影を睨む
@AmnR
全編
影を睨む
目を閉じて、頭の中にメトロノームを思い浮かべる。
カッチカッチカッチカッチ。
ゆっくりと、だが寸分の狂いもないそのリズムを頭の中に染み込ませる。だが反対に私の心臓は早鐘を打つ。
ドックドックドックドック。
主人の命令もろくに聞けない心臓を抑えようと必死だ。荒い呼吸を何度も繰り返すが、酸素をうまく肺に運べていない錯覚を覚える。
「まもなく横浜駅です」
アナウンスを聞いて、私は窓の外に目線を移す。何本もの線路が一つに集約していく。先に見えるホームには電車がまだかと待つ人々で溢れている。私はため息を吐いた。
電車が止まりドアが開くと、多くの乗客を吐き出した。その流れに飲まれながら、私はおぼつかない足取りでホームのベンチにたどり着いた。空っぽになった電車の中へ再び溢れんばかりの乗客が我先にと乗り込んでいく。その景色を見て、胸焼けを起こしたように喉元が熱くなる。バックから水を取り出し、口に含む。ぬるい水が喉を通り、胃に到達する。私が呼吸を整えると、満腹になった電車がゆっくりとホームから離れていく。この発作は何度も経験した。そして乗り越えた時にいつもこう思う。
一体これがいつまで続くのだろうか。
私は足に力を込めて立ち上がり、改札に向かって歩き始めた。
外では湿った空気が体にまとわりつく。昨日降った雨はこの気持ち悪い空気を残して去っていった。私はメンソールのガムを噛み、微かな清涼感を頼りに歩き始めた。
歩き慣れた道を十分ほど歩くと、目当ての建物が目に入る。周りの景色と比較すると不自然なほど白い壁を横目にドアを開けた。背後でベルが何度が鳴る。それに気づいた受付の女性と目が合う。私は会釈をして彼女の元に向かうと、保険証と診察券を渡し、予約している旨を伝えた。
「火野さんですね。先生の用意がありますので、少々お待ちください」
私は礼を言うと、待合室に設置されている長ソファに腰を下ろした。腕時計を見ると時刻は十四時の少し前だった。電車に乗るために昼飯を抜いたので、そろそろ空腹を感じても良い頃だ。だが電車に乗ることを考えると、昼食は帰宅後にしなくてはならない。口の中のガムを飲み込んで胃袋を満たす。
「火野さん。火野礼司さん。こちらへどうぞ」
名前が呼ばれた。それに返事をして立ち上がると、彼女の後ろを歩き、診察室の前に経った。
「松村先生。火野さん入られます」
彼女がドアを開く。私が会釈をして中に入ると、溌剌とした声で話しかけられる。
「火野さん。こんにちは。一ヶ月ぶりだね」
「今日もよろしくお願いします」
カーディガンを羽織った松村はデスクに腰掛けている。私はその前の椅子に座る。松村は窓の外を眺めながら話し始めた。先ほどまで外にいたのにも関わらず、窓の形に切り取られた空の色はやけに灰色に見える。
「最近は変な気候で嫌になっちゃうね。火野さんは雨が降るとしんどいでしょ」
「そうですね。今日まで降っていたら予約はキャンセルする予定でした」
私の返答に松村は少し眉を顰めて、机の上に置かれたカルテを捲る。ここに通うようになってもう三年。それを示すように随分とカルテが厚い。
「それでどうかな?やっぱりまだ電車はしんどい?」
カルテから目を離した松村がこちらに問いかける。その問いかけを聞いて、当たり前のことが当たり前にこなせない自分を再認識してしまう。
「今日も電車に乗りましたが、やっぱりしんどいですね。電車に乗らずに済むならそれが一番ですが、仕事があるので」
松村はうなづきながら私の話を聞いている。なので私は続けた。
「松村先生。もう何回こんな質問しているかわかりませんが、一体いつまでこれは続くんでしょう。電車に乗るたびにあんな思いをするのは懲り懲りなんです」
一呼吸おく、松村は目を細めて、私が次に発する言葉を待っている。だが私にこれ以上話すことがないことがわかるとポツポツと話始めた。
「うーん。いつになればってのは、私の口からは言えないな。ごめんね。知っていると思うけどパニック障害というのは1ヶ月で治る人もいれば5年かかって症状が軽くなる人もいる。私もね、十年間色んな患者さんを見ているけど、まさに十人十色で一人一人症状は違うんだよ」
話終わると、松村は立ち上がって、診察室の壁に設置された本棚から何冊かの本を取り出すと、私に手渡した。するとまた話始めた。
「火野さんは広告のお仕事をされてるのよね。だから釈迦に説法かもしれないけど、同じ症状で苦しんでいる人が書いた本を読んでみるというのも病気に対する理解を深める良い方法になるかも」
その話を聞きながら受け取った本の表紙を眺める。書いてあることはどれも同じだという印象を受けた。中を開く気にはなれない。そんな私の様子を見て、松村はまた話始めた。
「まぁでも火野さん。始めに比べれば随分と症状は改善してるんじゃないかな」
三年前、この厄介な病気を発症したとき、人生はどん底だった。決してこの病気が原因ではないことはわかっている。
「三年前はこの椅子にも座っていられませんでしたからね。あの時に比べたら今は改善しているのかもしれません」
「そうだね。ゆっくりでも良いんだ。ゴールさえわかっていればね」
私のゴールはなんだろうか。この発作が消えれば良いのか。今はそれでいいのだろう。
「少し焦りすぎていたのかもしれません」
それを聞くと松村は目を細めて笑った。目元の皺が笑うことで目立つ。
「そうそう。焦っちゃダメよ。何事もじっくり。急に状況が変わるってのは大体悪いことだからね」
それから薬の服用状況や、生活習慣の話をして今回の診察は終わった。
「それじゃあ火野さん。お大事にね」
礼を言って診察を出ようと、立ち上がり出口のドアを見た。その時、視界に入った水彩画を見て、思わず私は動きを止めた。松村が後ろから話しかけてくる。
「ん?あーそれね。貰い物なんだけど、あんまりにも綺麗な絵だから飾ってるのよ。えーとなんて名前の花だったかな」
「アヤメです」
力強い筆のタッチで描かれた紫のアヤメは生き生きとその花を咲かせていた。
「そうそう。流石ね。広告のお仕事だとお花の知識も使うの?」
「いえ、たまたまですよ」
私はそう言って、病室を後にした。
一説によれば紫のアヤメの花言葉は「良い便り」だ。病室に置くにはおあつらえ向きの絵だろう。だが私の目を奪ったのはその絵自体ではない。その名前だ。アヤメ。その言葉を呟くと、微かだが私の中の傷口から血が流れる。懐かしさと痛みが全身に流れる。
『私はさ、自分の名前が好きでね。朱のように赤い愛だなんて、両親はロマンチストだと思わないかい?』
思い出そうとする頭の動きを必死で抑えようと試みる。それが無意味なことは知っているのに。心臓が音を立て始める。
ドックドックドックドック。
意識して深く息を吐き出す。思い出したくない記憶を吐き出すように深く。
自宅に到着したのは十六時の少し前だった。
「ただいま」
誰も聞いていないことはわかっているはずなのに、私はいまだに帰宅すると同時に声を出してしまう。カーテンの隙間から漏れた日光が部屋の埃を雪のように映す。上着を脱ぐと、帰りに買った食べ物が入ったビニール袋を机に置き、椅子に座った。
帰宅して落ち着いたからか、自分が空腹だったことに気付かされる。ビニール袋から取り出した適当な惣菜パンに齧りつく。美味くもまずくもなく、そして冷たい。そんなもので胃袋を満たすことにももう慣れてしまった。
ある程度腹が満たされたので、買ってきた他のものを冷蔵庫にしまうために立ち上がった。冷蔵庫の中は空白が目立つ。そももそも一人で使うにはこれは随分と大きすぎる。この部屋だってそうだ。一人で住むには広すぎる。それなのに引っ越すという選択肢を選ぶことができない。
机に戻り、ふと卓上カレンダーに目を向ける。終わった日には✖️が書かれている。これは昔からの癖だ。そして今日は二月三日の土曜。通院が終わると、特に予定はない。私は引き出しから煙草を取り出すと、火を点けて煙を吸い込んだ。吸い始めたのは大学生の時だった。それからずるずるろと今日まで吸い続けている。以前は部屋の中で吸うことはできなかった。煙草を咥えながら天井を見上げる。
『発作を抑えたいのなら刺激物は避けた方がいいよ。煙草とかコーヒーとかね』
『ねぇ。あなたが自分の体をいじめることにとやかく言うつもりはないけど、ここは二人の家なの。煙草は外で吸ってくれない?』
『君には煙草は似合わないねぇ。やめられる内にやめた方がいいよ』
『そうやっているとまるでお父さんの若い頃みたいだわ。なんで男の人って煙草を吸うと不機嫌な顔をするのかしら。そんな顔するなら吸わなきゃいいのに』
誰もいない部屋なのに、頭の中が酷く賑やかだ。私は頭を振ると、半分以上残った煙草を灰皿に押し付けて、目を閉じた。
着信音で目を覚ます。どうやら寝ていたようだった。暗くなった室内でスマートフォンの画面を見て、私は目を疑った。自分がまだ夢の中にいるような気がしたのだ。ゆっくりとスマートフォンを持ち上げ、着信ボタンをタップした。
「もしもし」
電話口からは何も聞こえない。私はいつしか立ち上がっていた。
「まさか君から電話が来るなんてね。てっきりブロックされたのかと思っていたよ」
「急にごめんなさい。もう寝てたかしら」
私は、部屋の壁にかけられた時計に目を向けた。短針は二十一時を示している。
「まだ九時だろう。そんなに早く寝ないさ。なんなら今起きたところだよ」
「まだあなたはそんな生活をしているのね」
彼女は知っている。今更隠しても仕方がない。
「今日は病院に行ったんだ。そのせいでひどく疲れてしまって」
私は無音に耐えきれず、病院での事を話していた。
「そう。もう私には関係ない事だけど」
香織はぴしゃりとそう言い放つ。電話越しなのに、その声はまるで向かい合っているかの
ように感じられた。私と彼女の関係は既に終わっている。そのことは私自身よくわかっている。
「そうだね。君には関係がない話だった。それで、僕に何か用かな」
彼女は一呼吸おくと、ゆっくりと話し始めた。
「朱愛先輩のことよ」
運命という不気味で不可侵な力の存在を時折感じることがある。診察室であの花を見たとき、始まっていたのだろう。
「ん?あぁ朱愛先輩か。そんな人もいたね」
自分を客観視すれば、こんな三文芝居には苦笑もできないだろう。花の絵を見ただけで、思い出してしまうほど、強く記憶に刻み込まれているのに。
「誤魔化さないで、思い出すまでもないでしょう」
「もう三年も会っていないんだ。君と僕と同じでさ」
「行方不明なのよ。先週から」
随分と物騒なワードが香織の口から飛び出した。そんなことは私じゃなくて警察などの然るべき機関に相談してほしい。
「それは、また随分な話だね。僕はどうすればいいのかな」
「どうしてほしいってわけじゃないの。ただあなたには伝えておくべきかと思って」
私は気の抜けた返事をする。頭の中で診察室で見た水彩画を思い出す。
「要件はそれだけよ」
「そうか。何かあったら君に知らせるよ」
一瞬の間があり、電話は切れた。着信履歴には香織の名前が表示されている。私はそれをしばらく眺めていた。
暗い部屋に一人。酷く寒く感じる。それと同時に微かな寂寥感も。私は寝室のドアを開けて、ダブルサイズのベットに腰掛け、そして寝そべった。
もう何も残っていないはずなのにそこに数かに香織の残穢を感じる。随分と眠ったはずなのに、また瞼が重くなっていく。どうせ明日は日曜だ。目を閉じて深い暗闇を感じる。
暗闇の中に花が咲いている。アヤメだ。でも色が違う。黄色の花を咲かせている。黄色のアヤメの花言葉は失踪だ。とうとうあの人は消えたのか。元から煙のような人だった。どうせ誰だって私の前から消えていく。香織だってその一人だ。
熱心にPCに文字を打ち込む男の姿を私は後ろから眺めている。PCが乗せられている机の上には何冊もの文庫本が積み上げられ、色とりどりの層を作っている。彼は一瞬手を止め、大きくため息をつく。私は彼の顔を見たいと思ったが、定点カメラのように体が動かない。そうかこれは夢なのだ。私がそれを理解すると彼はまた文字を打ち込み始める。
どうしようもなく私は視界から集められる情報を整理する。まずは彼の容姿だ。と言っても後ろ姿だけだ。彼は室内にいるのにも関わらず、ダウンを羽織っている。そして、文字を打つリズムで、足が微かに揺れている。寒さで震えているのではないだろう。貧乏ゆすりをしているのだ。そして彼の足元に目を向けると、空になったコーヒーのペットボトルがいくつも捨てられている。とてもじゃないが一日で飲んだものではないだろう。もしかしたら彼は何日もここにいるのかもしれない。そして積み上げられた本のタイトルを見る。著名な作家ばかりだ。そのほとんどを私は知っていた。彼は一体誰なのだ。
私がそう考えた時、私は彼がこちらを見ていることに気づく。ただ彼の顔は黒く塗りつぶされていて、輪郭だけしかわからない。
「邪魔をしないでくれ」
叫ぶことを意図的に抑えた声で彼はそう言った。ただその声は私が一度も聞いたことがないものだった。そして幕が落ちる。彼とはそこでお別れだった。
胃袋を掴まれたような空腹で目を覚ます。ベットから出て、冷蔵庫を開けると昨日買った惣菜パンを齧った。中にはそれ以外の食べ物が見当たらなかった。私が飲まない酒類がいくつかと中身が中途半端に残った調味料だけだ。食事中の暇を潰すために椅子に座りPCを起動した。適当に幾つかのニュースサイトを見る。日曜の朝には合わないような暗い犯罪のニュースが目立つ。それに嫌気が差して、以前からよく見ているサイトに移動した。このサイトでは映画等のエンタメに特化したサイトだ。惣菜パンを齧りながらサイトを眺める。そこで一つのトピックに目が止まった。
「才能とは何か。売れっ子作家の答えとは?」
中身を見ずに私は考えた。私はなんの才能も持ち合わせていない。それでも仕事をやって、毎日を生きていくことができる。それでも才能について考えて一つの答えを持っていた。
才能は呪いだ。気付かないうちに体を蝕み、いつしか四肢が腐り落ちるまで自身はそのことに気付かない。私は空になった本棚を眺めてそう思った。かろうじて四肢はまだ残っている。それを確かめるように腕をさすると、昨日外出した時から着替えてないことを思い出し、シャワーを浴びた。
時間を持て余していると気づいたのは、十一時のことだった。濡れた髪がすっかり乾いてしまっている。もうずっと、仕事と暇を行き来している生活だ。そこで、映画を見に行こうと考えた。長い時間を消化するには映画がちょうど良い事は経験則からわかっていた。着替えを終え、玄関を出て大通りを歩き始めたところで、スマートフォンを開く。仕事のメールが何件か溜まっていて、それ以外には何もない。ふと昨日の香織からの通話履歴を開いた。数字の羅列の中で唯一名前が記載されている。自分と社会とのつながりの浅さを痛感した。社会というものから孤立する。このことを誇りとしていた時期が自分にもあったことを思い出す。それになんの意味もないというのに。
映画館に着いたが、興味を引くような題名はなかった。名作のリバイバル上映があったが、十五時開始では随分と時間が空いてしまう。私はしばらくチケット発券機の液晶を眺めて十三時から始まるアクション映画のチケットを買った。中央通路の後方で端の席を二つ。昔から映画を見るときはチケットを二枚買う。隣に座る人間に邪魔をされたくないのだ。それに発作が起こったときにすぐ逃げられるという安心感を買うなら四千円は決して高くはない。飲み物を買って、指定されたスクリーンに向かう。二時間の間他のことは考えなくていい。正直映画の内容はどうだっていい。
クレジットが終わり、照明がゆっくりと明るくなる。立ち上がって固まった体をほぐす。そして周りを見渡したが、私以外の観客はほぼいなかった。頃合いを見て映画館を後にした。そろそろ十五時になる。このまま家に帰るわけにもいかないので、映画館の周辺をふらふらと散歩する。どういった道を歩いたのかは覚えていないが、目の前には大きな本屋があった。もう三年も仕事以外で本は読んでいない。踵を返そうとしたところで、透明なガラスの中の平積みされたハードブックの表紙が目についた。
黒い水溜まりに太陽が反射している水彩画。タイトルは「影を睨む」作者は「文愛」
文章を愛する、ストレートなペンネームだと思った。知らぬ間にその本を手に取っている。もう本は読まないはずだった。だが、何か自分を惹きつけるものがあったのだ。レジで金を払い、カバーを断ると本を小脇に挟んで本屋を後にしていた。何故か先ほど見た面白くもないアクション映画の主人公が言っていたセリフが頭によぎった。
「ショーマストゴーオンだ。ここまできたら行くしかない」
私はカフェに入ると、テラス席に座った。昨日とは変わり太陽がようやく顔を出したので、日光を浴びたいと思ったのだ。ウエイトレスに軽食と紅茶を注文すると本を開いた。
三年ぶりの読書で文章が目を滑るという感覚を嫌というほど味わう。一ページを読むだけで息が詰まりそうになる。だが目を離すことができなかった。
この小説の大まかな話はこうだ。主人公は幼い頃から本が好きだった。その中でもとりわけ小説に目がなく、作家になることを人生の目標として高校生、大学生と成長する。二十歳を超え、夢が空想上のものではなく現実上の問題として頭角を表した時に、主人公は自分の才能やエゴに取り憑かれる。友人や恋人、恩人を執筆に不要と判断し、ひたすら文章の中に埋もれていく。そうして幾つかの困難を乗り越え、主人公は作家として大成する。だが彼の中にはいくら書いても満たされない空虚な穴があった。そして主人公は三十歳を超え、生きている意味を見失ってしまう。過去の文豪が選んだ自殺の手段をいくつも試す。だがどれもうまくはいかない。そして最後には車の中でガス中毒で死ぬことを選ぶ。覚悟を決めた主人公だったが、車内から見える星空に涙を流す。そして最後主人公が車のドアに手を伸ばす描写でこの話は終わる。
私は本を閉じる。そして自分の頬を涙が濡らしていることに気づく。それを手で拭うと横にウェイトレスが立っていることに気づく。
「すみません。随分と熱心に読書をしていらしたので、邪魔はしたくなったのですが」
申し訳なさそうにウエイトレスは私の顔を見る。私が泣いていることに気づいたのか、訝しむような視線を向ける。腕時計を見ると。時刻は十九時を示していた。まるでタイムスリップをした気分になった。
「申し訳ない。恥ずかしい話ですが、見ての通り熱中してしまいまして」
顔に笑顔を貼り付けて、私はウエイトレスにそう言った。そしてすっかり冷めて、色が二層に別れている紅茶を一気に流し込むと、席を立った。
「不躾な質問をしてもいいですか?」
彼女は私の背中に問いかけた。会話は終わったと思っていたので、私は驚いて振り返る。それを肯定と受け取ったのか彼女は続けた。
「そんなに面白かったんですか?その本」
彼女は私が抱えている本を指差している。返答に困る質問だと思った。面白いという言葉は軽々しく使うには意味があまりにも広すぎる。
「時間を忘れてしまうぐらいには」
私はそう答えると、彼女の返答を待たずに喫茶店を後にした。すっかり外は暗くなり、風が冷たくなっている。店を出る前に冷えた紅茶を飲むんじゃなかったと後悔した。足早に帰宅する途中にあの主人公が自分を自嘲して言ったセリフが頭の中に何度もこだました。
「私という人間は死んだように毎日を生き延びる。こんな人間には物を生み出す資格はない」
前半の部分に共感してしまうのは作者の意図なのか。私という人間の壊れた部分がそう見せているのか。
自宅に戻ると、空の本棚に買った小説を入れた。だが一冊では収まりが悪い。横にして置いたのだが、空の本棚よりも却って寂しく見えてしまう。思えば実家には一生かけても読みきれないような量の本があった。父親はともかく、母も読書が好きな人で、夕食後には居間でそれぞれが読書に没頭するような家だった。私も昔は本が好きだった。
少し落ち着くと、若干の空腹を感じた。だが冷蔵庫の中には何も残っていない。帰り道に何か買ってくるべきだった。出前を頼む気にもならず、水道水をコップに注いで飲み込んだ。空腹感が紛れる。その時、私はあの本の後書きを読んでいない事を思い出した。そして、再び本を開いた。ある部分に目が止まる。
読者の皆様は主人公が最後にどうなったか、それが知りたいと思います。もちろんご想像にお任せしますと言ってしまうのは簡単ですが、それは個人的に無責任だと感じるんですね。彼はどっぷりと絶望しています。私はそれを書いているときに随分憂鬱な気分になったことを思い出します。もちろん今は元気ですが。話を戻すとそんなに深く絶望した主人公が最後に涙を流すのは何の変哲もない星空なんですね。自分の手で何もかも切り捨てた主人公はそんなもので感動してしまうんです。彼はあの瞬間に再びこの世に生まれ落ちた。私はそう考えています。だったらそれがわかるように書けと言われそうですが、これは私なりのメッセージなんです。同じように悩んでいる人に伝わってほしい。ドアを開けるのか、そのまま終わるのか。だからあえて結末は描きたくなかった。私の意見を押し付けるのは不作法だと思いまして。
私自身としては主人公は死んだ物だと思っていた。どっぷりとした絶望に打ち勝てるほど人は強くないし、生きることが勝利ということでもないように、死ぬことが敗北というわけではないだろう。そんなことを考えながら、私は煙草に火を点けていた。いつもよりも深く煙を吸うと思わず咳き込んでしまう。そして初めてこれを吸った日のことを思い出した。こんなことが頭をよぎるのは小説なんて物を読んだからだろう。
それは大学に入学してすぐのことだった。私は文学サークルに席を置いていた。新入生歓迎の集まりに顔を出し、平凡な自己紹介を終え、洪水のように同級生や上級生の名前を聞かされて辟易していた。店を貸切にしていたので、どこにも逃げ場がなかった。室内の熱気に耐えきれなくなり、人の波の中を足早に店の外に出た。そこで煙草を咥えている女性と目があった。
「君のことは知らないね。新入生かな?」
それが朱愛先輩との出逢いだった。
世間一般の感性でいえば、美人の分類に入るだろう。何も答えないのはいけないと思い。自己紹介をしようとしたところで、彼女は私に手のひらを向けた。
「結構だよ。私は興味のある人間のことしか覚えられない性格でね。ここで君に自己紹介をしてもらっても家に帰るまで覚えている保証もないから」
面を食らった。口ぶりから彼女は私よりも年上だと思うが、あまりにも素直に自分の意見を言うからだ。
「僕もです。今日だけで一生分の人の名前を聞いた気がします。確かに明日になっても思い出せるかと言われると怪しいですね」
「私と同じクチか。それで君は吸わないのかい?」
手に持っている煙草を目線に掲げながら、彼女は私に問いかけた。バニラのような匂いが、鼻腔をくすぐる。煙草といえば父が吸っていたわさびのような鼻がツンとする香りのものばかりだと思っていた。
「はい。ただ店の熱気が嫌になって逃げてきただけなので」
「確かにあそこにいるだけで酔ってしまうね。まぁお酒も飲まずに酔えるなら安上がりだけどね」
私が彼女の煙草を見つめているものだからきっと彼女は勘違いしたのだろう。急に手にした煙草の吸い口を私の方に向けると、悪戯な笑みを浮かべていた。
「そんなに気になるなら吸ってみるかい?」
「体に毒です」
「でも魂にとっては薬だ」
そういうと彼女は強引に吸い口を私の口に押し付けた。私は身を後ろに引こうとしたが、そこには壁があった。
「ゆっくり息を吸って」
観念して煙草を咥えた私に彼女はそう言った。息を吸うと喉が焼ける錯覚を覚えた。そして激しく咳き込んだ。
膝に手をついて、涙目になっている私を見下ろして彼女は笑っている。美人は笑っても美人なのか。熱くなった顔とは裏腹に頭はそんなことを考えていた。
「本当に初めてだったのか。君には気の毒なことをしたね」
私が吐き出した煙草を灰皿に捨てると、彼女は私が落ち着くまで肩に手を置いていた。ゆっくりと時間をかけて、呼吸のリズムを取り戻したが、喉に残る異物感は消えなかった。
「何事も経験だよ。後輩くん」
そう言うと彼女は店には戻らず、大通りの方へ歩き始めていた。私は涙目のままそれを見つめていた。ふと彼女はこちらを振り返った。
「後輩くん。君名前は?」
「火野です。火野礼司」
「覚えたよ。いい名前だ」
そう言って彼女は消えていった。取り残された私は口に残るバニラ残り香をかすかに感じながら、立ち尽くしていた。
その後どうしたかは思い出せない。あの時は名前も知らなかった朱愛先輩のことだけが印象に残っている。あの時聞いた他の名前は誰一人として思い出すことはできない。手元の煙草が長い灰となって床に落ちる。今になってはこの灰のように全てが消えていく。あの日、朱愛先輩に会わなければ煙草を吸うこともなかった。私は床の灰を片付けて、部屋の明かりを落とした。どうせ明日は仕事だ。
広告代理店の仕事が自分に向いていると考えたことはない。それでも、今の生活を維持するために、時折顔を見せる完璧主義との折り合いをつけ、嵐を乗りこなす。特に水曜日に起こった問題のせいで、職場は大いに荒れていた。詳細は不明だが、予定されていたコピー作家が失踪した。この業界では別に珍しいことではない。昨日まで平気な顔をして働いていた人がいきなり来なくなる。新入社員だった頃は本気で心配した。それなのに通常通りに仕事が消化されていく様を見て、会社という巨大で冷たい機械という存在を酷く恐ろしく感じた。だが一年も働いていればその穴埋めに自分が駆り出されることに恐怖するようになった。そしてそのコピー作家の穴埋めという火の粉は私に降り掛かったのだ。
「火野、お前コピー書けるか?」
上長が私を呼び出してそう聞いた。時刻は定時の三十分前で、十八時三十分だった。私は何名かの名前を挙げたが無意味だった。彼はいつもそうだ。こちらに回答権があるかのように二択を迫るが、そぐわない回答は聞かない。相手が欲しい回答がわかったので、私は口に出した。
「それは僕にコピーを書けってことですよね」
彼はそれを聞くと満足したのか、わざとらしく口角を上げ、私の肩を叩いた。
「そうゆうこと!木曜の定時までに頼むよ」
上長がそう言うと、定時を告げるチャイムが鳴った。その瞬間社内が一斉に動き出す。つまりは帰宅するものと、残業するものが分かれる。私は後者になってしまった。
何人かの同僚に挨拶して次々と帰宅していく。私は一人PCに向かって、コピーに必要な情報を調べた。今回の対象は栞だった。クライアントからの要望は読書の素晴らしさを伝えたいとのことだった。もっと深い情報が欲しいと思ったが、それを知っている人間はもうここにはいない。
読書の素晴らしなんてものを私は知らない。本に囲まれて過ごした、唯一の娯楽が本だった。呼吸することの素晴らしさを書けと要求されていることと同じように感じる。だが、できませんでしたと上長に伝えるくらいならば、今抱えている苦痛の方がマシだ。それから何度が喫煙所に行き、終電を逃し、既に消灯されたフロアの中でPCの明かりを頼りに何本かのコピーを書く。書いては消してを繰り返しながら、自分の中にある読書というものと向き合う。
珍しく父の方から私に話しかけてきた。私が小学生だった頃のことだ。
「何を読んでいるんだ」
ぶっきらぼうな父は愛想というものを知らない。自分の子供に話しかける時でさえ仏頂面だった。私は読んでいた本の表紙を父に向けて説明した。
「シャーロックホームズだよ」
「どのタイトルかを聞いている」
「緋色の研究」
私はむすっとして答えたと思う。今だって会話の中でそんな細かい指摘をされたら気分を害するだろう。
「何故読んでいる」
「面白いから」
父は私に背を向け、本棚を本を物色しながら続けた。
「私は何故だと聞いたんだ。お前が言ったのは感想だ。お前は読む前からその本が面白いと知っていたのか」
父の言葉には独特のテンポがある。初見の人であれば、父がひどく不機嫌な人間に見えるだろう。その時は不機嫌ではなかった。
「母さんが面白いって言ってから。気になって」
私の答えを聞くと、父は私が座っていたソファの隣に腰を下ろして続けた。父は特別なことがない限り家にいた。その代わり来客が父の外出の機会を奪うように押し寄せていた。
「お前はさっき面白いと言ったな、何が面白いんだ」
私は文章に戻していた視線を持ち上げ父を見た。父はこちらを見るわけでもなく、本棚から持ってきた本を開いている。
「ホームズが犯人を捕まえるのが面白い」
何度が考えてまとまった考えを声に出す。父はそれを聞くと父はこちらを横目で見た。
「そうか。お前はもっと言葉を知るべきだな」
父は読んでいた本を私の膝に置くと、ソファから立ち上がり、自室へと言ってしまった。今になって思えば父は小学生の息子に何を求めていたのだろうと思う。私の膝に置かれていたのは国語辞典だった。あれは父なりのジョークだったのだろうか。
高校時代の読書はとにかく楽しかった。本を開くたびに知らない言葉、見たことのない表現が溢れており、自分もいつかこのように読者を感動させる作家になりたいと錯覚させるには十分だった。一日の内のほとんどを読書に充て、母親を心配させた。歩きながら本を読む私とぶつかるたびに母はいつか本の虫になると冗談を言った。それを聞いてカフカの変身みたいだなと思った。父は何も言わずに私の机の上に何冊も本を積んで行った。この時父の仕事は非常に忙しく、父とのコミュニケーションは本を通してだけだった。
大学時代の読書はその反対だった。本を読むと嫉妬が渦巻き、自分の文章の至らなさに腹が立つようになった。何冊読んでも、どれだけ書いても追いつけない絶望。だが自分が選んだ道だと自分を奮い立たせて、本を開いたが、昔のように楽しむことはできなかった。
PCの電源を落とす。時刻は午前一時を指していた。タクシーで家に帰ってもよかったが、頭にこもった熱のせいで眠れないことは明確だった。目と耳の奥が痺れている錯覚を覚える。仮眠室に籠ったが結局断続的な睡眠しか取れずに出社時刻を迎えた。
目を充血させ、昨日と服装が変わっていない私を見て、上長は少し驚いたような顔をしていた。
「あれ、火野くんってそんなキャラだっけ?」
「お給料をいただいていますので、その分の仕事はします」
上長は印刷された私のコピーを次々と見ていく。一枚見るたびに短い声で感想を話す。そして全てを見終えて、紙を机で叩くと私の方を見て言った。
「まず急な仕事だったよね。引き受けてくれてありがとう。それでこのコピーなんだけど、九枚はダメだね。これじゃクライアントには通らない。でもこれは良い。とっても良い!」
そう言って私に紙を差し出した。そこにはこう書かれていた。
「言葉がいつか、あなたと誰かを繋ぐ架け橋になる」
それは高校時代の父とのコミュニケーションを思い出しながら書いたコピーだった。私は正直全て通らず、今日も残業になることを覚悟していたので、思わず聞き直した。
「良いですか?これ」
「君が書いたんだろ?もっと自信を持ちな」
その後、彼は何本かの内線をかけてデザイナーを呼び出した。それから私を含めたフォントやデザインの会議に出席したが、ろくに睡眠を取れていなかったことと、コピーが通った安堵から内容はほとんど覚えていない。確かなのは穴埋めの仕事を私は確かに乗り切ったということだけだった。
会議後に自席で睡魔と格闘している私に、上長が私に帰宅を命じた。健康を考慮し、早く帰れとのことだった。確かに疲れもあった、それに昨日から同じ服を着ていたせいで体が痒い。素直に応じると十八時に会社を出た。
それが迂闊だったと気づいたのはホームで電車を待っていた時のことだった。会社を出たことで昨日から張られていた緊張の糸が切れていた。そんな私が普段よりも乗客が多いことを全く考えていなかった。ろくに自分の後ろに並んでいる列の長さも見ずに、到着した快特の電車に乗り込んでしまった。私の後ろから濁流のように人が押し寄せ、私はあっという間に車両の奥へと追いやられた。ハッとして降りようとした時はろくに身動きができず、無慈悲にも電車のドアは閉まってしまった。まずい。そう思うった時は心臓が喉元で迫り上がっていた。
ドックドックドックドックドック。
深呼吸をそしてメトロノームをと必死に目をつぶる。だが瞼の裏の暗闇には何も見えない。呼吸が次第に浅くなる。首元を触ると汗をびっしょりとかいている。何も食べていないはずなのに胃がひっくり返ったような吐き気が私を揺さぶる。他の乗客から私はどう見えているのか、皆が私を見ている気がする。これは私の妄想だ。発作の一部なのだ。私は松村の言葉を思い出す。
「発作が起きた時に思い出してほしいのは一つだけ。日野さんは発作では死にません。脳がちょっと誤作動を起こしているだけなの」
そうだ私は死なない。ただ死ぬほど辛い思いをしているだけだ。この二つには大きな差がある。目を開けると、窓の外をいくつもの光が右から左へ流れていく。それすらも目についてしまう。そこで発作を止めることができる薬の存在を思い出す。財布とバックにそれぞれ持ち歩いている。私は中腰になり、足元のバッグを持ち上げ、ファスナーを開く。指が思った様に動かないので、一つ一つの動きがひどく不恰好になる。やっとの思いで、ペットボトルと錠剤を取り出す。そろそろ限界だ。
ドックドックドックドックドックドックドックドックドックドック。
取り出した錠剤を口に運ぼうとして、不意に電車が揺れた。私を救う蜘蛛の糸の如き白い錠剤は無情にも手を離れて床に落ちて転がった。無数の革靴の中をコロコロと転がり、私の視界から消えてしまった。一瞬だったが、 私の心を挫くのにはそれで十分だった。糸が切れた人形の様に私はその場にへたり込む。周りの乗客が一斉に私との距離をとる。そんなスペースがあるなら、もう少しゆとりを持てたろうと思う。呼吸を整え、立ちあがろうと思うが、ろくに体が言うことを聞かない。それなのに電車は決して止まらない。
「日野くん?大丈夫?」
不意に話しかけられた声を私は幻聴だと考えた。彼女の肉声を再び聞くことができるとは思っていなかったからだ。だが確かに目の前に香織が立っていた。
「平気だ。ごめん」
「そんなわけないでしょ。電車で倒れるなんて」
みっともない姿は見せられない。私は必死で足に命令する。浅い呼吸を繰り返して、ようやく視線が元の高さに戻った。私の肩を無言で香織が支えてくれる。その時車両にアナウンスが流れた。間も無く電車が駅に到着する。
駅のホームで私はベンチに座り込んだ。香織は近くの自販機で買った水を私に渡すと、隣に座る。
「驚いた。急病人かと思ったらあなたなんだから」
電車を降りたことで心臓も呼吸も元のリズムを取り戻していた。
ドックンドックンドックン。
「昨日徹夜でね。いつもよりも早い電車に乗ったんだけど、こんなに混むなんて知らなかったんだ」
「普通の人は徹夜しても電車で倒れたりしないわよ」
彼女の厳しい目線が私の横顔に向けられている事を感じた。それが原因で彼女の方を向くことができない。
「全く恥ずかしい限りだ」
彼女に捨てられた時から私は一歩も成長しちゃいない。一人でいるときは見ないようにしていた自分の弱さは、彼女の目に映る自分を見ると痛いほど感じてしまう。
「あなたって人は本当変わらないのね」
目線を合わせない私を見て彼女はため息をついた。バッグから携帯を取り出すと時間を確認したようだ。
「時間があるなら夕食でもどう?もう二度と会えない気がするし」
それに似たようなセリフを三年前に聞いたことを思い出す。あの時と違うのは彼女が泣いていないことだけだ。
「あぁ、是非。でもその前に薬を飲ませてくれ」
そう言って財布から錠剤を取り出し、口に含んだ。発作は既に去った後だったが、体に残った痺れのような感覚が抜けない。薬を飲んでしばらくすると、視界が広がる感覚に襲われ、周囲の音が鮮明に聞こえ始める。そして立ち上がると私たちは並んで歩き始めた。
駅から出てすぐに見つけたファミリーレストランで私たちは向かい合って座っている。目の前にスパゲティが運ばれて来るまでどちらも話さなかった。いただきます、そう言って彼女はフォークを使って、私の前に置かれたものと同じスパゲティを食べ始めた。私も続いて食べ始める。
「改めてお礼を言わせてくれ。電車では助かったよ」
彼女は咀嚼を終えると、水を一口含んで話し始めた。
「別に良いのよ。あなたじゃなくたって助けただろうから」
「君は本当に優しいね」
スパゲティを一口食べる。別段珍しいものじゃない、クリームソースがかかった平凡なものだ。だが温かい食事が久しぶりだったからだろうか、とても美味しく感じる。
「ちゃんと生きているのね」
「ぼちぼちだ。病院と職場を行き来して、土日は暇を潰している。話して面白いものじゃない。君は?」
「引越し先にやっと慣れたって感じかしら。時間をかけて家具を揃えて、変わってしまった生活を体に馴染ませてる」
「すまない」
「謝らないで。あなただけが原因じゃないの、私たちは適切な距離を見誤っただけ」
私は項垂れ、彼女は食事を続けた。視線の先の白いソースが濁っているように見える。
「昔の話はやめて。思い出しても愉快なものじゃないから」
彼女の言葉が纏った冷たい空気の正体は憐れみなのか諦めなのか。目の前のスパゲティから温度が奪われたように感じる。
「この前はごめんなさいね。急に電話して」
私は通話の事を思い出す。香織と朱愛先輩は友人だった。今でも連絡を取り合っているのだろうか。
「先輩から君に連絡が来たりはしないの?」
「来てたら行方不明だとは言わないでしょ。あの人のことならあなたに連絡しそうだと思うけど」
私は両手で数えられるほどの連絡先を思い返す。確かに朱愛先輩の名前はある。だが彼女から連絡が来たことは、数えるほどしかない。
「君は僕とあの人の関係を知らないんだ」
「私はもうあなたのことがわからないの」
「他人のことなんてわかりっこない。そうだろ?」
彼女は一呼吸置いた。そしてナプキンで口を拭く。
「でもそれは他人を理解しようとしない理由にはならないでしょ」
朱愛先輩はそれと正反対のことを言っていた。彼女は世界と自己の間に強固な壁を気づいていた。それでいて、私と違って世界とうまくやっていけているように見えた。
「君は出会った時から変わらないね」
「出会った時のあなたは不器用だけど、私よりずっと優しかったわよ。もう覚えていないだろうけど」
覚えている。君と初めて会った日のことも、君を失った日のことも。でもそれを声にすることができなかった。
「もう出ましょうか」
彼女はバッグを持って立ち上がるとそう言った。会計は私が払うといい、渋る彼女から伝票を受けると会計を済ませた。
「ご馳走様」
「そんな他人行儀なことを言わないでくれ。今日のお礼だ」
私たちは駅までの道を歩いた。彼女と私の距離は近いはずなのに、随分と遠く感じた。沈黙に耐えきれずに、私は適当な話題で彼女に話かけた。
「そいえば最近本を読んだんだ」
「そう。あなた好きだったものね」
彼女は若干の早足で歩く。置いていかれないように無理してペースを上げる。
「影を睨むって小説でね。随分と面白かったんだ」
それを聞くと彼女は立ち止まった。私は慣性で思わず彼女を追い越してしまう。
「そう。やっぱり離れられないのね」
その言葉の意味を私はうまく受け取れなかった。その意味を尋ねようとも思ったが、時は既に遅く、駅に着いてしまった。
そして同じホームから別々の電車に乗った。別れ際彼女は私にこう言った。
「さっき言ってた影を睨むって、まるであなたのことみたいね」
電車を降り、家までの道を歩く。電車でかいた汗が服を濡らしたからか、風がひどく冷たく感じる。香織の顔を思い出し、そして以前にも同じように寒さに凍えながら歩いたことを思い出す。これに意味はないのだろう。風化していく記憶の一つに過ぎないのだから。
香織と始めて会ったのは私と朱愛先輩が行動共にしてから半年後だった。それは大学一回生の終わり頃、冬の日のことだった。
「時に君はこんな寒い日には何が食べたくなるかな」
「まぁ無難なとこで言えば鍋じゃないですか?それかおでんとか、ポトフもいいですね」
「鍋ねぇ。君は何鍋が好きなんだい?聞くに昔の戦国大名の若く、好きな鍋というのは群雄割拠しているらしい。それを解決するために鍋に仕切りをつけて、二つの味を同時に楽しめる。そんな商品があるらしいじゃないか。まさに日本統一だ」
雪こそ降っていないが、吐く息がいつまでも白い。私たちは並んで歩いていた。朱愛先輩と並んで歩くと、カップルと間違われるなんて最初は考えていたが、自意識過剰だった。世間は私が思うほど、私のことを見ていない。
「そんなことで日本統一が達成できたら、明智光秀は謀反を起こしていませんよ。それで僕は水炊きが好きです」
「君は水炊きが好きなんじゃなく、ポン酢が好きなだけだろう」
「オムライスが好きな人がケッチャプが好きだとは言わないでしょう。先輩は何が好きんですか?」
「私は赤い鍋が好きだな。キムチもいいし、トマトもいいな」
私は他に赤い鍋があるか考えたが、朱愛先輩が挙げた以外のものは思いつかなかった。
「キムチは辛いから嫌いですね。トマトは子供っぽくないですか?」
そんなことを話しているとますます腹が空いてくる。大学の五限が終わり、空腹は最高潮を迎えようとしていた。
「だいぶ変なことを言うね。トマトは子供っぽいと言う割にはキムチは辛いから食べられないだなんて子供じみた事を言う。矛盾しているよ」
揚げ足をとるようなことを言われることにも随分慣れた。朱愛先輩と一緒にいるならこんなことでいちいち腹を立てていられない。
「まぁ二十歳は子供みたいなものでしょう。社会ってものを知らないんだから」
「素直だね。そうやって自分を肯定できることはとても大事なことだよ」
そこからしばらく具にもつかない話をしていると、スーパーマーケットに到着した。
「今日も僕の家に来るんですか?」
カゴを持って、買いもしない檸檬を眺めている朱愛先輩に私は声をかける。だがいつまで経っても返答が返ってこない。朱愛先輩はたまにこう言ったことをする。聞こえているのにあえて返答しないのだ。過去に理由を聞いたことがある。朱愛先輩の答えはこうだった。解答がわかっていることをあえて質問するのは卑怯だと。
「早くその爆弾を置いてください。鍋の具材を買って僕の家に行きましょう」
私はそう言って、カゴを受け取る。朱愛先輩は手に持っていた檸檬を元の場所に戻すと、私の横を歩き始めた。
私は慣れた足取りで、白菜やら豆腐といった鍋に必要な具材をカゴに入れていく。具材一つ一つに朱愛先輩は文句を言うのだからちっとも買い物が進まない。
「マロニーか白滝かそれが問題だ」
「マロニーが良いです。白滝は別の料理でも食べられますが、マロニーは鍋でしか食べられない」
「肉団子ってのは子供っぽくないかな」
「実家ではいつも入ってましたよ。中々うまいんですよ」
「鶏肉がいいよ。胸肉は安いし、これにしよう」
「パサパサしてて嫌いです。豚肉でいいでしょうよ」
次々と買い物カゴに食材が積み込まれていく。最後に鍋の元のコーナーにたどり着く。
「さてどうしようか。君は水炊きがいいんだろ?私はトマトがいいなぁ」
私たちは二人して譲らなかった。妥協案として水炊きの後にトマト鍋をしてはどうかと提案したが、私たちの胃袋はそんなに大きくなかった。
「まぁここは先輩の顔を立てますよ」
そう言って私が折れようとしたところで朱愛先輩があっ、と声を上げた。そして小走りで棚の奥に進んでいくと、したり顔で何かを持っている。
「この紋所が目に入らぬか」
朱愛先輩は鍋用の仕切りをカゴに入れ、続けてトマト鍋の元を持ってレジに歩き始めた。
二つになったレジ袋はひどく重たく、指の第二関節を容赦なく痛めつける。一個ぐらい持って欲しいものだと思いつつ、私は朱愛先輩の後を歩いている。
「ほらあとちょっとだ。君は男の子なのに情けないねぇ」
「重たいものを持つのに男も女も関係ないでしょう。世の中男女平等ですよ」
やっとの思いで、私の家に到着する。寒さと重さで掌が真っ赤になっている。急かす朱愛先輩を横目に私はポケットから鍵を出すと、玄関のドアを開けた。
「ただいま」
「お邪魔します」
そう言って靴を脱ぐと、狭い廊下を抜けて、台所と共生しているリビングへ向かう。
「本当にごちゃごちゃした部屋だねぇ」
「男の一人暮らしなんてのはこんなもんですよ」
上着を脱いで、クッションに座って朱愛先輩は寛いでいる。そしてリビングに置かれた本棚を眺めている。
「良いね。どんどん本は読んだほうがいい。読めば読むほど身になるからね」
「そんなもんですかねぇ」
そんな会話をしながら、私は台所に立つ。空腹は限界だったし、夕飯の準備をしたかった。
私たちは並んで、無残なバラバラ死体を眺めていた。包丁を持つ私の手は震えている。
「驚いた。君がそんなに不器用だったなんて」
「意外と難しいんですね。切るだけだと思ってました」
まな板の上で無残な形に切り捨てられた白菜を眺めるしかできなかった。
「しょうがない。こんな時は助っ人が必要だな」
そう言って、朱愛先輩は電話をかけ始めた。私はバラバラになった白菜をボウルに移しながら会話を聞いていた。
「そうそう火野くんだよ。君はまだ会ったことがなかったか」
「鍋をやろうと思ったんだが、私も彼も随分不器用でねぇ」
「もちろん君の分もあるよ。おぉありがとう。えーと住所は」
そこまで聞くと朱愛先輩が私の肩を叩く。私は今いる場所の住所を伝える。それを朱愛先輩がオウム返しで電話相手に伝えた。そして電話を切ると満足そうな顔をしてこう言った。
「一時間で来るそうだよ。よかったよかったこれで夕飯にありつけるね」
「勝手に話を進めてましたけど誰が来るんですか?」
「ん?香織ちゃんだよ。君も知ってるだろ」
私はその名前を聞いてすぐに思い出していたが、それを悟られたくなかったので、声に出すまで少し時間をかけた。
「あぁ文学サークルの」
「そうそう。知り合いなら話が早いね。後輩同士仲良くしなよ」
仲良くか。私は上京したてと言うこともあり、友人が少なかった。少ないというと語弊がある。朱愛先輩以外とは顔知り程度の仲だった。半年足らずで文学サークルでも幽霊部員になっていた私の交友関係はひどく狭い。
「じゃあ彼女が来るまでは暇ですね。それなら」
私が言いかけたところで、朱愛先輩は笑うと、私に向かって手招きした。
「君もほんと好きだね」
お互いの煙草の煙が天井に薄い膜を張る。お互い何も話さずに、煙草の焼けるジリジリという音と、紙が擦れる音だけが部屋を満たしていた。
私は三本目の煙草に火を点ける。この緊張は何度経験しても慣れない。口の中は乾いていたが、それでも強引に煙草の煙を吸い込んだ。
ドックドックドック
自分の耳に心音が聞こえる。こればかりはどうしようもない。そうして二十分が経った。
「ふーん。今度は随分と真っ直ぐな話を書いたんだね」
朱愛先輩は原稿の束を床に机に置くと、煙草に火を点けた。
「よく書けているんじゃないかな。それこそ前に比べれば話も面白い。でもね」
朱愛先輩のその言葉で部屋の空気が引き締まる。
「これが君の限界じゃないだろ。意図的にブレーキをかけているように感じたよ」
「本当はもっと膨らませる想定もあったんです。でもそれだと、書き終われない気がして」
私の話を遮るように、朱愛先輩は束に手を置いて私を見た。
「今、ここにあるものだけが読者にとっての全てだよ。君の顔も頭の中にあった別の案も関係ないんだ」
「そうですね」
私はそう言って項垂れた。咄嗟に言い訳をした自分が恥ずかしく、それを見透かされたことに不甲斐なさを覚えた。
「でもね。最初に言ったことは本当だ。一年でここまでのものが書けるなら将来は有望だね」
朱愛先輩は返事ができない私を慰めるようにこう付け加えた。
「少なくともあの仲良しサークルにはこんな文章を書ける人間はいないよ」
そう言われても私は顔を上げることができない。私はそんな生優しい言葉は求めていなかった。
「どうすれば面白い話が書けるようになりますか?」
長い沈黙の末、やっと出た言葉は随分と陳腐なものだった。もしこの問いにこたがあるのならば、世の中の作家は苦痛の夜を過ごすことはないだろう。朱愛先輩は煙草の煙を吐き出すと、口を開いた。
「言いたいことが二つ。まずはそんな陳腐な質問をするんじゃない。君もわかっているだろうが、それは答えがない問いだ。そしてもう一つ面白いだなんて、広い意味を持つ言葉に逃げるんじゃないよ。君にとっての面白いと私にとっての面白いは違う。英語で言えばfunnyやcomical、もっと言えばinterestingもある。それぞれ面白いという意味で使われるがニュアンスが違うだろ。言葉を行使する人間ならば言葉の持つ意味をみくびってはいけないよ」
「肝に銘じます」
「そうやって素直に人の助言が聞けるのは君の美徳じゃないか」
「いえ、ただの処世術です」
お互いが無言でいると、チャイムが鳴った。
香織を初めて見た時に私は、小動物が怯えているような纏っている印象を受けた。まぁそれも当然だと言うべきか。先輩に呼び出されて知らないアパートのチャイムを押すと中から男が出てきたのだから、緊張もするし、なんなら声を出しても良いと思う。
「えーと、朱愛先輩に呼ばれて」
「早く入っておいでー。私は腹ペコなんだ」
私の脇から朱愛先輩の声を聞くと、香織は知らない街で知り合いを見つけように安堵した。私はドアを開け放つ。
「どうぞ。朱愛先輩は奥にいます」
私の後に続き、香織がリビングに入る。朱愛先輩は煙草を灰皿に押し付けると立ち上がって香織を抱擁した。
「ごめんねぇ。こんな男くさい場所に呼び出して」
「家主の前で言う言葉じゃないですね」
私がそう言うと、朱愛先輩は香織を私の方に向かせた。
「この男は火野と言ってね。私の後輩なんだ。まぁ君も後輩だけどね。この通り偏屈なやつでね。料理もちっとも出来やしない」
私の肩を叩きながら朱愛先輩はそう言って笑った。私が言い返そうとしたところで、朱愛先輩は私に香織を紹介した。
「この子は香織って言うんだ。まぁ君は知っていたみたいだから紹介は不要かな」
朱愛先輩が短い紹介を終えると、香織は私に頭を下げた。こちらも頭を下げなければ無礼だと思い私も頭を下げる。
「まぁ後輩同士仲良くするんだね。それで香織ちゃん料理を頼むよ」
朱愛先輩はそう言ってまた地面に寝転がる。
「えーと火野さん?キッチンをお借りしてもいいですか?あ、後これつまらないものですが」
そう言って香織は紙袋を寄越した。私は礼を言って、中を見るといくつかのケーキが入っていた。きっと近所のケーキ屋で買ったのだろう。マメな人だと思い、ケーキを冷蔵庫にしまうと、キッチンに置いてあるものを一通り説明した。
「承知しました。あとは任せてください」
そう言うと香織はテキパキと鍋の準備を始めた。初めは手伝おうと思い、周辺に立っていたが、自分に居場所がないことを悟ると朱愛先輩の隣に戻った。
「どうやら僕がいると邪魔みたいです」
「そりゃそうだろ。餅は餅屋だよ」
部屋にテレビを置いていないので、朱愛先輩は本棚を眺めてはタイトルを挙げて、簡単な感想を話していた。
「このボロボロの辞書は一体なんだい?」
「父が僕にくれたものです。確か小学生の時だったかな」
へぇと言いながら朱愛先輩は辞書を手に取るとペラペラとめくった。私はそれを横で眺めていた。
「すごいね。随分たくさん書き込んである」
父から辞書をもらった日から読んだ本の中で意味のわからない単語があると調べる癖がついていた。今ではそれはPCやスマートフォンに変わっていた。
「父は小学生の僕に向かって、こう言ったんですよ。お前は言葉を知らないって」
それを聞くと朱愛先輩は笑った。そしてこう答えてた。
「お父上はとてもいい人だね。こんなにいいプレゼントをくれるだなんて」
朱愛先輩はそう言って辞書を本棚に戻すと、どこか遠くを見つめてため息をついた。そんな表情を見たのが初めてで、やけに印象に残っていた。
「あのーできましたよ」
香織の声がキッチンから聞こえると、朱愛先輩はパッと笑顔に戻っていた。そしてテーブルに鍋が置かれて、私たちはやっと夕食にありついた。
鍋は冷戦時代のように、水炊きとトマトで二分されていた。だが食べ進めるうちに赤がゆっくりと侵食し、いつしか鍋全体が赤色になっていた。だが空腹だった私にとってそんなことは些細な問題だった。白菜以外の丁寧に切られた具材はどれもうまく、無言で食べ進めた。
「締めはどうしますか?」
私は腹八分の状況で二人にそう問いかけた。二人は手を横に振った。
「もう食べれないよ。君が食べたいなら一人で食べな」
「私ももうお腹いっぱいです」
私はそれを聞くと、鍋をキッチンに片付け。三人分のコーヒーをテーブルに置いた。
「おお気が利くねぇ。いい後輩を持ったよ私は」
朱愛先輩は上機嫌だった。いつの間にか冷蔵庫で冷やしていた発泡酒を飲んで笑っている。朱愛先輩が酒に弱いことは知っていた。だから大勢が集まる場所では酒は飲まないと言う話も本人から聞いていた。
「今日はありがとう。おかげ助かったよ」
私は両手でコップを持つ香織に声をかけた。彼女はコップをテーブルに置くと答えた。
「いえいえ。私までご馳走になってしまって。こちらこそありがとうございます」
「あれは全部あの人の奢りだから、礼は僕じゃなくあそこに寝っ転がっている我らが先輩に言ってくれ」
少し目を離した隙に朱愛先輩は眠りこけていた。それを見て私たちは笑った。それで少し緊張はほぐれた。
「こんなこと聞くのは失礼かもしれないけど、火野くんはなんでサークルを辞めちゃったの?」
敬語が抜けたことを私は心地よく感じた。だが返事には少し困った。今も彼女が席を置いているサークルのことを悪く言うわけにはいかない。
「僕は人付き合いが苦手でね。あの大勢で仲良くって雰囲気が息苦しくってさ」
「確かにそうかもね。誰もお話を書いていないし、仲良しサークルって名前に変えた方がいいかも」
彼女の話を聞きながら私はひどく煙草が吸いたくなった。しかし煙草を咥えて火を点けると彼女が一瞬顔を顰めたのがわかった。
「すまない。煙草は苦手だったかな」
彼女は私に気を遣ったのか、すぐに顔を笑顔に戻すと、首を横に振った。それでも客人に無理をさせることに耐えきれずに、私は一口吸っただけの煙草を灰皿に押し付けた。
「気を使わなくてもいいのに」
「いや、これは僕の気分の問題なんだ」
少しの沈黙の後、彼女はテーブルの下に置かれた原稿用紙を見てこう言った。
「小説書いているんですか?」
「うん。君が来る前に朱愛先輩にも読んでもらったんだ」
彼女は好奇心を抑えきれない様子で、原稿用紙を眺めている。そんなあからさまな反応をされたら読むなとは言えない。
「もしよかったら読んでくれ。でもさっき酷評されたばかりだから、あんまり期待はしないで」
私は読み始めた彼女を尻目にキッチンに向かい、洗い物を始めた。たっぷりと時間をかけて。
私が洗い物を終えて、時計を見ると時刻は二十二時を指していた。朱愛先輩は泊まるとしても、香織はそうはいかないだろう。それを伝えようとして彼女の横に座る。
「どうかな」
彼女は私の声を聞いて、最後まで読んだであろう、原稿用紙を地面にきれいに整えて置いた。彼女は長い時間思案して、ようやく言葉を出した。
「ごめんなさい。私の理解力がなくて、感想が出てこなくて」
「いいんだ。君が悪いんじゃない。悪いのは僕だ」
そして終電のことを伝えると、彼女は慌てた様子で腕時計を見ると、そそくさと荷物をまとめ始めた。
「あと三十分で終電だ。ありがとう火野くん。朱愛先輩はどうしよう」
「いいんだ。あの人はよくここに泊まるんだ」
それを聞いて彼女は目を丸くして私を見た。
「えーと火野くんと朱愛先輩は付き合っているの?」
それを聞いて私は吹き出してしまった。誤解を解くために息を整えて、彼女に答える。
「真面目な顔をして馬鹿みたいなことを言わないでくれよ。僕と先輩はそんな関係じゃない。補償する」
私がそう言っても、彼女は首をかしげるだけだった。そして私は上着を着ると、朱愛先輩に毛布をかける。
「時間も遅いし駅まで送って行くよ」
渋ろうとした彼女の前を歩き、玄関を出て私は言った。
「ほら終電まで時間がない」
彼女はそれを聞くと焦った様子で、玄関を出て歩き始めた。
香織を駅まで送ると、私は家に帰った。リビングまで行くと、明らかに人の気配がしない。毛布はきれいに折り畳まれており、朱愛先輩は既にいなかった。テーブルの上に書き置きがあった。
「次回作に期待しているよ」
私はそれを手に取ると、丸めてゴミ箱に捨てた。そして灰皿から先ほど吸えなかった煙草を取り出すと火を点けた。そして自分が書いた原稿用紙を再度読む。そして湧き上がってくるアイデアを再度まとめるために、パソコンの電源を点け、文字を打ち込み始めた。香織と初めてあった日のなんの変哲もない学生時代の思い出だ。
私は家に戻り、暇を持て余して煙草を吸っていた。時刻は二十一時で、眠るには少し早かった。あの時の部屋は今よりもだいぶ狭かった。それでもあの空間はいつも温かった。燃え尽きた焚き火をのような残り火さえこの部屋には残っていない。ただの灰だ。溜まった灰皿を見下ろして私は思った。そしてふと、父がくれた辞書をどこにやったか考えた。この家にあったほとんどの本は捨ててしまったが、あの辞書は捨てなかったはずだ。私は煙草を灰皿に押し当てると、立ち上がってクローゼットを開けた。
長い間開けられることがなかったクローゼットの中は随分埃が溜まっていた。中に大小様々な段ボールや、バッグがテトリスのように整頓されている。下手に抜き出すと、雪崩を起こしてしまうと考えたが、どうせ誰に見せるわけでもない。一番下で他の荷物に押し潰されていたバッグを引っ張り出した。その黒いバックは、私が大学時代に使っていたものだったのでなんとなく目についた。
予想していた雪崩は起きなかった。ただ埃が鼻を刺激したのか、大きなくしゃみが出た。そしてバッグを開けると、当時使っていたノートPCやアイデアをまとめた何冊かのノート、そして探していた辞書が見つかった。私はそれをしばらく見つめて、適当なページを開いた。あぁこの時の私は言葉を知らなかったのだ。そして辞書をくれた父の顔を思い出していた。では今は言葉を知っていると言えるだろうか。そんなことを自問し、私はバッグをリビングに持っていった。いくつかのキーボードが取れて、ボロボロになったノートPC、雨に濡れて紙は波打ち、表紙は傷だらけのアイデアノート。あの時の私にはこれが全てだった。何故こんな過去のことを思い出すのか。理由は明白だった。朱愛先輩が消えた。そんなことは私にとってどうでもいい話であるのに、私の頭を掴んで離さない。
ドックドックドックドック
目を閉じる。珍しいなと私は思った。家の中で発作が出るなんて滅多にない。きっと疲れているんだ。そう思って、シャワーを浴びようと思ったが、浴室という密室に入ることに恐怖を感じた。そして、洗面所で手を洗った。マクベスの一場面のようだと自分を俯瞰する。長い時間をかけて手を洗うと、ベットに倒れ込む。アラームを一時間早めて、他のことは明日の自分に任せた。
また私は男の姿を見ている。彼は原稿用紙を破り、乱暴に机に投げつけている。ひどく荒れていると私は彼の後ろ姿を冷静に眺めていた。
「こんなものはゴミだ」
彼は机を殴りつけてそう叫んだ。そして椅子に座り込むと空を仰いでいる。彼の目から涙が流れている。
「そんなに苦しいならやめてしまえばいい」
聞こえるはずはない。これは夢だ。私が見ている夢なのだ。それでも声を出さずにいられなかった。
「自分を傷つけても何も得るものはないんだ」
もちろん彼に声は届いていないだろう。彼は何も言わない。しばらくすると彼は自分で自分の胸を殴りつけた。そして涙を拭うと、またPCに向かい始めた。私はもはや何もいうまいと彼をしばらく見続けていた。それだけだ。いつしか夢は終わった。
電話のアラームで目を覚ます。ベットから起きて時計を見るとまだ時刻は五時だった。早朝の電話でいい知らせは絶対にない。恐る恐るスマートフォンを確認するとディスプレイに母の名前が表示されていた。私は着信ボタンを押す。
「もしもし」
「もしもし。礼司?」
電話先の母はひどく慌てた様子だった。私はゆっくりと脳に血を巡らせて返事をする。
「こんなに時間に電話をするってことは何かあったの?」
「お父さんが倒れたの」
頭では理解できなかったが、口からは素直な反応が漏れた。
「嘘だろ」
私は父の顔を思い出そうとする。だが時間の流れは残酷だ。顔も声さえも鮮明に思い出すことができない。
「それで?帰った方がいいかな?」
「お医者さんが言うには命に別状はないって。お父さんも礼司には言うなって」
一人息子にまで遠慮してどうなる。私は使ったことがない有給の使い方を考えた。
「今日帰るよ。また電話する」
「ごめんねぇ忙しいのに」
そして電話が切れた。私はシャワーを浴びて家を出た。他のことは移動しながらでもどうなるだろうと考えていた。
私は新幹線に乗っている。高速で流れていく景色を見る気にもならず。席を立つと喫煙所に向かった。電子音が鳴ると中からスーツを着た初老の男性が出てくる。すれ違うようにして私は中に入った。煙草の煙を吸いながら、上長にメールを送った。時刻は八時を少し回っていた。煙草を一口吸ったが、ひどく苦く感じる。
新幹線の中で奪われた睡眠を取り戻していると、予定よりも早く目的地に着いた。アナウンスに促されて新幹線を降りる。それほど離れたわけではないのに、どこか別の国にいるようないつもと違う空気を吸い込む。大学への進学と共にこの場所を後にした。初めの内は何度か報告のために戻ったがそれがいつのことだったか思い出せない。
駅を出ると、タクシーを停めて乗り込む。運転手に目的地を告げると、窓の外に視線を向ける。都会の景色はすぐに変わってしまう。何もなかった場所にビルが立ち、店は植物のように移り変わっていく。そんな景色に慣れてしまったからだろうか。何も変わっていない地元の風景はとても懐かしく、時間が止まっているように感じる。
「お客さん。先生のお客さんかい?」
運転手がミラー越しにこちらを見て言った。その目は好奇心を抑え切れていなかった。
「えぇ。そんなものです」
私は息子だと言うと、長話に巻き込まれかねないと考えて短く返答した。そして腕時計を見る。十二時を少し回っていて、昼の眩しい太陽が窓から私の顔を照らしていた。
「でも先生の所にお客さんなんて珍しいね。昔は駅前で待ってるといろんな人が同じ住所に行ってくれって言ったもんだよ」
「そうなんですか。それは知らなかった」
運転手は昔話をしていたが、私はそれをほとんど聞いていなかった。父の元に多くの人間が来ていたことを私は知っていた。そしてその後、タクシーはしばらく走ると、目的地、私の実家に到着した。運転手に礼を言って降車すると、私は歩いて玄関に向かった。
チャイムを鳴らすと、しばらくして母が玄関を開けた。寝付けなかったようで、魔の周りが若干晴れている。
「おかえり。忙しいところありがとうね」
「ただいま。親父は病院に?」
私がそう聞くと、母は私の近くに移動して小声で言った。
「病院の先生は検査入院が必要だって言ったのに、お父さんったら帰って来ちゃったのよ」
それを聞いて私は何故かに腑に落ちてしまった。父がベッドの上でおとなしく眠っているところが想像できなかったからだ。
「じゃあ書斎か」
私はそう言って、階段を上がると、廊下の奥にある書斎のドアの前に立つ。後ろからパタパタと歩いてきた母が、書斎のドアを開ける。
「お父さん。礼司がお見舞いに来てくれたよ」
開かれたドアから父の姿が見える。それは昔から見ていた父と全く同じ姿だった。椅子に座り、何かを熱心に書いている。両脇には何冊もの本が積み重なっている。
「親父。おかえりくらい言ったらどうなんだ」
私の声を聞くと、父は首だけをこちらに振り返った。睨んでいるわけではないことは知っている。それなのに父に見つめられると、なんとなく目をそらしてしまう。
「何をやってるんだ」
父の第一声は随分と冷たかった。
「お見舞いに来たんだよ。親父が倒れたって聞いて」
「仕事は休んだのか。一体何をやっている」
母は困った様子で、私の顔を見る。私は首を振ると書斎に入った。
「普通は親が倒れたら休むもんなんだよ。今は色々と厳しいから」
「私は平気だ。お前も帰って仕事をしろ」
そう言うと父は机に目線を戻し、私などいない様子で、元の作業に戻った。母は父に何かを告げると部屋を出る。私もそれに続いた。
「もうお父さんったら、恥ずかしいのかしら」
「昔から親父は変わらないね」
リビングに行き、座布団に座ると、母がお茶を持ってきて私の横に座った。私は窓から見える手入れされた庭を見ていた。そしてお茶を啜っていると、母が話し始めた。
「あぁ言ってるけどね。あんたに会えて嬉しいのよ」
「いいんだよ。気を使わなくて、こんな親不孝の息子じゃあんな態度になって当然だ」
「そんなこと言わないの。何も仕事だけが人生の全部じゃないんだから」
私の腹が鳴った。それを聞くと、母が昼食を用意すると言って立ち上がった。私は床に寝っ転がった。懐かしい空気が肺に流れ混んでくる。ここで長い時を過ごしたのだ。
実家を出たのは、都心の大学に行くためだった。それに私には夢があった。そのことは学校の教師にも母にも話さなかった。だが父にだけは話さないといけない。私はいつかの夕食時にそう決心した。そして夕食が済むと、父の書斎のドアを開けた。
「どうした。本なら勝手に持っていけ」
「親父、話があるんだ」
私の声を聞くと、父は私の方を向いた。心臓が高鳴る。
ドックドックドック
「大学に行きたい」
「そのことは母さんに聞いた。勉強しに行くなら、ちゃんとした大学に行くべきだ」
「夢があるんだ」
父が私を見ている。涼しいはずの書斎なのに、顔が熱くなり、額に汗が滲む。
「小説家になりたいんだ」
それを聞くと、父は目を閉じて息を吐いた。
「それを私に言って何になるんだ。なりたいなら、そのために努力をすればいい」
私は返事をすると、父の書斎を出ようとドアノブに手をかけた。その時父が続けた。
「何かになると言うのは口で言うほど容易いことじゃない。やはりお前は言葉を知るべきだ。それができないのならば、お前は何者にもなれやしない」
それが父との最後の会話らしい会話だった。帰省しても父には会えないか。あったとしても先ほどのような短いやりとりがあっただけだった。お前は何者にもなれやしない。父の言葉を反芻する。私は一体何者なのだ。
昼食を終えると、私は上長に電話をかけ、父の容態に問題はないことと、月曜には問題く出社できることを告げた。上長はそれを聞くと、安心した様子でまた来週と告げた。リビングに戻ると昼食の片付けをしている母と目があった。
「お仕事は大変なの?広告のお仕事だったよね」
私はスマートフォンをポケットにしまって答えた。
「まぁそれなりにね。でも毎月お給料はもらえるから文句は言えないよ」
母はそれを聞くと、前掛けで手を拭きながら、椅子に座った。
「あんたはお父さんとは違うんだから、きちんとしたお仕事をして、家族を持ちなさいよ」
「作家だって立派な仕事だよ。僕を大学まで行かせてくれたじゃないか。僕は一人暮らしをするまで、お金のことを考えないで生きてこれたんだから」
「そうじゃないの。お父さんはね書斎に引きこもって、出て来たと思ったらご飯を食べるか、煙草を吸うかなのよ。私じゃなかったらとっくに離婚よ」
母は笑ってそう言った。目尻に深く刻まれた皺が目立つようになった。私が幼い頃から母はよく笑う人だった。
「でも親父には母さんがいるじゃないか」
「あんたにも香織さんがいるでしょう。結婚なんて今は考えられないだろうけど、考えておいた方がいいわよ」
不意に香織の名前が出たことで、私の顔は引き攣ったのだろう。自分では意識していなかったが、母には伝わってしまうものだ。
「ごめんね。踏み込みすぎたわね」
「いいんだ。もう香織とは別れたんだよ。今は文字通りの独り身だよ」
私は笑みを浮かべてそう言ったが、母は反対に顔をどんよりと曇らせた。
「明日の朝には帰るからさ」
そう言うと私は立ち上がって、自室に向かった。それは昔と変わらない。一人になりたいなら部屋に篭るしかないのだ。
劣化してしまって、ギィギィと音を立てる自室の椅子に腰掛けた。若干埃をかぶっているが、この部屋は私が出て行ったままの姿を保っている。ふと、本棚に挟み込まれた原稿用紙の束が目に入った。若干黄ばんでいる原稿用紙を手に取った。そこには所狭しと私の文字が書き込まれていた。そうだこれは私が初めて書いた小説だった。
タイトルは「灯火」最初の一文を読んだが。句読点や、てにをはの使い方もろくに知らない高校生の文章は読むに堪えないものだった。だが読み進めているうちに太字で書かれた一文が目に入った。
「才能は火のようなものだと僕は考えている。暗闇を照らし、自分や他の人を温めることができる。でもイカロスの翼を溶かした太陽のように、全てを燃やしてしまう危険なものでもある」
そうか若い私にとって才能は呪いではなく火だったのか。随分と楽観的だなと思うが、それと同時に私の今の考えはひどく悲観的だと思った。そして読み進めていくと、原稿用紙から一枚のメモ用紙が落ちた。私はそれを拾い上げる。そこには私の文字とは違う。ひどく几帳面な文字が書かれていた。
「これは小説ではない。ただ自分の書きたいことを殴り書いただけのメモ帳にすぎない。ここを出て行ったお前の書くものに期待している」
父の文字だ。いつかはわからないが、父はこれを読んだのか。こんな短い感想ならば口で伝えればいいものを、文字でしか伝えられないのか。いや、父は作家だからこそ文字で息子に伝えたかったのだろうか。そんなことを考えていると、リビングから母の声がした。夕飯ができたらしい。部屋の時計を見ると時刻は十八時を指していた。
夕飯には二人で食べるには多すぎる量の天ぷらが並んでいた。私は無言で食べ進める、母は最近老眼がひどくて、本を読みにくくなったと愚痴をこぼしていた。
「お父さんったら夕飯はいらないって。病院には行かないし、ご飯も食べないんじゃ良くなるものも良くならないわよ」
「まぁ後で食べるんでしょ。それにまだ六時だよ。夕飯には早いよ」
それを聞くと母は私の食生活まで心配し始めた。ちゃんと食べているのか、好き嫌いはしていないかと心配そうな顔をしている。私はそれに空返事を返した。本当のことを言えば母を心配させてしまう。そんなことをしていると満腹になってしまった。この感覚がなんだか久々に感じる。
母の横に立ち、夕食の片付けを終えると、母は心労でひどく眠いといい、随分と早く寝室に行ってしまった。私は朝には帰ることを伝えた。誰もいないリビングで本棚を本を眺めていた。記憶を頼りに背表紙を指でなぞる。顔ぶれは昔とあまり変わっていないように感じる。しばらくそうしていると、私は煙草が吸いたくなり、窓を開けて外に出ると、煙草に火を点けた。都会と違って、近くを自然に囲まれているここでは夜はひどく暗い。煙を吸いながら庭を少し歩こうと思ったが、そんなに気にもなれず、花壇の近くに備え付けられた椅子に座っていた。その時、背後から窓の開く音が聞こえた。母が何か言いに来たのだと思い、振り返ったがそこに立っていたのは父だった。
「親父。病人が煙草を吸ったら良くないんじゃないかな」
私は自分の咥えている煙草を指差してそう言った。
「まだ帰っていなかったのか」
父は私の横に立つとライターで何度も火を点けようと試みていた。だが何度試しても着火できない様子だったので、私は立ち上がって父にライターを渡した。父はそれを受け取ると、煙草に火を点けて煙を吐き出した。その匂いは昔嗅いだ時と変わらない刺激臭がして、嗅ぐと涙が出そうになる。
「まだ帰ってなかったのか、仕事はどうした」
「休んだんだよ。帰ってきた時に言ったろ。それに仕事仕事って時代じゃないんだよ」
横に立っているのに私たちの視線が両方とも前を向いているので、コミュニケーションもどこか噛み合わない。
「そいえばさ、親父。部屋の小説読んだろ」
そう言って私は父の顔を見た。暗がりだからか昔よりも痩せているように見える。
「あんな大言壮語した奴の文章がどんなもんか気になっただけだ」
「俺は小説家にはなれなかったんだ。今じゃ広告の仕事をしてるんだ。知らなかったろ」
父は煙を吸い込むと、ポケットから出した携帯灰皿に灰殻を入れた。そしてもう一本の煙草を咥えると、再度火を点けた。
「母さんがそんなことを言ったのは聞いた。だがなれなかったと言うのは違うだろ」
「大学に行って、自分と四年間向き合って嫌ってほどわかったんだ。自分には才能がないってことにさ」
「だからなれなかったと?お前は何もわかっていない。私がいつ作家になったか知らないだろう」
「親父は自分のことを話さないからね。知らないよ」
父とこんなに長く話したのは初めてだった。私ももう一本の煙草を咥える。
「三十歳の時だ。それまでは働きながら小説を書いた。だからお前のなれなかったというのは間違っている」
「才能がないのがわかって、それでも書けって言うのは残酷じゃないか」
すると父は煙草も煙を吐き出した。そして目線を私に合わせた。
「お前は才能が火だと書いたな。それは今でも変わらないのか」
「いや呪いだよ。才能を盲信した報いを受けている最中だ」
それを聞くと父は目を見開いた。いつもは細い父の目がこんなにも開くのかと衝撃を受けた。
「ふざけたことを吐かすな。才能は言葉だ。お前が意味を与えようとしているものはただの漢字二文字にすぎない。お前は世の中の小説家全員が才能に恵まれていると妬んでいるのか」
私は答えられないかった。父がこんなにも大声を出したのを初めて聞いた驚きもあったが、妬んでいる、その一言が突き刺さった。
「才能なんて言葉を使うのはお前のように自分すら信じられなくなった落伍者の言う言葉だ。お前がどんなに絶望したか知らないが、他人を羨んで、聞こえの良い言葉に逃げるな」
「初めて父親みたいなことを言ったな」
「お前があの夜に小説家になると言った時、私は止めようとも思ったんだ。何かを創ると言うのは修羅の道だ。それみたことか、今のお前を見てみろ。お前は一体何者なんだ」
私は父から目を逸らした。その答えを私は持っていない。
「何も子供の時の夢を追いかけるだけが人生じゃない。だが自分が誰かもわからない人間を待つのは底なしの絶望だ」
父はそれだけ言うと、家の中に戻って行った。私は誰だ。指の間に挟んだ煙草からたなびく煙を眺めて自問自答する。厄介な病気を抱えた病人、夢を諦めた落伍者、孤独な男。否定したかった。だが、今の私はそんな言葉でしか表現できない。
自室にて、布団の上で寝転がる。短い眠りが何度も訪れるが、熟睡することができない。時刻は午前二時を指していた。父が私に投げかけた言葉が何度も頭の中をよぎる。私は諦めたのだ。足を止めた。この病気になったことが原因だろうか。そんなことが違うことはわかっていた。因果関係が逆だ。夢を諦めて病んだ。それだけだ。再び目を閉じる。そして、夢を諦めるきっかけになった件のことを思い出そうとする。何度も忘れようとした頭の中の傷口にそっと手を触れた。
それは私が大学三回生の冬のことだった。そして朱愛先輩と共に過ごした最後の一年だった。お互いに単位はしっかりと取っていたので、卒業までの懸念はなかった。それに生活が大きく変わったこともない。
「もう私から助言できることはないと思うのだけど」
朱愛先輩は、原稿用紙から顔を上げると私を見た。場所はいつもの私の家で、至る所に原稿用紙が積み重ねられている。私はすっかりスランプになっていて、以前のように小説を書けなくなっていた。
「こんなこと言ってはなんですが、デビューが決まっている作家先生にご意見をいただければと」
朱愛先輩は困ったように頭を掻いた。自分の執筆も忙しいだろうに、こうして時間をとってくれているところを見ると、面倒見は良いのだ。
「そうは言ってもね、君はどうも切羽詰まっているように見えるよ。以前と違って自分を抑えなくなったが、これは破滅願望に近い。自分が死ぬまで止まらないような怖さがある」
「それが作家じゃないんですか?才能に殉じるのが創作者の生き方だと僕は思います」
朱愛先輩はコップに入ったコーヒーを啜ると、机の上の原稿用紙を私の方に押し付けて、立ち上がった。
「君は視野が狭くなっているね。肩の力を抜く必要があるな。ついておいで」
そう言って、ポケットから車のキーを出して、ジャラジャラと音を出しながらそう言った。朱愛先輩は何かと入り用だからと言って車の免許を取っていた。私は無言で立ち上がると上着を着て、朱愛先輩を後を歩いた。
朱愛先輩の車は黄色の軽自動車だった。一目惚れしたと言って新車で買ったと聞いた。私が助手席に乗り込むと運転席の朱愛先輩はエンジンをかけた。車が揺れ、音を立てながら走り始めた。
「まだ日が高いからね。とっておきの場所に行こうか」
私の返事を待たず、滑らかな運転でどんどんと車は進んでいく。車内に会話は無く、助手席から窓を眺めていた。車は高速道路に入りどんどんと加速していく。私はそれ見ながらメモ帳を持ってくるべきだと思った。この時間があれば、次回作のプロットが書けるのに、そんなことを考えていた。
何度かサービスエリアに立ち寄った。そして二時間ほど走った後、車が止まり、目的地に着いたことを朱愛先輩が告げた。私たちは車から降りて、背中を伸ばして、固まった体をほぐした。
「結構長い時間運転してましたけど、平気ですか?」
「運転ってのは新鮮でね。結構気分転換になるんだなこれが。君も免許を取って感じてみるといい」
辺りを見渡して私は尋ねる。
「それでここは一体どこですか?」
目線の先に広がるのは海だった。なんの変哲もない海岸沿いだ。
「こっちだよ。着いておいで」
そう言った朱愛先輩の後ろを歩く。しばらくすると、目の前に木造の一軒家が見えた。朱愛先輩は持っていた鍵で玄関を開けると中には入っていく。私は少し怪しんだ。先輩の家はこんな遠くではない。実家かとも思ったが、いきなり後輩を連れていく理由がない。それに家の中は真っ暗だった。
「さぁ。上がってくれ」
靴を脱いで薄暗い廊下を歩く。先に歩いていた朱愛先輩がスイッチを入れると、部屋に電気が点いた。私は思わず目を細める。リビングは一人で住むには十分な広さがあるが、そこには何か形容し難い違和感があった。家具と言われるものがないのだ。さらに言えば生活感が全くない。誰の手垢もついていない不気味な清潔さが鎮座している。机と二脚の椅子だけしかない空間で、朱愛先輩に勧められた椅子に私は座った。
「何もないだろ?ここには滅多には来ないんだよ」
「ここは別荘か何かですか?」
朱愛先輩は首を傾げた。私は返答を待つ。
「なんて言えば良いのだろうね。別荘とは違う。まぁ避難場所といえば良いのかな」
煮え切らない解答だと私は思った。私はさらに疑問を投げた。
「僕が知らないだけで、先輩ってもしかしてお金持ちだったりしますか?」
朱愛先輩は私の言ったことを聞いて笑った。そして私の肩を叩いた。
「違うよ。これは私の父が私に残してくれたものなんだ。一人娘に残したものにしては随分と現実的なものだとは思うけどね」
そこからポツポツと朱愛先輩は自身の父親のことを話した。私はそれをただ聞いていた。
「私の父は忙しい人でね。私が物心つくまで私の顔を見たことがなかったらしい。もちろんその時のことを私は覚えていない。母から聞いたことなんだよ。海外で商売をやっていたらしくてね。私が小学生の時に死んだよ。詳しい死因は聞いていない、海外で事件に巻き込まれたのかもしれないし、何か持病があったのかもしれない。母は当時ひどく取り乱してね。家の中は随分と悲惨だったよ。だけど父としての責任は十分に果たしていてね、口座には母と娘で生きていくには十分すぎるほどの金額が残されていたんだ。だから私はこうして大学に行けているしね。それで私が十八歳を迎えた誕生日に、父の宛名で私にこの鍵と住所を書いたメモが届いたんだ」
そこまで話すと朱愛先輩は煙草を咥えた。私もそれに続いて煙草を咥える。煙を吐きながら朱愛先輩は続けて話し始めた。
「私はすぐにはここには来れなかった。大学に入って時間をあり余していた時にここに初めて来たんだ。父の意図はわからない。でも父は私にこんなことを言っていたんだ」
そこで朱愛先輩は咳払いすると、普段よりも低い声で話した。
「父さんは随分と世界を渡り歩いてきたんだ。様々な国でいろんな景色を見てきた。それでも寂しくはなかったよ。存外世界のどこにいても、結局そこにいるのは自分と同じ人間だからね。でもたまに一人になりたくなるんだよな」
そこまで話すと朱愛先輩は煙を吸って、煙草を眺めていた。
「朱愛先輩のお父さんは、一人になるためにこの家を買った。それを娘にプレゼントしたってことですかね?」
「私に聞くなよ。父の顔も声も今じゃ思い出せないんだ。そんな人間の意図を汲み取るのは不可能だ」
「それもそうですけど。意味を考えるのは大事なことだと思います。例え自分の都合の良い解釈でも」
灰皿がなかったので、私がポケットに入れていたコーヒーの缶に煙草を捨てた。
「ここは一人になるには随分と都合がいい。作業するのにも適しているし、でもここには死の匂いがするんだよ」
「考えすぎですよ」
そう言って私は改めて部屋を眺めた。この部屋に入った時に感じた違和感は無くなっていた。話を聞いた後に改めて考えると一人になるにはおあつらえ向きな場所に思える。
「それでなんで僕をここに連れてきたんですか?」
「君にはゆっくりとした時間が必要かと思ってさ」
私は朱愛先輩が子供をあやす様に言ったその言葉が自分でも意外なほどに気になった。
「僕にはそんな時間はありません。とにかく書かないと、読まないと。夢を叶えられないどころか先輩にすら追いつけない」
「そうじゃないんだよ。じゃあ聞くがね。君の夢はなんだ?聞かせてくれよ」
「何度も言っていますが。小説家になることですよ。小説で飯が食えるようになりたいんです」
「それは夢じゃなくて目標だろ。小説家になる。それはいいよ。その後は?」
私は若干答えに詰まったが、勢いのまま言葉を出した。
「自分の小説を読んだ読者を感動させたい」
「なんだ。それっぽっちじゃないか。詰まるところ目先のものしか見えていないんだ。若者が大きな夢を持っていれば周りは尊敬してくれるだろうよ。持ち上げてくれるかもしれない。そうやって担がれた君は今自分がどこにいるかわかっているのか?」
私の声は次第に大きくなっていく。それを自分では抑えられなかった。
「僕は未熟ですよ。そりゃ朱愛先輩から見たら、同じところで地団駄踏んでる阿呆に見えるかもしれませんが。自分が未熟なことぐらいわかってる」
「それは本当か?君はそんな悲観的な感情を抱えているのか?嘘をつくなよ。結局君は自分のことを阿呆とも思えないんだ。でも自分を信じることもできていない」
私は椅子から立ち上がっていた。朱愛先輩は冷ややかな目で私を見上げる。
「僕はそれでも自分の才能に殉じたい。僕にはこれしかないんだ」
「才能ときたか。随分と悲劇の主人公を気取るじゃないか」
朱愛先輩は笑っていた。初めて朱愛先輩が声を荒げるのを聞いた。
「いいかい?才能なんてものはないんだよ。私にも君にも。幾千の文豪だろうがなんだろうがね。才能なんてのはただの言葉だ。偉業を讃える時に使う言葉だよ。それを踏まえた上で、君の中には何が残っているんだ?自己顕示欲と自己憐憫ぐらいだろうよ」
私は朱愛先輩から目が逸らせなかった。それでもこれ以上の反論の言葉が頭に思い浮かばない。
「最初にも言ったがね。君は自分を見失っているよ。自分がどこにいるかわからないのならば立ち止まって、道を探すことも大事だ」
「僕にはそんな時間はないんです」
朱愛先輩は何も答えない。言葉を必死に思慕し出したせいか、自分でもわかるほど顔が熱い。目の端から涙が流れているのがわかる。
「僕は、あなたに追いつきたい。それだけなんです」
「買い被りすぎだ。申し訳ないけれど、私はそんなに優れた人間じゃないんだ」
「そうじゃないでしょう。あなたは」
朱愛先輩はゆっくりと椅子から立ち上がった。そして私の顔を手のひらで包むとこう言った。
「君はまるで影を睨んでいるようだ」
朱愛先輩の顔がいつもの子供をあやす様な顔に変わる。私は居ても立っても居られないくなり。朱愛先輩の手を振り払った。
「帰ります」
私は何かを言いかけた朱愛先輩を背に部屋を出た。玄関を開けると、外はすっかり暗くなっている。私は思わず駆け出した。外の気温は寒かった、だがそれ以上に自分の顔が厚くなっている。その後どうやって家に帰ったは覚えていない。だがこれを境に私は自分がどこにいるのかわからなくなってしまった。
母の声で目を覚ます。普段よりも長く寝たはずなのに、全く寝た気がしない。泥の様に重たい体を引きずって起き上がると、リビングへ向かった。
「おはよう。あんたどうしたの、目が赤いわよ」
そう言われて、洗面所の鏡で自分の顔を見る。なるほど、随分と目が赤く腫れている。
「本当だ。なんでだろう」
用意された朝食を食べながら、新幹線の時間を考えていた。母はテレビを見ながら、天気の話をしている。どうやら東京の方はしばらくは晴れるらしい。
「ご馳走様。じゃあそろそろ帰るよ」
私はそう言うと、部屋に戻って準備を進めた。そこでふと、昨夜読んだ原稿用紙が目に入った。私はそれを再び手に取ると、荷物の中に押し込んでいた。自分の創作物が、自分の目の届かぬ場所にあることが許せなかった。
そこから一時間ほど時間が過ぎて、私は実家の玄関にいた。母が私に惣菜やら何やらを渡そうとするのを断っていると、父が階段を降りて姿を現した。
「もう帰るよ。体に気をつけなよ」
「お前もな」
私はその言葉にうなづくと玄関を開けて、実家を後にした。
新幹線の中で、窓から差す朝日を眩しく感じる。私は窓のカーテンを閉めて、目を閉じた。夢は見なかった。夜明け前の様な、一面の黒がただ瞼の裏側に広がっていた。
帰宅したのは十五時の少し前だった。いつも通り玄関を開けようとして、私は思わず足を止めた。郵便ボックスに何かが入っている。いつもなら気にしないことだが、茶封筒の端がはみ出しているので、それを引き抜いた。絶妙なバランスを保っていたチラシの束が崩れて、地面に何枚か落ちた。私はため息を吐いて、それらを拾いあげると封筒を脇に抱えて玄関を開けた。机に封筒を置き、椅子に座る。思った以上に体が疲れていたようで、立ち上がる気力を失った。足元のチラシに目が落ちる。近所の飲食店のものだ。香織と言った店の名前がいくつも見える。腹は空いていないはずなのに、鮮明に食事のことを思い出す。食事に無頓着な私を香織はいつも気遣っていた。
私は封筒に手を伸ばした。不思議なことにどこにも宛先が書いていない。だが何かが入っていて、ずっしりと重い。封筒を開けると中には原稿用紙の束が入っている。仕事関係のものじゃないことは確かだ。じゃあ誰が、私にはわかっていた。それなのに別の可能性を探してしまう。原稿用紙に書かれたタイトルは「影を睨む」そこにペンでこう書き加えてある。「不器用な後輩へ捧ぐ」私はそれを読んで思わず椅子から立ちあがった。そして本棚にある小説を手に取る。全く同じタイトルで。作者は「文愛」だ。私は頭の中で二つを結びつける。文愛と朱愛、読み方は同じあやめだ。これは偶然じゃないだろう。心臓が音を立てる。
ドック ドック ドック
私は冒頭から読み始めた。内容は変わっていないはずなのに、朱愛先輩の直筆で紡がれる物語はより身近に感じてしまう。文字を追いながら、私の脳裏では朱愛先輩との最後の会話を思い出していた。
あの件以降、朱愛先輩とは会っていなかった。私の生活は酷いものだった。大学にはろくに行かずに、日夜執筆活動に明け暮れていた。そんな私を憐れんだのか、香織が同棲を申し込んできた。朱愛先輩と会わなくなり、必然的に香織と過ごす時間が増えていたこともあり、私はろくに考えずに答えを出していた。他の人から見れば、私達は付き合いたてのカップルに見えていただろう。だが私にはそんなありきたりな幸せを享受する余裕はなかった。まさしく文章に埋もれて生きていた。それでもかろうじて、人としての形を保てていたのは横に香織がいたからであると今では思う。
「お腹空いてたら、ご飯でも行かない?」
「ごめんよ。そんな時間はないんだ。次の賞に応募する作品を仕上げないと」
「もうそろそろ寝たほうがいいんじゃない?もう何日も寝ていないと思うけど」
「そうかな。これが仕上がったら眠るよ」
「コヒーばっかり飲んでたら体に悪いわよ。たまにはお茶でもしに行かない?」
「今手が離せないんだ。行くなら一人で行ってきて」
当時の会話を思い出そうとしても、思い出せるのは短い会話のみだった。私の前には作りかけの作品しかなく、そのどれもが出来損ないだった。
「朱愛先輩の卒業式には行かないの?」
「君から挨拶しておいてくれ」
私は朱愛先輩の卒業式にも顔を出さずに、賞を取れない作品をただ書き続けていた。一つ失敗するたびに自分をその倍追い込んだ。夜な夜な自問自答する。何故だ、何が足りないんだ。答えは出ない。出ないからこそ私は坩堝に迷い込んだ。
そんな生活であっという間に一年が過ぎた。私は自分の書いた作品に溺れていた。どれも身を結ばず、いよいよ大学から追い出される。そんな時期だった。
「話があるの」
「後にしてくれ。これを書き上げたい」
「ねぇこっちを向いてよ」
「うるさいな。後にしてくれって言ってるだろ」
私は思わず振り返った。久々にみた香織の顔は泣き顔だった。目からボロボロと水の滴が溢れる。小刻みに震えながら、私を睨んでいる。私はふと出会った時の小動物の様な彼女のことを思い出していた。
「もう私は耐えられない。あなたの世界に私はいない」
突然のことに私は困惑した。今思えば彼女は一人であの長い時間を耐えたのだ。その怒りも悲しみも当然だ。
「ちょっと待ってくれ。急にどうしたんだ」
私は椅子に座りながら、彼女を見上げる。彼女は涙を流しながら話し続ける。
「いつまで、そんなものに取り憑かれているの?」
取り憑かれる。まさに私の一年を言い表した言葉だった。
「そんなものだなんて言うなよ。これが僕の全てなんだ」
「あなたの全て?あなたの中に私や朱愛先輩は入っていないの?それに大学は?私は社会に出なきゃいけないのよ」
彼女の声は震えていたが、それでもしっかりと芯が通った声をしていた。
「君のことだって考えたいんだ。それでも今の僕にはそんな余裕がない」
彼女は私に近づくと、私の肩を掴んだ。振り払おうと思えば、振り払えたであろう。それでも私の腕は動かなかった。
「あなたには私がどう見えているの?」
彼女はそう言うと、私を睨みつけた。私は答えを持っていなかった。その様子を見て、彼女は静かに言った。涙はすでに止まっていた。
「もう一緒にはいられない。あなたはあまりにも孤独すぎる」
そう言って彼女は玄関に歩いて行った。私はそれを止めようと、椅子から立ち上がったが、足に力が入らず床に転んだ。そんな無様な姿を彼女は一瞥もせずに、ドアを開けて消えて行った。私はいつまでもドアを眺めていた。
それから何週間が過ぎた。私はろくに執筆もできず、あの時の彼女の言葉が頭の中を永久に反芻している。そんな虚無の様な状態で目覚めたくもないのに、目が覚める。その日も壁を背に床で座って、頭の中の靄を必死に振り払おうとしていた。誰かが私の前に立っていると気づくまで。長い時間が必要だった。
「ろくに私に顔を見せないと思ったら、随分とやさぐれているね」
私は顔を上げられなかった。この声が幻聴かどうかも判断ができなかった。
「香織ちゃんに随分とひどい仕打ちをしたらしいね。まぁ自業自得と言えばその通りだろうね。君みたいな人間の近くにいたらまともな神経じゃ耐えられないだろう」
煙草の匂いだ。あの甘いバニラの匂いを随分と久しぶりに感じる。
「どうだい?自分の思うようにやって、絶望にどっぷりと浸かった気分は。聞かせてくれよ」
久々に声を出したので、ひどく掠れている。一言一言踏みしめるようにゆっくり話す。
「何もありませんよ。ここまでやっても僕には何も残っていなかった」
朱愛先輩は笑いはしなかった。その代わり何度か咳をして、また話始めた。
「慰めてほしいかい?君と香織ちゃんの仲裁に入った方がいいかな?」
その声には憐みも嘲笑もなかった。
「もうどうでもいいんです。僕には何も残っていない」
「私の声はもう届かないんだね」
そう言うと、朱愛先輩は踵を返して家を出ていった。私は最後まで顔を上げることができなかった。そしてとうとう全てを失ったと悟った。
ドックドックドックドック
動いていないのに心臓がうるさい。両腕で自分の肩を掴む、今にも喉から飛び出そうとする心臓は止まらない。私は力の入らない足で何度も転びながら、洗面所に向かい。そこで胃袋のものを全て吐き出した。食べ物はなく、コーヒーと胃酸だけだった。まるで私の中身そのものだと思った。そして再び吐き出す。条件反射で涙が出る。涙を流しながら長い時間嘔吐していた。そしてとうとう私は文字通りの空っぽになった。
最後の一行を読む。そこまでの内容に大きな違いはなかった。むしろ余計な部分が削ぎ落とされて以前よりも短い時間で読む進めることができた。だが物語の結末に些細な違いがあった。
私が読んだ本では主人公の生死は曖昧になっていた。だが目の前の原稿用紙では主人公はドアを開け、地面に転がり落ちる。そこで空気や地面の冷たさを味わう。そして、生きていることに涙する。そして主人公はかつて自分で切り落としたものを再度拾おうと決意するのだ。
私の想像とは違った。希望に満ち溢れた終わり方だった。そしてピリオドの部分に赤色のペンで書き足された。一文が私の目に入る。
「これなら君に届くだろうか」
私は呼吸をすることを忘れたように、激しく息を吸った。そして椅子から立ち上がると、部屋を見渡す。空っぽの本棚、生活感のないキッチン、仕事以外では使わないPC。私が無くしたものを認識するには十分だった。
朱愛先輩がいなくなった後、本棚のものは全て処分した、香織が出て行った後はキッチンはほとんど使わなくなった。PCでは仕事以外で文字を打つことはない。今だって私はあの時の残穢で生きているに過ぎない。それなのに、一冊の本で、一行の文章でここまで心が動かされてしまう。私はいつしか涙を流していた。自分を憐れんで泣いたのではない、何も残っていないことに絶望したわけでもない。目を瞑り、耳を塞いだ私に朱愛先輩は確かに届けてくれた。
しばらく時間が経った。たっぷり泣いて、目は真っ赤に腫れていた。それなのに気分はよかった。そしてしばらく考えた後に私は香織に電話をかけていた。
「もしもし。どうしたの」
短いコール音の後、香織の声が聞こえた。
「ありがとう。ただそれを伝えたかったんだ」
「何の話?お礼を言われるようなことはしていないけど」
「届けてくれたのは君だろ。読んだよ」
宛先のない封筒は誰かがここまで運んだのだ。
「そう。読んだのね」
香織は否定しなかった。それどころか、少し笑って続けた。
「朱愛先輩に頼まれたのよ。あなたを助けてあげてほしいって」
「僕はまだあの人の後輩なんだな」
香織に釣られて私も笑った。久々に笑ったものだから、口角が痙攣するのを感じる。
「君からお礼を伝えておいてくれるかい?」
「嫌よ。あなたの面倒はもう見たくないの」
その言葉に攻撃の意図はなかった。そうだ。私は随分と彼女に迷惑をかけたのだ。
「それにあなたならわかるでしょ?先輩がどこにいるかなんて」
私はその言葉を聞いてしばらく考えて、一つの答えを出した。
「そうだね。これから行ってみるよ」
「それともう一つ君に言わなきゃいけないことがある」
「何?」
「本当にありがとう。あの時に僕のそばにいてくれて」
香織はしばらく考えた後にこう言った。
「少しだけ、昔のあなたに戻ったみたいね」
そして私たちは電話を切った。その足で私は、玄関を開けて外に出た。行く場所は決まっていた。
微かな記憶を頼りに、電車を乗り継いだ。以前は車で行った道だったが、幾つかの看板を覚えていたことが幸いして、ようやくあの海岸に着くことができた。時刻は十七時だ。あの海岸沿いの一軒家が目に入る。私はドアノブに手をかけた。鍵はかかっていない。ゆっくりとドアを開ける。そして廊下を進み、リビングのドアを開けると、こちらに背を向けてPCに熱心に文字を打ち込んでいる後ろ姿が見えた。
「やっと来たか。随分と待ちくたびれたよ」
朱愛先輩は昔と変わらぬ声で私に語りかける。そしてゆっくりとこちらを向いた。
「届いたかな。私の言葉は」
三年ぶりにみる朱愛先輩の顔は記憶と少しも変わりがなかった。学生時代と変わらない雰囲気を纏って、私を見つめる。
「君は随分と手のかかる後輩だね。ここまでしないといけないだなんて」
「ありがとうございました」
朱愛先輩は笑った。私は気恥ずかしくなって目を逸らす。
「全くだよ。でもその顔を見る限り、少しは君の感情を動かせたのかな」
朱愛先輩はPCを閉じると、椅子から立ち上がり、私の方へ歩み寄る。そして、私がここにいることを確かめるように肩に手を置く。
「あの時の私は君を救ってあげられなかった。それが心残りでね」
「まるで明日死ぬみたいなことを言いますね」
「私が死んだって、私の文章は生き続ける。そう言うものだよ。少し歩こうか」
そう言って歩いていく朱愛先輩の後を私は続いて歩いた。足を止めると海岸に向かって指を差した。私はその方向を見る。
夕日が水平線に沈んでいく。あの時見たものと同じだ。私はその美しさに目を奪われた。
「綺麗だろ。これを見るのが私の日課でね」
「確かに綺麗です。以前はこんなふうには見えなかった」
波の音、潮の匂い、足に伝わる砂の感触。私は何も見えていなかった。
「そうだ。でも今の君は違う。生まれ変わったとまでは言わないが、いい方向に変わった」
「あなたのおかげだ。そして香織のおかげだ。そうじゃなかったら僕はあのままだった」
「君は何も失っちゃいないよ。私は君を見捨てるほど白状じゃない。香織ちゃんもそうだ」
温かいな。私はそう思う。自分の目で、耳で世界をしっかり見ている。話ながら朱愛先輩はポケットから何かを取り出し、私に見せた。
「君にこれをあげるよ。編集が私にくれたんだが、これが中々良くてね。まだ試作なんだがね」
その手の中にあるのは栞だった。私はそれを受け取ると、書いてある文章に目が止まった。
「言葉がいつか、あなたと誰かを繋ぐ架け橋になる」
私は思わず笑った。その様子を見て、朱愛先輩は困ったように眉を顰めている。思えば父とのコミュニケーションも本を通してだった。そして朱愛先輩は本を通して、私を救ってくれた。結局私は言葉に囲まれて生きていた。
そして栞を裏返すとそこには青色のアヤメが描かれている。
「私の名前と同じ花だ。君は青いアヤメの花言葉を知っているかい?」
「希望です」
いい言葉だ。絶望を超えた先に見える光。波の音を聞きながら私はそう思った。
それから私たちは少し話すと、朱愛先輩に別れ際にこう尋ねられた。
「君はこれからどうすんだい?」
「どうでしょう。自分の目で耳で世界をやっと見れた気がするんです。だから今はしっかりと生きていきたい」
「いい答えだ」
それから家に帰り、私はベットで目を閉じていた。私の前で男がPCに文字を書いている。ただ以前と違うのは、私が動けるということだ。私は彼の横に立つ。
「とことんやるしかないよな」
彼がこちらを向く。その顔は私そのものだった。
「でもどうなるかなんてわからない」
「酷い結果になったとしても、決して無駄にはならない」
「才能がないんだ。それがわかっているのにこんな苦痛を味わうのか」
私は彼の問いに間を置いて答える。
「そんなことはやりきってから考えればいい」
私の答えを聞いて、彼の動きが止まる。私は彼を抱きしめた。彼は私が死んだように生きていた時もずっと書き続けていたのだ。
「ありがとう。君がいたから僕は生きてこれた」
そう伝えると、彼が腕に力を込める。そしていつしか、光が私の瞼を開けた。
あれから色々と変化があったが、一番の変化は仕事だ。以前書いたコピーが社内でも評価され、また私の希望でコピー専属の部署に異動になった。今では毎日締め切りに追われながら、必死でコピーを書いている。部署内では見習いもいいところで、日々の半分は雑用だが、自分で決めた道だ。確かに毎日生きていると感じることができる。
これは小さい変化だが、引越しをした。以前の部屋と比べれば随分と狭いが一人で住むには十分だ。書い直した本棚には、本が収められている。もちろん朱愛先輩の本も、そして父がくれた国語辞典も。
そして改めて私は何者だろうかという問いを考える。
ドックドックドック
絶えず動いているこの心音が止まるその時まで考え続ける。
私は火野礼司。今はそれだけで十分だ。
終わり
影を睨む @AmnR
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