第7話 準備と覚悟
霧雨が降る火曜日、穂乃香は自分の席でメールを確認していた。受信フォルダの中には、ロイヤルホテルからの未読メールもある。三日前に強打した鼻が鈍く痛んだ。
牧村に突き飛ばされたときにできた怪我は、転んだというありきたりな言い訳でごまかすことができた。動画サイトやSNSを探しても、トラブルの映像は見つかっていない。このまま全てなかったことにして、日常に戻ることは容易いのだろう。
――ブー、ブー、ブー
不意に、ポケットに入れた私用スマートフォンが震えた。すぐに取り出したが、表示されていたのはニュースアプリの通知だった。
土曜日の深夜に受信した、「私なら大丈夫です。ご迷惑おかけしました」というメッセージを最後に、美優とは連絡がつかなくなった。昨日打ち合わせの帰りに寄った百貨店のトイレに現れたのも、中年の女性清掃員だ。
彼女は今、どこにいるのだろうか。
もしも、外に出られないほどの怪我をさせられていたら。
鼻の痛みに不安が遮られた。変わりに、牧村に対する怒りがこみ上げてくる。
あの野郎、本気で蹴りやがって。診断書もとったことだし、傷害で訴えてやろうか。そんな言葉が頭をよぎったが、すぐにかき消えた。
「何でも言うことを聞きますから……」
頭の中に、消え入りそうな声が響く。
今、牧村を訴えることは難しくない。ただ、訴えられたと知ったとき傍に美優がいたら。
「こーら、桂木」
突然の声に、肩が軽く跳ねた。振り返ると、笠原が笑顔で手を振っている。
「雨だからって暗い顔してると、案件逃がしちゃうぞ!」
「ああ、そう、ですね」
これから取引先への訪問もある。いつまでも浮かない顔をしているわけにはいかない。
「失礼しました。気を付けます」
「そう言うわりには、まだなんか暗いなー。取りあえずコーヒーでもおごってあげるから、ついてきなさい」
「……はい」
穂乃香は立ち上がり、笠原の後について休憩所に向かった。
「それで、何があったの?」
缶コーヒーのプルタブを引き上げながら、笠原が問いかけた。運良く、他の社員の姿はない。
「実は……」
週末に起きたことを話すと、向かい合った顔に呆れた表情が浮かんだ。
「それはまた、災難だったわね」
「ええ、まあ」
災難だった。その一言で済ませて忘れてしまえばいい。今までだって、人間関係にトラブルが発生したらそうやって関係を終わりにしてきた。それでも。
「……何か、できることってないんですかね?」
終わりの先に向かう言葉が自然とこぼれていた。
「……何もないと思うよ。その子が自分でどうにかしない限り」
返ってきたのは、突き放すような言葉だった。今まで掲げてきた自己責任論への皮肉ですかと不服を口に出しそうになったが、すぐに思いとどまった。目の前の顔には真剣な表情が浮かんでいる。
「こういう話はね、本人が『私さえ我慢すれば、全て上手くいくんだから』なんて悲劇のヒロインやってる限り、何も解決しないのよ。無理に助けようとすると、『何も知らないくせに偉そうなこを言うな』なんて、バカな逆恨みをさせることだってあるんだから」
笠原はどこか遠い目で、コーヒーを飲み干した。
前に飲み会で、相手に対して色々と我慢してたけど結局離婚したという話を聞いたことがある穂乃香には、反論することができなかった。きっと、美優の境遇に思うところがあるのだろう。
だからといって、この話をこれで終わりにしたくはなかった。
「それでも何かしたいと思ってしまった場合、どうすればいいでしょうか?」
「……へえ。桂木が、そんなことまで言うなんてねえ」
小さなため息を吐いた口元が、かすかに緩んだ。
「まあ、私が言えるのは、いざ助けを求められたときにすぐに動けるよう準備と覚悟をしておけ、ってことくらいだわね」
「準備と覚悟、ですか」
「そ。具体的に何をするかは、桂木に任せるけどね。それじゃ、私は仕事に戻るから早いところ気分切り替えなさいよ」
「はい。ありがとうございました」
手をヒラヒラとふりながら、笠原は休憩室を出ていった。穂乃香もコーヒーを飲み干し、執務室へ戻った。
「準備と覚悟、か」
自席に戻ると先ほど言われた言葉がこぼれた。目の前にあるパソコンの画面には、取引先の一覧表が表示されている。
「車の整備工場かなにかの社長をしてるらしくて、羽振りだけはいいんですよ、あの人」
美優の言葉を思い出しながら、一覧表を操作し取引先を絞り込む。
業種、サービス業(自動車関係)。
最寄駅、楡駅。
画面には担当する取引先が数件表示された。その中に昨年システムを導入した自動車整備会社が一件。三ヶ月後にはシステム保守契約の更新がある。
穂乃香はポケットから社用のスマートフォンを取りだし、表示された取引先に電話をかけた。
「……お久しぶりです。アルファシステムの桂木です。その節は、大変お世話になりました。……はい。……いえいえ、そんなことは……、あはは、お元気そうでなによりです」
なごやかに話を進めながらマウスを操作し、スケジュール管理システムを起動する。
「……さようでございますか。でしたら、是非お話を……、本当ですか!? はい! ありがとうございます!」
溌剌とした声と共に来週の予定に、取引先訪問が追加される。
「はい、では、よろしくお願いいたします」
通話を切ると同時に、口の端がつり上がった。これで、準備は一歩進んだ。あとは。
――ブー、ブー、ブー
再び、ポケットの中の私用スマートフォンが震えた。画面に表示されていたのは、やはりニュースアプリの通知だ。
「……」
穂乃香はメッセージアプリを起動させようとした手を止め、スマートフォンをポケットの中に戻した。美優からの連絡が、たった一言でも来ることを願いながら。
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