第12話 一つめの決着
弁護士を経由して牧村からの示談の申し出が届いたのは、告訴状を提出してから少し経った蒸し暑い日だった。居間のテーブルの上に並べた書面を眺め、穂乃香は満足げに口の端を吊り上げた。
「話し合いの日時は来週末、か。まあ、ここまでは予定通りかな」
深く腰をかけたソファーの隣では、美優が膝の上で手を握りしめている。
「さて。これから返事をしないといけないわけだけど、どうする?」
問いかけても返事はない。
「これ以上関わりたくないなら、示談金をむしり取って接近禁止にするってのも手だと思うよ」
続けて問いかけると、少し間をおいてから「でも」という声がこぼれた。
「示談を受け入れると、今までのことは許すってことになるんですよね?」
「少なくとも、刑事告訴は取り下げることになるね。でも、拒否をしたところで初犯だと執行猶予になることが多いらしいけど」
「そう、ですか」
短い返事の後、長い睫毛の目が伏せられ唇が硬く結ばれた。膝に置かれた手は微かに震えている。
「でも私は絶対に許せないから、確実に実刑になってもらうつもりだけどね」
「え?」
伏せられていた目が軽く見開かれた。
「そんな方法、あるんですか?」
「うん、そのために色々と動いてきたし。そのためには美優に話し合いの場に来てほしいとろこだけど……、つらいようなら私一人でなんとかしようか?」
「……いえ。私も行きます」
「……そう。なら人生最大の弱みを握られた相手に対する口止め、必ずや満足の行く結果を御覧に入れましょう!」
おどけた口調で芝居がかった台詞を吐くと、強張っていた表情がほんの少しだけ緩んだ。
「あはは、それなら、楽しみにしています」
「ええ、貴女様のことは、この身に代えてでもお守りいたしますので!」
「もう、大げさなんですから。それにあんまり物騒なことは言わないでくださいよ」
「はは。ごめん、ごめん」
穂乃香は苦笑を浮かべて、根元が黒くなり始めた金髪の頭を撫でる。
口にした言葉にはたしかに誇張があったかもしれない。それでも、嘘は一切含まれていなかった。
それから一週間ほどが経ち、牧村と示談についての話し合いをする日が訪れた。場所は穂乃香達を担当する弁護士の事務所。まずは美優への傷害の件が先となった。
「桂木、今日は抜かるなよ」
「村上の方こそ、準備は大丈夫なんでしょうね?」
「もちろん」
村上と呼ばれた昔なじみの弁護士が悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「だってさ。だから美優も安心していいよ」
「……」
黒い革張りの椅子の上で、若草色のワンピースを着た体がかすかに震えている。
「そう、ですよね」
返される笑顔もぎこちない。ここはなんとしても、上手く立ち回らないと。そう考えていると、入り口の扉がゆっくりと開いた。
「失礼いたします」
「……」
黒いスーツを着た銀縁眼鏡の若い弁護士に続いて、髑髏模様が散りばめられた黒いジャージを着た牧村も姿を現わす。相変わらずの体型をしているが、顎と一体となった首に太い金のチェーンネックレスは巻かれていない。心なしか、顔だけはやつれているようにも見える。原告側の面々を目にすると厚い瞼が軽く見開かれた。
「……なんでババアが今、ここにいるんだよ?」
「あれ? 弁護士を通して、付き添いとして出席すると伝えたはずですけれど?」
「ええ、確かに伝えましたね」
穂乃香と村上の愛想笑いに、聞こえよがしの舌打ちが返される。
「はっ、そうかよ」
ふてぶてしい声とともに、巨体が勢いよくソファーに腰をかけた。続いて、牧村側の弁護士も頭を下げてから額の汗を拭き腰掛ける。弁護士は笹川と名乗ると、挨拶もそこそこにこの話し合いは録音させていただきます、と告げて示談書をテーブルの上に広げた。書かれているのは、怪我の治療費とそれなり額の慰謝料を払うという文面のみ。
「こちらの内容で、いかがでしょうか?」
「……これに、今後私には一切関わらないと、追加してください」
美優が淡々とした声で答えると、牧村がテーブルに勢いよく手をついて立ち上がった。その衝撃で置かれた茶碗や竜胆を活けた花瓶が揺れる。
「お前ふざけ……」
「牧村さん」
笹川が鋭い視線を向けると、部屋の中にまた聞こえよがしの舌打ちが響いた。
巨体が無言で椅子に座りなおし、今度は悲しげな表情を浮かべる。
「なあ、お前、本当にそれでいいのか?」
分厚い唇から、弱々しい声がこぼれた。
「今ずっと世話してやってた大口の客に逃げられて、他の客や女どももどんどん離れていって大変な状況なんだ。でもお前だけは、俺を見捨てるなんてしないよな?」
散々暴力を振るってきた揚句に被害者きどりか。そんな言葉を堪えながら、穂乃香は冷ややかな目を向けた。
「美優。お前はそのババアに唆されてるだけで、本当は俺のことを愛してるんだろ?」
「貴方に好意を感じたことは、一度もありません。下手に反抗して殴られるのが嫌だったから、大人しくしていただけです。でも、もうこれ以上は無理です」
「な……」
小さな声をもらしたあと、巨体がわなわなと震えだした。その顔には見る見るうちに、憎悪の表情が浮かんでいく。
「この、馬鹿に、しやがって」
細い目が、無表情な美優を睨みつける。そろそろ頃合いか、と心の中で呟き、穂乃香はにこやかな笑みを浮かべた。
「いやあ、牧村さん。本当に大変だったんですね」
「……あ?」
腹の底から絞り出すような声と共に、険しい視線が矛先を変えた。
「私も営業職をしているんですけれど……、お客様が離れていくのはかなりの痛手ですよね。でも、長年大口のお客様をつなぎ止めていただなんて、さぞかしご苦労なさったんでしょう?」
「……まあ、な」
愛想のいい言葉に目つきと声の険しさがほんの少し薄れた。
「ですよねぇ。いやぁこんな場でなければ、そのご手腕を是非ともご教示いただきたいところですよ」
「はっ。急にみっともなく機嫌とりやがって、何のつもりだ?」
悪態は吐いているが、警戒が解けはじめているのが、表情から見てとれる。
「そんな、言葉のとおりですよ。私なんていつもいっぱいいっぱいで。この間だって、右も左も分からない自動車整備業界で、案件の乗っ取りの手伝いみたいなみっともない真似をして……」
――ゴンッ
全てを話し終わる前に飛んできた花瓶が額に命中し、穂乃香は椅子から転げ落ちた。
「桂木さん!?」
「今、警察に連絡を!」
「ちょ!? 牧村さん、何してるんですか!」
「うるせぇ! どけ!」
ぐらぐらと揺れる視界の中に、美優の悲鳴、村上のどこか楽しげな声、笹川の困惑した声、牧村の怒号と足音が響く。
運良く後頭部は打たずに済んだが、脈拍にあわせて額が鈍く痛む。体勢を直そうかと考えているうちに怒りに満ちた表情が目の前に現れた。
「全部……、テメェがやったんだな……? 俺を陥れるために……」
「いやですね。私はただ、新しい取引先を欲しがっていたお客様と、悪縁を切りたがっていたお客様のお手伝いをしただけですよ……」
「黙れ!」
倒れた体に巨体がのしかかり、太い指が力任せに首を締めあげる。
「このクソババア……、お前のせいで……、俺がどんな目に遭ったか……」
朦朧とし出す意識の中、血走った目が恨み言を繰り返す。しかし、一番欲しい言葉はまだ引き出せていない。あと一言、ほんの短い言葉を聞くまで、なんとか意識を保たないと。そう思った矢先、指に込められる力が強まった。
「……ぶっ殺してやる!」
部屋の中に響き渡る声で、牧村ががなり立てる。これならば、録音に失敗しているということもないだろう。これで、すべてが計画通りとなった。
近づいてくるパトカーの音を聞きながら、穂乃香は口の端を微かに吊り上げて意識を手放した。
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