第16話 全ての決着
「まったく。事前に何も言わずに出かけるなんて」
夕陽が差し込む居間の中で、穂乃香はソファーに腰掛けてマグカップに入ったコーヒーを口にした。その隣で、美優も苦笑いを浮かべながら紅茶を口にする。
「あはは、ごめんなさい。でも話がついたのが夜中だったので、起こしたら悪いと思って。桂木さん、昨日は仕事でかなり疲れてたみたいでしたし」
「まあ、それは……。ともかく、お母さんと揉めたりはしなかった?」
「はい。ちょっとイラッとはしましたが、『ほんの数時間嫌な思いをしたとしても、それ以上の見返りがあればこっちのもん』ですからね」
「そう」
昨日口にした言葉を繰り返された気恥ずかしさをごまかすように、穂乃香はコーヒーを一気に飲み干した。
「それなら、イラついた以上の見返りはあったわけか」
「そうですね。ひとまず、父をアルコール依存症外来に連れていく費用は出してもらえることになりました」
「それはよかったじゃない! でも、いざ病院に駆け込んだものの実は金が全然足りなかった、なんてことにはならない?」
「大丈夫ですよ。取り急ぎ必要になる金額を伝えて、ちゃんと通帳も見せてもらいましたから」
「へえ、意外にちゃっかりしてるんだね」
「一緒に暮らしてるから桂木さんに似てきたんですよ」
「私はちゃっかりしてるんじゃなくて、完璧主義なの!」
「あはは、そういうことにしておきましょうか」
軽口をたたき合いながらふざけていたが、不意に美優が不安げにマグカップを握りしめた。
「ただ、金銭的な援助はするけれど父と直接会うのはもう少し落ち着いてからにしたい、とも言われてしまって」
「相変わらず、娘一人にたちの悪い酔っ払いの世話を押しつけるのか」
「仕方ないですよ。私だって高校のころは、母に任せっきりにしちゃってましたし」
それでも、君はそれ以上の期間一人で面倒を見ていたんじゃないか。そんな言葉を口に出す前に、「大丈夫ですよ」という言葉がこぼれた。
「ほら、当面の目的は父を少しでもまともな状態に戻すことですから、泣き言とか恨み言とかは一通り片付いたあとで思いっきり聞いてもらいます」
目の前の顔に、あからさまに強がっている表情が浮かぶ。思わず抱きしめたくなる衝動を穂乃香は必死に堪えた。
自分たちの関係はあくまでも口止め。心の中で繰り返しながら、美優の頭をそっと撫でた。
「……なら、今はお父さんを病院に連れていくことに専念しようか。会社の先輩が必要なら車を出してくれるって言ってたから、掛け合ってみるよ」
「ありがとうございます。じゃあ月曜日になったら、アルコール依存症外来に予約をいれておきますね」
「うん。じゃあそっちは任せるよ。でも何かあった遠慮無く言って、医療関係にも多少ツテがあるから」
「桂木さんって、実は本当に優秀な営業さんだったんですね」
「なにその、実は、っていうのは!?」
「あははは! ごめんなさい!」
夕陽が差し込む居間の中にふざけ合う声が響いた。
アルコール依存症外来の予約は土曜日に取ることができ、笠原からは喜んで協力するという返事を得ることができた。そして迎えた週末、笠原の運転する車で一同は美優の自宅へと向かった。
「よーし、今日は絶好の強制入院日和だわね!」
住宅街に止まった青いスポーツカーから、サングラスをかけトロピカルな柄のワンピースを着た笠原が意気揚々と降り立った。対して穂乃香と美優はどこか浮かない表情で、ゆっくりと車から降りる。
「一体なんなんですか、その物騒な日和は」
「まーまー、いいじゃないの桂木。ほら、言葉のあやとか物のたとえとか、そんな感じよ。ところで、今日はそんな格好でよかったの?」
「はい?」
訝しげな視線に促され、穂乃香は自分の服装に目をやった。柄のない灰色のティーシャツと黒いズボン。美優も同じような格好をしている。部屋着のようにも見えるが、外出してもさほど問題ない範囲に収まっているはずだ。
「動きやすい格好を選んだんですが、何かまずかったですかね?」
「ううん、別に。たださ、桂木のことだから意中の子の前なら、もっとオシャレに決めてくるもんだと」
「なっ!? こんなときに、茶化さないでくださいよ!」
「はっはっは、こんなときだからこそよ。それに、美優ちゃんも悪い気はしてないみたいじゃない。ほら」
指さされた方向で、美優が頬を赤らめながら視線を泳がせている。
「えっと、その、私たちは、今、そういう関係じゃなくて、ですね」
「へぇ? じゃあ、どんな関係なの?」
「なんだっていいじゃないですか! ほら美優、はやく行こう!」
「は、はい」
穂乃香は美優の手を引き玄関に向かっていった。
「お邪魔します……、う」
扉を開けた瞬間、凄まじい異臭が鼻を突いた。アルコール、排水溝、汗や垢、排泄物、嘔吐物、それらの臭いが混ざり合った重い空気が漂う廊下にいびきの音が響いている。
「お父さんは居るみたいだね」
「そうですね。多分、居間で寝てるんだと思います」
血の気の引いた表情でどこか他人事のように美優が答えた。
「じゃあ、私が背負って連れてくるから。美優はそこで待ってて」
「え、でも」
「いいから、いいから」
「あ、待ってください」
引き止める声を聞かずに居間の扉を開けると、更に臭気が濃くなった重い空気が一気に押し寄せた。ストロング系酎ハイの空き缶があちこちに積み上がる薄暗い部屋の隅に、黄ばんだ灰色のスウェット着た美優の父親が転がっている。穂乃香は空き間を避けながら近づき、毛玉にまみれたスウェットの肩を軽く叩いた。
「佐々木さん、起きてください」
「……んぁ」
呼びかけるといびきが止まりゆっくりとまぶたが開いた。
「なんだぁ? おまぇは?」
干からびた唇からアルコールと嘔吐物と生臭さが交じった息が漏れる。穂乃香は吐き気を堪えながら、黄ばんで血走った目を見つめる。
「これから一緒に病院に行きますよ」
「びょういんだぁ? ふんざけんごろもぎゃら」
呼びかけには答えているが、呂律は全く回っていない。どのくらいのアルコールを飲んだか定かではないが、放っておくわけにはいかない状況なのは一目で分かった。
「病院に行ったら佐々木さんも楽になりますから。ほら、起きてください」
「ふざけんな! びょおにんあつかいしやがっれこのや……っごぉぼろ」
「うわっ」
担ぎ起こした瞬間、悪態を吐く口から粘ついた半透明の液体も大量に吐き出され、灰色の服を広範囲に汚した。そればかりではなく、御守代わりとつけていたブランドの腕時計も。
それでも穂乃香は父親を離さず薄暗い部屋を進む。
「はなせ! みんなでおぇをばかにしやがって!」
「馬鹿になんてしてませんよ」
「うそつくな! おまえらはいつだって、ひっしではたらくおれをばかにして……、ゆびさしてわらぃやがって……、だれもてだすけすらしなかったくせに……みんな、みんな、きえちまえ!」
背中から今までの恨み辛みをがなり立てる声が響く。酔っ払いの愚痴なんて、取引先との接待でも、上司との飲み会でも、数え切れないほど聞き流してきた。それでも。
「誰も助けなかっただなんて、少しは恥を知ったらどうです」
今回だけは反論せずにはいられなかった。
「なんだと! おまえに、おまえなんかに、おれのなにがわかるってんだ!?」
「ええ、何も分かりませんよ貴方のことなんて。ただ、美優が貴方のために、つらい境遇で我慢ばかりしてきたことは知ってます」
「……み、ゆ?」
直前までの威勢が嘘のようにか細い声がこぼれた。
「でも、あいつだって……、もうおれをみすてて……」
「……まあ、私としては見捨ててもいいと思いましたけどね。でも、美優はそうじゃないみたいですよ、ほら」
顎で示した先には、戸惑った表情の美優が立っていた。
「お父、さん」
震えた声の呼びかけに、黄色く濁った目が微かに見開かれる。
「本当に見捨てたんなら、わざわざこんな所まで来ないと思いますけどね」
「……すまな、かった」
アルコール臭い息に混じって消え入りそうな声が吐き出され、背に担いだ体から力が抜けた。穏やかないびきが響き出したなか穂乃香は美優に視線を向ける。すると、無言の頷きが返ってきた。謝罪の言葉は確かに届いた。
二人が薄暗く空気の悪い家から抜け出すと、車の前で待ち構えていた笠原が目を見開いた。その視線は大きく汚れた穂乃香のシャツに向けられている。
「桂木、それどうしたのよ?」
「えーと、抱き起こすときに吐かれてしまいまして……、このまま車にお邪魔するのはまずいですよね?」
「ううん。アルコール依存症を病院に連れていくんだから、汚れ云々は覚悟してたんだけどさ」
そこで言葉をとめると、サングラスをかけた顔に楽しげな笑みが浮かんだ。
「潔癖気味の桂木がそこまでするとはねぇ……、やっぱり愛の力は偉大だわね」
「な!? だから、からかわないでください! ほら、美優だって困って……」
美優はただ頬を赤らめて顔を反らしていた。
「えっと、困っては、いない、です」
途切れ途切れの返事に、穂乃香の頬も赤く染まっていく。
「え、あ……、そう……」
「ははは! いやぁ青春ねぇ! じゃあ、このままかっ飛ばずから早く乗り込みなさい!」
「は、はい」
笠原が楽しげに運転席に乗り込むと、美優もいそいそと助手席に乗り込む。
「ほら、桂木もボサッとしてないで早くしてちょうだい!」
「は、はい!」
四人を乗せた青いスポーツカーは、病院へ向かって走り出した。
病院につき診察を受けると、父親は即入院となった。そこまでは順調に事が進んだ。しかし、美優がその状況を母親に連絡したときに厄介ごとが起きた。「お礼」と称した不幸自慢の電話に、穂乃香も長々と付き合うことになった。
「本当に、私もつらかったんですが」
「そうですよね」
「でも、私と一緒にいることで美優がもっとつらくなると思って」
「左様でございますか」
「だからもっとしっかりしなきゃって思って、一人で頑張っていたんです」
「それは素晴らしいですね」
「いえいえ。でも、美優とまた一緒に暮らせるくらいに強くなれました」
「ええ……、え?」
不意に、適当な相槌で受け流せない言葉が耳に届いた。
「一緒に、暮らすんですか?」
「はい! 美優もそうしようって言ってくれたんですよ!」
「……そうですか」
「本当に、頑張ってみるものですね……やだ、もうこんな時間! すみませんね長々と」
「いえいえ。お気になさらずに」
「それでは、私はこの辺りで」
「はい。では、失礼いたします」
玄関の脇で終話アイコンをタップすると、自然と深いため息がこぼれた。
「お疲れさまでした。最後の最後にすみません」
「ははは、気にしないで」
深々と下げられた根元が黒くなった金色の頭を撫でると、喉元を締め付けられるような感覚に襲われた。
「ようやく、全部終わったね」
「そうですね……。今まで、本当にありがとうございました」
「いえいえ。それで、さっき電話で聞いたけど、これからはお母さんと一緒に暮らすんだって?」
「はい。そのほうが病院に近いですし、いつまでも桂木さんの家にお邪魔するわけにはいかないので。いままで苦労をかけられた分、甘え倒してやろうと思いますよ」
目の前に屈託のない笑みが浮かび、喉元を締め付ける力が更に強まった。この笑顔も、もうすぐ見られなくなる。
「これで、口止めはできたってことでいいのかな?」
「はい。充分すぎるくらいですよ」
「そう……」
「ええ……」
短い会話が途切れ沈黙が訪れた。
たしかに、口止めは完遂できた。これ以上、二人が一緒にいる必要は少しもない。
それでも。
「……あのさ」
「……あの」
声が重なり、二人は同時に目を見開いた。
「あ、すみません。桂木さんからどうぞ」
「あー……、いや、大したことじゃないし、美優からでいいよ」
「そう、ですか……」
美優は息を飲み込むと、意を決した表情を浮かべた。
「あの、口止めが全部終わったら、桂木さんとはもう会えなくなってしまうんですか?」
「まあ、失禁して取り乱すようなヤツと一緒にいたいと思わないかぎりはね」
「……あはははは!」
「……ははははは!」
どちらからとももなく、大きな笑い声がこぼれた。
「美優がいいのなら、私はこれからも付き合っていきたいと思うよ」
「私もです」
「じゃあ、これからもよろしくね!」
「こちらこそ!」
病院の玄関には、二人の楽しげな声が響いた。
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