第15話 それ以上の見返り

 人の多いホームの片隅で、美優はスマートフォンを操作していた。


「今駅に着きました。あと十分くらいでそちらに着きます」


 送信した短いメッセージに、すぐに既読マークがついた。少し間を置いて、画面には返信が表示される。


「分かりました。気を付けてください」


 華奢な指が、はい、とだけ返信し、スマートフォンを鞄にしまった。


 母親に連絡を入れたのは、昨夜の日付が変わる間際だった。


「一度会って話したい」


 返信を期待せずに送ったメッセージだったが、日付が変わってすぐに既読マークがついた。


「分かりました。今からこちらに来ますか?」


 画面に映る文字に、美優は自分の目を疑った。


 家を出て行かれてから、こちらから連絡をすることも、向こうから連絡がくることも一切なかった。このメッセージも届くことはないし、届いたとしても黙殺されるに決まっている。

 そう考えていたにもかかわらず、返信が確かに表示されている。


「いえ。でも、明日は会えますか?」


 恐る恐る送ったメッセージに間髪入れずに既読マークがつく。


「大丈夫です。今、家の地図を送りますね」


 返信から少し間を置いて、最寄り駅から家への地図が送られてきた。実家から二駅ほど離れた場所にある集合住宅、そこが現在の住所らしい。予想以上に近くにいたことに、自然と乾いた笑いがこぼれた。それから、十時ごろに家に行くというメッセージをやりとりし、今に至る。



 改札を抜け、大通りから一本裏の道に入ると、胃の辺りが締め付けられる感覚に襲われた。このまま、住所が分からなかったことにして帰ってしまおうか。頭に浮かんだ弱音を振り払うように、歩みを速める。

 日当たりの悪い道を進み、十分ほどで母親の暮らす集合住宅へたどり着いた。所々ひびの入った外階段を上り、乳白色の塗装を施された扉の前で足を止める。チャイムを押すと、ドアの向こうから足音が微かに聞こえた。


 軋む音を響かせながら、扉が開く。


「美優!」


 着古した灰色のワンピースを着た母親に現れるなり抱きしめられた。


「ごめん、ね。今まで本当に、ごめんね」


 耳元で謝罪の言葉が繰り返されるが、驚くほど何の感情も湧かない。


「うん。それで、家の中に入ってもいい?」


「そう、だ、ね、ごめんね」


 涙をしゃくりあげる声とともに、苦しいくらいの抱擁が解かれた。


「ごめんね、散らかってるけど、上がって」


 言われるまま玄関を上がると、1Kの部屋には言葉に反して必要最低限のものしか置かれていなかった。


「今、お茶を淹れるからね」


「うん」


 部屋の中央にある座卓につくと、母親がすぐに冷たい緑茶の入ったグラスを持ってきた。


「はい、どうぞ」


「ありがとう」


「本当に、久しぶりだね」


「うん」


「元気にしてた?」


「それなりに」


「そう……、でも、大変だったよね」


 当たり前じゃない。そんな言葉を冷たい緑茶と一緒に飲み込んだ。


「うん、まあ」


「そうだよね。お母さんもね、あれから色々あったんだ」


「へえ、そうなんだ」


「うん、本当に大変でね……」


 母親は涙ながらに我が身の不幸をどこか誇らしげに語り出した。

 

 そんなこと私だって知ってる。

 自分は一人で逃げたくせに。

 私はもっと大変だった。

 自分だけ被害者ぶって。


 グラスの中の緑茶が瞬く間に減っていく。


「本当はね、美優のことも連れていきたかったけど……、進路のこともあるから……、むしろ、可愛そうかなって……」


 美優は思わず、手にしたグラスを投げつけそうになった。しかしその途端、穂乃香の疲れた笑顔が頭に浮かんだ。


「まあ、ほんの数時間嫌な思いをしたとしても、それ以上の見返りがあればこっちのもんだから」


 脱力気味にそう言う声を思い出しながら、グラスから手を放した。

 自分の思いをぶつけるために、ここまで来たわけではない。


「……それで、お父さんは、どうしてるの?」


 ひとしきり泣きじゃくったあと、母親はやや冷静さを取り戻して美優を見つめた。


「……相変わらずだよ」 


「そう……」


「多分、このままじゃ駄目なんだと思う」


「そう、だよね……。お母さんに、何かできることある?」


 予想外の言葉が、目の前の口から発せられる。

 たしかに、父親に関して助けを求めるためにここまで来た。それでも、全てを投げ捨てていった人間が自分から支援を申し出るとは思ってもみなかった。


「家を出てからね、美優のことが心配だったの。でも、きっとお母さんから連絡しても、出てくれないと思ったから。でもね、美優が助けを求めてきたら絶対に力になろうって、ずっと思ってたんだよ」


 いささか自分に酔った表情をしているが嘘を吐いているようには見えない。


「なら、お父さんを病院に連れていきたいから、その、治療費とか入院費とかを出してほしい」


「うん分かった」


 向かい合った顔に晴れやかな笑顔が浮かぶ。


「お母さんね、美優がいつ来ても大丈夫なようにお仕事頑張って、無駄遣いもしないできたから、お金のことは全然心配しなくても大丈夫だよ」


「……ありがとう」


「美優も、今まで一人でよく頑張ってきたね」


「……うん」


 目を伏せて小さく頷いてから、美優はグラスに残っていた緑茶を一気に飲み干した。

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