文化的な暮らし
みずいし
文化的な暮らし
1.
「ご家族の方がいらっしゃいましたよ」
看護師さんに案内されて
俺は嬉しくなって、病衣をめくり、左半身を見せびらかした。明人の望み通り、左側の胸から腹がピアノになったことを報告したかったからだ。
すると、明人は「帰ったらじっくり見るから、早く着替えて、帰ろう?」と言って、指輪を手渡してきた。入院中は外していた結婚指輪。俺は指輪を薬指にはめると、グレーのハーフパンツと水色のポロシャツに着替えた。全体的に少し細くなった気がして萎える。
明人が会計を終えると、俺たちは病院を出た。郊外の敷地が広い総合病院だった。反対側には市民が憩うための大きな公園があり、公園と
帰りは明人が運転した。俺は後部座席で病院生活のことを語りながら、CT画像の入った用紙を手に取った。
「最初はいたずら書きかと思ったよ」
左側の胸部から下腹部にかけて、長方形の白い影が写っていた。身体の中を
「
「別に俺が弾けるわけじゃないんだけどね」
「僕が弾けるからいいの」
「楽器のピアノのことでしょ?」
「そうだけどさ。でも、楽器の心得がないと人間ピアノも弾けないでしょ」
車は葉桜の林を抜けていた。窓を見ると地平線の向こう側まで芝生が広がっていた。芝生は水を含んで、夕陽をちらちらと照り返していた。
ドアの肘置きに頬杖をついてぼーっとしていると、車が揺れた。衝撃でピアノの肉の蓋が開いてしまった。
「ああ、ヤベっ!」
「ハラマキはトランクにあるよ」
俺はトランクの方に身を乗り出して、ハラマキを探した。
蓋の内側には、鍵盤があり、棚板にあたる肉がある。血は出ないし、グロくもない。断面に生体適合樹脂がコーティングされているからだ。樹脂はベージュを選んだ。遠目からは木目調に見える。だから人様にお目汚しすることはない。
とはいえ、動くたびにべろんと開くのは不快なので、ふつうはハラマキを巻いて固定する。あるなら先に言ってほしかった。
幹線道路と芝生以外には何もない風景を抜けると、桜の満開の森に入った。ずっと枯れることなく散り続ける桜。道路周りの桜は幾度となく伐採し続けているはずなのに、車道一面が花まみれになることもしばしばだった。深夜には除雪車を改造した車が働いているらしい。
桜の森に入った途端に肌寒くなった。油断していた。俺は小脇に抱えていたバッグから長袖を取り出して着た。そうだ、自宅のある
いつの間にか無言になっていた。喋りたいことはたくさんあったが、気力が続かなかった。ドアのひじ掛けに寄りかかって頬杖をついていた。
森を抜けると、見慣れた街に戻ってきてしまったことを実感した。ガソリンスタンド、回転寿司、ファミレス、チェーンのコーヒー屋にマンガ喫茶。頭上を看板たちが通り過ぎて行った。
2.
着くころにはすっかりと暗くなっていた。
「ただいま~。部屋超キレイ」
自宅らしい自宅の匂い。玄関から廊下、リビング、コンロに水回り。自分らしか入らないからといって、俺が手を抜きがちな寝室まで抜かりなく清掃されていた。ふたりで掃除するとケンカばかりなのに。
自宅の懐かしさに浸っている暇もなかった。明人は、寝室に荷物を置き、病院生活でたまった俺の衣類を洗濯した後、うしろから抱きついてきて、俺の左の腹筋を触ってきた。
「ね? いいでしょ?」
「え~、うん、まあ、いいんじゃない?」
結局のところ、いずれは触られるのだから、慣れてしまった方がラクだ。退院から早速?、とは思ったが、腹を決めた。
「いい?」
「いいよ」と、俺はTシャツを脱いで、上半身だけソファーに寝た。背もたれのないソファー。足はどうしてもはみ出てしまう。
明人は俺の左側に跪くと、左半身の切れ込みを親指で撫でてきた。丁寧に愛おしむような撫で方だった。
「そういえば、手術見てたんだっけ?」
「見てた。お医者さんがマーカーを入れてた。鎖骨の下から脇にかけてまっすぐ引いて、脇腹を一直線に引いて、臍の少し上まで引いてた。
メスを入れて切れ込みをつくるまでは良かったんだけど、肉を剥がすのに時間かかってたみたいだね。鍵盤がちらっと見えたとき感動しちゃった」
自分のパートナーの手術を見ても一切動じない、明人の図太い神経がうらやましかった。
「じつは俺、そのとき意識あったんだよね。
メスはそんなに痛くなかった、というかジュッとして熱かった。けど、肉を剥がされるのは結構辛かったな。癒着した皮膚を剥がすみたいな、そういう痛みの強烈なヤツ」
「え、それ大丈夫だったの?」
「まあ、痛みはないよ、今は」
やや顔が曇った。今のやり取りで明人のやる気が
「明人、今は大丈夫だから、ね?」
俺は明人の手首をつかんでせがんだ。
明人は脇腹の切れ目を親指でそっと持ち上げると、俺の蓋をゆっくりと開けた。歴史的な価値のある大きくて分厚い辞書を開くような手つきだった。めくれあがった蓋は、右脇腹の方へでろんと曲がっていた。鍵盤があらわになった。
明人はさっそく鍵盤を触った。触れられると四肢が跳ねた。痛みとも違う、言いようのない感覚だ。
「最初はこんな風になるって、先生も言ってたね。どう?」と訊かれた。
「ん~、痛くないけど不思議な感じ。くすぐったいかも?」
「無理しなくていいんだからね」
「してない。それよりも中ってどうなってんの?」
自分の鍵盤はよく見えないので、訊いてみた。
「鍵盤ってね、硬いんだけど、爪や歯とはちょっと違うんだ。なんか白蛇の
そう言いながら、明人は俺の左手を握ってきた。指を絡ませながら握ってきた。昔は痛みを和らげるため握ってもらっていたのが、いつの間にか習慣になっていた。
そして、鍵盤に人差し指を近づけてきた。今度はゆっくりと。
鍵盤に指が沈み込んでくる感触があった。ぬちゅっという音がした。身体は自分の意思に反して、ビクンと跳ねた。
出てきたのは掠れた喘ぎだった。動画で見たプロのピアノ男性のテノールとは違った。初心者はこんなもんだ。わかっていたはずなのに、ひどく屈辱的な気分になる。
「鍵盤に詰まった液を出すから、ちょっとじっとしてて」
ピアノになるということは泥臭い共同作業の連続だった。手術が終わったからといって、すぐにセッションできるようになるわけではない。俺の方は鍵盤を押されたときの刺激に慣れなければならないし、明人の方は鍵盤の隙間に満たされた粘液を掻き出さねばならない。掻き出さないと、鍵盤がスムーズに動かない。
結局、今日は鍵盤の準備だけで終わってしまった。俺はハラマキを巻いてベッドに大の字になった。明人が上から抱きついてきた。そのまま眠った。
3.
それからは特訓の日々だった。特訓といっても、動画サイトで参考になりそうな動画を
祝・300万再生【人間】しゃんぼりあん100分耐久【ピアノ】 01:40:16 3M
西園寺夫妻名シーン⑩ 05:50 5.6K
人間ピアノ用練習曲【簡単】 01:23 570
ピアノ自主トレ講座【初級編】 10:00 2.3K
はじめての人間ピアノ/First piano lesson【Eng Sub】 25:03 10.5K
【おんどりあ】強欲七瀬 piano. Sakurai【MV】 04:33 5.6M
閲覧したのは「はじめての人間ピアノ」。女性ピアニストと男性ピアノのペアの動画だった。明人いわく、どちらもプロとして有名らしい。不明な点があれば、ふたりで何度も再生した。
最初は発声練習から始まった。声を出しながら鍵盤を押すと、音が出やすくなるらしい。俺は肩の力を抜きながら軽く「アー」という声を出し、明人は上から順番に鍵盤を押していった。
初日は敏感だった鍵盤も、今日は違和感ぐらいになっていた。自意識に反して声が出たり、音が変わったりするのは、まだ慣れなかったし、不気味だった。
それでも発声が少し改善したのは嬉しかった。明人も喜んでいたし、頭を撫でてくれた。普段は俺が撫でる側だったので新鮮だった。
リードされる安堵と気恥ずかしさ。あるところでは肩の荷が下りたけど、やっぱり慣れないところがある。もう少し相手にゆだねる作法を覚えないといけないのかもしれない。
安定して声を出せるようになるまで一週間近くかかった。けっこう大きくなってきたので、防音を考えなければならないレベルだった。その頃には、不随意運動にも慣れきっていて、鍵盤を弾かれるだけで声が出るようになっていた。
しかし、未熟な方法で何時間を発声し続けるのは、体力がいる。入院生活で筋肉が落ちていた俺は、連続で2時間粘るのがせいぜいで、大抵は1時間で練習を切り上げてしまうことが多かった。それ以上やると、声が枯れそうになるし、腹筋や胸筋も
いくら明人が気を遣ってくれるとはいえ、労力の非対称性には不満がないこともなかった。そちらは鍵盤を弾いているだけで済むが、こっちはそうではない。発声練習もしなければならないし、体力づくりもしなければならない。発声という機能面でも、体格というビジュアル面でも、筋肉が必要になるのだ。
それでも我慢したのには、明人に負い目があったからだ。俺と明人が出会ったのは、お互いに大学生のときだった。そのときから明人は受け入れる側で、自分の見えないところで多くの準備をしていた。当時とポジションは変わっていないが、多少の気遣いはできるようになったつもりでいる。
しかし、その手間や痛みを肩代わりできるわけでもない。パートナーの恩情によって免責されているだけで、本来は学生時代から明人に課してきた手間や苦痛を分かち合うべきなのだろう。せめて、ピアノという役割を引き受ければ、少しは明人の痛みが理解できるようになるのかもしれない。
それこそが、俺がピアノになった理由、つまりは手術に踏み切る決め手だったように思う。
4.
俺たちの自宅は桜市のはずれにあった。人口は忘れたけど、けっこう大きな地方都市だ。
市の中心には正五角形をベースにつくられた黄金の城郭があり、五角形の頂点にはそれぞれ塔が突き出ていた。黄金宮を建立し贅沢を極めた王は、民衆から慕われていた。しかし質素倹約に努めた孫は、先代の浪費が祟って殺されたらしい。そして、不条理の象徴みたいな城が残り、今では桜市の観光資源となっている。
城郭の周囲にはラウンドアバウトがあり、塔の方角に合わせて、5本の道が始まっている。ここは年中桜が咲き続ける土地であることから、中心街の歩道や中央分離帯は桜並木になっている。
また、黄金宮周辺の建物は、景観条例によってピンク色に塗装するように定められていた。桜市は古くから塩の産地だった。鉄分を含んだピンク色の塩がよくとれたのだ。王国と民衆は、塩という貴重な必需品の販売権をめぐって争っていた。民衆が反王政の象徴としてピンクを用いた。塩の色。建造物にはそうした歴史的事情が反映されているらしい。
黄金宮と桜とピンクの奇特な街並み。観光客がごったがえす状況を近隣住民は疎ましく思うかもしれないが、それも仕方がないことなのかもしれない。
今日は黄金宮近くのホールでコンサートがあった。外観は当然ピンク色。ホールは、観客席がステージを弧のように取り囲むような構造になっていた。
明人は意気揚々と席に座った。観客なのに。その一方で、俺は人いきれにあてられて、観る前から疲れ切っていた。寝不足のせいもあったかもしれない。朝が早かったのも災いした。
「演奏中に欠伸すんなよ」
明人に囁かれた。俺は不機嫌な表情で返した。眠気も相まって、他人に見せられない顔になっていたかもしれない。
会場の静寂とともに高まっていく緊張感。観客たちの聴覚が研ぎ澄まされていくのを感じる。ステージの中央に置かれていた石の台座に注目が集まっていく。台座はピアノが横たわる場所であり、そのデザインは供物台のようであった。
一組目は男性同士のペアだった。どちらも若い。
二人はお互いにちらと視線を合わせながら、にこやかに入場してきた。ピアニストがピアノの肘を触りながら軽くハグをした。目を合わせて相槌をうつと、ピアノの方は台座に横たわった。ピアニストの方はピアノを横たえると、シャツを脱がせ、ボタンを外し、観客には見えない左半身を脱がせた。
二組目は女性ピアニストと男性ピアノのペア。
女性ピアニストの方が恰幅のいい男性ピアノを先導していた。男性ピアノは首輪のようなネクタイを巻いていた。ペアはお互いに目を合わせることをしなかった。淡々と準備を済ませると、女性は荒々しく男性のネクタイをほどいてみせた。
演奏直前の最も空気が張り詰めているタイミングに、彼女は笑みを浮かべた。巨漢を従える征服感をあらわした顔だった。同時に、演じる、という覚悟もうかがえた。
三組目。最後のペアも男性同士だった。
若いピアノと壮年のピアニスト。ピアニストがピアノをスムーズにエスコートし、すぐに台座に寝かせてしまった。ピアニストはピアノのワイシャツをハサミで裂くと、ピアノの肉体を客席にも見せつけてきた。そして、彼の腹筋に向かって、所有を誇示するようなキスをした。キスを終えると、演奏を始めた。
肝心の演奏内容についてはわからなかった。うつらうつらとしながら観ていたので、記憶が飛んでいたというのが一つ。もう一つは、俺自身が音楽に詳しくない、というのがあった。ただ、どのピアノも気持ちよさそうに歌っていたのが印象に残った。
他に、素人目にわかるのは、ペアの関係性くらいだった。この点については誰もが同じことを考えるようだ。SNSではペアの一挙手一投足にファンが色めきだっていた。ファンたちは彼らの行動をボーイズラブや主従関係の文脈にそって解釈していた。そういうライトなファンを惹きつける素地がある。だから、こんなにも人気があるのだろう。
俺たちも人前で演奏するようになったら、多かれ少なかれそうした視線に曝されることになるのだろうか。
5.
母から野菜を持っていてくれということで実家に帰省した。こうした野暮用は一人で済ませることが多い。だが、今回は術後すぐということもあり、明人にもついてきてもらうように頼んでみた。
明人は「龍の実家でやりたいことがあるから、ちょっと待ってて」と言って、自分の部屋に
遅く出ると帰りも遅くなる。俺たちは急いで車に乗り込んだ。今日の運転手は俺だった。術後初めて。明人は助手席に座った。
「あの家に行くの、いつぶりだろう?」と、明人が言った。
実家は桜市の隣にある
幹線道路を走り続けていた。市内に入ってすぐのところで野球場を通り過ぎた。
桜市では年中桜が咲き続けるのと同様に、緑市ではずっと新緑が萌え、枯れることがない。気温についても25~30℃を保ち続けており、空気もカラッとしている。
こんな場所でプレーし続ける球児たち。心なしか年がら年中いきいきとしている気がする。
「あ、ホームランだ」
球児がホームランを打ったらしい。運転中なので見られないのが残念だった。
「なんかこういうの見ると元気出るね!」
明人は球児たちに目を輝かせていた。ゲイの大好物。こういうのに明人はすぐ感化される。そういうところがかわいらしかった。
幹線道路の果てには何があるのか。断崖絶壁の上に建った小さな寺がある。
中世には清貧を重んじた僧侶たちが自給自足の暮らしを行っていたのだが、近年では海を見渡せる絶景スポットとして観光地化している。もとは難破した舶来の修行僧がこの地に建てたという逸話があり、寺を管理する宗教法人も看板を整備して宣伝している。が、歴史学的には眉唾な話だそうだ。現在のところ、中世の僧侶たちが修行のための建てたという説が濃厚らしい。
いよいよ実家が近くなってきた。俺は市道に入った。
緑市には幹線道路が一本しかない。市内の様々な場所にアクセスするためには、幹線道路から枝分かれした市道に入らねばならない。その市道もさらに別の小道へと分岐していく。葉脈のような構造である。
田舎の割には駐車場の狭い郵便局が見えてきた。左折の目印だ。
「ここで曲がるんだよね」
俺はハンドルをたぐりながら「うん」と答えた。
そうこうしているうちに、実家が見えてきた。地震が来たら崩れそうな石塀、アフロみたいな松の木、雑草抜きが滞っている庭、瓦屋根の一軒家。前来たときと、さほど変わらなかった。
実家が所有している砂利のスペースに駐車した。明人は助手席から降りて、先に実家へ入った。俺が車のキーを閉めたのと同時に、「あら~、明人ちゃんじゃない! 久しぶりね!」という大きな声が玄関先から聞こえてきた。母の声だった。
実家に入ると、開口一番「あんた、痩せたんじゃないの?」と母に言われた。「手術したって言ったでしょ?」と返した。親に対してはどうしても不貞腐れたような態度をとってしまう。反抗期みたいで恥ずかしい癖なのだが、成人どころか結婚した今でも直らなかった。
それから、実家に帰ると、座布団を枕にしながら畳に寝転がって、テレビを見てしまう。この癖もなかなか直らない。
「明人ちゃんはお父さんと一緒に畑行ったわよ」
俺がくつろいでいる間に、明人は畑に行ったらしい。作家だから、取材も兼ねているのだろう。
つまらない漫才番組をぼんやりと見ていると、足がちゃぶ台に当たってしまったらしく、麦茶が俺の背中にこぼれてしまった。
「あ゛ぁ」
オッサンくさい声を出してしまった。実家という空間が俺をダメにするのかもしれない。
俺は着ていた服を脱いだ。脱いだところを母に見られた。
「本当にピアノになっちゃったのね。けど、なんで?」と言われた。手術はしたと言ったが、理由は伝えてはいなかった。
「なんでって……」と言ったところで答えに窮した。
俺がピアノになった理由。一言で述べるのは難しい。が、一言で述べるとすれば、結婚生活における愛の証が欲しかった、ということになるのだろうか。
大前提として、誰もがピアノになれるわけではない。生まれつき、身体に鍵盤が埋まっていないといけない。全人類に一人とまでは言えないまでも、ピアノになれる人にはなかなかお目にかかれない。埋まっていたからといって手術するとも限らない。
だから、俺が明人の願いを引き受けてピアノになることは、ふたりの関係を特別なものにしてくれると思っていた。自分がピアノになれるという特別性。ピアノになれる俺の夫に、たまたまピアノが弾ける明人がいたという特別性。明人の願いを引き受けて手術に臨むという特別性。
直接血のつながった子どもができないふたりにとって、それが愛の証になるのだとも思っていた。
少なくない時間と金額をはたいて、ピアノとピアニストになっていく。ゆっくりと時間をかけながら、ピアノとしての振舞いを習得していく。育児に程遠いとはいえ手間がかかる。子どもができるとライフステージが変わると言う人が多いけど、そんな風にして、俺たちのライフステージも変わるのではないか。手術前は漠然とそう考えていた。
しかし、一言で伝えるには複雑すぎた。どんなに複雑な事情があっても、単純に答えなければならないときもある。
考えあぐねた末、
「ふたりで決めたことだから」
と、とりとめのない答えを捻りだすことしかできなかった。
俺が答える頃には、母は興味をなくしていたらしく、濡れた服を洗濯機に入れていた。そして、「あんたの服はいつもの引き出しにあるから。シャワー浴びてらっしゃい」と言った。
もしかしたら、真剣に答える必要のない質問だったのかもしれない。が、後の祭りだった。
帰りの運転は明人に任せた。父と話が盛り上がったらしく、満足げな顔を浮かべていた。俺は精神的に疲れて、後部座席でシートベルトを締めながら、野菜の入った段ボールを道中ずっと抱えていた。抱えながら、あの質問にどう答えるべきだったのか、頭の中で一人反省会をずっとやっていた。
6.
仕事に復帰してから初めての休み。仕事をこなしながら体力づくりとピアノの特訓をやる毎日はハードだったが、入院生活で落ちていた筋肉が少しだけ戻ってきた気がしたのは
今日は葉桜の森の公園に来ていた。病院の反対側にある施設だった。市民の憩いの場である。桜市内の大学でサークル活動をしている大学生たちや、自主トレーニングをしている中高生、子供を遊ばせにきた親子が多かった。
駐車場に着いた。俺たちは車を降りると、葉桜の森の中にある開けた芝生へと向かった。そして、ふかふかそうな草を見つけると、俺たちは年甲斐もなく寝転がった。快晴の青空を見上げながら、他愛のない会話をしていた。
移ろいゆく話題の変わり目に、意地悪な質問をしてみた。
「ねぇねぇ、なんで俺ってピアノになったんだと思う?」
俺も答えを用意できていない質問だった。いや、答えは存在する。それを言語化する用意ができていないのだ。
「後悔でもしたの?、手術したこと。それとも練習きつ過ぎた?」
「違う違う。他人に訊かれたら、なんて答えよっかなって」
「僕の楽器になりたかった、とか言えばいいんじゃない」
冗談めかしたような答えだったが、核心を突いていた。
明人は楽器や本の扱いが丁寧だった。俺の想像が及ばないほど丁寧だった。人間よりも道具に優しい男が一定数いて、明人もその一人だった。
手術を経て俺も道具の仲間入りをしたのかもしれない。入退院の時期から明人が優しくなった気がする。手術に必要な手続きも全部やってくれたし、家事も一通りやってくれている。以前には来なかった実家の野暮用にまでついてきてくれた。
そう思うと、俺がピアノになったのは、明人から優しさを引き出すためだったのかもしれない。
などと考えていると、突然、俺の腹の中に羽虫が入ってきた。ハラマキがずれて隙間から入り込んでしまったらしい。「虫が中に」、俺は叫んだ。羽虫のぶんぶんという音が、腹の中で響いた。
明人は慌ててハラマキを外し、俺の腹をめくった。羽虫はすぐさま出ていったが、明人はスマホのライトで照らしながら、いなくなった羽虫を丹念に探していた。腹の中に穏やかな日光とさわやかな空気が入り込んできた。明人以外に誰にも見られていないのに、誰かの視線が身体の中に満ちてきたかのような気分になった。
言いようのない羞恥があった。
7.
明人に促されて、念のために病院に行った。何もなかった。無事がわかってホッとしたのか、今夜から練習再開となった。
ある鍵盤を触られたときのことだった。失禁しそうなくらいの
コンサートで目撃したピアノたちの恍惚とした笑み。なぜあんなにも気持ちよさそうに歌っていたのか。その正体がわかった。
これだったのだ。
文化的な暮らし みずいし @TetsujiMizuishi
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