういう意味だ……」
(純希に死の影? 純希が死ぬってことなのか? あいつは死なない! 絶対に!)
「しかし……そのガキよりもお前のほうが愉快だ」
「愉快?」
「私の姿がお前の人生の末路。お前の目の中には、すでに魔物が棲み始めている。もはや、お前であってお前じゃない。お前は近いうちにひとを殺す」
「俺は誰も殺さない! 絶対にそんなことしない! するわけない!」
「お前の目の中の魔物が騒ぎ出す」
「目の中の魔物ってなんだよ!」
「お前が一番恐れている死神……」
いましがた鏡の世界は牢屋だと小夜子が言っていた。つまり自分は一緒にいる友達のうち誰かを殺すとでもいうのだろうか。それは絶対にあり得ない。
「俺が死神になるはずない」
「いいや、お前は死神のような存在になる。私と同じ存在は世界中の鏡の中にも潜んでいる。珍しいことではない。おまえは人を殺す」
「俺は誰も殺さない!」
「すでに殺そうとしている」
「そんなこと俺がするわけない! 俺は誰も殺そうとしていない! それどころかみんなを守りたいんだ!」
「いずれ消える無駄な想い」
「消えない! 俺の想いは決して消えない!」
類は泣き叫んだ。そのとき、魔鏡の向こう側に浮遊するふたつの光が見えた。ふたりの若者が懐中電灯を片手に、こちらに向かって歩を進めてきた。
去年の自分と純希のようだと思い、ふたりに向かって必死に声を張った。
「駄目だ! 来るな! 死神に殺される! ここに来ちゃいけないんだ!」
魔鏡に近寄る若者ふたりに、いますぐ立ち去れと伝えたい。類は魔鏡に息を吐きかけたが、長年の埃が付着していたため、側面が曇らなかった。それでも、鏡に付着した埃を必死に拭い取ろうした。しかし、物が移動できないのと同じように埃も拭えなかった。
死神と化した小夜子は魔鏡に歩み寄り、若者ふたりを凝視した。室内は無風だが、まとっているロングスカートが揺れる。
いましがた笑い声を上げていた若者ふたりが床に座り込んだ。虚ろな表情で微動だにしない。まるで催眠術にでもかかってしまったかのようだ。
一発でも拳を当てることができれば、このふたりを救えるかもしれないと思った類は、勇気を出して襲いかかった。
「この化け物が!」
そのとき、魔鏡の中心部に黒い靄が現れた。靄は渦を巻きながら円になった。ここに降り立ったときは、小夜子の記憶が映し出されたトンネルを通り抜けてきたが、いまは黒い靄のトンネルだ。
宙に浮き上がった類の体に悪寒が走った。つぎの瞬間、ふたたび体が粒子のように細かくなり、黒い靄のトンネルに吸い込まれていった。
暗闇しか見えない地の底のような静けさの中に囁き声だけが響く。その声は、不思議と自分の声だった。
殺す―――
殺す―――
殺すんだ―――
連れて―――
一緒に―――
類は心の中で叫び声を上げ続けていた。殺人など犯すはずがない。何度も繰り返し囁いてくる、 “殺すんだ、連れて、一緒に” 、その言葉の意味がわからない。
―――俺は誰も殺そうとしていない! 何が言いたいんだ! 教えてくれ!
その囁き声に何度も問いかけたが返事はない。そして、なぜ自分の声なのかもわからない。
のち、類の体は学校の家庭科室の鏡の破片から抜け出した。そして、廃墟へ落ちたときと同様に、瞬時に元の体の形状を取り戻した。
突然、室内に戻ってきた類に驚いた一同は、一斉に声を上げた。
「類!」
綾香は類に抱きつき、号泣した。
「よかった! 戻ってこなかったらどうしようって、みんな心配したんだよ!」
恐怖に駆られて、歯の根が合わない。
「あ……ああ……」
泣きそうな顔の翔太が駆け寄った。
「類! どうなるかと思ったけど、戻ってきてくれてよかった」
明彦も安堵した。
「戻ってきた」
類はまともに喋ることすらできない。
「さ、寒い……」
クーラーがない室内は蒸し暑い。寒さを感じるなどありえない。純希が類の肩に触れた。
「大丈夫だ。落ち着くんだ。お前はここに帰ってきた。もう何も心配いらないんだ。安心しろ」
類は咄嗟に純希の手を振り払った。死神に化した小夜子に言われた言葉が頭から離れない。
お前はひとを殺す―――
そんなことあるはずない、と、思いながらも怖かった。
「俺に近寄らないほうがいい」
類はどうしてしまったのだろうか、と一同は不安になった。なぜ、近寄ってはならないのだろうか。
純希は理由を訊く。
「俺たちにもわかるように説明してくれ。魔鏡の世界で何があったんだ?」
「死神になった小夜子に俺が殺人を犯すって言われたんだ……」
「死神? 小夜子って誰のことだ?」
聞き覚えのない名前が気になる。純希に続いて明彦も訊く。
「鏡の中で誰かに会ったのか?」
綾香が、明彦と純希を制した。
「質問攻めはやめて。類がもう少し落ち着いてから訊こう。ここだと理沙とやりとりするにも鏡が小さすぎて不便だから倉庫に戻ろう」
たしかに割れた鏡では小さすぎて文字を書きづらい。明彦も、倉庫に戻ったほうがよいだろう考えた。
「そうだな」
明彦は鏡の破片に息を吐きかけて、理沙に類の無事を知らせた。
《類が戻ってきた》
安堵した理沙は号泣した。類がいなければ生きていけない。かけがえのない存在なのだ。
「よかったぁ!」
もう一度息を吐きかけて、鏡の破片に指を走らせた。
《倉庫》
理沙は涙を拭った。これからも想像を絶するような恐怖を体験するかもしれない。怯えて泣いてばかりはいられない。気丈に振る舞い、立ち上がった。
「わかった。戻ろう」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます