第13話 あくまでも口止めだから

 示談の場で激昂した牧村は駆けつけた警察によって現行犯逮捕となった。穂乃香は病院に搬送されたが、軽い脳貧血と額の打撲程度で済み命に別状はなかった。しかし、村上からは、録音に残っていた「殺してやる」という言葉があったことや、そもそも示談中に傷害事件を起こしたということで実刑は免れないだろう、と楽しげな声で聞かされた。


「まったく、なんて無茶なことするんですか」


 昼光色のシーリングライトが照らす居間で、革張りのソファーに座った美優に力なくため息を吐かれた。


「心配かけてごめんね」


「本当ですよ、もう」


「はは。でもこれで言った通り、アイツを確実に実刑にできるでしょ?」


「それはそう、ですが……、下手したら死んでたかもしれないんですよ?」


 頭に包帯を巻いて苦笑する穂乃香に、不満げな表情が向けられる。


「大丈夫だよ。村上とは何度もと事前に打ち合わせして、何かあったらすぐに警察を呼べるようにしてもらってたから。それに、花瓶も念のためプラスティックのやつに代えてもらって、割れて動脈をざっくり、なんて目にはならないようにしてたよ。まあ、そうなったらそうなったで、社会的にもっと……」


 追い詰めることができた。そう言い終わらないうちに、華奢な体が胸にしがみついた。


「美優?」


「……冗談でもそんなこと、言わないでください」


 シャツに埋もれた顔から、弱々しい声が漏れる。その響きは、楡駅から乗った深夜タクシーで聞いたものと酷く似ていた。


 駅で父親を叱りつけた顔。

 動物園で絵に描いたように幸せそうな親子を見た顔。

 深夜タクシーの中でうつむいていた顔。

 自分の境遇と心境を吐き出した顔。

 様々な美優の表情が、頭の中に浮かんでは消える。


 以前女性と交際していたことがあるとは、日常の会話のなかですでに知らせている。それならば、自分にしがみつくことの意味は分かっているはず。

 穂乃香は若草色のワンピースを着た背中に触れようとした。しかしすぐに思い直し、根元が黒くなり始めた金髪の頭にそっと置いた。


「悪かった。もう、無責任なことは言わないから」


 シャツに埋もれた顔が無言で小さく頷く。


「口止めは全うしないといけないもんね」


「また、そうやって茶化して」


 胸から離れた顔が不服そうな表情を浮かべた。


「ははは、ごめんごめん。ただ、命はもっと大事にするよ」


「そうしてください」


「うん。約束する」


「ん……」


 頭をくしゃくしゃと撫でると、長い睫毛の目が細められた。同時にシャツにしがみついた指がゆっくりと離れていく。


「大丈夫。ここまできて、一人で放り出すようなことはしないから」


「ありがとう、ございます」


 間近で見る美優の微笑みに、思わず息を飲んだ。

 たとえ、このまま離れていく華奢な体を抱き寄せて唇を奪ったとしても、抵抗はされないだろう。そう思いながらも、穂乃香は頭から手を放してソファーから立ち上がった。


 それでも、これはあくまでも口止めだ。


「さて。今日は色々と忙しかったし、もう寝るかな。シャワー、先使ってもいい?」


「あ、はい」


「ありがとう。じゃ、お先に」


 どうぞ、という小さい声を背に、穂乃香は振り返らずに居間を後にして浴室に向かった。

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