第6話 世界に一羽だけいる黒いフラミンゴ
快晴の下、動物園の入り口で穂乃香はスマートフォンを取り出した。画面には、あと五分くらいで着きます、という五分前に受信したメッセージが表示されている。しかし、辺りを見渡してみても、派手な化粧を施して、露出度の高い服を着た女性の姿は見えない。
一度電話をかけてみようか。そう思いスマートフォンを操作していると、軽やかな足音が近づいてきた。
「あ、いたいた。桂木さん」
顔を上げると、露出度の低い若草色のワンピースを着た女性が立っていた。金色に染められた長い髪のおかげで、彼女が美優だということは分かった。しかし、いつものように、目を強調した派手な化粧は施されていない。
「お待たせいたしました」
「いや、私も今来たところだから」
「ならよかったです」
どこかあどけなさが残る顔に屈託のない笑みが浮かび、思わず目が泳いだ。こんなに魅力的な笑顔を浮かべる相手を他に知らない。
「桂木さん? どうしましたか?」
「あー、いや。いつもと、かなり印象が違うなって」
「ああ、そう、ですよね」
向かい合った顔に、苦笑が浮かぶ。
「呼び出しがありそうな日は、牧村さんが好きそうな服とメイクをしてるんですよ」
「そう」
こんな魅力的な素顔が、あんな男の好みに塗りつぶされている。そう思うと、胃のあたりがふつふつと熱くなるのを感じた。
「はい。でも、今日はあの人ずっと他の人と一緒にいる日なんで、自分の好きなメイクと服で来たんです。ひょっとして変ですか?」
「いや、そんなことないんじゃないかな」
「あはは、それなら良かったです」
青空の下に浮かぶ笑顔には一点の曇りも見当たらない。
「じゃあ、そろそろ行こうか」
「はい!」
せめて今日一日は、ずっとこんな笑顔を浮かべさせていよう。そうすれば文句のつけようのない口止めになるはず。
穂乃香は軽く手を握りしめて、入場口へ向かった。
動物園の中は家族づれやデートをする恋人たちで賑わっていた。
オランウータン、フラミンゴ、レッサーパンダ。飼育されている動物を美優は目を輝かせて眺めている。動物にはそれほど興味が無かった穂乃香も、その表情を見ているうちに段々と心が晴れていくのを感じた。
一通り歩いた後、二人は園の奥にある休憩所にたどりついた。
「飲み物買ってくるけど何がいい?」
「じゃあ、無糖の紅茶か、なければ緑茶でおねがいします」
「了解」
近くの自動販売機に向かうと、運良く無糖紅茶のペットボトルも並んでいる。穂乃香は紅茶と缶コーヒーを買い足取り軽く美優の元へ戻った。
「はい、これ。無糖紅茶」
「ありがとうございます」
差し出されたペットボトルを受け取る指先には、ただ、血色の良い爪が輝いている。少しの荒れはあるが、派手な色に塗りつぶされているよりずっとマシだ。そう考えていると、ペットボトルの蓋をひねる手が止まった。
「桂木さん? 疲れちゃいましたか?」
「……いや、大丈夫だよ。ただ、結構色んな動物がいるんだなって思って」
「ふっふっふ、そうなんですよ」
あどけない顔に、どこか誇らしげな笑みが浮かぶ。
「ちなみに、私のお気に入りは、レッサーパンダのショコラちゃんです」
「へえ、どの辺が?」
「そうですね、元気いっぱいな所とか、円らな目とか、色々ありますけれど、一番は……」
――ポッポー
突然、近くに設置されていたミニチュア列車の汽笛が楽しげな声を遮った。
「パパ、ママ! ボクあれのりたい!」
「よーし、いいぞ! じゃあ、パパと競争だ!」
「こーら、二人とも! 走ったら危ないでしょ!」
音の元へ、幼い子供とその両親が笑顔で駆けていく。
「……」
いつの間にか美優の顔から誇らしげな笑みは消えていた。
どこか虚ろな目が、列車に乗り込む家族を見つめる。
「私たちも乗る?」
「え……? あ。あはは、さすがにそれは大丈夫ですよ」
他愛ない冗談に笑顔は戻ったが、目に見えてぎこちない。なんとか話題を反らそうとしていると、先ほど通り過ぎたフラミンゴのケージが遠くに見えた。
「そういえばさ、フラミンゴって大体が、白かピンク色だよね」
「え? あ、はい。そうですね」
「でも、世界で一羽だけ、真っ黒な個体が発見されてるんだって」
「へえ、そうなんですか」
黒目がちな目がゆっくりと見開かれていく。
「桂木さん、よくそんなこと知ってますね」
「ははは、なにごとも事前の勉強は欠かせないからね。ここに居る動物の生態や豆知識なんかは一通り調べてきてるよ」
「そうですか……」
「なんなら、レッサーパンダについての豆知識も披露しようか?」
「いえ、大丈夫です。桂木さんって、人から『天然』だとか言われません?」
「な!? それってどういう意味!?」
「あはは! そのままの意味ですよ!」
まったく、人のことをバカにしてくれて。そんな不満が頭をよぎったが、ぎこちなさのなくなった笑顔を前にすぐに消えていく。
穂乃香は小さくため息を吐き、缶コーヒーを開けた。
動物園内を全て見終えた二人は、併設する薔薇園に移動した。
「こっちの公園も、こんなに綺麗だったんですね」
傾いた陽を受けた薔薇が輝く中、美優が小さく息を漏らす。
「こっちに来たのは初めて?」
「はい。前は花を見るより、動物たちを見てる方が楽しくて」
「たしかに、小さい頃ならそうかもしれないね」
見渡してみても、辺りに親子連れは見当たらない。それどころか、二人以外の人影すらない。
「今日は、すごく楽しかったです。なんか昔に戻ったみたいで」
夕日に染まった横顔がぽつりと言葉をこぼした。
「それなら、本当によかった」
穂乃香からも穏やかな言葉がこぼれる。
「それは、いい口止めになるからですか?」
「……当たり前じゃない!」
おどけた顔と身振りで答えると、美優は屈託のない笑みを浮かべた。
「……あははは! そうですよね!」
こうやってふざけ合う時間を、これからも作ろう。
そう決意した肩に誰かの手が触れた。
「おい」
「はい……わっ!?」
振り向いた途端、穂乃香は吹き飛び地面に倒れた。
「桂木さん!?」
土ぼこりが舞い、悲痛な声が響く。その中で、露出度の高い服を着た茶髪の女性を連れた牧村が、握りしめた拳を振るわせ美優を睨みつけていた。
「てめぇ美優!」
「ちょっと、ゴウやめなよ」
「うるせぇ!」
「あー、もう。柄にもなく薔薇を見たいなんて言うんじゃなかったよ……。ほら、ゴウ落ち着きなって」
「お前は黙ってろ!」
茶髪の女性の制止も聞かずに、巨体がゆっくりと近づいてくる。
「俺の呼び出し無視しといて、なにババアにヘラヘラしてやがるんだ」
「ぐっ……」
誰がババアだ。そう言おうとした口に、地面にぶつけた鼻からあふれた血が流れ込む。
「ごめん、なさい。今日はアケミさんと一緒にいるって聞いたので、連絡をくれるとは思ってなくて……」
「口答えすんな!」
「きゃっ!?」
頬を張られた美優が植え込みの薔薇に倒れ込む。
「ちょっと……、なにして……」
「このババアが俺のことをシカトしろとか唆したんだろ? 女だからってな、舐めた真似するやつはただじゃ済まさねぇぞ」
振り絞った声は届かず、太い指が緑色のワンピースの胸ぐらを掴み薔薇の中から引き上げた。
「ごめんなさい……、そのことは謝ります……。だから、桂木さんには何もしないでください……、何でも言うことを聞きますから……」
そんなことは言わなくていいから早く逃げて。
「……ごぼっ」
言わなくてはいけない言葉が喉に流れ込んだ血によって遮られた。
「……ちっ。なら、さっさと行くぞ」
「はい……。桂木さん、すみませんでした……」
ぐしゃぐしゃになった金色の髪と、細かい傷がついた頬を夕陽が照らす。
「黙って、ついてこい!」
わざとらしく大きな足音を立てながら、牧村は美優の腕を掴み去っていく。
「っ……げほっ」
待て、という言葉の代わりに血の塊が口から飛び出した。
「あー、なんというか、おねーさんも運が悪かったね。お大事に」
他人事のような言葉を吐き茶髪の女性も去っていく。
「……くそっ」
オレンジ色の光に包まれたバラ園に、忌々しげな呟きが虚しく響いた。
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